Bitter Sweet Chocolate Day <4>

鳴海璃生 




−4−

 両手に紙袋三つ---追試が終わった後、待ち伏せしていた女の子にまた一つ紙袋を渡されたのだ---を両手に抱え、おまけにそれ以外に渡された箱やら袋やらを詰め込んでパンパンに膨れあがったリュックを背に、私はヨロヨロと学生会館に向かった。おまけに何が何やらまるで訳の判らない一連の出来事のせいで、せっかく一夜漬けで頭に叩き込んだ民法のあれやこれやはすっかり抜け落ちとしまった。結果、追試の出来が惨憺たるものだったのは言うまでもない。取り敢えず不可は逃れられるとは思うが、何とか可にギリギリセーフというとこだろう。まっ、不可さえ取らなけりゃ何だっていいんだが、それにしても---。
「ちくしょう。何かむちゃ腹たってきたやないか」
 だが例え腹がたっても、一体誰に向かってこの苛立ちを爆発させれば良いのかが判らない。そして八つ当たりの場所がないということが、私の苛立ちに一層の拍車をかけていた。
「まったくもうッ!!」
 学生会館の椅子にドカンと乱暴に腰を下ろし、コーヒーでも飲もうか…と思った時、ポコンと軽く頭を叩かれた。一体何だ、と振り向いたその先に、同じ学部の見慣れた友人の顔があった。
「何や、梛やないか。何しとん、こんなとこで」
 自分のことはすっかり棚に上げてそう訊いてきた私に、梛一樹は小さく唇の端を上げた。
「有栖川こそ何してんだ?」
「追試やってん」
 ぼそりと呟いた私に、梛はクスクスと楽しそうな笑いを零した。
「そういや、民法のテストに遅れて来たんやったな。一応二十分までは待ってたんだぜ、お前のこと」
「ありがとうて、涙が出るわ」
 不幸にも目覚ましが止まっていたせいで、一時間と五分遅れで教室に入って行った私に、白髪の担当教授はそれと告げてくれた。が、例え二十分待っていてくれたからといって、何が変わるわけでもない。時間切れで答案用紙の半分も埋めることができなかった私は、無情にも追試の通達を受けてしまったのだ。ちくしょう。出来ることなら、別の意味で温情をかけて欲しかったわ。
「で、何で梛は来てんの? 君のことやから、てっきりスキーにでも行ってんのか…と思うたわ」
「これから予定が入ってるんで、時間潰し」
「さよけ」
 予定というのは、たぶん女の子とのデートの約束なんだろう。来る者拒まず、去る者追わずを信条とする梛一樹は、そういう意味で法学部でも目立った存在だった。実際顔の造りも良いし、背も高いし、ついでに勉強もスポーツもOKという腹のたつ奴だから、女の子の視線を集めるのも仕方がないといえば仕方がないのかもしれない。
「有栖川はこれから予定無い---」
 そう言いながら私の隣りに腰を下ろそうとした梛は、一瞬息を飲んだように言葉を止めた。ついで、呆れを含んだような声音で訊いてくる。
「おい、これ何や?」
 梛が指差した物に視線を移し、私はうんざりしたように肩を竦めた。
「知らんわ。何や女の子達から、有栖川君よろしくって言われて渡されたんや。でもよろしくって言われても、何が何やらわけ判らへんのやもん。どないしようもないやん」
 ぶつぶつと呟く私の耳に、堪えきれないような梛の笑い声が飛び込んできた。それにムッとした私は、目の前の梛の整った容姿を睨みつけた。
「何やねん、一体…」
 あからさまに機嫌の悪くなった私を宥めるように、梛が目の前で手をヒラヒラと振る。だが相変わらず耐えきれないような笑みは、口許に張り付いたままだ。
「悪い、怒るなよ。せやってお前、今日が何の日か判ってないん?」
 何の日って---。
 そう言われても、私にはとんと心当たりがない。強いて挙げれば、追試の日ってぐらいか。眉を寄せる私を宥めるように、梛がポンポンと頭を叩いた。
「んじゃ、次の質問。今日は何日や?」
 それなら判る。追試の日にちを間違えちゃいけないと思って、何度も何度もカレンダーを見直しては、今日の日にちを確かめていたのだから。
