鳴海璃生
−1− 「だーっ、もう冗談やないで」
大声を上げながら、私は玄関に飛び込んだ。ポタポタと前髪から落ちる雫が、剥き出しのコンクリートの上に丸い黒い染みを作る。
濡れて脱げにくくなった靴を蹴り飛ばすように脱いで、短い廊下を走り、私はリビングの前のバスルームのドアへと向かった。慌ててドアを開け、中に飛び込もうとした時、苦々しげなバリトンの声が玄関の方から響いてきた。
「何言ってやがる。冗談じゃないのは、こっちだぜ」
バスルームのドアノブに手を掛けたまま、私は覗き込むように玄関へと視線を移した。頭を振り、声の主は濡れた髪から水滴を辺りにまき散らしていた。
---相変わらず獣みたいな奴やな。
私は小さく嘆息し、バスルームへと駆け込んだ。
一人玄関先に取り残された男の名前は、火村英生。33歳。大学時代から付き合いのある友人だ。現在、私達の母校である京都の英都大学社会学部で犯罪社会学の講座を持つ、学内一若い助教授殿だ。それ以外にも彼はおもしろいプロフィールを持っているのだが、それは追々説明していくことにしよう。
ついでにここで、簡単な自己紹介を滑り込ませておこう。私の名前は有栖川有栖。火村と同じ33歳。同年代の平均的サラリーマン並みの年収を辛くも維持している、まだ駆け出しの推理作家だ。
そして、良く聴いてくれ。この一度聞いたら忘れられない名は、伊達や酔狂でつけたペンネームでも、冗談でもない。母親がつけた立派な、紛れもない本名なのだ。もちろん、私の性別はメール。生まれた時から間違いなく男、だ。
母親が一体何を考えて、この名を私につけたのか…。私のような極々平凡な人間には、とても計り知れない。が、私自身としては、結構この名前は気に入っている事だけは申し添えておこう。
さて、話を元に戻そう。
大学の先生に推理作家。他の職業に比べると比較的時間が自由になる職に就いた私達は、今も大学時代と何ら変わりなく、何かといえば都合をつけて互いの家を頻繁に行き来していた。今日も今日とて、既に大学が冬休みに入った火村が、いつものように私のマンションに泊まりに来ることになっていた。
「そっちに行くのが7時過ぎになる」と火村が言うので、「だったら、心斎橋辺りで落ち合って食事をしよう」ということにした。---そして、物の見事に雨に降られてしまったのだ。
別に雨が降ってきたのは私のせいじゃないし、もちろん私が雨を降らせた訳でもない。が、心斎橋で食事をしようという私の提案に、面倒くさいと文句をたれていた火村にしてみれば、ここで嫌味の一つも言っておきたいとこだろう。
「雨が降ってきたのは、俺のせいやあらへんもん」
言いながら、私は火村にバスタオルを投げつけた。眼前に飛んできたそれを器用に受け止め、火村は濡れた髪を乱暴に拭き始めた。
「さっさとシャワーでも浴びんと、マジで風邪ひいてしまうわ」
濡れた靴下を脱ぐのも面倒くさくい。私は靴下をはいたまま、廊下に間抜けな足跡を残して浴室へと駆け込んだ。どうせ雨のせいでびしょびしょに濡れているのだから、今更お湯で濡れてもどうということはない。それより何より、まずこの冷え切った身体を温める方が、私にとっては最優先の大問題だった。
思い切り良くコックを捻り、お湯を出す。冷えた浴室に白い湯気が立ち上り、ほんのりと周りの温度が上昇する。それにホッと息をつき、私は雨に濡れて冷えた手を蛇口から出るお湯へと近づけた。
ピリッと痺れるような感覚が指先から全身を伝い、やがてお湯の温かさが手の先に染みてくる。そうしてお湯の温度を確かめたあと、私は漸く濡れた靴下を脱ぎ、ドアから顔だけを出して、それをランドリーボックスに放り込んだ。
湯気で浴室の中が温まるようにぴっちりとドアを閉め、バスルームから廊下へと飛び出し、次の目的地を目指す。
