鳴海璃生
府警本部のビルを1歩出ると、真夏の太陽が容赦なく照りつけてきた。熱に暖められた空気が、質感を持って身体を包み込む。輝く陽光の中、熱に焼けた路上に街路樹が濃い影を落としていた。
「ひぇーっ、暑い」
暑さが余り得意でないアリスが、すぐにめげたような声を上げた。それを横目に眺めながら、火村はポケットから取り出したキャメルを口にくわえた。
「君、こんな暑いのに何ともないんか?」
うんざりしたようなアリスの口調に、火村は口の端を僅かに上げた。
「ねぇな。せいぜいお前が暑い暑いって隣で喚くから、余計に暑く感じるぐらいだ」
「そんなん言うたかて、暑いもんは暑いんやから仕方ないやろ」
並んで歩きながら、アリスがぶつぶつと文句を唱える。その様子を傍らに見つめながら、「暑い、暑い」と喚くから余計に暑くなるんだと思う。が、久し振りに聞くアリスの声は妙に心地よく耳に響いてきたので、火村は敢えてそれを止める気にはならなかった。
「なぁなぁ、火村」
谷町3丁目の交差点を曲がり、地下鉄の階段を下りながら、アリスは目線一つ分ほど高い位置にある火村の横顔を見上げた。
「今日、泊まっていくやろ」
当然と言わんばかりの口調に、火村は質の悪い視線をアリスに投げつける。
「俺は明日仕事なんだが?」
「仕事言うても、この時期やったら試験の監督やろ。それにどうせ君のことやから、午後だけやないんか」
全て判っているという様子でにやりと笑ったアリスの顔を見つめ、火村は憮然とした表情を作った。
「何だよ、その断定的な言い方は」
「やって火村、朝早いの苦手やないか」
「ケッ」
若白髪の混じったぼさぼさの髪を乱暴に掻き上げ、火村は地下鉄の薄暗い天井に向かって紫煙を吐き出した。短くなった煙草を、いつも持ち歩いている小さな簡易灰皿に放り込む。
「例えそうでも、お前にだけは言われたくねぇよ」
「ホントのことやから、仕方ないやろ。じゃ、今日泊まるの決まりな」
「チェッ、勝手に決めてくれるぜ」
口の悪いことを言いながらもアリスと並んで歩く火村の足は、自然と谷町線の天王寺方面ホームへと向かっている。
「今日の夕飯に俺、揚げ出し豆腐と肉じゃが食べたいわ。あと天麩羅と焼き茄子もええなぁ…」
のんびりと呟くその声に、火村は改札を抜けたところで不意に足を止めた。火村の先を歩いていたアリスが、訝しげに後ろを振り返った。
「何や、どうかしたんか?」
「アリス。てめぇ、俺に夕飯作らせる気か?」
何を今さらというように、アリスはきょとんとした表情を仏頂面をした犯罪学者に向けた。
「当然やろ」
「お前は、客に夕飯を作らせるのかよ」
「客ぅ…? 一体誰が客やねん。図々しいにもほどがあるわ」
冗談じゃないとばかりに立ち止まった火村をその場に残し、アリスは谷町線のホームを天王寺方面へと歩く。数歩進んだ所で、アリスは徐に振り返った。佇む火村を一瞥し、ワープロと土産が詰め込まれた紙袋を両手に抱えて火村の方へと戻ってくる。
「まぁ、ええ。100歩---ちょっと少なすぎるけどな---譲って、君が客やということにしてやる。それでもし俺が君のために夕飯を作ったら、今日のメニューはインスタントのスパゲッティか、レンジでチンの冷凍食品やで」
それでいいのか、と言わんばかりにアリスは胸を張る。言葉の内容はとても自慢できるようなものではないくせに、アリスの態度には一向に悪びれた様子はない。その姿に、目の前にいるのは間違いなくアリスだと、妙に安心する。
「判った。判りました。夕飯は、俺が作らせて貰います」
肩を竦め、自棄になったような火村の口調に、アリスがにんまりと勝ち誇ったような笑みを口許に刻んだ。
「その代わりお客の君には、俺が土産に買ってきた豚骨ラーメンを夜食に作ったる」
「えらっそーにッ。それだって、インスタントじゃねぇか」
「あっ、バカにしたらあかん。インスタントや言うても、すっげえ美味いんやからな」
味は保証つきや、とまじに勢い込んだアリスの姿に苦笑が漏れる。火村本人としては、インスタントラーメンにではなく、インスタントラーメンを夜食にするアリスの方に文句をつけたつもりだった。だが、どうやらアリスの頭の中には、端からそういう事に対しての認識は存在していないらしい。
「せいぜい楽しみにしとくよ」
「当たり前や」
力を込めたアリスの声は、ホームに滑り込んできた電車の音に掻き消された。◇◇◇ 「ひぇーっ、空気の壁ができとるわ」
