鳴海璃生
−3− 地下駐車場を出た私のブルーバードは谷町筋を北へと向かい、天満橋方面へと進んだ。時間は既に日付が変わろうかという時刻。普段は車で埋め尽くされる通りも、今は閑散としていた。時折通りを行きすぎる車のヘッドライトの中で、細い雨が銀色に輝く。
9時過ぎから急に降り出した雨も今は霧雨となり、音もたてずに暗い空から舞い降りていた。細い雨が、濡れたアスファルトが、ヘッドライトの光にきらきらと反射する。助手席に座り、私はフロントガラスの中で繰り広げられる光の乱舞をぼんやりと眺めた。
夜、車の中や部屋の中から雨の降る街の様子を眺めるのは嫌いじゃない。銀色の雨に車のライトやネオンが微妙な反射でもって輝くさまは、まるで別世界のようで息を飲む程に美しい。ガラスを隔てた街は普段の顔とは違う顔を見せ、まるで異次元空間に迷い込んだような錯覚さえ起こさせた。
ゆっくりとフロントガラスから視線を外し、私は隣りでステアリングを握る火村を横目に見つめた。駐車場に下りた時、最初は私が運転席の方に回り込んだのだが、「お前と一緒に心中したくない」という火村の有り難い言葉でもって、私はおとなしく助手席に収まることになった。が、よくよく考えてみたら、もしかしてこいつ飲酒運転やないのか。
駐車場を出たとこでそれに思い当たり、俺が運転する、しない、で一悶着あった。が、結局火村に押し切られてしまい、今に至っている。不良助教授の火村先生はのほほんと隣りで煙草をくゆらせ、ステアリングを握っている。だが小心者で真面目な私の胸は、この暴挙にズキズキと痛みを訴える。---これから警察の犯罪捜査の手伝いに行く人間が、果たして法律を犯してもいいものか。
「なぁ、火村…」
「何だ? 今さら運転変われって言っても、変わんねぇぞ」
「言わへんわ、そんなこと。それより俺、まだ何にも聴いてないんやで。さっさと説明せんかい。電話、誰からやったんや?」
助手席に座った私は、まだ行き先さえ聞いてはいないのだ。一応名ばかりとはいえ助手として事件捜査に加わる手前、現場に着く前にそれなりの情報は耳に入れておきたい。
---俺ってば、何て殊勝な心掛けの持ち主なんや。ほんま、助手の鏡やないか。
チカチカと点滅する黄色の信号を突っ切り、火村は煙草を灰皿に投げ捨てた。
「電話は船曳警部からだ。事件が起こった場所は、味原本町」
「何や、すぐ近くやないか」
私は、ちょっとホッとしたように息をついた。これから犯罪捜査に加わらせてもらう手前、場所の選り好みなどという贅沢はできない。しかしこの時間から京都だの兵庫---走ってる場所から、それはありえないのは判りきっているが---に行くのは、ちょっとご遠慮したい気分でもあったのだ。
が、味原本町といえば、私のマンションと同じ天王寺区内。距離にしても、車で10分ぐらいだ。目と鼻の先---、とまでは言わないにしても、大手前にある大阪府警本部よりはぐっと近い位置にある。ちょうど私のマンションと府警本部の真ん中辺りぐらい、と言えば判って貰えるだろうか。
「だから、呼び出しが掛かったんじゃねぇのか?」
苦笑を刻み、火村は眉を上下させた。
「…って、それ…」
途端、私は頭を抱え込みたい気分に陥った。つまりそれは、船曳警部は、火村が私のマンションにいると思ったってことじゃないか。まぁ、確かに間違いじゃないし、現に火村は私のマンションにいたのだから、言い訳もできやしない。そうは言っても、何かちょっと---。「さすが船曳警部、ええ勘や」と、素直に感嘆するのも嫌だ。
私の様子を横目に見て、口許に浮かんだ火村の苦笑いが深くなる。
「つまり、そういうこった。明日は休みだし、船曳警部、俺がお前んチにいると思ったんだろうな。電話じゃ、べつだん婆ちゃんに訊いたとも何とも言ってなかったぜ」
めちゃくちゃ嫌。そりゃ休みごとに飽きもせず、互いの家を行ったり来たりしてはいるが、赤の他人にまでそうと思われているのは、何だかとってもめちゃくちゃ嫌だ。学生じゃあるまいし、立派に仕事を持ついい歳をした大人が、それでは余りに情けなくないか。いや、船曳警部だけなら千歩譲って目を瞑ろう。が、これが船曳警部だけじゃなく、森下さんや兵警の樺田警部や京都の柳井警部にも、そう思われているとしたら…。