「着替え、着替え」
バスタオルを頭に被り、着替えを取りに廊下の奥の寝室へと入ろうとした。が、途中で思い直し、目の前のリビングへと駆け込む。リビングの、エアコンのスイッチを入れることを思い立ったのだ。風呂から上がった時ぬくぬくの状態で、ついでに冷えたビールを美味しく呑めるようにと、温度設定はいつもより少し高めに設定しておく。
「おい、アリス」
寝室へと戻り、がさごそとタンスを漁る私に、後から寝室に入ってきた火村が声を掛けた。その声に、ドキリと心臓が跳ね上がる。頭の中は温かいお湯に浸かることで一杯で、私は火村の存在をすっかり完璧に忘れ去っていた。
「何や?」
振り向きもせずに、私は火村の声に返事を返した。動揺を隠すように、努めて平静を装う。が、実のところ耳元で心臓がドキドキいっていたりするのだ。何せ、今の今まで火村のことをすっかり忘れてました---なんてことが火村にばれた日には、あとのフォローがたいへんだ。
あの口の悪さでもって皮肉を言われるのは余りありがたくないし、できればご遠慮したい。---いや、もちろん言い訳をするつもりじゃないが、部屋に飛び込んでバスタオルを渡すとこまでは、しっかり火村も一緒だということを覚えてはいたのだ。決して私が薄情な奴だとは思ってほしくない。雨に濡れ、冷えた身体を温めることに思考の全てが回ったとしても、それはそれである意味仕方のないことじゃないか。
タンスから取りだした着替えを両手に持ち、私はゆっくりと声の主の方へと振り返った。開いたままのドアに寄りかかった火村が、胸の前で腕を組み、僅かに眼を眇めた。
「ちょっと訊きたいんだがな…」
「だから、何やって言うてるやろ」
濡れないように少しだけ身体から離した着替えを持つ手に、知らず知らずの内に力が入る。火村がこういう持って廻った言い方をする時は、要注意なのだ。
「お前が風呂に入ってる間、俺はどうすればいいんだ?」
「へっ…?」
言ってる意味が、ぜんぜん判らない。どうすればって言われても、一体なんと応えればいいのか。---私が風呂に入ってる間、何をするのも火村の自由なんだから、いちいち私に訊く必要も、それに対して私の了解を得る必要もないんじゃないか…。
コーヒーを飲みたきゃ、勝手に淹れて飲めばいいし、ビールを呑みたきゃ、冷蔵庫から出して呑めばいいだけだ。---もっともいくら火村といえども、このずぶ濡れ状態で冷えたビールなんて呑みたいとは思わないだろうが…。
それに、だいたいそんなこと今更じゃないか。いつも「ここは一体誰の家だ?」と訊きたくなるぐらい好き勝手している人間が、何で今日に限ってそんな殊勝なことを口にしているのだ。
何をどういう風に応えればいいのか判らないという様子で、呆然と自分を見つめてくる私に、火村は皮肉気に片眉を上げてみせた。
「お前が風呂に入ってる間、俺はこの濡れたまんまの恰好で待ってなくちゃいけないのか?」
「えっ? そんなことないで。着替えやったら、クローゼットの中にある君専用引き出しに入ってるやんか。もし何も無いんやったら、俺のやつで好きなん勝手に使うてくれても構わんし…」
火村にしては妙なことを気にする、と私が頭を捻った時、態とらしい程の大きな溜め息を火村がついてみせた。
---何や、こいつ。一体なんだって言うんだ。言いたいことがあらなら、はっきり言え。
口に出しては言えないので、心の中で小さく悪態をつく。温厚でもって知られる私も、ずぶ濡れ状態でこの仕様もない問答を続けるのに、些かの腹立ちを覚え始めていた。
「俺が言いたいのは、そういうことじゃねぇよ。お前一人がぬくぬくお湯に浸かってる間、俺は震えたまんまで待ってなくちゃならねぇのか---ってことだよ」
