鳴海璃生
まず船曳警部と火村が先にたち、その後ろに岡部と森下が続く。その後ろ、最後尾に私と長谷川が続き、私達六人は揃って長谷川の部屋をあとにした。長谷川の隣りに並んで歩きながら、私はここぞとばかりに彼に話し掛けることにした。
さっきの電気を点けっぱなしにした話を聞いて以来、私は何となく彼に親近感を抱いていたのだ。だがそれを抜きにしても、先月号の『旅の友』の写真を撮ったのが長谷川だと聞いた時から、彼とは色々と話をしてみたい衝動に駆られていた。火村のフィールドワークに同行しているのに、何の関係もない話をするのも何となく気が引けるのだが、さりとて誘惑に逆う程の強さは、私にはない。
---火村、ごめん。
前を歩く友人の背に心の中で手を合わせて、私は素直に己の衝動に従うことにした。
「長谷川さんはフリーのカメラマンやそうやから、部屋にはもっと色んな写真が飾ってあるのか、と思っていたんです。でも、そうでもないんですね。先月号の『旅の友』に載っていた写真がめっちゃ気に入ったから、もつと他の写真も見たかったので、残念です」
「ありがとうございます」
私の言葉に気を良くしたらしい長谷川が、丁寧に頭を下げた。
「他の写真は資料とかと一緒に、別の場所に保管してあるんです。最初は部屋の中においていたんですが、さすがに数が増えすぎてしまい、妻に、このままじ自分達の居場所が無くなるって怒られたんですよ」
苦笑を零しながらの話は、何とも羨ましい限りだ。私の部屋も長谷川同様、資料や本で溢れかえっている。だがその保管のためだけに、敢えて別の場所に部屋を借りるほどの余裕はない。
「へぇ…、羨ましい話ですね。それ、ここから遠いんですか?」
「いえ、すぐそこのビルです。もし宜しかったら、今度お出でになりますか?」
「えっ! 宜しいんですか?」
「構いませんよ」
「せやったら、今度ぜひおじゃまさせて下さい」
「ご都合の宜しい時にでも、ご連絡下さい。私の方も暫くは取材の予定が入っていませんので、ずっと家にいますから…」
そう言いながら、長谷川は厚手のジャケットのポケットから取りだした名詞を私の手に渡した。いやぁ、やっぱり言ってみるもんだ、と妙に嬉しくなる。つい調子に乗った私の口は、空を飛ぶ風船のように、気ままで軽くなっていく。
「ありがとうございます。図々しさついでにもう一つお訊きしたいんですが、前月号の写真。あれの撮影場所はどこなんですか? あの写真を見て、撮影した場所に行ってみたいって思ったんですけど、場所が判らなくて困ってたんですよ。せやのに、こんなとこでその写真を撮った人に会えるやなんて、ほんまラッキーやわ」
「あれは、新潟の方なんです。---と言っても写真を撮ったのは去年の冬で、もし今年お出でになったとしても、あれと同じ景色はご覧になれないと思いますよ」
長谷川の言葉に、私は首を傾げた。
「それは開発の手が入った、とかいう意味ですか?」
「いえ。地元の方からご連絡を貰ったんですが、暖冬で今年は雪が無いそうなんですよ」
「あっ、なるほど…」
「今回行った金沢の方も、殆ど雪はありませんでしたからね。記事の内容が『雪を見ながらの温泉』というテーマでしたから、まいりましたよ」
そう言いながら、長谷川は苦笑いを零す。相手が自然では文句のつけようもないが、北国で温泉とくれば、やっぱり雪見で露天風呂が相場だろう。なのに肝心要の雪が無いだなんて、行った甲斐もない。
「仕事とはいえ、たいへんですよね」
しみじみとそう口にした時、下から上がってきたエレベーターのドアが開いた。私達は話を止め、四角い箱の中に身体を滑り込ませた。−5− 穏やかな振動と機械音が耳に響く。じんわりと身体を包む浮遊感に、私は眉を寄せた。文明の利器で、もしこれが無ければ、運動不足の私には大打撃である。とはいえ、この浮き上がるような浮遊感だけは、どうにも好きになれなかった。
扉の上の階数表示が変わり、やがてガタンとした振動と共にエレベーターが動きを止めた。ゆっくりと開いた扉の向こうには、まだ数人の制服警官がいた。ふと時計に視線を落とすと、時間は午前一時を回るところだった。いくら夜型の人間とはいえ、さすがにちょっと眠くなってきたかもしれない。