止めた。話を事件に戻そう。
「それは、もうええわ。それよか事件の話してくれ」
どんよりと疲れたような私の声に、火村は喉の奥で小さく嗤った。目の前の谷町八丁目の交差点で右のウインカーを出し、車の頭を玉造筋へと向ける。
近鉄上本町駅から四天王寺一帯にかけては、豊臣家滅亡のあと松平忠明が大阪市街の整備をおこなった際に、市内の寺院を集めてできた寺町が広がっている。現在でも百を越す寺院が建ち並んでいて、その内の幾つかは交差点を一つ北に上がったこの辺りにもぽつりぽつりと点在していた。『曽根崎心中』や『心中天綱島』などで知られる劇作家、近松門左衛門の墓は確かこの一角だし、井原西鶴の墓も近くの誓願時にあったはずだ。
フロントガラスへと視線を戻し、ぼんやりとそんなことを考えていた私の耳に、火村の低い声が飛び込んできた。一気に意識が現実へと引き戻される。
「事件の内容は、たぶん殺人事件」
なんや、その『たぶん』と言うのは---。曖昧な火村の言葉に、私は眉を寄せた。
だいたい火村が呼ばれるぐらいなんだから、事件としては殺人事件に決まっているのではないか? それを勿体ぶって『たぶん』やなんて、性格悪すぎる。
が、これでもし現場に行ってみて、事件の内容が置き引きとかスリとか強盗とか空き巣とかだったら、私は火村一人をその場において、さっさとマンションに帰ってやる。どっからどう見ても、そんな事件は私向きではなくて火村先生向きだ。湯当たりをおしてまでついて来てやった推理作家の好奇心は、その程度のことでは満足せぇへんのや。それに、かりにも電話で「私向きの事件」と火村が言ったからには、殺人事件プラスアルファ。もれなく付くグリコのおまけのように、ミステリーの要素も含んでなくちゃいけないんだ。
もちろん私とて、殺人事件を手ぐすね引いて待っているわけではない。人の命が奪われるような、殺伐とした事件は無い方がいいに決まっている。が、不幸にしてそれが怒ってしまった場合、事件としては、それなりの謎を含んでいた方が面白いに決まってる。これも偏に悲しい推理作家の性。不謹慎で、ごめんなさい。
心の中で手を合わせ、私は火村に向き直った。いくら殊勝なことを考えていても、さっきの台詞で私の機嫌は斜め向き。そんな私の様子に、火村が緩く笑った。
「んな顔すんなって。俺だって、そう詳しくは聞いてないんだからさ。ただ船曳警部の電話を聞いた限りじゃ、そうとしか言いようがねぇんだよ」
「だったら、はよ話せ」
口調に苛立ちが含まれていても、ご愛敬ってもんだ。いちいち勿体ぶってる火村が悪い。
「10時過ぎ頃、大阪府警の通信センターに殺人事件が起こったって、電話が入ったそうだ」
うんうん、セオリー通りや。事件の始まりとしては、まっ、そんなもんやろ。---すっかり私は、推理小説の粗筋を聞いているような気分だ。
「その電話に従って警官が通報された場所に行ったところ、殺人事件があったという部屋には、しっかり鍵が掛かっていたそうだ」
密室だ、密室だ、密室だ。いくら車で10分の距離とはいえ、わざわざ出向くからには、こうでなくちゃいけない。
それで、それで、それで…。
まるでお伽噺の続きをせがむ子供のような私を、火村が軽くコツンとこづいた。
「アリス…」
たしなめるような火村の声。でも、仕方ない。推理作家様は、密室という言葉に弱いんだ。仕様がねぇな…という表情で、火村は言葉を継いだ。
「ちょうどそこに部屋の住人が帰ってきたんで、鍵を開けて中に入ったら…」
入ったら…。---ええいっ、早く言え。勿体ぶるのも時と場合を選ばんと、まじで怒るぞ。
「死体どころか、殺人現場の痕跡も無かったらしい」
「へっ?」
間抜けた私の表情を面白そうに見つめ、火村がしてやったりとばかりにニヤリと笑った。
「どうだ? アリス先生向きの事件だろうが」
なに言うてんねん、こいつ。殺人事件だと通報があって現場に警官が行ったら、部屋に鍵がかかっていた。---確かにここまでだったら、私好みの密室殺人事件だ。しかし中に入ってそこに死体が無いとなれば、そりゃ単なる見間違いだろうが。