「そんなこと言うたって、仕方ないやんか。風呂は一つしかないんやから、俺と君で順番に入るしかないやろ」
「ほぉ〜。アリスは、自分一人がぬくぬくお湯に浸かってる間、俺には震えながら待ってろって言うわけか。そりゃまた随分とありがたい友情じゃねぇか」
あいっかわらず、嫌味な言い方の上手い奴だ。
「何言うてんねん。君の方が俺より寒いのに強いんやから、ちょっとの間ぐらい我慢したっていいやろ。濡れた服着替えてエアコンの下にでもおったら、君なら風邪なんてひくことあらへん」
私の言葉を待っていましたとばかりに、ニヤリと火村が質の悪い笑みを口許にはいた。
「アリ〜ス。誰も我慢しなくていい方法もあるぜ」
「えっ?」
いやぁ〜な予感。何となく火村の言いたいことが判ってしまって、私はそろりそろりと数歩後ろに後退った。僅かに開いた間を詰めるように、ゆらりと身体を起こした火村が一歩一歩私の方へと近づいてくる。
---ひぇ〜。
ごくりと唾を飲み込んで、気分はすっかりホラー映画の主役か、変質者に追いつめられるヒロインの気分だ。---って、ちょっと違うか。
「二人で一緒に入れば、どちかが寒い思いをすることもないだろう」
やっぱり、そうきたか…。あの火村の質の悪い笑みを見た時から、どうせそんなことじゃないか、と予感はしていたのだ。それが物の見事に大当たり、だ。もっとも、当たってもちーっとも嬉しくないとこが、この嫌な予感てやつの一番嫌なところなんだが---。
張り付けたような笑みでもって、私は火村にニッコリと笑いかけた。何だか、顔中の筋肉が強ばりきっているような気がする。---もちろん、雨で身体が冷えたせい、という訳ではない。
「俺んチの風呂狭いから、二人でなんて一緒に入られへんもん」
日頃の経験から無駄な抵抗だとは判っていても、一応それなりの抵抗を試みる。ここで一も二もなく素直に頷いたりなんかした日には、行き先はちょっと意味合いの違う天国だ。
「そんなことはねぇだろ。前に一緒に入ったじゃねぇか」
えーえー、入りましたとも。口の巧さに騙されて、一度と言わず二度三度。そのせいで、二度と火村と一緒に風呂には入りたくない、と私は心の底から思っているのだ。
「ぜぇーったい、イヤや。俺、火村とは金輪際二度と、絶対一緒には風呂になんて入らへんからな」
噛みつくような勢いで言い切った私に、火村は態とらしく肩を落としてみせた。しおらしそうにしても、火村の魂胆などみえみえだ。さすがに付き合いも十年を越えると、相手が何を考えているのかも、だいたい見当がつく。
---そんな様子したって、絶対俺は騙されへんからな。
鼻息も荒く、私は着替えを持った両手に力を込めた。
「冷たいよなぁ、アリスは。俺が風邪ひいて寝込んでもいいってのかよ」
「大丈夫や、心配あらへん。君やったら、ちょっとやそっとのことじゃ風邪なんてひかへんわ。俺が保証したる。それよりこないなことやっとったら、俺の方が風邪ひいてしまうわ。ええ加減にして、早うそこどきぃ」
やれやれと言うように肩を竦め、火村は僅かに身体を横にずらして通路を空けた。それを目の端に留めながら、私は火村の横を足早に通り過ぎた。
バスルームに入ると、ドアの向こうからお湯の零れる音が耳に飛び込んできた。火村とアホな遣り取りをしている内に、どうやらパスタブにお湯が溜まりきってしまっていたらしい。
着替えを脱衣籠の中に投げ入れて、私は慌てて浴室に飛び込んだ。バスタブの縁から、滝のように勢い良くお湯が零れ落ちている。急いでコックを捻りお湯を止めて、私は再び脱衣場へと踵を返した。
ドアに手を掛け、視線を上げたところで、不意に私は動きを止めた。だから---。
「…一体なんで君がここにおるんや?」
