鳴海璃生
−3− 温泉の素を放り込んだ、グリーンのお湯に浸かること三十分。
ほどよく身体も暖まり、とろとろと睡魔が襲ってきた。締め切りに追われている時などは、眠気を吹っ飛ばすために私は好んで熱いお湯に浸かる。だがこういうのんびりとした時には、やはりぬるめのお湯に浸かるに限る。
のんびりゆったりとした気分で温泉気分のお湯を楽しみ、気怠いようなふわふわとした微睡みに浸る。欠伸を噛み殺し、さらりと膚を滑る水滴をまとわりつかせながら、私は浴室をあとにした。身体の中がほこほこと暖かくて、妙に幸せな気分になってくる。これで即ベッドに飛び込んだら、何だかとてつもなくいい夢が見られそうな気がする。
---あ、その前にビール‥やけど…。ビール…は、もうええか。
きりりと冷えたビールの誘惑は捨てがたい。だがそれより何より、睡魔が「おいで…おいで…」と手招きする誘惑の方が断然強くて魅力的だった。
「パージャマ、パジャマ」
歌うように繰り返す。が、脱衣籠の中のこんもりと盛り上がった服のどこにも、パジャマらしきものは見あたらない。
「あれ?」
下着、チェックのシャツ、ジーンズ、セーター、靴下---と、脱いだ順番にひっくり返してみる。だがそのどこにも、私のパジャマは紛れ込んでいない。
「火村のアホ。何でパジャマ持ってきてくれへんねん」
仕方なくシャツとジーンズを身に着け、濡れた髪をガシガシと乱暴に拭いながらリビングへと入る。途端、私は大声で腹に溜め込んだ文句を口にした。しかしそれに対する返事は、一向に返ってこない。
---へんやなぁ。いつもの火村だったら、必ずなんか言い返してくるはずなのに…。
火村の口から飛び出す罵詈雑言や皮肉よりも、こういう沈黙の方が却って不気味だった。
視線を上げ、頭に被せたタオルの間からリビングの様子を一瞥する。あまり広いともいえない空間をぐるりと見回してみても、そこに火村の姿は無かった。人気のない、どこか閑散とした空間に、エアコンの音だけが響く。
「あれ? あいつどこ行ったんや」
火村の姿がリビングに見当たらないことに、首を傾げる。その時、思わぬ方向から火村のバリトンの声が耳に飛び込んできた。
「るせぇな。何一人で喚いてんだよ」
ドキリ、と心臓が喉元まで迫り上がったような気がして、私は大きく息を吸い込んだ。深呼吸をするようにホウッと大きく息を吐き、ゆっくりと声のした方へと頭を巡らす。---書斎にしている隣りの部屋から顔を覗かせた火村が、呆れたように私の方を見つめていた。
「何や、びっくりするやないか…」
ドキドキと弾む心臓を宥めながら、私は火村を睨みつけた。
「びっくりしたのは、こっちだぜ。漸く風呂から上がってきたかと思ったら、一人で喚いてんだからな。また湯当たりでもやって頭惚けてんのか、と思ったぜ」
随分な言い種に、私は頬を膨らませた。確かに湯当たりはやったが、頭が惚けた覚えはない。それに元はと言えば、私がバスルームから頼んだのにパジャマを持ってきてくれなくて、それでもっていつの間にか、ちゃっかり書斎の方に移動していた火村が悪いんじゃないか。
「なに言うてんねん。だいたい頼んだのに、パジャマ持ってきてくれんかった、君が悪いんやないか」
「いつ頼んだよ?」
「さっき、風呂に入る前や。君がリビングにおるんが見えたから、俺、バスルームからパジャマ持ってきてって、怒鳴ったやないか。なのに火村、持ってきてくれないんやもん。酷すぎるわ」
ぶつぶつと呟く私の言葉を憮然とした表情で聴いていた火村が、若白髪の混じった髪をポリポリと掻いた。
「アリ〜ス。お前、風呂ん中で寝てたんじゃねぇか?」
「寝てへんわッ」
「だったら、やっぱり湯当たりで惚けてんじゃねぇか? お前を風呂に放り込んでから、俺はずっとこっちにいたぜ」
「へっ?」
飽きれたような火村の声に、私は思わず惚けた返事を返してしまった。
---火村はずっと書斎にいた…?
