鳴海璃生
返された応えは、火村がアリスの口から聞きたかった言葉とは微妙に違う。だが、これがアリスにとって最大の譲歩であることも、また自分が望む言葉をアリスが決して口にしないだろうことも、火村には既に判っていることだった。
もちろんそこまで判っていながら、それでもアリスにそれを言わせようとする自分のずるさも、良く理解している。
時として憎んでしまうほどに素直なくせに、妙なところで意地っ張りなアリスとずるい自分。
己が持ち得なかったものを全て持ち合わせる友人の存在は誇らしくもあり、憎悪の対象でもあった。しなやかな強さも健康な精神も、その全てが火村にとっては憧れであり、憎しみの対象でもあった。
微妙な近郊の上に成り立っている関係と互いのスタンスは、大学時代から少しも変わらない。---失いたくないから、全てをさらけ出すわけにはいかない。例えそれがどんなにずるいことだとしても、だ。
「で…?」
続く言葉の意味が判らず、アリスは首を傾げた。天井に向かって紫煙を吐き出しながら、火村は窓際に飾られている饅頭を眼差しで指し示した。
「あの饅頭は、一体どういうことだよ。ふつう月見ってのは、団子じゃねぇのか」
しつこく絡まれるかな、と身構えていたアリスは、突然変わった話題に、困ったように視線を彷徨わせた。できれば、この話題も避けたかった。---お月見団子が饅頭に変わったわけは、単に自分が食べたかったから。
大阪土産であるそれを、大阪に住まう自分が食べるには、何かしらの理由が必要だったからに過ぎない。が、それを素直に白状したら、この口の悪い先生はきっと何かしら言うに決まってるに違いない。
---こいつ、俺をからかうことに楽しみを見出しとるような奴やしな。
アリスにしてみれば、火村に対して素直になれない理由は、こんなとこにだってあるのだ。もっとも、それを火村に言った---絶対に言うつもりもないが---ところで、あの火村が自分をからかうことを止めるなんてことは、端から思えないのだが。
深呼吸を一つして覚悟を決めたアリスは、火村へと視線を向けた。目の前の助教授殿は、これから始まるアリスの話にさして興味のないような表情をして、煙草をふかしている。が、その表情が真実とはかけ離れていることを、アリスは気づいていた。
ゆっくりと、もう一つ深呼吸。罪の告白とか不倫---いや、これはちょっと違うか---とか浮気の告白---恐ろしくて考えたくもない---とかをするわけでもないのに、一体なんでこんなに緊張しなければならないのか。これが10数年火村にからかわれ続けたために身に付いた習性かと思うと、何か情けなくなってくる。
「---実は、片桐さんが来てたんや」
突然出てきたアリスの担当編集者の名に、無表情の火村が僅かに眉を上げた。
バカなやきもちだと判ってはいても、担当編集者でもあり友人の一人でもある人物の名をアリスの口から聞くのは、余り心地良いものではない。それを悟られないように、殊更に無表情を決め込み、火村は眼差しでさり気なく話しの続きを促した。
「ちょっと締め切りに遅れてしもうて、片桐さん、昨日らか家に泊まり込んで原稿が上がるのを待ってたんや。今朝ようやっと原稿が上がったんで片桐さんを送って出たんやけど、新幹線までにちょっと時間があったんで、二人で心斎橋辺りをうろうろしてたんや。そん時に片桐さんがたこ焼き饅頭いうのを見つけて、お土産にちょうどいいから買って行こうって…」
「なるほど…。要するに、そいつは新製品だったわけだ」
ぽつりぽつりと言葉を選びながら話していたアリスの言葉尻を、火村が即座に捕らえた。何とか上手く言い繕おうと思っていた理由のそのまんまを突かれて、アリスはごくりと息を飲んだ。
団子が饅頭に変わった第一の理由は、まさに一分たりとも違わずに火村の言ったその通りなのだが、それをはっきり口にされると、素直に頷けないというか何というか---。心中複雑なものがある。
「いや、まぁ、そうなんやけど…」
返す言葉にも力が入らない。だいたいアリスの新し物好きは、今に始まったことではなかった。コンビニで新しいスナック菓子を見つけたりすると、いけないと思いながらも、ついつい買い込んでしまうのだ。その度に火村に呆れられているのだが、悲しいかな、今までに一度として新製品の誘惑に勝てた試しはない。
紫煙を吐き出しながら、やっぱり呆れたような火村の溜め息がアリスの耳に飛び込んできた。続く言葉を火村に言われないうちに、アリスは先手をとってあたふたと中断した言葉を継ぐ。
