鳴海璃生
アリスと連絡が取れなくなって、8日が過ぎていた。火村の苛立ちも、既に臨界点を突破する寸前だった。
ここまで気になるのなら、珀友社の片桐に連絡するなり、警察に頼むなり、それ相応の手はあるのだが、火村は自分がアリスに振り回されていることなど、決して他人には知られたくなかった。もちろん、当のアリス本人にも、だ。
「…ったく、あのバカ」
既に口癖と化した言葉を、無意識のうちに何度となく口の端に上らせる。谷町4丁目駅から大阪府警本部に向かう僅かの間にも、一体何回その言葉を口にしたか判らない。
アスファルトの路面が、夏の陽光を照り返す。車のボンネットに輝く太陽も、忙しげなクラクションの音も、街のざわめきも---。とにかく全てが、火村にとって苛立ちの対象でしかなかった。
谷町3丁目の交差点を右に折れると、目の前一杯に大阪城の緑が広がった。そのすぐ手前に、大阪府警本部のビルが見える。火村はそのビルが近づくにつれて、己の中の苛立ちをゆっくりと身の内に沈ませた。
いつものように受付で名を告げ、憮然とした表情のまま奥の捜査一課一係へと向かう。警察という一種独特の場所が持つ雰囲気は、相変わらずだ。空気の色や質量が、微妙に他とは違っている。
「失礼します」
形だけのノックをしてドアを開けた途端、脳天気な聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。つい先刻まで、悪態をつきながら歩いてきたその原因が、部屋の真ん中で笑っている。
自分の目の前にいる者の姿がすぐには信じられずに、火村はドア口で足を止めた。憮然とした様子もそのままで、入り口に突っ立ったままの火村に気づき、アリスはにっこりと微笑んだ。
「火村、久し振りやな」
脳天気を絵に描いたような屈託のない笑顔が、正面から火村を見つめていた。府警本部の中に入る前に隠しおおせた怒りが、ふつふつと火村の中に沸き上がってくる。
「このバカっ! てめぇ、こんな所で何してやがる」
今現在、自分がいる場所がどこかをすっかり忘れ去って、火村はアリスに向かって大声を上げた。殺人現場で見る、常にクールで無愛想な犯罪学者の信じられない豹変振りを目の当たりにして、その場にいた全員がシンと黙り込んだ。
船曳警部は右手に渋茶を持ったまま呆然とし、森下刑事はアリスが持ってきた土産の饅頭に手を伸ばしたままの姿勢で凍り付いていた。
片手に饅頭を持ったアリスだけが、一人のほほんと火村の大声にも動じない。パクリと真ん丸い饅頭に囓りつき、美味しそうにそれを胃の内に納める。森下によって出されたお茶をゆっくりと啜り、ふうっと大きく息をついた。
「やっぱ饅頭には日本茶やね」
うっとりとした様子で、妙にのんびりとした感想を漏らしたあと、漸くアリスは入り口に突っ立ったままの火村へと視線を合わせた。ここ数日の苛立ちが溜まりに溜まって、怒りが頂点に達したような火村に向かい、ふにゃりと相好を崩す。
「君んとこに電話したら婆ちゃんが出て、君こっちやて言うから、俺ここで待っとったんや。ほれ、土産」
2個目の饅頭に手を伸ばしながら、傍らに置いた紙袋から幾つかの箱を取り出した。それをテーブルの上に器用に積み上げていく。
「まず、これが博多名物の辛子明太子。あ、そや。それから、こんなんもあったで。君、知らんやろ、いか明太。何か酒の肴にぴったりかな、って思って買うてきたんや。えっとぉ、それから---」
ごそごそと袋の中を探り、次から次へと土産と称する箱を出してくる。その仕種は、まるで四次元ポケットから色んな道具を取り出すドラエモンそのもので、アリスの前に座る船曳警部と森下刑事も呆れた様子で、黙り込んだままアリスの手元を見つめていた。
「これが瓶詰めのウニで、こっちが長浜の豚骨ラーメン。あ、今夜の夜食はこれな。あとは---」
