Because of Love
  第一章 そりゃ単なる見間違い <2>

鳴海璃生 




−2−

 リビングのソファにぐったりと横になった私の顔の上に、ペシャリと冷えたタオルが落ちてきた。目蓋を開けるのも億劫だったが、それを堪えて、私はうっすらと双眸を開いた。
 まるで鉛でも詰め込んだように重く感じる腕を何とか動かし、視界を塞ぐ冷えたタオルをペロリとまくり上げた。ぼんやりとした視界の先で、私の額の上に空中からタオルを落下させた助教授は、片手に缶ビールを持ち優雅にキャメルをくゆらせていた。
「気分はどうだ? 何か冷たいものでも飲むか?」
 火村の問いかけに、私はゆるく頭を振った。とてもじゃないが、今は何にも喉を通る気がしない。
「そうか。じゃ、何か飲みたくなったら言え」
 言いながら傍らの一人掛けのソファに腰を下ろし、テレビのリモコンを押す。すぐに耳慣れたニュースキャスターの声が、鼓膜を震わせた。
「ちっ、ニュースはあらたか終わっちまってるな」
 気持ち良さそうにビールを呑みながら、ぶつぶつと火村が呟く。まくり上げたタオルを額に戻し、私は蜃気楼ユラユラ状態の頭の中で指を折った。
 毎日10時から始まるニュース番組の進行状況は、だいたいいつも似たり寄ったりだった。その番組の中でめぼしいニュースが終わっているということは、今現在の時間が確実に11時間近か、さもなくばそれを過ぎてしまっているということを表している。
 ---帰ってきたのが、確か9時半頃やったから…。
 心情的には決して認めたくないが、雨に冷えた身体を温めるために入った浴室で、2時間弱の時間を過ごしてしまったことになる。おかげで私はといえば、完璧に湯あたり状態。冷えた身体を温め過ぎました。---な〜んてかわいい状態じゃなくて、ぶっ倒れなかっただけでも儲け物ってとこだ。
 私がこういう状態で、殆ど茹で上げられた蟹状態だというのに、何で同じ時間浴室にいた火村は、ああも元気なんだ。とても同じ年齢だとか、いや同じ人間だとさえ思いたくもない。
 ---あいつの体力は、もう化け物並みや。
 今さら言っても繰り言でしかないが、だから私は火村と一緒に風呂になんて入りたくなかったんだ。変態助教授に言いくるめられて、最後まで抵抗できなかった自分が、今更ながらに口惜しい。後悔ほんとに役立たず、だ。
「おい、アリス」
 頭上からバリトンの声が降ってきた。どうやら一本目のビールを呑み終え、二本目をキッチンに取りに行くらしい火村が、ソファの傍らに佇み、私に訊ねてきた。
「お前も何か飲むか?」
「…氷入りでギンギンに冷えたステビアのポカリスエット。青いのは嫌やで、緑のやつや」
 仕返しとばかりに我が儘を言う。
「ずいぶん元気になってきたじゃねぇか」
 苦笑しながら、それでもしっかり嫌味は忘れずに返す。そしてついでとばかりに、火村は私の額の上のタオルを取り上げた。
「濡らし直してきてやるよ」
 当然だ。私の湯あたりは、間違いなく変態助教授のせいだ。私一人で入っていたら、絶対にこんなことにはならなかった。身体はぬくぬくほかほかで、今頃は冷えたビールをキュッと煽って、幸せ気分満杯だったはずなのだ。なのに、なのに、なのにッ! 全く思い出すだけで、腹がたつ。
 ---火村のアホ、鬼、悪魔、変態、色魔、どスケベ。えーと、それから…。
 頭の中で、思いつく限りの罵詈雑言を並べ立てる。そうでもしないと、とてもじゃないが気が治まらない。
 少ない語彙を掻き集めていた私の頭の上に、ペシャリと再び冷えたタオルが降ってきた。同時にカチャリと、ガラスの響き合う硬質な音が耳朶に触れる。
「ここにおいとくからな。零すなよ」
 子供に注意するみたいなこと、言うな。まるで口煩い母親のような火村の口調が、妙に気に障る。
「もし一人で飲めないようなら、飲ましてやっても…」
