鳴海璃生
ウインカーを上げ、車を道の片側へと寄せる。ウインドウの中の赤い光が徐々に大きくなっていき、遠目に見えていた現場の状況も、はっきりと視界の内に捕らえることができるようになった。ゆっくりとスピードを落とし、火村は何台か並んだパトカーの後ろに車を滑り込ませた。
エンジンを切り、火村が先に車の外へと降り立った。そのあとに続き、私も外へと出る。すぐにコートの肩に、一つ二つと小さな丸い染みが広がっていく。ずいぶん小降りになったとはいうものの、雨はまだ降り続いていた。顔を上げ、暗い空を仰ぐと、街灯の明かりに照らされて、銀色に輝く雨粒が白い軌跡を描くように落ちてきていた。
空に向かって、一つ息を吐く。白い霧のような塊が薄く広がり、闇の中へと消えていった。既に日付も変わったこの時刻、気温はどんどん下がっていっていた。身を包む空気の冷たさに、私は思わず小さく震えた。
「アリス」
ビルの入り口で振り向き、私を呼ぶ火村の声に従い、私は慌てて火村の方へと駆けていった。
ビルの入り口には、まだ何人もの警官や捜査官が寄り集まっていたが、辺りに野次馬らしき人影はない。時間が時間だし、それにここは住宅街というよりはオフィス街に近いせいだろう。住宅街や繁華街に比べれば、辺りの様子も極端に暗い。きっと夜の人口密度は、昼間のそれとは比べものにならないぐらい低いのかもしれない。
警官や捜査官達に軽く頭を下げ、火村のあとに続いてガラスの扉から中へと入る。中の空気はひんやりと冷えているとはいえ、外に比べればまだ幾分かは暖かく感じられた。例え暖房の類は入っていなくても、煌々と明かりが点いているというだけで、随分と体感温度は変わるものだ。
ホッと息をつき、私は好奇心も露わにキョロキョロと辺りの様子を一瞥した。何人もの警官や捜査官、ビルには不似合いな人間がいることを除けば、ビル自体は何の変哲もない在り来たりな造りのマンションだった。
ドアを入った処は、六畳程度のフロアーになっていた。床は落ち着いた色合いのタイル張りで、壁の色もそれに合わせてブラウンに統一されていた。入ってすぐの右手には管理人室の小窓があり、その反対側の壁には縦5列横7列の郵便受けが並んでいた。私達が入ってきた正面玄関のガラス張りのドアはオートロックではないし、例え管理人室があるとはいっても、関係者以外の人間が入れないという様子ではない。
フロアーの正面奥には二基のエレベーターが並び、その前にも数人の警官や捜査官が丸い輪を作っていた。見知った顔はないかと目を凝らすと、私が気付くより早く、和の中の人物が私達に気付き、右手を上げて合図を送ってきた。
「火村先生、有栖川さん」
既に彼のトレードマークと言っても過言ではないアルマーニのスーツの裾をひるがえし、こちらへと歩み拠ってくる姿は、警察官というよりは、どう見てもジャニーズのOBという雰囲気だった。彼のこの様子に反感を覚える古参の刑事も少なくない、と以前聞いたことがある。が、その彼らにしても、念願の大阪府警捜査一課に入ったはりきりボーイの仕事に対する真摯な姿勢と熱心さは、高く評価しているらしい。
「早かったんですね」
私達の前で足を止めた森下刑事は、少し驚いたように微笑んだ。言われてみれば、確かにそうだ。いくら私のマンションにいたとはいえ、火村が船曳警部から電話を受けて、まだ20分も経っていないはずだ。
「大学の方ももう冬休みに入ってますし、特に急ぎの予定も無かったので、いいタイミングでした」
ある意味、閑を持て余していたというだけなんだが、言い方によっては妙に良く聞こえるもんだ。
「そうですか。そりゃ良かった」
素直を絵に描いたような森下刑事は、火村の言葉を額面通りに受け取ったらしい。まだまだ甘いで、森下くん…、と思ったが、妙な勘ぐりをされるよりはずっといい。
