Because of Love
  第二章 明日の最終回を待つんだな <1>

鳴海璃生 




−1−

 味原本町をあとにした私達が夕陽丘にある私のマンションに帰り着いたのは、午前二時に近い時間だった。さすがにこの時間ともなると、街は死んだように寝静まり、谷町筋を走る車の影も私達以外には見当たらなかった。フロントガラスに広がる墨を流したような黒い闇が、より一層外気温を低く感じさせる。
 マンションの地下駐車場に車を滑り込ませ、火村はゆっくりとエンジンを止めた。ドアを開け外に出た私は、シンとした駐車場の冷えた空気にブルリと身を震わせた。青白い駐車場の明かりが、その場をより寒々しいものにしている。
 打ち出しのコンクリートに靴音を響かせ、エレベーターへと駐車場を横切る。壁のボタンを押すと、三階に止まっていたエレベーターがゆっくりと下へと下りてきた。
 白い光が溢れた四角い箱の中に入り、私はホッと息をついた。この中の空気もひんやりと冷えてはいたが、駐車場の寒々しさに比べれば、まだ幾分か暖かく感じられた。
 扉の横の壁へと手を伸ばし、『7』と数字の書かれた丸いボタンを押す。ゆっくりと扉が閉まり、微かなモーター音を響かせてエレベーターは上昇を開始した。
「アリス。部屋に戻ったら、すぐ風呂入れよ」
 隣りに立つ火村が火のついてないキャメルを唇の端にくわえたまま、ぶっきらぼうにそう言った。その声に、私は先刻さんざんな目にあわせてくれた助教授をジロリと睨みつけた。
「まさか、また一緒に入るなんて言うんやないやろな」
 疑わしげな私の声音に、火村は小さく苦笑を零す。
「言わねぇよ。ま、アリスが俺とどうしても一緒に入りたいって言うんなら、考えないでもないがな」
「んなこと、絶対言わんわッ!」
 深夜の時間帯をおもんばかり、私は僅かに声を上げる。ニコチン切れの助教授は、火のついていない煙草を口にくわえたまま小さく肩を竦めた。