 続く言葉は、やっぱり火村の台詞だった。全くこれ以上変態性欲振りまいて、どうするっていうんだ。
「いらんわッ!」
 タオルを額に張り付けたまま、私は力を込めて火村の申し出を辞退した。
「つれない奴だな」
 捨て台詞を吐きながらどさりとソファに腰を下ろし、火村は持ってきたビールのプルタブを引いた。シュポッと炭酸の抜ける音が耳に心地良い。
「火村ぁ、俺にも一口…」
 言いかけた時、まるでそれを待ちかねていたかのように電話のコール音がリビング中に鳴り響き始めた。火村の方に手を伸ばしていた私と、その私を無視してビールを口元に運んでいた火村の動きが、反射的に止まった。どちらが電話に出るのか、間合いを計るように一瞬沈黙する。瞬後、火村のバリトンの声が、コール音に重なるように私の耳に響いてきた。
「おい、アリス。電話」
 んなこと、言われなくても判っている。例え湯あたりで茹だっていても、耳はちゃーんと聞こえているんだ。
「火村が出ればええやろ」
 伸ばしていた手を戻し、私は頭を抱え込むようにして面倒臭げに呟いた。霞んだ脳味噌の中を行き来する電話のコール音が、頭蓋骨に反響しているような妙な気分---。全く煩いったらありゃしない。もう何だっていいから、早くその音を止めてくれ。
「お前んチの電話だろうが」
 ダウンしている私の耳に容赦のない火村の声が届く。ついで、ぐびりと美味しそうにビールを呑みこむ音が聞こえ、私はムッとしたように眉を顰めた。
 陸に打ち上げられたイルカ---実際見たことはないが、この際もうなんだっていい---のように、ぐったりナマモノと化しているこの私に、電話に出ろと言うのか、この助教授は。だいたいこんな時間に電話を掛けてくるなんて、非常識すぎる。そういう遠慮のない知り合いは、目の前のこの男一人で十分だ。
 ---ああ、いかん。八つ当たりだ。電話の相手に罪はない。悪いのは、全部火村や。
 茹だった頭の中で、思考が私の意志とは無関係に一人歩きする。その間にも途切れることなく、電話のコール音は鳴り続けた。
 ---誰か知らんが、しつこすぎるで。普通7回コール音を数えて誰も電話に出なかったら、すっぱり諦めて切るのが礼儀っちゅうもんや。
 いかん。また思考がズレている。私は慌てて、最初の問題へと思考を後戻りさせた。
「心配せんかて、俺んチの電話に君が出ても、誰も不思議には思わへんわ」
 憮然とした口調で、余り嬉しくない事実を告げる。世間一般の皆様にこれ以上妙な誤解はされたくないが、さりとてこの状態で電話を取る気にはとてもなれない。こうなったら、一瞬の誤解よりも目先の安寧だ。
「随分とありがたい言葉だな」
 ビールをテーブルの上において、火村は電話機へと向かった。
「はい、有栖川です」
 ごろんと寝返りをうつ。クッションに張り付くように伏せた頭の上を、火村の低い声が通りすぎていく。火村以外にこんな時間に電話をかけてくる人間にこれといって思い当たらない私は、一体誰からの電話なんだと、一応火村の声に耳を傾けた。そう思いながらも、例え電話の相手が誰であろうと、何だかもうどうでもいいような気もして、今ひとつ真剣に注意しを傾ける気にはなれない。
「いえ、構いません。また事件ですか?」
 事件?
 頭の中を通り過ぎた言葉に、ぴくりと身体が反応する。どうやら電話は私にではなく、火村に掛かってきたらしい。---となると、相手は警察関係者。きっとフィールドワークへのお誘いに違いない。
 火村は、犯罪社会学者として独特の研究方法を駆使していた。つまり彼の言うフィールドワークとは、警察の了解の下、現実の犯罪捜査に加わって事件の内容を観察することなのだ。しかもその過程に於いて、彼は数々の事件を解決に導くという希有な才能を発揮している。それが功を奏したのか、はたまた重宝がられているのか、今では警察関係者から直々に「いらっしゃいませんか」と誘いを掛けられるまでになっていた。
