Bitter Sweet Chocolate Day <3>

鳴海璃生 




−3−

「眠い…寒い…」
 よろよろとバスを降りた私は開口一番、眠い目を擦りながらぼそりと呟いた。ふわぁと大欠伸をして見上げた視線の先には、見慣れた大学の正門。だがその中へと入っていく学生の数は、一人、二人と実に寂しいものだった。
 それもそのはず、春休みも真っ盛りのこんな日に大学に来るような情けない奴は、余程クラブに力を入れている者か、はたまた勉学を人生の糧としている者。さもなければ、私のように追試なんぞを受ける羽目に陥ってしまったかわいそうな人間だけだ。大半の平均的な大学生は、一年の内で一番長い春休みをきっと大いに満喫しているに違いない。
「よりにもよって、何で一限からやるねん」
 追試なんだから、もっとのんびりやってもいいんじゃないか、と思う。例えば午後からとか---。なぜなら大阪在住の私にとって、一限目なんてのはまさに地獄の時間帯なのだ。例え試験自体は九時から始まるとはいえ、そこに至るまでの長ぁ〜い長ーい道程が---。
 特に今日なんて絶対に遅れちゃいけないと思って、私にとっては深夜に近い午前六時に目覚ましをセットした。実際に起きたのは六時半だったけれど、ガラスの向こうの世間はまだ十分に暗いし、部屋の中は寒いし---。おまけに起床時間の三十分の差で、朝御飯を食べてくることさえもできなかった。
 眠くて、寒くて、空腹---。
 ならべてみると、まるで遭難への三点セットだ。だがこれが雪山だったら遭難しても様になるが、街のど真ん中の大学構内じゃ、単なる物笑いの種でしかない。
「あ〜あ…。こんなことやったら、火村んとこに泊まれば良かったかも…」
 いつもだったら一限の講義がある時は、当たり前のように火村の下宿に泊まり込んでいる。というのも北白川にある彼の下宿は、何とここから三十分以内の通学圏内に位置しているからだ。
 通学時間一時間半から二時間もかかる遠距離通学者の私にとって、そこはまさに夢のような場所だった。知り合って間もない頃、その事実を彼の口から聞いた時には、火村と知り合えて良かった…と、心の底から感謝したものだ。
 が、さすがに今日はちょっと---。
 私が追試を受けるだなんて知ったら、あの口の悪い友人が一体何を宣ってくれるのか…。
 頭の片隅でチラリと考えただけでも、嫌だ。だいたい今日追試を受ける羽目に陥ったのだって寝坊---実際は目覚まし時計が止まっていたのだから、私自身に罪はない---という情けない理由なのだから、これはもう口が裂けても火村には言えない。追試のうえに、あの火村の毒舌の前に晒されたんじゃ、小心者の私の心臓は動きを止めてしまうかもしれない。
 というわけで私にしては珍しく、今日のことは火村にはひと言も喋ってはいない。そうやって内緒にしているのだから、当然の結果として火村の下宿に泊まり込むわけにもいかなかった。
「もう、めちゃくちゃついてへんわ」
 眠気と寒さと空腹を紛らわすために、ぶつぶつと呟く声にも力が入らない。まるでこの世の厄災の全てを背負った気分の私は、背中を丸めながら法学部棟へと向かった。
 とぼとぼと、ドナドナされる牛のような重い足取りで歩く私の周りは閑散として、人の姿は垣間見えない。私と同じように追試を受ける者、またはクラブに顔を出したりする学生もいるのだろうが、こんな朝も早うから来るような人間は早々いないのだろう。例えかわいそうな私がここで行き倒れたとしても、昼まで誰にも見つけて貰えない可能性大だ。
「かわいそすぎて、涙が出るわ…」
 己の悲運を嘆きながら法学部棟まであと数メートルと近づいた所で、不意に背中越しに名を呼ばれた。自分以外の他人がいた嬉しさに、思わず足を止め、勢い良く振り替える。視線の先には、見たことのない女子学生の姿があった。
 ---誰やねん?
 聞き間違いだろうか、と踵を返そうとした時、その女子学生が再度私の名を呼んだ。
「有栖川君、ちょっと待って」
 白い息を弾ませ私の前まで走ってきたその女の子は、乱れた呼吸を整えるように二、三度大きく息を吸い込んだ。その様子を見つめながら、私は慌てて頭の中のデータベースを検索する。
 異性の知り合いに関するデータがそれほど豊富でなかったおかげで、それはあっと言う間に終わってしまった。結果、目の前の女性のデータ無し。たぶん、私の検索ミスじゃない。
 ---う〜ん。何なんだ、一体?
 漸く息を整えた女子学生が、顔を上げにっこりと微笑んだ。
 背は、私より頭半分くらい低い位置。緩くウエーブのかかった黒髪に縁取られた白い顔は、はっきりいって美人。
 ルージュが塗られた紅い口唇がどことなく艶めかしくて、ちょっとだけ鼓動が跳ねた。そんな私の様子に気付く風もなく、目の前の女子学生は柔らかなアルトの声で言葉を綴る。
「良かったぁ、有栖川君に会えて。今年は、もうダメかと思っとったから…」
 言葉の内容、てんで意味不明。これは、決して自分の理解力が低いせいじゃない。
「あのね、これなんだけど---」
 ひと呼吸言葉を句切り、彼女はごそごそと華奢な肩に掛けたバッグを探った。取り出されたのは、白いパッケージに水色のリボンが掛かった正方形の小さな箱だった。
「はい、これ。宜しくね」