「でもな、火村。今日は中秋の名月やし、団子の代わりにいいかなって思ったんや。それにやっぱ、京都まで来るのに手土産の一つも持たんのは、礼儀に反するし…」
もっともらしく語られた言葉が、口の中で徐々に小さくなっていく。何のかんのと言を尽くしてみても、結局は無駄な言い訳でしかない。だいいち、火村の部屋に遊びに来るのに手土産なんぞというところから、既に嘘臭いことこの上ない。
短くなったキャメルを灰皿に押しつけ、火村は冷めたコーヒーを美味そうに啜った。
「ちょっと訊きたいんだがな。一体どういう理由で、その饅頭が月見団子の代わりになるんだよ」
「---丸いとこ」
口元に運んでいたコーヒーカップが、止まる。唖然とアリスへと眼差しを注いだ火村は、ゆっくりとカップを畳の上に下ろした。若白髪の混じったぼさぼさの髪を掻き上げ、大袈裟に一つ息を吐く。
「アリス…。妙な理由つけるより、素直に新製品を食べたかった、と言った方がいいと思うぞ」
笑いとからかいを含んだ眼差しに、アリスが怯んだように眉を寄せる。くしゃりと髪を掻き回されて、アリスは罰が悪そうにその手を払いのけた。
「悪かったな。一度食べてみたかったんや」
「ふてるなよ。別に悪いなんて言っちゃいねぇだろ」
素直にそう言われるより、犯罪学者殿の物言いはよほど始末に悪いんじゃないか。---眼差しでアリスが無言の抗議を返す。火村は微かに肩を竦め、それを穏やかに無視した。
「まっ、団子ばっかじゃお月さんも飽きちまうだろうから、いいんじゃねぇか」
皮肉屋の助教授にしては珍しく、一応フォローしているつもりなのかもしれない。が、だったら最初から余計なことを言うなっちゅーんじゃ。---ほんま、ひと言もふた言も口の減らん奴やで。
「で、美味いのか?」
ピラミッド型に積まれた饅頭に手を伸ばしながら、問う。それにアリスは緩く頭を振った。
「知らんわ。君が帰ってくるまでて思て、まだ食べてへんもん」
「そりゃ、お気遣いありがたいことで」
だから、それを止めろっていうんだ。言葉と口調がまるで合ってないじゃないか。
本当に、どこまでいっても嫌味な奴だ。が、助教授の嫌味と皮肉と悪口雑言---こうして並べると最低やな、ほんま---を聞いていると、妙に安心するから困ったもんだ。別にマゾってわけでもない---火村はサドだ---が、こういう口がきける火村はまだ大丈夫だと、心の内でほっと安堵する。
---こういう助教授を寛大な心で許してやれるところが、俺って大人なんだってことやな。
一人悦に入ってニコニコ笑っているアリスに、火村が胡散臭げな視線を注ぐ。こういう風に皮肉を言われても妙に機嫌の良いアリスっていうのは、ある意味要注意状態だった。
---また禄でもないこと考えてやがるな。
横目にアリスを見つめながら、火村は1番上に盛られた饅頭を無造作に手に取り、それを口に放り込んだ。
「何か紅葉饅頭みたいな味だな」
低いバリトンの声に、アリスが我に返る。気づかない内に、助教授殿は饅頭ピラミッドを崩しにかかっていたらしい。
「こういうやつは、どこもここも似たり寄ったりだよな。オリジナリティも何もあったもんじゃねぇ」
グルメではないと言っている割りに、火村は食べ物の味には口煩い。だいたい土産品のお菓子なんて、そんなもんじゃないか。それにアリスとて、早々美味いと味に期待して買ってきたわけでもない。新製品という言葉と、目で欲しがって、一度食べれば気が済むという程度のものなのだ。
コーヒーを啜りながら、火村が饅頭の山に手を伸ばす。ぶつぶつと文句を言っているくせに次から次へと口に放り込んでいるところを見ると、どうやら不味いということはないらしい。
特に火村を味見役にしたつもりもないが、その反応に安心したアリスは、自分が買ってきた饅頭の山に手を伸ばした。
コーヒーと饅頭。この珍妙な取り合わせを気にする様子もなく、手にした本のページを捲りながら、火村はそれを交互に腹の内に納めた。−3− 雑誌を捲る乾いた音が、シンとした部屋の中に小さく響いた。その音に、火村は僅かに眉を寄せた。
部屋の中に満ちた奇妙な静けさ。---本を読んでいる最中であったら歓迎すべきものが、今は妙に身体に馴染まない。いつもだったら美味いだの不味いだの、ここでひと騒ぎするアリスが、今日は珍しくもひと言も喋らないのだ。
---まだふててんのか?