 そんな彼独特の研究方法から、私は彼のことを臨床犯罪学者と呼び、その成果については多大の関心を抱いていた。斯く云う私自身も助手という名目で、何度か彼のフィールドワークに同行したこともあった。
 それまでおざなりに電話の内容に耳を傾けていた私は、火村の言葉を一言一句聞き漏らすまいと、さっそく耳をダンボにした。
「ええ…。それは私向きというよりは、有栖川先生向きですね」
 私向き…?
 ということは、密室か暗号。それともアリバイトリックだろうか…。推理小説家的な発想が、次から次へと頭に浮かんでは消えていく。
 こうなってくると、電話の向こうの相手が気になって気になって仕方がない。警察関係者の誰か。---ということぐらいは火村の言で判るのだが、如何せん話の詳しい内容は、超能力者でない私には見当のつけようもない。大阪の事件なのか、それとも兵庫、京都---。雨も降っていることだし、できれば近場の方がありがたいのだが。
 はやる思いは、こんなソファの上で茹だってないで、すぐにも飛び起きて火村の処に行きたがった。だがさすがにまだ身体の怠さは抜けきらず、思いとは裏腹に身体を起こすことさえ躊躇された。ここで無理をしても仕方がないので、私はおとなしく電話が終わるのを待つことにする。
 それにしても、話の内容が僅かでも判っているというのは、殆ど生殺し状態に近い。全く判っていない時より、よほど始末に悪い。頼む火村。早う電話を終わらせて、こっちに来てくれ。
「はい、判りました。では、今から伺わせて頂きます。---アリス、ですか? いや、アリスは…」
 言葉を切り、火村が一瞬躊躇する。
「すみません、少々お待ち下さい」
 コードレスの受話器を耳元から離し、私が横になっているソファへと火村は視線を移した。
「おいアリス、大丈夫か。行けるか?」
 当然の100倍だ。漏れ聞こえる言葉の端々を繋ぎ合わせただけでも、十二分に私の興味を引きそうな事件なのに、たかが湯あたり程度で行かずにおくものか。例え這ってでも、火村に張り付いてでもついて行ってやる。
 応えを返す代わりに、私はソファの背もたれ越しに火村に向かってVサインを作ってみせた。ソファの上にゆらゆらと揺れるVサインに苦笑し、火村は再び受話器を耳元に戻した。
 確かめるようにゆっくりと身体を起こす。まだ少しクラクラと意識が揺れるが、さほど酷い状態というわけではない。これなら火村にくっついていっても、じゃまになるということはあるまい。---もっとも私向きの事件と聴いた時から、例え這ってでもいざってでもついて行ってやるぞ、と強く心に決めていたのだが。
 深呼吸するように大きく息を吸い込み、私はテーブルへと腕を伸ばした。火村が持ってきてくれたポカリを一気に煽る。氷が溶けて少し薄くなったポカリは、妙に間延びしたような味がした。一つ大きく伸びをして、火村へと視線を移す。
「なぁ、どんな事件なんや?」
 早速気になっていることを口にする。が、それに応える代わりに、ぱさりと目の前にコートが飛んできた。
「冷えてるからな、きちんと着ていけよ」
 既に黒い皮のコートを着込んで、火村はドアへと向かっていた。慌ててコートを引っ掛け、私は火村のあとを追った。事件の内容は気になるが、まぁそれは車の中ででも訊けばいい。取り敢えず今は、火村においていかれないようにすることが先決だ。
 火村と一緒にのんびり過ごそうと思っていた矢先に、まるでそれを見透かしたかのように舞い込んで来た事件。部屋の中で茹だっているよりは、やっぱりこの方がずっと私達らしい。火村の隣りを歩く私の足取りは、踊るように弾んでいた。


to be continued




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