鳴海璃生
「お前、またやったな。だから判らないんなら、話をする前に名前訊けって何度も言ってるだろうが…」
何が茶太郎君だ、とぶつぶつ悪態を呟く。---何となく煙草を吸えない苛立ちをこっちに転換させられているような気がすするのは、私の思い過ごしだろうか。
「ええやん。顔は知ってるんやから」
「ほぉ…」
あからさまに疑いを含んだ声---。じろりと見つめた視線が、「嘘をつくな」と言っている。なにもかもを見透かされていて、むっちゃ腹が立つ。
「授業で一緒やったんやもん。いくら俺かて顔ぐらい覚えてるわ」
「授業、ね…。一体なんの授業なのか、ぜひお聞かせ願いたいもんだ」
「---民法」
応えの代わりに火村は肩を竦めた。大教室でやる民法の講義などで一緒になっても意味はない、と火村は言いたいのだ。が、それを敢えて口にせず、肩を竦めてみせるあたりが、こいつの性格の悪さを物語っている。
「ええやん。一緒は一緒なんやから」
分の悪さを隠すように声を上げる。火村はそれを一瞥しただけで、何も言わない。そして何も言われないということが、より一層分の悪さを助長する。
---ほんまにこいつは…。
ゴホンと一つ咳払いをして、私は分の悪くなった態勢を立て直した。---いや、立て直そうと試みた。要するに、分の悪い話は強引に終わらせて、都合のいいとこだけ強気でもって押し通すってことだ。
「とにかく、やな。俺のために身体を空けてくれるって言うたんやからな。絶対付き合うんやで」
ええな、としつこく駄目押しをする。我が儘な子供を宥めるように、火村は「やれやれ」と呟いた。---何が「やれやれ」やねん、全く。
「判ったよ。…で、どこでやるんだよ、それ」
「北白川天神に10時。君んちの近くやから、終わった後で酒盛りしよ」
一瞬考えるように眉を寄せ、火村は私へと視線を動かした。
「ひと言忠告しておいてやるが、止めておいた方がいいと思うぜ」
「肝試しなんか、別に怖くあらへんもん」
間髪入れずに応えた私に、火村がゆっくりと表情を崩す。滅多に見せないその表情---呆れたような困ったようなその表情---は、らしくないぐらいに優しげで、ドキリと心臓が跳ねる。
「バカ。そんなこと言ってるんじゃねぇよ」
ちょいちょいと指で招かれて、思わず屈み込んだ私の前髪を一房掴み、火村はそれを緩く引っ張った。まるで子供扱いされているようで、私はむっとしたようにその手を振り払う。
「やったら、どういう意味やねん」
「お前、夜の北白川天神に行ったことねぇだろ?」
「ない」
反り返るように胸を張って応える私に、火村は喉の奥で小さく笑う。こいつ、一体なにが言いたいんだ。
「だったら言っておくが、北白川天神てのは山の上にあって、夜は真っ暗になるんだぜ」
「だ…、だから何や言うねん。それで俺が怖がるとでも思ってるんか」
実は、ちょっとだけ怖かったりする。僅かに声が震えているのはご愛敬だが、私から話を持ち出した手前、絶対に火村に弱みを見せるわけにはいかない。---これは、男のプライドの問題だ。
「違うって。昼日中の、しかも4年間通い慣れた大学構内でさえ迷うお前が、その真っ暗な中を歩けるのかって言ってるんだよ」
ふてた子供を宥めるように言う。が、どっちにしたって私にとってみれば、有り難くも何ともない言葉だ。結局のところは、方向音痴の私には、そんなとこ歩くのは無理だって言ってるようなもんじゃないか。
「大丈夫やもん」
「まっ、お前が大丈夫だってんなら、俺はいいけどな」
何となく含みを持った口調に、むっとするが---。まっ、いいか。
「…で」
「で…?」
「これからどうする? まだ時間はあるが、コーヒーでも飲みに行くか」
