鳴海璃生
「借りてるっていうても、長谷川さん自身は、あんまりそこには行ってへんらしい。最後にその部屋に行ったのは、確か今月の初めやて言うてた。えっと、それから…」
なに話したっけ?
記憶というビデオをゆっくりと回し、私は長谷川と話した場面を脳裏に描く。
「あっ、そやそや。閉めっぱなしやったら資料とかが傷むんやないかって、俺、訊いたんや。そしたら、あのビルの管理人さんに頼んで、一月に一度は風を入れて貰ってるって説明してくれたわ」
「一月に一度、ね。」
低く呟き、人差し指で唇をなぞりながら、火村はじっと宙の一点を凝視した。私はといえば、火村が一体なにを思いついたのかが、気になって気になって仕方がない。思わず火村の首根っこを捕まえて、がんがん揺さぶって、考えていることの全てを吐かせてやりたい気分だ。
「なぁ、火む---」
「一月に一度ってことは、日にちが決まってるのか?」
遠慮がちな私の声に重なるように、唐突に火村がそう訊いてきた。いや、もしかしたら単なる独り言なのかもしれない。
---ああ…、何てバッチグーなタイミングなんや。
出鼻を挫かれた私は、諦めたようにほっと息をついた。
「そこまでは聴いてへん」
「そうか…」
私の言葉に軽く相槌をうって、火村は勢い良く立ち上がった。真っ直ぐに前を見つめたまま、大股にドアへと向かう。私は呆気にとられたように、その様子を見つめていた。
「---おい、火村」
廊下へ出ようとした火村の背に、慌てて声を掛ける。振り向きもせず、火村はドア口で足を止めた。
「どこ行くんや?」
「船曳警部に電話かけに行くんだよ」
「船曳警部に電話ぁ?」
火村の言葉を確認するように繰り返し、私は呆れたようにあんぐりと口を開けてしまった。「電話をかけに…」と火村は軽く言うが、こいつ今が一体何時なのか判っているのか。
だいたい夜昼逆転しまくっている私達のような自由業---火村は違うが、まぁ似たようなもんだ---ならいざ知らず、船曳警部は極々一般的な生活---いや、それもちょっと違うかもしれないが、まぁ私達に比べればってとこだ---を営んでいる人間なんだぞ。それなのに、こんな時間に電話を掛ける---。
親切な私は、常識とマナーのぶっ切れた助教授に有り難い忠告を与えてやることにした。
「火村、一体今何時やと思うてんのや。こんな時間に電話なんてかけたら、普通は大迷惑の大顰蹙やで」
「明日じゃ遅すぎるんだよ。それに---」
火村は、未だに付けっぱなしだった腕時計に視線を落とした。
「午前三時前、か…。ちょうどいいな。船曳警部達も、そろそろ府警に戻ってる頃だろう」
「戻ってたとしても、仮眠室あたりで寝てるんやないか?」
「---大丈夫だろ」
その根拠のない自信は、一体どこから来るんだ。
踵を返そうとした火村に、私は再度声をかけた。面倒臭げに肩を竦め、火村が足を止める。ゆっくりと振り向き、腕を胸の前で組んで壁に寄りかかった。
「まだ何かあんのかよ?」
「電話やったら、ここでかければいいやないか。何もリビングまで行く必要はないやろ」
「電話をかける」という火村を止めるのが無理だ、と悟った私は、せめてここで電話をかけさせて話の一端を漏れ聞こうと目論だ。何せパンパンに膨れあがった私の好奇心は、既に爆発寸前なのだ。
「ここで電話…?」
「そや。リビングに行くやなんて、そんな意地悪せんでもええやないか。ここやったら、俺も話の内容聴けるし…」
「アリ〜ス」
口許に呆れたような苦笑を刻み、火村は白髪の混じったぼさぼさの髪をポリポリと掻いた。
「誰が意地悪してるって」
「君や。わざわざリビングに行って電話をかけるやなんて、意地悪以外の何物でもないわ。君、俺に話しを聴かせんようにしとるやろ」
ベッドから転げ落ちんばかりに身を乗り出して、抗議の声を上げる。それを火村は溜め息でもって、軽く一蹴した。
「おい、アリス。この部屋の一体どこに電話があるってんだよ」
「何、わけの判らんこと言うてんのや。いつもそこに子機を…」
憮然とそう言いながら、私はいつも子機を置く床へと視線を移した。だがいつもそこにあるはずの電話機の子機が、何故か今日は見当たらない。
「あ、あれ…」
慌てて辺りへと視線を彷徨わせる。しかし煌々と明かりに照らされたこの部屋の中のどこにも、コスモブラックの電話の子機は見当たらない。見落とすほど小さな物じゃないのに---。
「ああっ、しまったーっ!」
不意に私の口から、悲鳴のような大声が漏れた。先日、漸く締め切りを終えた私は、貴重な睡眠時間をじゃまされないようにと、書斎に子機を置きっぱなしにしていたのだ。
「---というわけだ。漸く理解したか。…にしても、随分な言い掛かりをつけてくれたじゃねぇか、お前。あとで覚悟しとけよ」
頭を抱え込んだ私の耳に、低い火村の声が飛び込んでくる。
---ゲゲッ、まずった。
罰の悪さと不味いことを口走ってしまったという後悔の念が、光速の早さで身体中を駆け巡る。だが敢えてそれを頭の中から振り払い、私はドアから出ていこうとした火村の背中に意を決して声を掛けた。
「ちょお待て、火村」
やれやれと言うように息を吐き、火村は頭だけを私の方へと巡らせた。
「まだ何かあるのかよ」
うんざりしたような口調と態度に負けじと、私は強がりにも似た視線を走らせる。
ちくしょう。こうなったら、もう自棄だ。絶対絶対、火村の口から話を聴くまで諦めるもんか。
「船曳警部に電話する前に、俺に話せッ!」
起きてるか寝てるか判らない船曳警部より、私を優先させろっていうんだ。さっきから思わせぶりに断片だけを披露してくれるから、私は完全に欲求不満の生殺し状態だ。
じろりと睨みつける私に動じる様子もなく、火村は口許を歪めて意地の悪い笑みをはいた。
「さぁ、どうすっかな。何せ俺は、意地が悪いからな」
この野郎!
