鳴海璃生
−4− 扉の上にある階数表示のランプが、5階で止まる。と同時に、微かな浮遊感が身体に感じられた。エレベーターが動きを止め、目の前の扉がゆっくりと左右に開いていった。
狭苦しい空間が開け、電灯の光に明るく照らされた廊下が眼前に現れた。『開』と書かれたボタンを押した森下が、私達を外へと促した。火村が先にエレベーターから降り、数歩進んだ所できょろきょろと辺りの様子を一瞥する。後ろに続いた私は半身を捻るようにして振り返り、森下が降りてくるのを待った。
「森下さん、場所どこです?」
「こちらです」
私達を先導するように森下が先にたち、狭い廊下を右手奥へと進んだ。茶色のドアを幾つか通り過ぎ、一番奥の部屋へと向かう。辿り着いたドアの前には、一人の制服警官が周りの様子を見張るように立ち番をしていた。
「ご苦労様です」
軽く敬礼をして、森下がドアを開けた。後ろに続く私達にチラリと視線を走らせ、警官は軽く頭を下げた。つられたように、私も警官に向かって頭を下げる。
「火村先生、有栖川さん、どうぞ。中で警部がお待ちです」
森下の声に、火村と私はドアの中へと入っていった。背中越しにバタンとドアの閉まる音が聞こえた。
「なぁ、火村。もう検証とか終わったんやろか」
普段なら慌ただしく立ち働いている捜査官や鑑識課員の姿が一人も見えないことを不思議に思い、私は火村の耳元でそっと囁いた。
「さぁな…」
火村が素っ気なく肩を竦めてみせる。それに小さく息を吐き、私は部屋の様子をそっと窺った。
玄関から続く廊下の左右には、寝室と思しき白いドア。右手の寝室の奥にあるドアは多分、トイレがバスルームといったところだろう。狭い廊下の突き当たりには、磨りガラスの入ったドアが廊下とその奥の部屋を隔てていた。多分そのドアの向こうがリビングになっているのだろう、と容易に想像することができた。なぜなら私のマンションもそうだが、部屋の間取りはどこも似たり寄ったりの造りだからだ。
火村のあとに続き、短い廊下を奥へと進む。磨りガラスのドアを入ったところで、火村が唐突に足を止めた。慌てて私も立ち止まり、火村の肩越しに覗き込むように顔を出した。視線の先、ソファの背もたれの上に見慣れた丸い禿頭があった。
「警部、火村先生をお連れしました」
森下の声が、明るいリビングに響く。その声に牽かれるうに、丸い禿頭がゆっくりと動いた。立ち上がり、こちらを振り向いたその姿は、頭と同様に真ん丸いフォルムをしている。
「火村先生、有栖川さん。雨の中をご足労おかけして申し訳ありません」
真ん丸い身体を揺らしながら人の良い笑みを顔全体に張り付けて、船曳警部が私達の方へと歩み寄ってきた。森下のアルマーニのスーツと同じく、既に警部のトレードマークと言っても過言ではないサスペンダー---警部自身は、古風にズボン吊りと読んでいる---が、こんもりと盛り上がったお腹の上で丸いアーチを描いている。それを両手で掴んだお得意のポーズは、どこからどう見ても、私の愛読書『鏡の国のアリス』に出てくるハンプティダンプティのようで、自然と私の表情にも笑みが漏れる。
つるつるに禿げた頭と恰幅の良さ。それにサスペンダーという三つの印象が相まって、船曳警部の姿はまるで古いギャング映画のボスのようにも見える。だが彼の部下達が敬愛の情を込めて、陰で呼んでいる警部の渾名は『海坊主』だった。
「またお世話になります」
火村が船曳警部に向かって軽く頭を下げた。火村の言葉に警部は緩く笑って、丸いお腹を揺らした。
「こちらこそ、宜しくお願いしますよ」
言いながらソファへと踵を返す。まるで引率の先生に導かれるかのように、私達は警部の後に続いた。
部屋の中心に設えられたソファには、憮然とした表情の、長髪で痩せた男と、どこか憔悴しきった感のある男性が、低いロウテーブルを挟んで斜め向かいに座っていた。一瞥した感じでは、二人共まだ二十代後半か三十代前半という感じに見受けられた。
火村の後ろでぼんやりとそんなこを考えていると、徐に長髪の男が私達に向かって視線を上げ、胡散臭げに眉を寄せた。
