鳴海璃生
「どちらかにお出掛けになっていたんですか?」
火村の陰から、私は長谷川に訊いた。もう既に何度目かの質問なのかもしれない。在り来たりの素朴な疑問に苦笑して、長谷川は東京アクセントでゆっくりと応えた。
「仕事の関係で、先週から金沢の方に取材に行ってまして…」
「取材…?」
耳慣れた単語に、私は首を傾げた。後ろで緩く纏めた長髪といい、どこからどう見ても堅気のサラリーマンとは言い難い恰好の男は、どうやら私とご同業者のようらしい。
「ええ。旅行関係雑誌のフリーカメラマンをしています。今回は渓清社という雑誌社の依頼で、金沢・能登方面を一週間の予定で廻ってきました」
渓清社は、私にも馴染みの雑誌社だ。旅行関係の雑誌をメインに発行していて、私も取材旅行の折りなどには良く重宝させて貰っている。
「知っているのか?」
火村が私にそっと耳打ちした。それに頷き、私は言葉を継いだ。
「俺とは畑違いやから依頼を受けたことはないけど、取材旅行の時とかに、よぉ使わせて貰ってる。先月号の『旅の友』ゆう雑誌に載った雪原の写真がめっちゃ気に入ったんで、今度行ってみようか…と思うてたところや」
「その写真、私が撮ったんですよ」
「えっ、ほんまに?」
耳に飛び込んできた嬉しげな声に、私は反射的に声を上げてしまった。隣りで火村が小さく私の腕をこずく。---いかん。今はそんな話をしている時じゃなかった。
「あっ! それって、この間有栖川さんが見せてくれた、あの写真ですか?」
今度は背中の方から嬉しげな声が聞こえてきた。一瞬前の反省を忘れて、私は嬉々として声の主を振り返った。
「そうそう。森下さんもめっちゃ気に入っとった、あの写真や」
「詳しい場所が判らなくて、どこなんやろって二人で言うてたんですよね。その写真を撮った人にこんなとこで会えるやなんて、めっちゃラッキーやないですか」
「ほんまやね。どうしても判らんかったら、雑誌社に問い合わせるしかないて、言うてたとこやったんやから…」
すっかりくだけた様子の私達に、ステレオで咳払いの音が聞こえてきた。音のした方に慌てて視線を移す。船曳警部と火村が目を眇め、私達を睨みつけていた。
「森下」
咎めるような警部の声に、森下が申し訳なさそうにペコリと頭を下げる。
---あちゃ。森下さん、ごめん。
心の中で手を合わせた時、火村がゴツンと私の頭を拳で殴りつけた。力を入れたわけではなかったので、痛くも何ともなかったのだが、相変わらず手癖の悪い奴だ、と私は隣りに立つ男をじろりと睨みつけた。もっとも悪いのは間違いなく私だから、文句を言うこともできないのだが---。
「話が逸れてしまいましたが、続きをお願いします」
火村は、長谷川に向かって話の続きを促した。それに小さく頷き、長谷川はゆっくりと口を開いた。
「取材旅行から戻ってきた私は傘を持ってなかったんで、駅からここまで走ってきたんです。ずぶ濡れになってマンションの前に辿り着いたらパトカーは止まっているし、警官は山のようにいるしで、びっくりしました。もしかして近くで何か事件でも起こったのか、と思ったんですが、まさか自分の部屋で殺人事件が起こった…なんて騒ぎだとは、夢にも思いませんでしたよ。部屋に入る前に、そちらにいらっしゃる警部さんから話を聞いた時には、もしかして妻が殺されたのかと、本当に肝を冷やしました」
「奥さんがいらっしゃるんですか?」
「ええ。佳代子といいます。私が取材で家を空けるんで、これ幸いとばかりに、彼女も友人と一緒に信州の温泉に出掛けています。帰ってくるのは週明けの予定なんですが、もしかして早めに帰ってきて事件にでも巻き込まれたのか、と生きた心地もしませんでした。もっとも今は、そちらの岡部さんの見間違いと判って、ホッとしていますが…」
チラリ、と長谷川が岡部に視線を走らせた。何故か蔑むようなその眼差しの色に、私は妙に居心地の悪い、嫌なものを感じた。
「---違う」
膝の上で指を組み下を向いていた岡部が、ボソリと呟いた。それは掠れて疲れ切ったような極小さな声だったが、そこにいた全員の耳にはっきりと響いてきた。弾かれたように、私は岡部に視線を向けた。