胸の中で拳を握りしめながらもそれを口に出さず、私は口許に態とらしいくらいの愛想笑いを張り付けた。
「ややなぁ。そんなん、冗談に決まってるやん。俺がマジで、火村のことを意地悪やなんて思うわけないやろ。そんなん気にするなんて、ぜんぜん火村らしゅうないで。…で、何が判ったんや? チラッとでええから、船曳警部より先に大親友の俺に話して」
ヘヘッとお愛想笑いを繰り返す私に、火村が胡乱な眼差しを注ぐ。が、すぐにニヤリと質の悪い笑みで口許を歪めた。
「何だ。推理作家の有栖川有栖センセは、まだ判んねぇのかよ」
「ぜっんぜん判らへん。せやから、話して下さい」
飽くまで低姿勢を崩さず、私は「おいでおいで」と手招きする代わりに、ポンポンと傍らの掛け布団を叩いた。
「却下、だな。せっかく推理作家のアリス先生向きの事件なんだから、自分で考えてみろよ。それに---」
火村が人差し指で、トントンと頭をつつく。
「頭は生きてる内に使うもんだぜ」
何だ、それは…? もしかして私が日頃頭をつかってない、とでも言いたいのか、こいつは。
そりゃぁ、大学の助教授であらせられる火村先生よりは、頭の使用頻度も低いのかもしれない。だがそれでも一応は、人並みよりちょっと上ぐらい程度には使っているんだ。
一瞬、抗議するように頬を膨らませ、私は慌てて頭を振った。己の欲求を達成するために、ここは謙虚にいこう。このアホんだらをどついてやるのは、後でもできる。
「それじゃあ、もし考えたって判らへんかったら、どないするんや?」
自分で言ってて、情けない。だがここは涙を飲んで、低姿勢や。
火村が当たり前のように気付いたことに私が気付かないというのは、めちゃくちゃ口惜しい。しかし、まぁ仕方ない。臨床犯罪学者としがない推理作家じゃ、天と地ほどの隔たりがあるのだ。----と、いうことにしておいてやろう。
「その時は、明日の最終回を待つんだな」
なぁ〜にが明日の最終回や、ドアホ。テレビドラマや連載小説とは、わけが違うんだぞ。勿体ぶるにもほどがあるってもんだ。
「おい、火村」
呼び掛けた私の声を無視して、火村はゆっくりと寄りかかった壁から身を起こした。ドアへと向かう火村の足取りが心持ち軽いように見えたのも、決して私の気のせいなんかじゃない。
私の言葉から、口惜しいことに私にはまるで見当のつかない事件に関する何かを、火村が掴んだことは確かなのだ。それが嫌というほど判っているだけに、私は我が儘な子供がおとぎ話の続きを強請るように、火村言うところの解答編が気になって気になって仕方がない。
明日を待てだの、最終回を待てだの、全くもって冗談じゃない。そんな言葉で納得するほど、私は子供ではない。そしてこういう場合、ある意味、子供よりも大人の方がずっと始末が悪いんだ。
何がなんでも、絶対に聴かずにはおくものか、との強い意志の下、私は再度火村の背に向かって声を掛けた。だが薄情者の臨床犯罪学者殿は、まるで私の声など聞こえないかのようにスタスタと歩いていく。下手をすれば口笛でも吹きかねないその様子に、私は口惜しさのあまり歯噛みした。
「火む…」
微かな苛立ちを含んだ私の声は、全部を言い終える前に、儚く宙に消えた。同時に火村の姿も、私の視界から消えてしまった。
「どアホ。鬼、アホ、悪魔。火村の苛めっ子。お前は、ジャイアンか、スネ夫かッ」
そして今の私の心境は、独り仲間はずれにされたのび太ってとこか。
なのに、哀れな私にはドラえもんがいない。もっとももしいたとしても、この状況で役に立つかどうかは、甚だ疑問なのだが---。何せジャイアンやスネ夫より、火村の方がずっと質が悪い。---って、今はそういうことを考えてる場合じゃない。
ちくしょう。めちゃくちゃ口惜しいじゃないか。こうなったら何が何でも、火村先生の鮮やかな講義を目の当たりにする前に、私がササッと謎を解いてやる。to be continued
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