「そちらのお二人は、どなたですか? どうも警察の方ではないようですが…」
彼のことを、てっきり関西の人間だとばかり思っていた私は、明瞭とした発音の歯切れのいい東京アクセントに、僅かに首を傾げた。大阪生まれ大阪育ちの私には、関西圏にいる人間は、皆こちらのアクセントで話す、という妙な思い込みがあるらしく、ここで聞く標準語は、いつも微かな違和感を呼び起こした。---ただし火村以外の話す標準語、と付け加えておかねばならないのだが。
「こちらは、京都にある英都大学社会学部助教授の火村先生と、その助手の有栖川さん。お二人には、大阪府警本部で捜査に協力と助言を戴いています」
船曳警部が簡単に私達のことを紹介する。もっとも私が火村の助手というのは単なる建て前で、そのことは既に警部自身も了解済みだ。確かにそういう名目で火村についてきてはいるが、私には火村の手伝いをする気も、ましてや役に立つなんて気は更々なかった。
---まぁ、やろうと思ってもできない、と言った方が、この場合は正解かもしれへんけど。
苦笑いを隠し、警部の言葉を引き取ったように、私はぺこりと小さく頭を下げた。胡散臭げに私達を見つめていた長髪の男は、やれやれというように肩を大袈裟に竦めてみせ、どさりと乱暴な仕種でソファに身体を預けた。もう一人の男は小さく頭を下げただけで、何も口を開こうとはしなかった。
二人の様子に小さく頷き、警部は私達の方へと向き直った。
「先生方に、お二人をご紹介しましょう。そちらが---」と言って、警部はテーブルの向こう側に座る長髪の男を指し示した。「この部屋の主の長谷川亮さん。そしてこちらが---」今度は、その斜め向かいに座る男を掌で示す。「岡部武志さんです」
「警察に通報なさった方は?」
「こちらの岡部さんです」
目を眇めて、火村が岡部と紹介された男に視線を移した。
「その時の様子を詳しくお訊きしたいのですが---」
傍らに立つ警部に向き直る。警部は丸い頭をゆっくりと上下させ、身体ごと岡部へと向き直った。
「お疲れのところ申し訳ありませんが、もういっぺん通報なさった時の状況をお話し頂けますか」
丁寧な言い方だが、警部の口調には有無を言わさぬ強いものがあった。岡部は疲れた様子で視線を上げ、どこか怠そうな態度でゆっくりと口を開いた。
「会社から帰ってきてシャワーを浴びたあと、開いたままだったリビングのカーテンを閉めようと、窓に向かいました。その時、向かい側の窓に明かりが点いているのに気付いたんです」
「何時頃ですか?」
「10時頃です。はっきりと時間を覚えているのは、その時つけていたテレビから、10時に始まるニュース番組のオープニングが流れてきたからです」
一つ一つ思い出すように慎重な口振りで語る岡部の話は、だいたい次のようなものだった。
岡部武志は東京に本社を持つ、ある有名な建築事務所の設計士だった。東京生まれ東京育ちの彼が、東京本社から本町にある大阪支社に転勤になったのは、今から約1年前。最初は東京との違いに随分と戸惑ったらしいが、1年が経過し、漸くこちらでの暮らしにも慣れてきた…、というとこらしい。
明日---既に日付が変わっているので今日だが---は天皇誕生日で会社も休みだというので、8時までの残業のあと仕事仲間と道頓堀で一杯引っ掛けた。そして心地良い酔いに身を任せて家に帰り着いたのが、9時半頃だったという。
急に降り出した雨に濡れてしまったので、風邪をひかないように急いでシャワーを浴びようと、部屋に入るやいなや着替えを取りに駆け込んだ。寝室に行くのにリビングを横切ったが、カーテンを開けたままの窓は真っ暗で、向かい側のビルの窓にも電気は点いていなかったらしい。もっとも立ち止まってしげしげと眺めたわけでも何でもないから、はっきりと確信は出来ない、と岡部は付け加えている。
シャワーを浴び、冷えた身体を暖め、ビールを取りにキッチンとへ向かった。部屋の中心にリビングのある造りなので、その時もリビングを横切った。だがやはりその時も、向かいのビルの窓は真っ暗だった。