「見間違いなんかじゃない。佳代子さんは、あんたに殺されたんだ」
ここに来る車の中で、火村が「目撃者は被害者と犯人の名を名指ししている」と言っていたことを思い出す。それを聞いた時も一体どういう事だ、と疑問に思っていたのだが、こうして目の前で岡部の様子を見ていると、改めて私の中でその思いが大きくなっていく。
まず第一に彼の口振りでは、まるで岡部と長谷川の妻の佳代子さんは知り合いか何かのようではないか。そして、岡部と長谷川が違いに牽制しあっているように見えるのは、単に私の思い過ごしだろうか。
殺人現場の目撃者である岡部と、殺人が行われたらしい部屋の持ち主である長谷川は、全く面識のない赤の他人というわけではないのだろうか。確かに二人は目と鼻の先ともいえるような場所に住んでいるのだから、決してあり得ないことではない。だがそれは果たして偶然なのか、それとも---。
「どうして、私が佳代子を殺さなければならないんです。言い掛かりもいいところだ」
「佳代子さんは、あんたと別れたがっていたんだ。そのせいで、あんたは佳代子さんを…」
「殺した、ですか」長谷川は、口許に皮肉気な笑みを刻んだ。「---馬鹿馬鹿しい。確かに私と佳代子の間には、小さな行き違いがあるました。だがそれは殺す殺さないなんて、そんな大袈裟な問題じゃありませんよ。それを言うなら、あなたの方こそ佳代子を殺す動機があるんじゃないですか。例えば佳代子に妙なちょっかいを出して、拒絶された腹いせとかね」
「冗談じゃない。佳代子さんはあんたと別れて、俺と一緒になるつもりだったんだ。なのに、何故俺が彼女を殺さなくちゃならないんだ」
際限なく続きそうな言い争いに嫌気がさして、私は火村の袖を緩く引いた。二人の様子をじっと見つめていた火村が、私へと視線を移した。問いかけるように、片眉を上げる。
「なぁ、火村。これって、どういうことなんやろ?」
言い争う二人に視線を走らせながら、こそこそと火村の耳に囁く。火村はうんざりしたように、肩を竦めた。
「今はやりの不倫てやつじゃねぇのか。もっともその女がどっちに本気だったのか、までは判らねぇがな」
素っ気ない口調に、私は小さく溜め息をついた。大学時代からそうだったが、相変わらず女性に対しては辛辣なぐらいに容赦のない奴だ。
---にしても…。
私はホッと息を吐き出した。事件に恋愛問題が絡んできたとなると、ますますもってお手上げ状態だ。情けない話だが、とんとお寒い女性関係を維持し続けている私にとって、恋愛問題ほど異次元で無縁な話題もない。
そういう点では隣りに立つ犯罪学者の先生も同じなのだが、火村の場合は、無縁というよりは無関心に近いものがある。奴がその気になったら、両手に余るほどの相手が名乗り出てくるだろうことは、口惜しいが認めざるをえない。
「せやったら、やっぱそういうトラブルで佳代子さんが殺されたんやろか」
「さぁな…。今の時点じゃ、何とも言えねぇな。だいたい死体も無いし、殺人現場の痕跡も無いんだぜ。これじゃ、手の打ちようもねぇじゃないか」
全くもってその通り。無難に考えれば、単なる岡部の見間違いであってほしい。
「船曳警部」
長谷川と岡部の間にたって二人を宥めていた警部が、丸い頭を火村へと向けた。ついさっきまで言い争いをしていた二人は、今はそれぞれにむっつりと黙り込んでいる。
「部屋に鍵が掛かっていたのは、間違いないんですか?」
火村が念を押す。船曳警部が、それに重々しく頷いた。
「間違いありません。私が長谷川さんから鍵を借りて、この手でドアを開けましたから」
「その時、部屋の中には誰もいなかったんですね」
「それも確かです。人がいないどころか、殺人があった痕跡すらありませんでした。鑑識の者があちこち調べて廻りましたが、不審なものは何一つ出てきませんでしたよ。もちろん部屋のどこからも、ルミノール反応は出ませんでした」
火村が<指で唇をゆっくりと撫でる。これは考え事をする時の彼の癖であり、またフィールドワークの現場では良く見掛ける仕種でもあった。
「電気はどうでした? 点いていましたか?」
「点いていました」
火村の質問を予想したように、船曳警部がはっきりとした応えを返す。その口調に、私は頭を捻った。