アリスのその様子に、火村が長い溜め息をついた。この8日間、人が珍しく心配してやっていたというのに、何だ、こいつのすっ惚けた様子は。一気に肩から力が抜け落ちるが、臨界点に達した怒りはまるで消えない。
むかつく気持ちを持て余し、火村は大股にアリスの方へと歩み寄っていった。未だにごそごそとドラエモンのポケットならぬ、お土産用の紙袋を漁っているアリスを除いた全員が、ごくりと息を飲んだ。静かに深く沈殿した火村の怒りは、強者揃いの刑事達をその場に凍り付かせるに十分な威力を持っていた。
緊張を孕み、ぴんと空気が張りつめる。その中で、ただアリスの周りだけが、ふわふわのんびりとした空気に包まれていた。
ゆっくりとアリスの傍らに歩み寄った火村は、腰に両手を当て、屈み込むように上体を折った。
「ア、リ、ス」
低い口調で、ひと言ひと言区切るように呑気な友人の名を呼ぶ。耳のすぐそばで聞こえたバリトンの声にアリスは土産の入った紙袋から声の主の方へと視線を上げた。
「何や、火村。へんな顔して?」
眉を寄せた不機嫌な火村の顔を正面に見つめ、アリスが僅かに首を傾げた。自分のせいで火村の機嫌が悪いのだという自覚が皆無のアリスは、火村を取り巻く空気の色がいつもと微妙に違うことにさえ一向に気づかない。ただ何故か機嫌の悪い火村が目の前にいる。アリスにとっての認識は、単にその程度に過ぎない。
偶然この場に居合わせた周りの人間だけが、一体どうなることかと息を詰めたまま、ことの成り行きを見守っていた。もしここで二人が喧嘩を始めたら一大事だとか、いざそうなったら、外部に漏れないよう、何が何でも、大阪府警一課の一係の面目に掛けて止めなければとか、緊張した空気の中にも、妙に意気込んだ気配が混じり込んでいる。
が、その周りの雰囲気を一向に解することのない二人は、僅かも自分のペースを崩さない。戦闘モードに入った火村と、呑気なアリス。
見ている分には滅多に見られない面白い見物だが、場所が場所だけに、のんびり観戦というわけにもいかない。固唾を飲んだ注視の中、火村がゆっくりと双眸を眇めた。
---始まるッ!
誰もがそう思ったその時、唐突にアリスが満面に笑みを作った。
「いかん、忘れるとこやった。ほい、火村。これは特別に買ってきた君への土産や」
紙袋を探り、アリスが長方形の箱を取り出した。白い和紙の包み紙には、黄色のかわいいひよこの絵と、誰でも知っている『ひよこ』の文字が書いてあった。
「アリス---」
「嬉しいやろ。君、好物やもんな」
「誰が好物だ、誰がッ。だいたい俺が東京土産に買ってきてやるって言った時、お前、もっと気を遣えとか何とか、俺に言っただろうが」
微妙に話の論点がずれてきている。が、ひよこを挟んだ二人は、そのことに全く気が付いていないらしい。
「当たり前や。ひよこは福岡の土産やぞ。東京土産に買うてくるなんて、言語道断、掟破りやッ! こんなん東京土産や言うて持ってくる奴がいたら、玄関から叩き出すって土産物やのおばちゃん言うてたで」
「知るかっ、俺がそんなこと」
ハァ〜っと態とらしい程の溜め息をつき、アリスは膝の上で肩肘をついた。
「情けない。ほんまに物を知らん先生やな」
「お前の雑学データベースじゃあるまいし、そんなもん知ってる必要はないな。てめぇこそ、他人様より脳味噌の容量が少ないんだら、記憶しておく中身は大切に選べよな」
「煩いッ。余計な世話やっ!」
口では決して勝てないアリスが、火村に向かって子供の言い訳のような言葉をぎゃあぎゃあと喚き立てる。
「ケッ、やってらんねぇよ」
その様子を冷ややかに見つめながら、火村はここに来た当初の目的を果たすべく船曳警部へと向き直った。
「警部」
抑揚のないバリトンの声に、何故か警部が背筋を正す。