「そういえば、有栖川さんの方は大丈夫なんですか?」
火村の傍らでぼんやりと二人の遣り取りを眺めていた私に、森下が突然声を掛けてきた。慌てた私は間抜けた表情を晒しそうになり、焦って口許を引き締めた。
「ええ。年末校了で締め切りもとっくに終わってますし、あとはのんびり年を越すだけです」
「は?」
森下が表情に疑問符を張り付けた。---って、私は何か間違ったことを言ったか? 締め切りも終わって年越すだけって、極々当たり障りのない言葉やないか。
その時、大仰な火村の溜め息が耳朶に触れた。
「バカアリス。誰が、お前の仕事のことなんて訊いてるよ」
えっ? だって、森下さんが今「大丈夫ですか」って訊いたじゃないか。
きょとんとした私の表情を見つめながら、説明するのも莫迦らしいというように、火村は言葉を継いだ。
「森下さんは、お前の身体のことを訊いてるんだよ」
「身体---って。俺は別に…。---あ〜っ! 君、俺が湯当たりしたこと、船曳警部に言ったな」
人のドジ話を他人に話すとは何事だ。しかもその原因を作った張本人が、だから、全くもって許し難い。
「バカ。俺は、お前が湯当たりしたなんて、ひとっ言も言ってないぜ。ただ、ちょっと具合が悪いって言った程度だ。それを森下さんが心配してくれたんだろうが…」
確かにあの時の電話で湯当たり云々は、話に出ていなかったような気もする。だがしかし、何となく納得できない。
「有栖川さん、湯当たりやったんですか?」
私達の間を割って、森下の声が響いてきた。ぎくり、と身体が強ばる。
---しまった。森下さんがおったんや。
これでは、自分で湯当たりしたことを白状してしまったと同じじゃないか。ああ…、俺のアホアホアホ。
相変わらずのポーカーフェイスでもって素知らぬ風を装う火村を横目に睨み、私は森下へと意識を移した。何となく森下の口調に呆れたような感じが含まれている気がして、何とも罰が悪い。
「はぁ…。雨に濡れて身体が冷えたもんで、ちょっと長湯しすぎてもうて---」
モゴモゴと口の中で言葉を濁す。チラリ、と長湯の原因に視線を走らせるが、当の諸悪の根源は、いつも通りの何喰わぬ顔を晒している。
---ほんまに、こいつだけは…。
何度繰り返したか判らない言葉を、再度胸の内で呟く。何とかこの仕返しをしてやりたいと思うのだが、やっても無駄なことは嫌と言うほど経験している。
「余り無理をしないよう、気を付けて下さいね」
心配そうな森下の声が耳に飛び込んできた。---優しい言葉が、心に染みる。
「大丈夫です。そんな大袈裟なことやないんですから」
単純だが、森下のひと言で何となく機嫌の良くなった私は、にっこりと目の前の若者に微笑み掛けた。そんな私達の様子を横目に見つめていた火村が、まるで割り込むように唐突に声を挟んできた。
「事件の方は、どうなっていますか?」
慌てて森下が、火村へと視線を移す。火村の低いバリトンの声に、ほんわかと和んだ空気が、一瞬にして緊張を孕んだものに取って代わる。在り来たりの世間話に終始しそうになった私も、ここが犯罪捜査の現場だったことを改めて思い出した。
「詳しいことは、あとでご説明します。まずは、警部にお会いになって下さい。現場---と言っても、何の痕跡もないんですが---の方に、目撃者と部屋の主も揃っていますから」
火村が軽く頷く。森下に促され、エレベーターに乗り込んだ火村の後に続いて、私も四角い箱の中に足を踏み入れた。不可思議な事件へと私達を導く箱は、微かな振動と共にゆっくりと上昇を開始した。to be continued
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