Alice <おまけ1>

鳴海璃生 




1st day (旅人気分)

 改札の窓口で「乗り過ごしまして」と精算をしたら、係りのお兄さんに呆然とした顔をされた。何だかとっても罰が悪いが、どうせ2度会うことのない人だと腹を括る。『旅の恥はかきすて』なんていう有り難い教えもあるのだから、これぐらいどうってことはない。
 改札を抜け階段を下りると、広いコンコースに出た。右手には外へと続くエントランス。ガラス越しに見える外の景色からは、夕方というには程遠い気温の高さを容易に想像できた。

 眩しい陽光。ペンキを零したような青い空。
 それら全てが、つい数時間前までいた東の街とはまるで違う。九州と言っても、福岡は南国と呼べる位置にあるわけじゃない。それでも空の色や光の輝きに、随分と南に来たのだなと思う。建物の中にいても感じることのできる、東京とは違う空気の色にうきうきと心が弾む。

「さぁて、どないしよ」
 某犯罪社会学者のむこうをはって観光社会学者を自負する私は、旅行に出る前は、まずその場所についての下調べを行うことをモットーとしている。だが今回は事情が事情なだけに、この街についての何の予備知識もない。もちろんゼロの状態から始める旅行というものも、なかな趣のあるものではある。あるが、取り敢えずの問題として---。

「飯やな」
 キュルルルルと悲しげな音をたてるお腹を押さえ、私はぽつりと呟いた。よくよく考えてみたら、ホテルのルームサービスで朝食を食べてから今まで、何も口にしていないのだ。幾ら6時間余りの新幹線の中を寝て過ごしたとはいえ、生きてる限りお腹はやっぱり空くものなのだ。
「何や冬眠明けの熊の気分やな」

 これでもかとばかりに自己主張を繰り返す胃袋を宥めながら、私は左手のコンコースへと視線を移した。人も疎らな右手のエントランスとは違い、ざわざわとした人のざわめきが耳朶に触れる。どうやらこの駅の中心は、左手の方にあるらしい。
「取り敢えず人のいる方にいけば、何かあるやろ」

 足下に置いた旅行鞄とワープロを持ち上げる。まずは美味しい御飯。それから本屋に入って、ガイドブックを立ち読むことにするとしよう。それを見て、ホテルを決めて---。
 次から次へと沸き上がってくる予定に、自然と私の歩みも早く、軽くなっていく。鼓膜を通り過ぎていく言葉には、知らない街の香りがする。
 見知らぬ土地、見知らぬ言葉。ここでは誰も私を知らない。そう思った途端、すうっと身体のどこかが軽くなっていく気がした。




2nd day (帰る場所)

 朝起きてカーテンを開けると、青空が一面に広がっていた。ビルの窓に反射する陽光の輝きも、目に眩しい。今日も1日天気がいいのだと思うと、それだけで全てが嬉しくなってくる。ホテルのレストランで軽い朝食を済ませ、早速外に飛び出す。活気に溢れた街は、人や車で溢れていた。
 福岡市は、人口134万人を擁する九州第一の都市だ。街の中心を流れる那珂川によって東西に二分され、川より東側が商人の街『博多』、西側が黒田藩52万石の旧城下町『福岡』なのだそうだ。そういえば明治に市政がおかれた時、1票差違いで街の名前が『福岡』になったという話をどこかで耳にしたことがある。現在でもその意識は強く、那珂川の東にあるJRの駅は『博多』。そして西側にある私鉄の駅は『福岡』と、厳密に区別されている。
 私のような他地方の人間からみれば、『博多』だろうが『福岡』だろうがどっちでもいいじゃないか、と単純に思ってしまうのだが、この街に住む人にとってはきっとそんなに簡単に割り切れる問題ではないのだろう。たかが都市名、されだ都市名だ。この街出身の知り合いに、「そこは福岡。博多じゃない」と言い直された過去は、片手に余る程度にはある。
 またこの街は古くから中国・韓国を中心とするアジアとの交流が盛んで、今もそれは変わりがない。この街の出身の大学の友人は何かの折りに「東京や北海道よりも韓国の方を身近に感じる」と言っていたが、ここに来て初めてそれが納得できたような気がする。とにかく街中の案内板や地下鉄の車内放送、果てはデパートの案内にも、極当然のように韓国語や中国語が書かれていたり、流れていたりするのだ。実際、東京に行くより韓国に行く方がずっと近いのだ、とホテルのレセプションで聞いた時には唖然とした。
 そんなことを思い出しながら街中をてくてくと歩き、大きく深呼吸をする。じりじりと照りつける太陽は、大阪のそれよりも真っ直ぐに膚に注いでくる気がして、否応なく暑い。いや、暑いというよりは痛いと言った感じだ。だが太陽の光も空気の重さも大阪よりずっと軽い気がするのは、この明るい青空のせいだろうか。