当然といった様子で濡れた服を脱いでいる助教授殿に、くらりと目眩に似たものを感じる。一体さっきまでのあの遣り取りは何だったんだ。
「何でって、決まってるだろ。風呂に入るためだろうが。それとも何か他にすることでもあるのか、この状況で」
いけしゃあしゃあと、何言ってるんだか。ほんまに一体どこのどいつや、こんな奴を助教授なんかにしたんは---。
世間一般でいう火村英生と、私の知っている火村英生の間には、どうにも大きな誤解と隔たりがあるような気がしてならない。気のせいか、頭痛までしてきたような気がする。いかん。このままじゃ、繊細な私の神経が焼き切れる…。
「アリス。さっさと脱いで風呂入らないと、風邪ひくぜ」
「だから、君とは一緒に入らんて言うとるやろ」
日本語も判らんようになったのか、この先生は。
こめかみを押さえながら声を上げた途端、不意に伸びてきた腕が私の濡れた身体を捕らえた。雨に濡れ、身体に張り付いたシャツを通して、火村の微かな温もりが伝わってきた。その温かさに、ぞくりと身体が震える。
「アリス。今更、だろ」
左腕で私を捕らえたまま、右手で器用にシャツのボタンを外していく。それを何とか止めさせようと身を捩るが、それこそ無駄な抵抗でしかなかった。
「嫌やて。一緒に風呂入ると、君、絶対悪さするんやから」
言葉通り、単に一緒に風呂に入るだけなら、私だとてここまで拒みはしない。そうじゃないのが判りきっているから、火村とは一緒に入りたくないんだ。
「アリス…」
耳朶に触れる柔らかなバリトンの声。微かに心臓の音が高くなる。同時に、少しずつ私の四肢から力が抜けていった。それを振り払うように、私は強く頭を振った。
「火村、離せ…って…」
「アリス。あんまり世話焼かせると、ここで悪さしちまうぞ」
睦言のように耳元で囁かれたとんでもない台詞に、私は凍り付いたように動きを止めた。私のすぐ目の前、息が触れ合う程の距離にある、見慣れた男前の顔をまじまじと凝視する。
長い付き合いの中で、こういう奴だということは嫌になるぐらい良く判っていた。だが目の前でそれを見せつけられると、もう何ていうのか…。呆れるというよりは、拍手の一つもしたい気分になってくる。
---まったく…。こいつは、常識を一体どこにおいてきたんや。
知り合った時は、まだまともだったような気もする。が、年齢を追うごとに、目の前の男は常識と恥を捨てているような気がして仕方がない。---もちろん火村先生のためにも、いやそれ以上に私のために、それが私の思い過ごしであってほしい、と切に思う。
それにしてもこーんなに常識がなくても、我が母校英都大学では助教授になれるんだろうか。それとも、なまじ常識があると犯罪学者はやれない、とか…。---いや、違う。今はそういう問題やなくて…。
「いい子だな」
まるで小さな子供をあやすように響き、ゆっくりと火村の口唇が私の項に触れた。私の思いとは裏腹に、身体の中の熱が暴走し始める。触れてくる火村の口唇の熱さに、心と体のバランスが少しずつずれていく。---結局、その気になった火村を拒めることなど、十回に一回もありはしないのだ。いくら違うと唱えてみても、触れたいと思う気持ちも、欲しいと思う気持ちも、火村と私の間で差などありはしない。
---ああ、俺のアホアホアホ。結局また、火村の変態に乗せられてしもうたやないか。
それでも意地っ張りな私は、自分をごまかすように言い訳する。
---違う。俺やない。全部お前が悪いんや。
最後の言い訳を心の中で呟いて、私は抱きしめるように火村の背に腕を回した。to be continued
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