勢い込んだ身体をぐったりとシートに沈め、私は馬鹿馬鹿しいというように緩く頭を振った。これはもう現場で火村だけ降ろして、私はマンションに帰ってさっさと寝ることで決まりやな。
「それのどこが、俺向きやねん。そりゃ単なる見間違いだろうか」
「バカ。単なる見間違いに、俺が呼ばれるわけあるか」
う〜ん、確かにそりゃそうだ。だがこれだけ聞いて、一体それ以外の何があるっていうんだ。
---もしかしてこいつ。まぁーだ何か隠してるのと違うか。
こういう場合における私の火村に対する信用度合いは、やっぱり極端に低いのかもしれない。が、しかし---。
「だって、それ以外他に考えられんやないか。それとも何かい。警官が着く前に、犯人が死体を隠して、現場もきちんと元に戻したとでも言うんか」
「それはないな。警官達が現場に到着するまでに、10分とかかっちゃいないはずだ」
「だったら…」
「作家先生は、随分と気が短いんだな」
煩いわい。私が気が短いんやなくて、火村が勿体ぶった話し方するのが悪いんや。でも今回に限っては、さすがの火村先生もアウトだ。警官が着くまでに死体を隠す時間も、現場を元に戻す時間も無かった。自分でそう言っているのに、一体なにが火村の気に引っ掛かっているんだ。これはもう気が短いだの長いだのという問題じゃなくて、はっきりきっぱり考え過ぎや。フフンと鼻で笑い、私はからかうように言ってやった。
「さすがは火村先生。気の長いことや」
「別に長いわけじゃねぇぜ。ただお前みたいに、物事を一つに決めつけていたら、見える物も見えなくなるってだけだぜ」
そりゃまたどうも…。言い方にむかつくものはあるが、確かに一理ある。ではでは、優秀な助手は、殊勝に火村先生のお言葉を御拝聴しようではないか。
「そりゃ悪かったな。せやったら助手は頭を切り換えて、火村先生の話をおとなしく拝聴しようやないか。---どや? 頭の切り替えの早い助手で有り難いやろ」
「簡単に湯当たりするような助手じゃ、頼りないけどな」
だから、煩いっちゅうんや。俺が湯当たりした原因は、お前やないか。そのお前が、そういうこと言うか。
じろりと睨みつけた私を火村は無視して、船曳警部から聞いた話をもう一度自分の中で整理をつけるように言葉を続けた。火村の低いバリトンの声が、狭い車内を満たすように響いた。
「俺だってそこまで聞いた時は、単なる見間違いじゃないかって思ったさ。ただ船曳警部が言うには、通報した奴が絶対見間違いじゃないって言い張ってるそうなんだ。それだけじゃないぜ。被害者と犯人の名前まで名指ししてるそうだ」
ちょっと待て。何なんだ、その通報者は。
「見間違いじゃない」と言い張るってのまでは判る。が、被害者と犯人の名を言うってのは、幾ら何でもやりすぎなんじゃないのか。そんなことしたら名誉毀損で訴えられるんじゃないかと、他人事ながら心配になる。
---いや、待て。
逆だとしたら、どうだ。通報者が犯人で、恨みを持つ男を犯人に仕立て上げようとしている。それなら、一応筋は通ってるんじゃないか。
「アリス。通報者が犯人だと思ってるだろう」
火村の声に、ドキリと心臓が弾んだ。思っていたそのままを口にされて、私は妙に罰が悪い。しかも、口調にあからさまなからかいが混じっているから、なおさらだ。
「君が俺のこと気が短いとか、一つの事に決めつけてるって言うから、ちょっと考えみただけや」
火村の言葉を肯定した言い訳に、火村がくぐもった声で笑う。
「悪いとは言わねぇさ。色んな可能性を探ってみるのは、大事なことだ。ただ俺は、お前の思考は判りやすいなって思っただけだ」
それ、ぜんぜん誉めてへんぞ。逆にバカにしてるんじゃないか。
「取り敢えず、続きは詳しい話しを聞いてからだな。---そろそろ現場に着くぞ」
火村の声に視線を上げると、フロントガラスの中にパトカーの赤いライトが浮かんで見えた。それがまるで事件の始まりを報せる不吉な印のようで、私は小さく息を飲んだ。to be continued
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