「さて、まずどないしよ」
 街の中心である天神を歩きながら、これからのことを考える。行きたい場所は色々とある。
 ダイエーのフランチャイズ球場である福岡ドーム。ここではバックステージツアーがあり、野球選手が実際に使用しているブルペンやロッカー室など、普段は見ることのできないドームの裏側を見学することができるらしい。野球ファンの私にとっては、実際にマウンドに立ち、ベンチに座ることが出来るというのは、とてつもない魅力だ。これが我が愛する阪神タイガースのフランチャイズである甲子園なら、筆舌に尽くしがたい程の幸福なのだが、まぁ仕方がない。
 水族館のある海の中道に金印の発見された志賀島。金印が常設展示されている福岡市博物館に市街を一望できる福岡タワーのあるシーサイドももち。このタワーは、約8000枚のハーフミラーで覆われた正三角柱で、アンテナ部分を含めると全長234m。海浜タワーとしては、日本有数の高さを誇っているらしい。

 街中に建つビルも、それぞれに個性的な形をしていて楽しめそうだ。樹木の茂る階段状のステップガーデンがユニークなアクロス福岡は、外側のステップガーデンを下から上って行く『アクロス登り』なるものができるらしい。そんなビルは大阪には無いし、ちょっとやってみたい気もする。だが冷静に考えてみると、私のなけなしの体力では途中ダウンが目に見えている。それに、この暑さ。下手をすると、アクロス登り初の死体を生産してしまうかもしれない。まだまだやりたい事のある身だ。出来うる限り、それは勘弁願いたい。となると---。
「やっぱ福岡っちゅうたら、長浜の豚骨ラーメンと屋台やな」

 屋台が出るのは夕方からだから、取り敢えず長浜とやらに行くことにする。地名なのか屋号なのかが良く判らないながらも、私は気の良さそうなお店のおばちゃんに訊いてみた。人懐っこくて元気の良いおばちゃんは、「このまま真っ直ぐ海の方に行くんよ」と教えてくれたのだが---。
「海!?」

 私は首を捻った。一体この街のどこに海があるっていうんだ。
 大阪も確かに海に面した街であり、電車で数10分、車で1時間も行けば海に打ち当たる。つまり私の感覚の中では、街中から海までの距離は最低でもそれぐらいはあるってことだ。だから、こんな街のど真ん中で海と言われても---。

「取り敢えずビルの上にでも上がってみるかな」
 ここから海までの距離がどれくらいあるか判らないが、ビルの上からでも見渡してみれば、遠くに霞む大海原ぐらいは拝めるかもしれない。きょろきょろと辺りを見回し、私は道の向こうのビルに行ってみることにした。街の中心だけあって背の高いビルは林立しているが、私が今いる場所の近くではそのビルが1番背が高い気がしたのだ。

 信号を渡ってビルの中に入り、私は唖然とした。外見は何の変哲もない普通のビルだったのに、中はドーナツのように丸く真ん中が抜けているのだ。足早に手摺りに近寄り、下を覗いてみた。
 地下から1番上の階まで、丸い吹き抜けになっている。そして、その吹き抜けの中央にはシースルーエレベーターが設えてあった。1階なので良く判らないのだが、地下から見上げたらさぞや壮観な眺めなのだろう、と私はちょっと残念に思った。

 再度上を見上げ、小さく息を吐く。大阪や東京では考えられないぐらい、空間を贅沢に使った設計だと思う。そういえば---。街のど真ん中でありながら、この街のビルには、このビルのように空間を贅沢に使った設計がやたらと多いことに気づく。
「さっき行ったビルもそうやったしな」

 都会でありながらも街に閉じこめられているような感じがしないのも、それぞれのビルの設計の一つ一つにも、どこかこの街の持つ大らかで開放的な雰囲気が垣間見えているような気がした。
 12階のレストランゾーンまでシースルーエレベーターで上がり、そこから先は屋上までエスカレーターで上がった。途中で、最近のビルでは屋上を開放していない所もあるので果たして大丈夫だろうか、と一抹の不安が胸を過ぎる。が、どうやらそれは私の取り越し苦労だったようだ。

 扉を開けると、むっとした夏の空気と膚を刺すような陽の光が、まるで洪水のように押し寄せてきた。手を翳し、ビル内の照明に慣れた目を庇いながらパチパチと何度か瞬きを繰り返した。漸く外の明るさに慣れた双眸を開けると、夏の青空が目に飛び込んできた。膚に感じる気温は、空調の効いたビル内とは比べものにならないほど高い。だが吹きすさぶ強い風に因って、地上程には気にならない。少しだけ心配した排気ガスやスモッグの臭いも感じられず、気分は爽快そのものだ。
「さて---」