 そう言いながらニッコリと華のように微笑み、彼女は私の手にその小さな箱を強引に握らせた。
「あ、あのぉ…」
 戸惑ったような私の声が聞こえなかったのか、はたまたそんなものはどうでも良かったのか。私にこの小さな箱を手渡すという目的を果たしたらしい彼女は、眼前に現れた時と同じ唐突さでくるりと踵を返した。
「じゃね…」
 ひらひらと手を振り、コートの裾を翻して駆け出していく。徐々に小さくなっていく背中を見つめ、私は狐に摘まれたような気分で呆然と立ち竦んでいた。視界から完全に女子学生の姿が消えたところで、漸く呪縛から解かれでもしたかのようにホッと息を吐く。
「何やったんや、今の?」
 首を傾げ、手の中の箱をじっと凝視する。何の変哲もない小さな箱は、ちんまりと私の手の中に収まっていた。
「---まさかこれ、爆弾とかやないやろな」
 恐る恐るというように、手の中の箱を耳元に近づける。幸いにして、中から時間を刻む秒針の音は聞こえてこなかった。ついでゆっくりと、その箱を左右に振ってみた。カラカラと軽い、乾いたような音が鼓膜を擽る。
「何か入っとるみたいやけど…」
 身を取り巻く寒さも忘れ、一頻り考えに耽る。
 時限爆弾の可能性は無し。となると、次は---。
 腕組みしようとしたその時、高らかな鐘の音が耳に飛び込んできた。
「あっ、まずい。予鈴や」
 こんな箱のせいで、またまた遅刻したんじゃ洒落にもならない。手の中の箱をポイッとリュックの中に放り入れ、私は法学部棟へと駆け込んだ。
「えっと…、四〇五号室やったかいな」
 コートのポケットから手帳を取り出し、教室を確認しながら階段を上る。普段なら講義も試験も大教室でやるのだが、さすがに追試を受ける人間は少ないらしく、今日はいつもは使わない四階の小教室を使用するらしい。
「まさか俺一人…、なんてことはないよな」
 確か学部の掲示板には、私以外にまだ数人の名前が張り出されていたような気がする。だが日にちと時間だけを確認した私は、自分に関係のない追試メンバーの名前までは確認しなかったのだ。
 ---だいたい大学で追試なんてやるか? 普通だったらレポートとか来年取り直しとか、そんなもんやないんか?
 追試なんぞを試みる教授に言わせれば、追試は『不可』を与えないための学生に対する温情なのだそうだ。しかしはっきり言って私には、教授自身が大学に出てきているから、ついでに追試をやるってな気がしないでもない。
「だいたい、何でこんな講義が必修なんや」
 ぶつぶつと文句を唱えながら四階まで上がった私は、ゆっくりと視線を上げた。途端、その場で凍り付いたように足を止める。追試が行われるはずの四〇五号室の前にたむろする一団に、思わず目を瞠った。
「---何やの、あれ?」
 人気の無い大学構内には似つかわしくない華やかな集団が、「きゃいきゃい」「わいわい」と騒ぎながらドアの前でたむろしていた。一瞬の間足を進めることを躊躇した私に、集団の中の一人が気付き、隣りの女の子を肘で小突いた。
「あっ、有栖川君や」
「良かった。やっぱ来たんや」
 それぞれに言葉を紡ぎながら、華やかな集団---五、六人はいる---は、私に向かって駆け寄ってきた。思わず引けそうになる身体を必死に宥め、私は呆然とその場に佇んでいた。
「おはよう、有栖川君」
「今日寒いから、追試ほかすかと思うて心配したわ」
「でも、良かった。来てくれて…」
「ほんま。これで有栖川君が来ぃへんかったら、私らみんなに恨まれるとこやったわ」
 まるで台本でもあるかのように、ひと言ずつ順番に話す。それに相槌を打つ余裕もなく、私はただ固まった彫像のようにその様子を見つめていた。この状態は一体なんだろうか…とか、彼女達は一体誰だ…とか、そんな普通の疑問が頭の中に湧き起こる余地さえ、今の私には無かった。
「でね、これなんやけど…」
 がさりと大きな紙袋が二つ、目の前に突き出された。
「みんなからの分、私らが代表で持ってきたん」
「有栖川君から、あんじょうよう頼むわ」
 そう言って、彼女達は二つの紙袋を無理矢理私の手に握らせた。両手に紙袋を持った姿勢で唖然と佇む私を満足げに見つめ、女子学生達の群れはニコニコと笑み崩れた。
「これで、肩の荷が下りたわ」
「あとのことは宜しくね」
「それじゃ、私らはこれで。有栖川君も追試、頑張ってね」
「じゃね。上手く追試が終わって、楽しい春休みが過ごせるように祈っとくわ」
「バイバイ」
 ひらひらと手を振り、一連の集団が私の横を擦り抜けていった。まるで一瞬の嵐が過ぎ去ったかのように、唐突な静けさが廊下に広がる。一人佇んだ私は、彼女達がいなくなった後も毒気に当てられたように、暫くその場から動くことができなかった。
「---有栖川。何やってんだ、お前?」
 教室のドアの向こうから顔を出した学生が、ぼんやりと佇む私を訝しむように声を掛けてきた。そして両手に抱えた紙袋に視線を移し、呆れたように呟いた。
「朝っぱらから何やってんだって思ってたけど、あいつらお前を待ってたんか。一体何やねん、あれ?」
 何やねん、あれ…って---。
「それを訊きたいのは、俺の方やッ」
 シンと冷えた廊下に、私の雄叫びが響き渡った。


to be continued




NovelsContents