「二月十四日」
「そこまで判ってて、何で判んないんだかなぁ…」
 心底呆れたというような梛の呟きに、私は途方に暮れたように首を傾げた。そんなこと言われても、判らないものは判らないんだから仕方ないじゃないか。
「バレンタインデイだろ、二月十四日は---」
「バレンタインデイ?」
 機械的に繰り返して、私はポンと両手を打ち鳴らした。ここ数年何の縁も無い日だったので、すっかりさっぱり忘れていたが、確かに今日はそういう日だった。そう思いついて記憶を辿れば、ここ半月ほど妙に街中が盛り上がっていたような気がする。
「そっかぁ…。せやったら、これチョコ---」
 そこまで口にした私は、唐突に言葉を止めた。
 ---バレンタインデイで、有栖川君よろしくで、チョコ…。えっ、これってもしかして---。ええーーッ! そんなん嘘やろ。
 ごくりと息を飲んで、私は恐る恐るというように訊いた。
「もしかして、これ‥俺あて…?」
 鼻先を指で指し示した私を呆れたように一瞥し、梛は肩を竦めてみせた。---おい、一体なんやねん。その失礼千万な態度は。
 「アホ。んな訳ないやろ」
 さらりと言ってのけられた言葉に、眉を寄せる。私あてじゃないなら、一体誰あてだって言うんだ。睨みつけた視線に私の疑問を察したのか、梛は勿体ぶることなく、あっさりとその答をご披露してくれた。
「火村あてに決まってるやろ」
「火村ぁ?」
 思わず上げた素っ頓狂な声音に、梛は再度肩を竦めてみせる。
「何や、お前…。去年の騒ぎを知らへんのか?」
 知らない、そんなもん。
 私は、応えの代わりに緩く頭を左右に振った。諦めたように一つ溜め息を吐きだした梛は、ゆっくりと口を開いた。
「去年、火村にチョコを渡そうとした女が随分いたらしいんやけど、その尽くが目の前でチョコ突っ返されたらしいんや」
「はぁ…」
 そんな話、初耳もいいとこだ。そりゃ確かに火村がもてるってのは、嫌ってほど目にしていた。だが、そんな騒ぎがあったとは---。
 ふ〜ん…と曖昧に頷いた後に湧いて出た、さらなる疑問。---だからって、何で俺にチョコやねん?
「そんなん判りきったことやんか。火村本人に渡したら、また突っ返されるのが目に見えてるから、お前経由で渡して貰おうって魂胆に決まってるやないか」
「俺経由---?」
「そうや。他人を寄せ付けないあの火村が、有栖川とだけは妙につるんでるって評判やからな。せやからお前経由やったら、火村もチョコを受け取るって思うたんやないんか」
 唖然とした私は、その一瞬後、場所柄も弁えずに大声を張り上げていた。
「何やねん、それッ! つまり俺は、火村あてのチョコレートの運び役ってわけかいッ」
 頭の中をペリカンの郵便屋さんが、ヘロヘロと力無く飛んでいく。郵便ならまだしも、運ぶのが他人あてのチョコレートじゃ、間抜けさ加減もハイマックスじゃないか。
「まっ、有り体に言えば、そうやな」
 有り体に言わなくったって、そうやないか。
 同情したような、それでいてどこかに面白がっているような色を含んだ梛の声に、私の怒りは沸点を超えた。
「あったまきた」
 ガタンと乱暴に立ち上がった私に、梛は驚いたように目を瞠った。
「おい、まさか突っ返しに行くんじゃないやろうな」
 どこか慌てたような梛の言葉に、私はギロリと精一杯の怒りを込めた視線を向ける。
「ちゃうわ。火村んとこに行くんや」
「火村? 何だ、チョコ渡してやるんか」
「受け取った物は、しょーがないから渡してやるわ。でも俺がこんな傍迷惑な目に会っとんのは、火村のせいなんやからな。あいつには、きっちり償いさせてやるッ!」
 何となく重さを増したようなリュックを乱暴に肩に背負い、むんずと椅子の上に置いた紙袋を掴む。「行くでッ!」心の中で掛け声をあげ、私はどたどたと足音も高らかに学生会館をあとにした。