反省するつもりもないが、少しからかいが過ぎたかと、火村は視線をアリスへと上げた。その視界の先に、饅頭とにらめっこでもしているようなアリスの姿が飛び込んできた。
手の中の饅頭を見つめ、真剣に考え込むように眉を寄せるアリスの姿に、火村は首を傾げた。
「おい…」
「なぁ、火村」
呼びかけは、アリスの声に消された。問い掛けるような火村の視線に気づいたのか、アリスが自分を見つめる人の名をゆっくりと呼んだ。が、視線は未だに饅頭と睨み合ったままだ。
「---何だよ」
アリスのその様子を不思議に思いながらも、火村は殊更に抑揚の無い声で返事を返す。
「こうやって見てると、何かタコとキスするような気にならんか?」
突拍子もないアリスの言葉に、火村は口に含んだコーヒーを吹き出しそうになった。焦ったように慌ててそれを飲み込み、ゲホゲホとむせ始めた。
「な…何言ってんだ、てめぇは」
せき込んで苦しい息を宥めながら、揚々の態で言葉を口にする。
「だってなぁ、火村。ほら、これ見てみ」
未だにむせ返っている火村の様子を気にする風もなく、高い鼻梁の先に、アリスは問題の饅頭を突き出してみせた。
良く見もせずに口に運んでいたが、こうして正面から見ると、確かに目の前に突き出された饅頭はユニークな顔をしている。『たこ焼き饅頭』というその名の通り、鉢巻きをしたタコの顔をしているのだ。---が、だからと言って、タコとキスするだの何だのという思考回路には、到底行き着くはずもない。
「アリス…」
頭を抱え込んだ火村の耳に、惚けたようなのんびりとしたアリスの声が届く。
「さぁ食べよう思てこの顔を正面から見たら、何かタコとキスするような気になったんやもん。そしたら正面から食べるのも嫌な気分やし、かと言って後ろから食べるのも何かへんやし…。めっちゃ食べたいんやけど、一体どこから食べればいいんか、悩んでしまうわ」
ちょっと待て。
相変わらずタコ---否、饅頭から視線を外さず、アリスは独りごちる。聞いている内に、ズキズキと痛みだしたようなこめかみを人差し指で押さえ、火村は小さく嘆息した。
できれば絶対理解したくもないが、アリスの言い分は、まぁ判った。が、一体どこの世界にこんなタコ饅頭を見て、タコとキスするような気がするなどと悩む奴がいるんだ。
想像力が逞しいのか何なのか、知り合って10数年経った今でも、この推理小説家の奇天烈な思考回路は、とんと理解できない。---もっとも、理解したくない、と心の奥底で思っているせいなのかもしれないが…。そんな火村の思いをうち消すように、アリスは言葉を続けた。
「なぁ、火村。火村もそんな気にならへんかった?」
なるか、バカ。俺は極普通の、一般的な思考回路の持ち主なんだ。夢見る推理小説家と一緒にするな。
言ってる内容の割りには、のんびりと緊張感のない声音に、身体中から力が抜け落ちていくような気がする。だいたい、小煩いガキ共の相手をして疲れて帰ってきているっていうのに、そのうえ何でまたこんなに疲れるような台詞を聞かなければならないんだ。
顔の半分を覆った掌の間から伺うようにアリスを覗き見ると、火村の脱力の素は飽きもせず、タコ饅頭とにらめっこをしている。
---…ったく、たまんねぇよな。