ビールを片手にリビングに戻ってきた岡部は、まだ早い時間だが寝ようか…と思い立ち、開いたままのカーテンを閉めるために窓へと歩み寄った。その時、先刻まで暗かった向かいの窓の一つに明かりが灯っているのが目に入った。特に何かが気に留まった訳でもなく、何気なく視線をその窓で止めた。途端、ドキリと心臓が跳ねる。雨に煙ってはっきりとは見えなかったが、言い争うような男女の影がその窓には写っていた。
好奇心に誘われるまま、岡部はその様子を見つめた。それは、時間にして数分の間だった、と岡部は言った。
じっと見入っていると、やがて岡部の視線の先で男の影が背を向けた女の首に細い紐を絡めた。その瞬間、一体なにが起こったのか、正確には理解できなかった。ただ宙を泳ぐように女の細い腕が動き、すぐにそれが力無く落ちていった。
人が殺された、と反射的に思ったが、それが現実だとはなかなか認識できなかった、と岡部は掠れたような声で供述した。
---それはそうだろう。
火村について何度か殺人現場に足を踏み入れたことのある私とて、もし今目の前で殺人が起こったとしても、それが現実だと認識するまでには、相当の時間を要するに違いない。
他人の手によって人が殺されるということは、私の書く小説の中では極々当たり前の日常だが、本来の現実においては、そして極普通の一般的な人達にとっては、それこそ小説の中の出来事以上に非現実的でさえあるのだ。
漸く警察に通報しなければ…、と現実に即した考えが浮かんできた時には、既にそれなりの時間が過ぎていたのではないか…と、岡部は頭を捻った。
淡々と語る岡部の話が終わった時、私は詰めていた息を漸く吐き出すことができた。彼の話しぶりを聞けば、それが見間違いだとか、作り物であるとかは到底思えなかった。
疲れたように深く息を吸い込んだ岡部の話のあとを、船曳警部が引き継いだ。
「大阪府警の通信センターに岡部さんから電話が入ったのが、午後10時32分。殺しらしいということで、所轄の天王寺署と府警本部に相次いで連絡が入り、天王寺署から向かった警官がここに到着したのが、通信センターに連絡が入った12分後の午後10時44分。そして我々が着いたのが、それより6分遅れの10時50分ちょうどでした」
黒革の手帳を見ながら、船曳警部が詳細な時間を告げる。事件後僅か10分程度の間に警官が到着しているのだから、犯人が死体をどこかに運ぶ隙も、ましてや何事も無かったように現場を整える余裕も無かったはずだ。
「なるほど…」
胸の前で腕を組んだ火村が、頭の中で時間の経過を辿るように頷いた。
「警察が着くまでの間、岡部さんはどちらにいらっしゃいましたか?」
「ずっと自分の部屋のリビングにいました。もし犯人が私のことに気付いていたら…と思うと、恐ろしくて一歩も動けなかったんです」
膝の上で組んだ岡部の指が、微かに震えていた。もしこれが私だったら…と思うと、とても彼のような行動はできないに違いない。せいぜいが火村に泣きついて、彼が来るまで部屋の中に閉じ籠もりきり…、というとこだろう。たとえ推理小説などという血腥いものを書いてはいても、実際の私は呆れるほどに小心者で臆病なのだ。
「こちらに向かった時、部屋の鍵は掛かっていたということでしたが…」
火村が船曳警部に向き直った。いよいよ密室トリックだ…と思うと、不謹慎にも私の胸はドキドキと高鳴り始めた。
「ええ、そうです。私らが着いた時、所轄の連中がビルの前で何やら騒いでいたんです。現場にも向かわず一体なにをしているんや、と一喝したところ、部屋に鍵が掛かっていて入れない、と言うんです。それじゃあ、壊せばええんやないか、と怒鳴った時に、ちょうど部屋の持ち主である長谷川さんが帰ってらしたんですわ」
ソファに深く身体を預けた、痩せた長髪の男に向かって、一斉に六つの視線が集まった。それまで話の外にいた男は、少しだけ驚いたように息を飲んだ。to be continued
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