時間があるどころの話じゃない。まだお陽様がギラギラと天上で輝く3時前。時間なんて、コーヒー飲んだくらいじゃ潰しても潰しきれない程ある。
「う〜ん、そやな…」
首を傾げて考える。普段なら本屋巡りをしたり、適当にぶらぶら散歩をして時間を潰すところだ。だがこの照りつける太陽の下で、そのいつものパターンはやりたくない。あとは火村の下宿に行くとか…。---いや、いかん。冷房のないあの部屋では、茹だってしまう。となると---。
「君、レポートの資料の方はもういいんか?」
「まだだが、別に急ぐわけじゃねぇからな」
「やったら君、ここで切りのいいとこまで続きやってええで。俺は寝てるから」
ふわぁと欠伸を零して身体を伸ばした私を横目に、火村は口許に僅かに笑みを刻んだ。
「何だ。寝たいのか、アリス」
「就職活動してた時って早起きしてたから、寝不足気味なんや。そのうえ、ここんとこずっと熱帯夜続きやったやろ。ちょうどええから、夜まで睡眠不足の解消するわ」
一端そう口にすると、それはもの凄くいいアイディアのような気がした。すっかりその気になってしまった私は、続けざまに出てくる欠伸を噛み殺し、ごしごしと目を擦った。火村の隣りの椅子に腰を下ろし、身体を伸ばす。
「いくら声は外に聞こえないといっても、ここじゃまずいよな」
「はぁ…?」
思いも寄らぬ程の近さから響いてきたバリトンに、私は半ば閉じかけていた目蓋を開いた。目の前にある男前の顔---。妙に楽しそうな---まるで悪戯を思いついた子供のような、そんな表情を浮かべた男前の顔に、私は眉を顰めた。
「---君、妙なこと考えてるやろ」
思いっきり低い声で呟いてやる。火村のこういう表情は、私にとっては嫌になるくらい良く見慣れているものだ。だがその後のことを考えると、余り昼日中に見たいものではない。
「寝たいって言ったのは、アリスだろ」
「俺が言うたのと君が言うてるのは、ぜんぜん意味が違うやないか」
「違うか?」
「最低でも南極と北極ぐらいは違うわ」
「そりゃ大した違いじゃねぇな」
言いながら、耳許に口唇を寄せる。---ちょーっと待てッ。マジか、こいつ。必死で腕を突っ張って胸を押してみるが、余り効果の程は期待できなかった。口惜しいことに火村と私じゃ、だんぜん火村の方が体力、腕力共に勝っていたのだから。
「止めんか、変態。こんなとこで何考えてるんや?」
「アリスが睡眠不足な間、俺は欲求不満だったんだよ。新学期が始まってから、これ以上はないってぐらい冷たくあしらわれてたもんなぁ」
どこかしみじみとした口調に、私は僅かに口唇を尖らせた。確かに火村が言うだけのことをやった覚えはあるが---。
「仕方ないやろ。人生掛かってたんやから」
「良かったじゃねぇか。人生失敗せずにすんで」
膚に触れた指先の冷たさに、ひやりと身を捩る。確かに就職が決まって人生順風満帆のようだが、全く別の意味で人生踏み外してしまったような気がしてきた。
だんだん具体的になってきた火村の指や口唇に、初めのうちは冗談半分だったものが次第次第に本気に取って代わる。
---まずいッ! めちゃまずいぞ、これは。
潜り込んでくる指の動きを止めるようにシャツの裾を押さえ、触れる口唇を避けるように必死で顔を背ける。
「どアホッ。誰か来たらどうするんや」
「来ると思うか?」
焦った私の声とは対照的な、いつも通りのクールなバリトン。その声の調子と同じぐらいに、言葉の内容も的を射ている。口にした私だって、火村と同じようにここに誰かが来るなんてチラッとも思っちゃいない。何せ禁帯出の書物が揃ったこの部屋には、講義があっている時でさえも学生が訪れることは皆無に近かったのだ。それが夏休みともなれば、ここを訪れる人間などきっとゼロに違いない。が、しかし---。