それこそ、んなアホな、だ。だったらさっき私が見たのは、一体誰だっていうんだ。胸を張って若いとは言えないが、齢まだ三十三歳。ボケがくるような年齢じゃない。
---もしかして、こいつ…。また俺のこと騙そうとしてるな。
フフン、と私は鼻で笑ってみせた。いくら私だって、毎回毎回同じような手に引っ掛かるもんかい。
「騙そ思うても、そうはいかんからな。俺はこの目でしーっかり、リビングの窓ガラスに映った君の姿を見たんやからな。君が書斎にいたって言い張るんなら、さっきのあれは一体誰や云うねん? もしかしてドッペルゲンガーを出す特技とか、分身の術でも身に着けたって言うつもりなんかい」
「残念ながら、んな特技は持ち合わせてねぇよ。だいたい窓ガラスに映ってるからって俺がそこにいるって思うのは、幾らなんでもあまりに単純すぎるぜ、アリス。見る角度によっちゃ、書斎にいる俺がリビングのガラスに映るかもしれないし、もしかしたら何かに反射して、それがガラスに映ってただけかもしれねぇじゃ---」
鼻で笑いながら論理的口八丁を実践していた火村が、唐突に言葉を切った。目を眇め、人差し指でゆっくりと唇をなぞり始める。
「---火村…?」
応えはない。
「そうか…。その手があったか。---いや、駄目だな」
ぶつぶつと口の中で呟く火村に、私は小さく肩を竦めた。どうやら臨床犯罪学者様は、先刻の事件について天の啓示を受けたらしい。
そしてこういう風に一端火村が事件の推理を始めたら、彼の周りにいる人間は彼の意識からきれいさっぱり除外されてしまう。何を訊いても応えてはくれないし、例え彼の言葉に疑問を抱いたとしても、それに対しての返事を期待するだけ無駄ってもんだ。火村が一体なにに思い当たったのかはめちゃくちゃ興味があるが、火村の意識がこちらに向くのをこのままぼんやり待っているのも莫迦らしい。
「しゃーない。もう寝よ」
取り敢えず明日の朝になれば火村もまともになっているだろう…と高を括り、私は火村先生を残して、さっさと先に休むことにした。せっかくお風呂でホッカホカに暖まってきたのだ。こんなとこにボケらっと突っ立って、臨床犯罪学者の火村先生が人間に還るのを待つよりは、ヌクヌクの蒲団に入った方がずっといいに決まっている。
---そう…。火村先生はこのまま推理を続け、俺は楽しい夢の中。
そして気持ちよく目覚めれば、解決編が待っている。う〜ん…、世の中やっぱり上手く回っているもんだ。
書斎のドアに身体を預け考え込む火村の前をテコテコと通り抜け、私はリビングから出て暖かい布団の待つベッドへと向かった。パジャマに着替え、蒲団に滑り込もうとした時、寝室へ入ってきた火村の低い独白が耳朶に触れた。
「チッ、もう一つ部屋があれば完璧なのにな…」
行き詰まってしまったらしい助教授殿は、くしゃくしゃと乱暴に髪を掻き回した。その様子を見つめながら、私は長谷川の言葉を思い出した。
「部屋やったらあるんやないか?」
何気ない私の言葉に、火村がまるで電流にでも触れたかのように、大袈裟な動きで顔を上げた。真っ正面からじろりと見つめられ、ベッドの端に腰を下ろした私は僅かに身を引いた。
「アリス。今、何て言った?」
「君が、もう一つ部屋があればって言うから、部屋やったらあるやないかって言うたんや」
大股に寝室を横切って真っ直ぐにベッドへと歩み寄ってきた火村は、どさりと乱暴に私の隣りに腰を下ろした。火村の重みで、ギシリとベッドのスプリングが軋んだ。
「どういうことだ? 詳しく話せ」
真剣な瞳で間近に見つめられ、鼓動が微かに高くなる。---私自身はたいした事を言ったつもりもないのだが、火村の真剣な様子を見ていると、もしかして何かとんでもない事を言ってしまったのだろうか、と妙に不安になってくる。
こんな時、小心者の自分を嫌でも自覚してしまう。傷つくことを恐れる私は一瞬の躊躇のあと、チラリチラリと火村の反応を伺いながら、ゆっくりと口を開いた。
「だから、長谷川さんのマンションの向かい側のビルに、資料とか写真を保管するために長谷川さんが借りている部屋があるやないか」
「向かいのビル…」
「そうや」
口の中で小さく呟かれた言葉に、私ははっきりと頷いた。
「何階か判るか?」
「判るで。えっと、確か---」
私は、長谷川が指差したビルの窓を脳裏に描いた。
「---五階や」
「五階…? 間違いないんだろうな、それは」
「あらへん。せやって、長谷川さん本人から聞いたんやもん」
そう言った途端、ガツンと思いっきり頭を殴られた。
「何すんねんッ!」
「馬鹿アリス。情報は、些細なことまで全て伝達しろって言っただろうが…。もう忘れちまったのか、お前は?」
そう言えば、前に友人の推理作家が殺された事件を解決して貰った時に、確かそんな風な事を言われた---ような気もする。
「その程度のことも覚えてられねぇようじゃ、この頭は一体なんのためについてんだよ」
拳でグリグリと頭をこずかれた。その手を払いのけながら、私は隣りに座った皮肉屋の、そして男前の顔を睨みつけた。
「せやって単なる世間話みたいなもんやし…。そんなんが事件に関係あるやなんて、ぜんぜん思わんかったんやもん」
「そう思うか?」
ニヤリと不気味に笑われて、私は言葉に詰まってしまった。---思うか、と問われれば、実際の処そう思っていたりするのだ。
しかし、何となくそれを口にするのは憚られた。素直にそうと言えば、間違いなく火村の皮肉の餌食になりそうな予感がひしひしと感じられたのだ。大学時代からの体験で、どうも今ひとつ、こういう場合の火村に対する信用度は低い。
「おい、アリス。他に言い忘れている事はねぇだろうな」
詰まったように返事を返せない私を横目に見つめ、鬱陶しげに額に掛かる前髪を掻き上げながら、火村が低い声で訊いた。ベッドの上で胡座をかき、腕組みをして、私はその折りの長谷川との会話を必死で思い出した。
---他に、他に…。
呪文のように頭の中で繰り返す。次から次へと話の内容は浮かんでくるのだが、そのどれもが私には直接事件と関わり合いのないものに思えた。
---どれもこれも、単なる世間話なんやけどなぁ。
だが私にとっては世間話程度でも、火村先生にとっては事件を解くための重要な鍵が、その中に隠されているのかもしれない。
火村だけが気付いて、私には判らない鍵---。
そう思うと、何だかめちゃくちゃ口惜しい。しかし、もしここで些細な情報の伝達を怠って、あとでまた皮肉を言われたり、ひっぱたかれたりするのは御免被りたい。ビデオテープを回すように頭の中でその場面を思い出し、私は話の内容を逐一報告することにした。to be continued
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