人のいないはずの部屋に、電気が点いていた。---どう考えても、それは普通じゃないんじゃないか。そしてそのことに、船曳警部ほどの人が何の疑問も抱かないはずはない。なのに何故船曳警部の口調からは、それが感じられないんだろう。
「人がいないのに、ですか?」
私が考えていたことを火村が口にする。それに、警部が苦笑を刻んだ。火村の疑問は、きっと警部の予想の範囲だったに違いない。
「そうです。それについては、長谷川さんの方からご説明下さい」
言って、長谷川に視線を移す。それに応えるように、長谷川は先刻までの激昂が嘘のような、落ち着いた口調で説明を始めた。
「電気が点いていたのは、私がタイマーをセットしていたせいです」
「タイマー、ですか?」
「ええ。写真を現像する時、そこのクローゼットを暗室代わりに使っているんですが、もしもの場合も考えて、リビングの明かりを消しているんです。その時つい夢中になって、何時間も部屋の電気を消しっぱなしにしていたことがありまして、何度か妻に文句を言われたことがあるんですよ。それで毎日午後10時にタイマーをセットして、その時間になるとリビングの電気とテレビが点くようにしてあったんです。もちろん取材旅行に行ったりして部屋を空ける時は、タイマーを切って出掛けるようにしていたんですが、今回パタパタと急いでいたもので忘れたんじゃないかと…」
---あれッ?
長谷川の言葉に、私は頭を捻った。長谷川が言う通りタイマーがセットしてあったのなら、この一週間、部屋の電気とテレビはずっと点きっぱなしだったことになる。だが、それはへんじゃないのか。確か岡部の証言では、10時前まではこの部屋の電気は点いていなかったはずだ。
「それ、へんやないですか? タイマーをつけてあったんなら、この一週間ずっと電気もテレビも点きっぱなしってことですよね。でも確か岡部さんは、最初この部屋の電気は消えていたって仰ってましたよね?」
「ああ、そのことですか…」照れたように長谷川が頭を掻いた。「午後10時に電気が点くようにタイマーをセットしてあるんですが、それから一時間後に消えるようにもセットしてあるんですよ。実はお恥ずかしい話ですが、有栖川さんが仰ったようなミスを一度やらかしまして、部屋を留守にしている間ずっと電気とテレビが点けっぱなしになっていたことがあったんですよ。それで、苦肉の策というか何というか…」
呆れたように、私は長谷川を見つめた。私も、偶にワープロやテレビを消し忘れて出掛けることがある。だがさすがに部屋を留守にしている間、ずっとそれらを点けっぱなしにしたことはない。私の上をいくドジな人間がいたのかと思うと、何だかちょっと嬉しい。
それにしても---。
タイマーをセットするというのは、結構いい案かもしれない。もっとも私の場合は点ける方はどうでもいいから、消し忘れた時の用心のために、切れる方だけセットすればいいんだが---。
---う〜ん…。マンションに帰ったら、ちょっとマジに考えてみることにしよう。
「あなたが部屋を留守にする時、奥さんは家にいらっしゃらないんですか?」
火村の声に、私は慌てて意識を戻した。どうも私の頭の中では、岡部の見間違いという図式が出来上がっているらしく、今ひとつ思考が散漫だ。
「それは、その時々によります。ですがだいたいは、そうですね…。妻も友人と出掛けていたみたいです」
「判りました」
火村はゆったりとした動作で頷き、船曳警部へと向き直った。
「できれば、岡部さんの部屋も見せて頂きたいのですが、差し支えありませんか」
「構いませんよ。それじゃあ、早速ご案内します。その間、お二人にはこちらで待っていて貰いますか?」
「いや。できれば一緒に来て頂けると、有り難いんですが---」
火村の言葉を受けて、船曳警部は長谷川と岡部にその旨を告げた。二人はこれといって異論を唱えることもなくゆっくりと立ち上がり、船曳警部に促されるままに私達のあとに続いた。to be continued
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