マンションのドアを開けた途端、アリスが素っ頓狂な声を上げた。この夏の盛りに1週間以上も閉め切ったままだった部屋は、その辺のサウナにも負けない状態になっていた。重い鉄のドアを開けた向こうには、まるで空気の壁が存在しているかのようだ。
玄関先に荷物を放り出し、アリスは奥のリビングへと駆け込んだ。駆け足でリビングを横切り、一直線にソファの前のガラステーブルへと向かう。その場に屈み込み、アリスはきょろきょろとテーブルの下や、壁際のローチェストへと視線を走らせた。
テーブルの上に重ねられた雑誌の下からお目当てのリモコンを漸く見つけだし、慌ててスイッチをオンにする。ついで設定温度を15℃にまで下げ、アリスは一気に部屋の中を冷やそうと目論だ。
「あ〜、気持ちええ…」
エアコンの吹き出し口の下に陣取り、降り注ぐ冷えた空気にほっと息をつく。
「おい、アリス。荷物運べ」
「だめや。俺、ここから離れられへん」
玄関から怒鳴った火村に、アリスはすっかり力の抜けきった口調で返事を返した。エアコンの下に張り付きパタパタとシャツをはためかせて、冷えた空気を襟元や裾から服の中へと入れることに余念がない。
「---ったく、仕様がねぇな」
ぶつぶつと文句を唱える火村のバリトンの声が、玄関からリビングへと近づいてくる。やがて両手にアリスの荷物を抱えた火村のシルエットが、リビングのガラスの扉に写った。
「アリス」
肩でドアを押し開けながら、火村はべったりと壁に張り付いている---どちらかと云えば、エアコンに張り付いていたのだが---アリスへと視線を移す。が、壁に張り付いたアリスよりも先に、リビングの惨状が視界に飛び込んできた。その様子に唖然として、火村は入り口で足を止めた。
「---何だよ、この部屋は?」
ゆっくりと頭を巡らし、リビングの様子をぐるりと一瞥する。---と、呆れたように大仰な溜め息を漏らした。
ソファには、たった今脱ぎ捨てられた麻のジャケットが放り出されている。そして、当然ソファの上にあるべきクッションは、フローリングの床の上に転々と転がっていた。その周りには、開いたままの雑誌や本が散乱し、数本の缶ビールにスナック菓子の袋も2、3個転がっている。
見るからに、取る物も取り敢えず慌てて飛び出して行きました、という状況がありありと見てとれる。その部屋の状態に、火村は小さく肩を竦めた。
「アリス。一体なにがあったんだ?」
ソファの上の麻のジャケットを背もたれに掛け、空いた場所に腰を下ろす。テーブルの上で本の下に埋まっている灰皿を掘り出し、ポケットから取り出したキャメルに火をつけながら、火村は壁際のアリスを目の端に止めた。
身体にまとわりついていた熱も消え、漸く人心地ついたアリスは、足下に転がっていた缶ビールとお菓子の袋を傍らに寄せ、自分が寝ころべるだけのスペースを作った。ローチェストの前に転がっているクッションを自分の方へと引き寄せ、ごろりと身体を伸ばす。
「別に。なーんもない」
少しでも冷えた場所を探すように、フローリングの床を移動する。その様子に、まるで猫のようだと火村は小さく苦笑を零した。
「この部屋の状態を見たら、お前のその台詞はとても信じられねぇな。だいたい8日間も、お前一体どこに行ってたんだよ」
「だから、福岡や。土産を見たら判るやろ」
「取材旅行か?」
紫煙を吐き出しながらの問いに対し、リビングに一瞬の沈黙が落ちる。何かやましいことがあるのか、まるで上手い応えを探しているかのように、宙を彷徨うアリスの視線が定まらない。その様子を眺めながら、火村は再度声を掛けた。
「おい、アリス」
アリスが一つ溜め息をつく。床に寝ころんだままの姿で、背伸びをするように身体を伸ばし、アリスは額に落ちてきた前髪を煩そうに掻き上げた。
「まっ、そんなとこや」
漸く口を開いたものの、どこか煮え切らない口調に、火村は僅かに片頬を歪めた。ふと視線を落とすと、床に置かれた電話機が留守電の録音を報せる赤いランプをチカチカと点滅させていた。多分その内の幾つかは、自分が入れたものに違いない。
「おい、留守電入ってるぞ」
2本目の煙草に火をつけながら、火村はぶっきらぼうに声を掛けた。一瞬の逡巡の後、返事の代わりにアリスの手がのろのろと伸びて、点滅する赤いランプを押す。件数を報せる機械的な女性の声が響き、テープが巻き戻る乾いた音がリビングに響いた。