欠伸を堪え、私はエレベーターの外へと足を踏み出した。身体を脇に寄せ、奥にいた火村と船曳警部が出てくるのを待つ。一応助手という名目でついてきている手前、火村達に先立って歩くことには躊躇するものがあった。
ビルの玄関を出ると、霧雨のような細かい雨が降り続いていた。周りの温度もぐっと下がったような気がして、私は僅かに身を震わせた。一分、一秒でも早く暖かい場所に入りたくて、私は足早に車の影のない道路を渡ろうとした。その時、隣りにいた長谷川が向かい側のビルに視線を走らせるのに気付いた。気遣わしげな様子を不審に思い、私は小走りに走る足を止めた。
「長谷川さん、どうかしましたか?」
「いえ、何でもありません」
「あのビルに何かあるんですか?」
私は、長谷川が見つめていた辺りに視線を彷徨わせた。白い壁の、何の変哲もないビルが、視界を遮るように闇の中に溶け込んでいた。
「さっき話した、資料を置いてある部屋っていうのが、あのビルの五階なんですよ。前に一度その部屋の窓を開けっ放しにして、資料を濡らしたことがあるんです。それでついつい外に出た時には、窓を確認するのが癖になってしまって…」
照れた様子で苦笑する。その様子に、私はやっぱり親近感を覚えてしまった。毎度毎度口の悪い友人に、彼の前でやったドジの数々を笑われている私にしてみれば、長谷川の話はとてもじゃないが他人事とは思えなかった。
「あっ、それ良ぉ判ります。私も、前にやったことがあるんですよ。降り込んだ雨のせいで、リビングの絨毯はぐしょぐしょ---。ほんま、後片づけがたいへんでした」
今思い出しても、あの時は本当にとんでもなかった。おまけに、そういう間の悪いときに限って火村が隣りにいたりするものだから、さんざんバカにされた経験もグリコのおまけのようにくっついている。
もっともその時濡れた部屋の後始末をやってのけたのは、その火村自身だった。言い返したい言葉は山ほどあっても、目の前で後片づけをする火村を目の当たりにしては、罵詈雑言の数々も有り難く拝聴するしかない。口の悪さはさておいて、火村のあのまめなところだけは、賛嘆に価する。もし私一人で後始末をしたならば、軽く一週間は掛かったに違いない。いや、いいかげん面倒臭くなって、火村を呼び出すことは必至に違いない。
「でも、近くにあっていいですね。あそこやったら目の前やし、頻繁に行き来できるやないですか」
「近いのは確かに助かりますけど、それほど頻繁に行くわけでもないんです。そういえば、最後に行ったのはいつだっけかな…」
考え込むように長谷川は、胸の前で腕を組んだ。何にしても、私にしてみれば本当に羨ましい限りの話だ。
「今月の初め…、だったかな。とにかく取材で留守にしていることの方が多いもので、長い時は四ヶ月くらい足を踏み入れない場合もありますよ」
「でもそれやったら、資料とか痛んだりしないんですか?」
「あのビルの管理人さんに頼んで、一カ月に一度は風を入れてもらってますから、それは大丈夫です」
そんな埒もない話を交わしながら、私達は道路を挟んだ反対側のビルにある岡部の部屋に向かった。
長谷川の部屋と同じ五階に位置する岡部の部屋は、狭い道路を挟んで長谷川の部屋と向かい合う造りになっていた。が、ここに来たからといって、何があるわけでもない。例え岡部の言葉を信じたとしても、ここが殺人現場だとは到底思えなかった。
火村は窓際に寄り、外の様子を眺めている。その傍らに歩み寄り、私も火村に倣って外の様子を伺い見た。
闇の中、白く切り取ったように長谷川の部屋の窓がその存在を主張していた。多少雨で煙ってはいるものの、確かにここからなら部屋の中の様子も見えるかもしれない。
もちろん窓にはカーテンが掛かっているから、はっきりとした顔の判別がつくわけではない。例え見えたとしても、カーテンに写る影だけだ。だが見えるのが影だけだったとしても、中で何が起こっているか、程度のことは用意に想像がつくことだろう。ましてや、人が殺される様子など見間違えるはずもない。