「学生は来なくても、千石さんは来るかもしれんやないか」
千石さんというのは齢60うん歳の、この図書館の主ともいえる人だ。頑固一徹のおじいさんで、特に禁帯出図書の管理に関しては、この人の権限が学長よりも強いという噂が学内ではまことしやかに囁かれている。
「これ、何だ?」
耳元で鳴った金属の触れ合う音に、私は視線を火村の顔から音の元へと移した。視線の先にあったのは、年代物のごっつい鍵の束。そして、それにくっついた木札に書いてあったのは---。
「な…。何で君がここの鍵持ってんねん」
勝ち誇ったように、ニヤリと火村は笑った。
「千石さんに預かったんだよ。所用で出掛けるから、ここ使うんなら戸締まりしとけってさ」
あの千石さんが命の次に大事にしている、と言われている禁帯出の部屋の鍵を、火村に預けるなんて…。---こいつ、女子学生だけじゃなく、お年寄りキラーでもあったんかい。
「何なら鍵かけてこようか?」
かけんでいいっ。---私は、ブンブンと音がしそうなほど勢い良く、頭を左右に振った。ここ暫くの睡眠不足と思いも寄らぬ状況に、目の前がクラクラする。
「じゃ、アリスに選択権を与えてやるよ」
喉の奥で笑いながら、火村は耳元で囁いた。触れる吐息のくすぐったさに身を捩りながらも、私は藁にも縋る思いで次の言葉を待った。
「今ここでやるのと、夜、俺の部屋でやるのと、どっちがいいか、アリスが選べよ。ただし後者の場合、お預け食らった分しつこいぜ」
「二者択一だ。簡単だろ」と続けて笑った声に、私は顔を顰めた。例えどっちを選んだとしても、私にとっては嬉しい結果が待っているとは言い難い。
「…究極の選択ってやつやな」
困った…。心底困った。ここでやるなんて、そんな変態じみた真似は絶対にごめんだ。かといって「夜帰ってからの方がいい」なんて言ったら、「しつこくてもいいよ」と言ったも同然じゃないか。---どちらとも私が応えられないのを判っているくせに、敢えてそれと訊いてくるんだから、本当にこいつは性格が悪い。きっと私が困るのを見て楽しんでいるんだ。
「どうする、アリス?」
再度問いかけてくる声に、私は諦めたように息を吐いた。お陽様サンサンの真っ昼間に、図書館なんかで火村に抱かれるくらいなら、しつこい云々の台詞には目を瞑るしかないじゃないか。そして、火村が望んでいる答がどちらかといえば、それはもう言う必要もないぐらいに明白だ。
---この知能犯。
目の前の男前の顔に心の中で悪態をついて、私はゆっくりと答を口にした。
「---夜の方にする」
「判った」
腹立たしい程にあっさりと手を離す。こいつ、やっぱりそれを狙っていたな。まんまと上手く火村の罠に嵌ってしまい、てんで面白くない。
犯罪学の棚の方に歩いていく火村の背中を見つめ、舌を出す。つい今し方まで火村が座っていた椅子も引き寄せて、三つ並べたその上にごろんと横になった。途端、強い眠気が襲ってくる。取り敢えず今の内に眠っておこう、とか思いながら、ゆっくりと双眸を閉じた。
視界の先に、ほの明るい闇が広がる。その時、突然バサリと乾いた感触が頭の上に降ってきた。何だ、と疑問に思ったが、目を開ける気もしない。
「寝るんなら、それ引っ掛けていろ。風邪ひくぜ」
頭の上に火村のジャケットを被ったまま、気付かれないように小さく微笑む。そうして私は、降り注ぐ柔らかな声に向かってVサインを作った。to be continued
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