◇◇◇

「こんにちはーっ」
 昔ながらのガラス戸の玄関をカラカラと開け、シンとした静けさの中、真っ直ぐに伸びた廊下の奥に向かって声を掛ける。すぐに左手奥の襖が開き、この家の主である婆ちゃんこと篠宮時絵さんが顔を出した。
「あらまぁ、有栖川さん。どないしはったの。今日は、またえらく大荷物やないの」
 ニコニコと穏和な笑みを浮かべる婆ちゃんは、若かりし頃はさぞや楚々とした美人だったに違いない。年齢を経た今でも、それは十分に伺い知ることができた。昔の人らしくさり気なく着こなした柔らかな風合いの臙脂の着物は、そんな婆ちゃんにとっても良く似合っていた。
「火村に、荷物の配達係なんです。あいつ、部屋にいてます?」
「ついさっきまでは、下の縁側でネコちゃん達の相手してはったけど、今は上でご本でも読んではるんやないかしら」
 縁側でネコ達の相手? 部屋で読書? 何だあいつ、随分と優雅な立場やないか。俺がこんな目に会ってるってのに、めっちゃ腹たつで、ほんま。
 ムッとした気持ちを覆い隠すように、私は婆ちゃんに向かってにっこりと微笑んだ。
「せやったら、俺がじゃましても構へんかな」
「構へんよ。他の人達はお家に帰ってはるから、火村さんも退屈してはるんやないの」
 コロコロと笑いながら綴られた婆ちゃんの言葉に、私はなるほど…と納得した。元々そう騒がしいわけでもないが、それにしても妙に家中が静かなのは、そういう訳か。
「それに、私ももう出てしまうしね」
「あれ…? どっかお出掛けですか?」
「火村さんが留守番をしてくれるって言うてくれはったから、これからお友達とお芝居を見に行くんよ」
「へぇ、ええですね。外めっちゃ寒いから暖かくして、楽しんで来て下さいね」
「ありがとう。有栖川さんも、ゆっくりしていってね」
「はい」
 暖かそうな肩掛けを羽織り、小振りのバッグを持った婆ちゃんが玄関を出ていくのを見届けてから、私は徐に踵を返した。先刻までとは打って代わったようにドタドタと足音をたてて階段を駆け上り、上がってすぐ右手にある火村の部屋のドアを乱暴に引き開けた。
「おい、火村っ!」
 大声で怒鳴り、中からの返事も待たずに、私はずかずかと勝手知ったる部屋の中へと踏み込んだ。入ってすぐの六畳間の突き当たりの窓にもたれて、火村は分厚い本を膝の上に広げていた。
「よう、アリス。追試は無事終わったのか?」
 問われた言葉に首を傾げ、私はぺたりと火村の前に座り込んだ。
「何で君が、俺の追試のこと知っとんの?」
「バカか、お前。あれだけデカデカと掲示板に名前張り出されていたくせに、何で俺が知らないと思うんだよ」
「えっ、嘘。君、あれ見たん?」
「見たくなくても、目に入ってくんだよ」
「そんなーっ、嘘やろっ。せやったら俺、何のために君に内緒にしとったんや。めちゃ必死の思いで隠しとったのに…。酷いわ、あんまりやないか。何で、ひと言言うてくれへんかったんや」
 悲痛な声で喚いた私に、火村は小さく鼻を鳴らした。
「お前が何にも言わないから、俺が言っちゃ悪いかなって思ったんだよ。寝坊して試験に遅れて、挙げ句の果てが追試だなんて、恥ずかしくて言えねぇよな、普通。それで気を遣ってやったつもりなんだが、余計な世話だったか?」
「大きすぎるお世話やわ。君がひと言言うてくれたら、俺は今朝ゆっくり眠れたし、朝ご飯かて喰いっぱぐれることはなかったんや」
 恨めしそうに睨みつける私に、火村は薄い唇を歪めるようにして笑った。
「そりゃ、ご愁傷様。だったら、腹減ってるだろ。何か喰うか?」
「あっ、食べる食べる。出汁巻き玉子と大根のお味噌汁と---って、違うわっ!」
「何だよ、朝飯喰いに来たんじゃねぇのか?」
「ちゃうわッ。俺はなぁ、君に責任とって貰いに来たんや」
「だから、飯作ってやるって言ってるだろーが」
「その話やない。これやッ!」
 ドサリと、私は火村の前に紙袋を三つ並べた。ついで背中のリュックを下ろし、パラパラと中身を畳の上にばらまく。
「---何だ、これは?」
 双眸を眇めた火村が、低い声で呟いた。
「バレンタインのチョコやて。もう冗談やないで。何で俺が、こんな郵便配達みたいな真似せなあかんのや」
 ぶつぶつと文句を綴る私の声が聞こえないかのように、火村は低く問いかけてきた。
「何で受け取るんだよ、こんなもん」
 不機嫌な響きを孕んだ、低いバリトンの声。だが頭に血が上った状態の私は、いつになく火村の機嫌が悪いことに気付くだけの余裕が無かった。


to be continued




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