「こちらが、昨日お電話を頂いた書類です」
そう言いながら、火村は右脇に抱えていた封筒を船曳警部に渡した。ソファに座ったアリスが、自棄食いのように饅頭に囓りつきながら、その合間に悪態を並べ立てる。が、はっきりきっぱり、火村はそれを無視していた。
「暑い中、申し訳ありませんでした」
封筒を受け取り、中の書類を確認しながら船曳警部が礼を述べた。
「いえ、構いません。それでは、私はこれで」
軽く挨拶を返し、火村は踵を返した。
「まったく、かわいげの無い奴や」
ゆっくりとドアへと向かう火村の背に、アリスが小さく舌を出す。
「土産は、全部俺が喰ってやる。あいつには、一個たりとも渡さへんねんからな」
一気に湯飲みに残ったお茶を飲み干し、食べかけの饅頭に囓りついた。
「---アリス」
「あ…?」
ドア口で振り返った火村に、饅頭を口にくわえたままのアリスが視線を移す。
「何やってんだよ、お前は。一体いつまでここにいるつもりだ? あんまり他人様の仕事のじゃまするんじゃねぇよ」
ぶっきらぼうな犯罪学者の口調に、アリスが一瞬きょとんとした表情を作る。が、すぐにそれは満面の笑みに取って代わった。口にしていた饅頭を慌てて飲み込み、テーブルに積み上げた土産物の数々を紙袋の中に戻す。ワープロと旅行鞄と土産の入った紙袋を両手に持ち、アリスは勢いよくソファから立ち上がった。
「どうもおじゃましました」
ぺこりと船曳警部達に向かって頭を下げると、飼い主に呼ばれた犬よろしく、小走りに火村の元へと駆けていった。並んでドア口に立つ二人の様子からは、先刻までの口喧嘩の剣呑な雰囲気は微塵も伺えない。
「これ、重いねん。一つぐらいは持ってくれてもええやろ」
「しょうがねぇな。バッグ貸せよ」
「お前、それは1番軽いやつやないか」
「るせぇな。文句たれてると、持ってやんねぇぞ」
徐々に遠ざかっていく漫才にも似た会話に、捜査一課一係の面々は、誰からともなくほっと息をついた。突如府警本部を襲って去っていった台風について、一体なんと評していいのか、誰にも判らなかった。
クールで無愛想な犯罪学者のもう一つの面を見ることができて、幸運だったと喜ぶべきか、それとも、あれは白日夢だったと忘れて、心の平安を得るべきか。選択の自由は誰にもあるが、今の場合は、それが大きな重荷となっていた。
複雑な心境のままぼんやりとしていた船曳警部の耳に、妙に緊張感の無い声が響いてきた。
「有栖川さんが買うてきてくれたこの饅頭、美味しいですよ。---へぇ、千鳥饅頭っていうのか。これもやっぱ、福岡の土産なんかなぁ…。いいなぁ、僕も有給取って行こうかな」
美味そうにアリスの買ってきた饅頭を頬張りながら、森下が呑気に呟いている。その様子を横目に、船曳警部は小さく溜め息をついた。が、やがて疲れたような足取りで、湯飲みを片手に自分の席へと戻っていった。
「あれ、警部。食べないんですか? 美味いですよ」
背中越しに聞こえる森下の声に振り向きもせず、警部は小さく手を振ってみせた。それを合図に、それぞれが自分の仕事へと戻る。
2個目の饅頭を片手に自分の席へと戻りながら、森下は小さく息を吐いた。アリスと一緒にいる火村の表情が、数日前とはまるで違っていた。
何に対してだか判らない。だが、森下の口からはほっと安堵の息が漏れた。それは、自分が良く見知っている犯罪学者の姿に対してだったのかもしれないし、瞬間的に垣間見た彼の中の暗い闇に対してだったのかもしれない。
---やっぱ、有栖川さんがいないと、だめや。
甘い饅頭の白餡と共に、森下は自分でも意味の計れない苦い思いを飲み込んだ。to be continued
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