−2−

「まいった。ほんま、寒かったわ」
 ドアの鍵を開け部屋に飛び込むなり、私はコートも脱がず、一直線にリビングへと飛び込んだ。出がけにエアコンを消した部屋はすっかり冷え切り、外と余り大差ないように思えた。
 壁のスイッチに手を伸ばし、明かりをつける。白い光の満ちたリビングの中をきょろきょろと一瞥し、私はエアコンのリモコンを探した。
 テーブルの上、出掛ける直前まで火村が呑んでいたビールの缶の横にお目当ての物を見つけ、私は急いでそれを手に取り、スイッチをオンにした。一、二分の間低い唸りを上げていたエアコンから、やがて暖かい空気が吹き出してきた。
 その真下に陣取り、ホッと息をつく。寒さに強ばっていたような身体が、暖かい温風にゆっくりと溶けていくような錯覚に陥る。だが温風が直接身体に掛かるというよりは、ぬくぬくとした空気に包まれるという感覚に、私は未だにコートを羽織ったままだったことを思い出した。苦笑いを零しながらコートを脱ぎ、それをソファのに上に放り投げる。
 ---風呂なんかに入らんで、このまま寝たら気持ちええかもしれん。
 ほんわりと身体が暖まってくると、意識が霞むように睡魔が襲ってきた。同時に、とろんと目蓋がくっつきそうになる。このままここで眠ってしまいそうになり、私はプルプルと頭を左右に振った。
「おい、アリス」
 玄関へと続くドアから顔を覗かせた火村が、私の名を呼んだ。
「なんや…」
 三分の一程度は眠りの国に足を突っ込み、私はぼんやりとした口調で返事を返した。その様子に眉を寄せ、火村は真っ直ぐに私の方へと歩み寄ってきた。
「寝るなよ、アリス」
 言うなり、ペシリと私の頭を叩く。心地よく微睡みかけていた意識が、一気に現実へと引き戻された。
「何すんねん」
 ひっぱたかれた場所を撫でさすりながら、私は恨みがましげに火村を見つめた。そんな私に向かって、火村は盛大にキャメルの煙を吹きかけた。突然のことにゲホゲホとむせながら、私は火村を睨め付けた。
「お湯を入れてやったから、さっさと風呂に入れ」
 いつまで経ってもリビングに姿を見せないと思っていたら、風呂にお湯を入れていたのか。相変わらず妙なところでまめな奴だ、と私は呆れたように嘆息した。
「エアコンで暖まったから、風呂はええわ。それより、もう眠いから寝…」
 言い終わらぬ内にがしりと首根っこを押さえられ、私は火村に引きずられるようにしてバスルームへと連れて行かれた。突き飛ばされるように乱暴な仕種で、脱衣所へと放り込まれる。
「ちゃんと暖まって、それから寝ろ。いいなッ」
 鼻先に指を突きつけ怒鳴るようにそれだけ言うと、火村はバタンと乱暴にバスルームの扉を閉めた。一瞬呆気にとられたように、私は呆然と目の前の扉を見つめた。
 が、すぐに我に返り、ノブを両手で掴むと思い切り力を込めてドアを押した。なのに、まるで重石でも置いたかのようにドアはピクリとも動かなかった。
 ---あんの野郎、向こうで押さえとるな。
 小さく舌を鳴らし、私はドンドンと拳でドアを叩いた。
「火村のアホ。ここ、開けんかい」
「るせぇな。ちゃんと風呂入って、身体を暖めたら開けてやるよ」
「もう暖まったから、ええ言うてるやろ」
「お前の暖まったは、信用できねぇんだよ。それでもし、てめぇが風邪なんてひいてみろ。迷惑するのは、俺なんだからな」
 何か完璧にその辺のお子供様扱いされているようで、無償に腹が立つ。だいたいガキじゃあるまいし、そんな簡単に風邪なんてひいてたまるかい。それにもし---もしも、だが---風邪をひいたとしても、火村に迷惑を掛けたりは金輪際---。
 ---やったな、確か…。
 黙り込んだ私の耳に、火村の低い笑い声が聞こえてきた。
「アリ〜ス。何だったら、もう一度湯当たりでもおこしてみるか。別に、俺はどっちでも構わねぇんだぜ」
 含み笑いで綴られた言葉に、私は反射的にドアから身を引いた。火村が言う湯当たりをするってのは、要するに---。
 ---ゲーッ、冗談やない!
 二度と思い出したくもない場面が脳裏に浮かび、私は慌てて頭を振った。あんなとんでもない目にあうのは、一日に一度でも多すぎる。
「アリス、どうする?」
「は、入るッ! 俺、めっちゃ風呂に入りとうなったわ」
 咄嗟にドア越しに怒鳴り返した。
「いい子だ。---いいか、きちんと暖まるまで絶対に出てくるんじゃねぇぞ。いい加減なとこで出てきやがったら、もう一度風呂に叩き込むからな」
 念を押すようにそう言って、火村はリビングへと踵を返した。火村の足音が、ゆっくりと遠離っていく。ドアに張り付くようにして外の様子を窺っていた私は、ドアの前から立ち去る火村の気配にホッと安堵の息をついた。
 何せ冗談でも何でもなく、「やる」と言ったら火村の奴は本当にやるから始末が悪い。これでもしいつまでも意地を張っていたら、火村にマジでまた湯当たりさせられるだろう。またいい加減なとこでお茶を濁そうとしたら、本当に湯船に叩き込まれるに違いない。
 十年以上に及ぶ火村との付き合いの中から、さすがの私もこういう場合の引くべきタイミングは十二分に学んでいた。これを見誤ると、その後ふかぁーく後悔することになるのは実地でもって、イヤになるぐらい経験している。
「あ〜あ…。しょーがあらへんなぁ…」
 ぶつぶつと文句を唱えながら、私はセーターを脱いだ。もちろん私だとて火村が私のことを心配してくれている---ただし、どこまでマジかは疑う余地がおおいに有り、だ---のは、良く判っている。だが頭で判っていることと、それに素直に従うということは、それはそれ、あれはあれの別問題だ。
 甘やかされ、大事にされることにくすぐったいような心地よさを感じるけれど、たった一人の特別な相手に対して我が儘を言うのは、それ以上に心地よかった。結局のところ、何だかんだと言いつつも、火村に甘えている自分をイヤになるぐらい自覚する。
「まっ、ええか…」
 シャツのボタンを二つ外したところで、着替えがないことに気付いた。風呂に入った後にもう一度同じ服を着ても構わないのだが、せっかく暖まったのなら、パジャマに着替えてぬくぬくのまま蒲団に飛び込みたい。
 ---う〜ん…。どうしようかな。
 寝室までパジャマを取りに行こうかどうしようか…、と悩む。こんこといちいち考える必要もないのだが、バスルームから出たら、また火村に何か言われそうな気がして、ちょっとだけ躊躇する。皮肉を言われるだけならまだしも、有言実行でもって言葉より先に行動に移されたらと思うと、バスルームから一歩も出たくない気さえする。
「さぁて、どうしよっかな…」
 独り言を口にしながら、私は宙を見上げた。白い天井に、浴室のドアの隙間から入ってきた湯気が、ふわりふわりと幾何学的な模様を描いていた。
「暖まるまで出てくるなって言うたんは、火村やからな」
 自分自身にそう納得させて、火村を遠慮なく使うことにした。私を風呂に放り込んで、火村自身はきっと不足したニコチンとカフェインの補給をしているに違いない。だったらパジャマを持ってこさせるぐらいのことをさせても、決して罰は当たるまい。
 音をたてないようにそっとバスルームのドアを開け、私はこっそりと顔だけを外に出した。もしかしたらその辺りに火村がいるんじゃないかと、ちょっとヒヤヒヤものだったのだが、幸いにもバスルームの近くに火村の姿は見えなかった。
 首を伸ばした亀のように、向かい側のリビングの奥を覗き見る。視界の明けないことこのうえないが、半開きになったリビングのドアから、何とか中の様子を窺い知ることができた。
 目を凝らすと、リビングの突き当たり、ベランダへと続くガラス窓に、火村の姿が映っているのが見えた。ちょうど私の位置からは死角に入っているのか、ここから火村本人の姿を確認することはできない。だが、そう広くもない部屋だ。ガラスに映っているのであれば、リビングにいるのは間違いない。
「火村ぁ。パジャマ持ってきてぇな」
 ガラスの中の火村に向かって声を上げ、私はバスルームのドアを閉めた。
 ---パジャマの準備は、これでOK。
 あとはぬくぬくお湯に浸かって、風呂から上がったらキューと冷えたビールを呑んで、即ベッドに飛び込むだけだ。火村に強引に「風呂に入れ」と言われた時はむっときたが、よくよく考えてみれば、これはこれで結構天国かもしれない。
 鼻歌まじりにお湯に浸かる。体温より少しだけぬるめのお湯でゆっくりと冷えた身体を暖めながら、私は喉を滑り落ちるビールの感触を想像して、ご機嫌な気分だった。何せ春夏秋冬を問わず、風呂上がりに呑むビールほど美味いものはない、と常日頃から思っているのだ。
 ブクブクと鼻先までお湯に浸かりながら、自分で呆れるぐらい単純だな…、と思いつつも、こんな幸福をプレゼントしてくれた火村にちょっとだけ感謝した。


to be continued




NovelsContents