アリスはクッションを枕に突っ伏したまま、留守電の声に耳を澄ませた。ピーという発信音の後に続いて、
留守電が再生され始める。
最初に火村の声が流れてきた。それはいつものフィールドワークへの誘いの電話だったが、アリスがいないと判ると簡単に場所だけ述べて、唐突にそれは切れてしまった。
「何や、随分やな」
クッションから僅かに顔を上げたアリスが、愛想の欠片もない留守電の張本人、優雅に煙草をくゆらせる臨床犯罪学者に声を掛ける。火村は、我関せずとばかりに紫煙を天井に向かって吐き出した。
アリスはクッションに肩肘をつきながら、留守電の続きに耳を澄ます。が、その後に続く留守電の録音は、全て無言のものばかりだった。留守電と判った途端、自分の名を名乗る前に通話は切れ、ざらざらしたようなノイズ混じりの沈黙がテープから響いてくる。まさかとは思うが、聞きようによっては、それは悪戯電話としか思えないくらいに何回も続く。
最初はおとなしく留守電を聞いていたアリスがうんざりしたように半身を起こし、腕を伸ばして早送りのボタンを押した。暫くの間、キュルキュルとテープが空回りするような音が続く。アリスは呑気に欠伸をしながら、その音を聞いていた。やがて、伝言を入れたらしい高い声が聞こえてきた。
その音に、アリスは慌てて停止ボタンを押した。そうして僅かに巻き戻したあと、再び再生ボタンを押す。
『有栖川さん、僕です。片桐です。---あれっ? お留守ですか』
少しだけくぐもったテープの声に、アリスがぎくりと身を竦めた。慌てて起きあがり、停止ボタンへと指を伸ばす。が、横合いから伸びてきた手に腕を掴まれ、留守電のテープを止めることはできなかった。反射的に振り返ったその先には、ソファにいたはずの犯罪学者の顔があった。
「火村、何するんやッ」
薄い唇の片端にキャメルをくわえた火村が、にやりと意地の悪い笑みを作る。
「なに慌ててるんだよ。急ぎの電話だったら、どうするんだ」
「そんな訳あらへん」
「ほう…。じゃ、有栖川先生は聞く前から留守電の内容をご存じなんだ」
「いや、そんな訳や---」
たっぷりと嫌味を含んだ火村の言葉に、口の中でもごもごと呟く。が、やがて諦めたように、アリスは乱暴に火村の腕を振り解いた。微かに響く空調の音の間を縫うように、テープから流れる片桐の声がリビングに響く。
『原稿、どうもお疲れ様でした。昨日は、あのあと無事お帰りになりれましたか? 原稿の方はぎりぎり間に合いまして無事OKが出ましたので、ご安心下さい。今度こちらにいらっしゃった時は、ぜひどこかに呑みにでも行きましょう。それじゃ、これで。ゆっくり休んで下さいね』
片桐の声に被さるようにピーという発信音が鳴り響き、機械的に処理されたような女性の声が日にちと時間を報せる。苦虫を噛みつぶしたような表情で片桐の声を聞いていたアリスは、罰が悪そうに停止ボタンを押した。
「---有栖川先生は、一体どちらにお出でになっていたのかな」
ソファに戻った火村が灰皿に煙草の灰を落としながら、アリスへと視線を走らせた。片桐の言葉からだいたいの内容は把握していたが、連絡のないアリスに振り回されたこの8日間の借りは、きっちりと返しておきたい。当然のことながら追求の手を休める気のない火村は、じっとアリスの応えを待った。
空調に冷えたリビングに沈黙が落ちる。微かなエアコンの音だけが響くリビングは、体感温度より一段と冷えているように感じられた。
空気を震わすような音の狭間を縫うように、かちりとライターをつける音が響いた。その音に弾かれたように、アリスは大きく息を吐き出した。フローリングの床の上に胡座をかき、ぼりぼりと頭を掻く。今回の件は、火村には絶対に知られたくなかった。だが、今のこの状況では、無理に隠し通すより素直に全てを白状した方が良さそうだ。
チラリチラリと横目に伺う火村は、平然と紫煙をくゆらせ、決してこの話題を引っ込める気は無いという雰囲気を醸し出している。そしてこういう我の張り合いの場合、昔から先に音を上げるのはたいていアリスの方だった。
---あ〜あ…。またバカにされるんや。
どうせ今さらだし、恥を晒すなら早いほうがいい。何となく気分は、己の罪を告白する罪人てな感じだ。自らを落ち着かせるように一つ深呼吸をする。覚悟を決めたアリスは、この8日間の出来事をぽつりぽつりと話し始めた。to be continued
![]() |
|
![]() |
![]() |