萎えた気力を奮い起こすように深呼吸をして、火村はゆっくりとアリスへと手を伸ばした。
きょとんとした表情で火村の手の動きを見つめるアリスに構うことなく、その手の中の饅頭を取り上げ、それを皿の上に戻す。
「何すんねん」
慌てたようなアリスの声を聞き流し、火村は伸ばした手をそのままアリスの首筋に絡ませた。
「ひむ…」
力任せに自分の方へと引っ張り、アリスのそれに唇を寄せる。突然のことに、アリスは抗議の言葉も口にすることができなかった。
執拗に絡められる舌に、呼吸さえままならない。息苦しさに眉を寄せる。やがてゆっくりと舌で唇を辿り、火村はアリスを解放した。
大きく息を吸い込み、視線を上げる。吐息が触れ合いそうな至近距離に、アリスは慌てて身体を引いた。目の前の男前の顔に、かっと頬に朱が上る。
「こ、この変態助教授。急に何すんねんッ」
焦った様子も露わに声を上げる。その様子に、火村は楽しそうに喉の奥で笑った。
「何って、キスだろ」
「言ってる意味が違うッ。俺が言ってるのは、何で急にこういう事するんやってことや」
今さらたかがキス一つ。顔を真っ赤にして怒る程のことでもないだろうに、と思う。その反面、いつまで経っても変わらないアリスのリアクションに安堵し、それを楽しんでいる自分がいることも、火村は理解していた。
「何でって、したくなったらに決まってるじゃないか。他に理由なんかあるか? それに---」
火村はゆっくりとアリスを引き寄せた。耳元に唇を寄せ、そっと囁く。
「タコとキスするより、俺とした方が良くねぇか」
「なっ…」
耳朶に触れる吐息と低いバリトンの声に、アリスは微かに身を震わせた。が、それもほんの一瞬のことだった。囁かれた言葉の内容に、アリスは唖然とした様子で火村を見つめ返した。
言葉にならないという様子で正面からまじまじと見つめてくるアリスの視線に小さく笑み、火村はこつんと額をアリスのそれにくっつけた。僅かに開かれたアリスの唇に、触れるか触れないかぎりぎりのところまで、自分のそれを寄せる。アリスは反射的に身を引こうとするが、アリスの首筋に回されたままの手は、強い力でもってそれを許さなかった。
喉の奥で小さく笑っている火村の息づかいが、柔らかに触れる。恥ずかしいようなくすぐったいようなその感触に、アリスは微かに肩を竦めた。
額に頬に目蓋に、戯れるように暖かな唇が触れていく。小さな子供をあやしているようなその心地良さに、アリスほっと息をついた。柔らかなキスを受けながら、アリスがクスクスと小さく笑う。
「アリス…?」
頬に触れながら呟かれた言葉が、くすぐったい。
「…そやな。やっぱタコなんかとキスするより、火村のキスの方がずっとええわ」
吐息のように呟かれた言葉に、火村は眉を上げた。
「当たり前だ。タコの方がいいなんて言われたら、一生立ち直れねぇぞ」
「何言うてんねん」
「そないに繊細にはできてないやろ」と笑いながら、アリスは火村へと腕を伸ばした。抱きしめるように背中に腕を回し、ゆっくりと唇を寄せる。
君に逢いたかった…。
君に触れたかった…。
言葉に出せなかった想いは、月の光と夜の静けさに溶けていった。End/2000.10.30
Entrance
![]() |
|
![]() |