 私はぐるりと辺りの様子を一瞥した。金網の張られた屋上は、それ程に広くはない。こんな暑い日に屋上まで出てくるような物好きは私一人かと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。若いカップルや子供を連れた家族連れが、屋上のあちこちにちらほらと見受けられる。
 端の方へと歩を踏み出した私は、金網に沿うように歩き出した。眼下には福岡の街が広がり、遠くには川や山の緑も見える。それらを眺めながらゆっくりと歩いていた私は、ちょうど半周ほどした所で思わず足を止めた。知らず知らずの内にこくり、と息を飲む。

 目の前、福岡の中心街である天神に建つビルの向こうに、真っ青な大海原が広がっていた。まるで足下にあるかのような博多湾には大小の船が浮かび、白い波の向こうには緑の島影が霞んでいる。遙か彼方には、くっきりと空との境を分ける水平線。
「あのおばちゃんが海の方って言うたのも判るわ」
 こんな大都市といっても過言ではない街の中心部のすぐ近くに海があるだなんて、俄には信じられなかった。と同時に、この街は本当に海を抱いた、海に向かって開けた街なのだと自覚する。古くから、それこそ『漢委奴国王』と刻まれた金印の時代から、ここは中国・韓国を中心とするアジアの国々との玄関口だったのだ。あの水平線の先には確かに広大な大陸が広がっているのだと、奇妙な程の強さで実感できた。

「なぁ、火村---」
 金網にかじりつくようにして遙かに広がる大海原を見つめていた私は、無意識の内に隣りへと手を伸ばした。が、いつもなら当然のように指先に触れる感触が、今日は隣りには無い。宙を滑った私の右手は、虚しく空気を握りしめた。その感触に、私は弾かれたように閉じた右手の指先を見た。ゆっくりと指先を開き、小さく溜め息を吐く。

「アホやん、俺」
 ついいつもの癖で、隣りにいる人間の名を呼んでしまった。だが、あの皮肉気な笑いを口許に刻んだ犯罪学者が隣りにいるわけはないのだ。そんなこと十分判っていたはずなのに、この景色に魅入られてバカな真似を晒してしまった。そんな自分を情けないと思いながら金網に背中を預けた時、不意に嗅ぎ慣れた匂いが鼻孔をくすぐった。
 独特のきつい煙草の香り---。余りポピュラーではない煙草の香りは、たぶん他の何よりも私が慣れ親しんだ匂いだ。

 ゆっくりと視線を動かすと、煙草を口にくわえたサラリーマン風の男性が、恋人と思しき女性に笑いかけながら目の前を通り過ぎていった。それを目で追いながら、私はまた一つ溜め息を吐き出した。
「---情けなさ倍増やわ」

 できることなら、そうとはっきり自覚したくはない。ないが、あの煙草の匂いを敏感に嗅ぎ取った私は、たったそれだけのことで、あの口の悪い犯罪学者がそばにいるものと思い込んでしまったらしい。あいつのことなんて、今までちらりとも思い出さなかったってのに、全く---。いつの間にやら私の中では、キャメル=火村の図式が出来上がってしまっているらしい。
 同時に思い出したのは、やはり大学時代の友人の言葉だった。出身地がこの街よりもう少しだけ南の友人が、中途半端な関西弁のアクセントで照れくさそうに笑いながら言った言葉が頭の中を過ぎる。『例えば夏休みとかで家に帰るやろ。でも家に帰っても、何か帰ってきたって気が全然しないんや。ところが筑後川を見ると、あぁ、帰ってきたんだなぁ…って思うんや。たぶん俺の高校の時の地理の先生のせいやと思うんやけど、その先生がもうめっちゃ郷土愛に溢れた先生で、ことあるごとに「我が母なる筑後川」って言うてたん。そやから、いつの間にかそれがインプットされてしまったんやろな。しかもそれって、俺だけやないんやで。その先生に習った奴ら殆どがそうだって言うから、笑ってしまうわ』
 隣りにいるはずの犯罪学者がいないと判った時に感じたのは、自分が凄く遠くまで来てしまったのだという実感。それは寂しいような頼りないような、とても口では上手くは言い表せないような感傷。

 帰りたい、と一瞬の内に滑り込んできた思いはゆっくりと、でも確かな強さでもって身体全体を浸していく。もし故郷や帰るべき場所を全ての人が持っているのなら、私のそれは---。
「何やむかつもんがあるわ」
 遙かに続く大海原を再度視界の内に納め、私はくるりと踵を返した。肩で風を切るように、大股に出入り口の扉を目指す。

「お袋達と婆ちゃんに土産を買うて---」
 指を折りながらぶつぶつと土産の数を数え、私はビルの中へと入って行った。迷うことなく、下へと向かうエスカレーターを目指す。
「でも、豚骨ラーメンと屋台は絶対諦めへんからな」
 負け惜しみのようなひと言は、誰に聞かれることもなく空調に冷えた空気の中に溶けていった。



End/2000.09.19




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