---なら、一体死体はどこに行ったんやろ。
私には岡部が嘘をついているとは思えなかったし、簡単に見間違いと片付けるには、彼の話は余りにもリアリティがありすぎた。だがそうはいっても、彼の主張する殺人が起こった部屋に死体が無かったのも、また確かな事実だ。そしてその部屋が密室状態だったことも、動かしようのない現実だった。これに関しては、船曳警部を始め、大阪府警の面々が証人なのだから疑う余地もない。
話を聞けば聞くほど訳の判らない事件に、私の頭はぐちゃぐちゃのめちゃめちゃだ。まるで絡んだ糸を解きほぐすように、あるいは迷路の中で佇むように、既に半分以上の脳細胞が、これ以上考えることを放棄し始めている。
死体のない殺人現場。そして、密室。---と、推理作家の気を惹く要因は十二分に揃っている。だがここまで完璧に揃うと、逆に嫌味にさえ思えてくるから始末が悪い。
「なぁ、火村。これからどうする?」
傍らに立つ男の袖を、私はそっと引いた。窓の外に意識を向けていた火村は私へと視線を移し、小さく肩を竦めてみせた。
「どうしようもねぇな。取り敢えず死体でも見つからないことには、動きようがない」
「やっぱり岡部さんの見間違いかな?」
「ノーコメント」
火村は結論が纏まらない時点では、決して軽々しいことは口にしない。それを嫌と言うほど良く知っている私は、それ以上の追求を諦めた。
「せやったら、どうする---」
言葉を続けようとした私は、盛大なくしゃみを部屋中に響かせた。風呂上がりの身体で寒い場所をうろうろしていたから、湯冷めをしてしまったのかもしれない。今現在は暖房が効いた場所にいるというのに、何となく身体がゾクゾクと震え、私は緩く眉を寄せた。
まずい。このままでいると風邪をひいてしまい、せっかくの正月が寝正月---なんて、情けない羽目に陥りかねない。
もう一度盛大なくしゃみを響かせ鼻を啜った私の髪を、くしゃりと火村の手が掻き回した。
「取り敢えず、今日は帰るぞ。このままだと、お前が風邪ひいちまうからな」
「大丈夫や。こんなん何でもあらへん」
火村の手を乱暴に払いのけ、私は強がりを口にした。実際のところ火村の言葉は有り難かったのだが、素直にそうと認めることを負けず嫌いな性格がじゃまをした。
「バカ。お前が風邪ひいちまったら、看病するのは俺なんだからな。せっかくの冬休みだってのに、冗談じゃないぜ。それに---」
言葉を区切った火村が、口許に質の良くない笑みを刻む。僅かに首を傾げ、耳元に口唇を寄せる。
「楽しくないだろうが、それじゃ…」
低い声で囁きながらニヤリと笑った火村の顔に、私は続く言葉を口にすることができなかった。船曳警部や森下さんがいる所で、この男は何てことを口にするんだ。
咄嗟に、私は辺りの様子を見回した。火村の言葉はどうやら私以外には届かなかったらしく、森下に何事が指示を与えている警部の姿に、ホッと安堵の息をつく。
「どアホ」
「---船曳警部」
小声で怒鳴った私を無視して、火村が船曳警部に声を掛ける。その声に、警部は丸いおなかを揺らしながら私達の方へと歩み寄ってきた。
「どうかしましたか?」
「夜も更けてきましたし、今日はこれで失礼させて頂きます。明日また府警の方におじゃましますので、詳しい鑑識の結果は、その折りにでもお聞かせ下さい」
火村の言葉に、警部は腕時計へと視線を走らせた。時間は、既に午前一時を三十分ほど廻っていた。
「そうですね。我々も、そろそろ引き上げます。殺人事件が本当やというんでしたら、取り敢えず死体を見つけることが先決ですからね」
「それじゃ申し訳ありませんが、これで。---おい、アリス。帰るぞ」
名を呼ばれ、私は慌てて火村の方へと走っていった。途中、長谷川のそばを通り過ぎる時に、彼に向かって小さく頭を下げる。無駄足を運んだ、とは思いたくない。できればこの事件が殺人事件でも何でもなく、単なる見間違いであってほしい、と私は心の中で強く願った。to be continued
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