鳴海璃生
−3− 眼前に広がる光景に、唖然と口を開ける。肝試しをやるわけだし、それなりの場所だろうとは覚悟していた。そして、図書館で火村にも言われた。---が、しかし…。しかし、である。まさかここまで真っ暗だなんて、想像もしてなかった。
だいたい平安の時代じゃあるまいし、この科学の発達した現代にここまで暗い場所が、果たして存在するものなのだろうか。大阪生まれ大阪育ち、都会のど真ん中で暮らしてきた私には、とても信じることができなかった。思わず知らずの内に、ギュッと火村のジャケットの裾を握りしめる。
午後10時10分。火村の下宿で遅めの夕食を終えた私は、余り気乗りのしない火村を無理矢理引っ張って、足取りも軽くここへと遣ってきた。もちろん北白川天神へ行く道順なんて判らないから、火村に道案内をさせながら、なのだが…。
車も通らない国道30号線をテクテクと東へ歩き、山中越えの手前で右へと折れる。サラサラと耳に優しい白川の流れる音を聞きながら、時代をスリップしたかのような風情ある狭い通りを進む。やがて 5分ほど歩いた所で、火村がぴたりと足を止めた。物珍しげに周りの様子を見つめながら歩いていた私は、危うく火村の背にぶつかりそうになり、慌てて足を止めた。
「急に止まるな。危ないやないか」
背中越しに文句を唱えた私に視線をくれず、火村は言葉の代わりに顎をしゃくってみせた。それにつられたように、道の先を見る。細い通りに溢れた出たような感じの集団が、目に飛び込んできた。
「なんや、着いたんか…」
火村の肩越しに覗いていた私は先にたち、目の前の集団へと近寄っていった。
「でも天神さんなんて、どこにあるんや?」
暗い夜道に目を凝らしてみても、神社につきものの鳥居もお社も、何一つ見えない。だいたい周りには、極普通の住宅が建ち並んでいるのだ。とてもじゃないが、ここが肝試しに相応しい場所とは、到底思えなかった。
「行きゃ判るさ」
煙草を口にくわえたまま、器用に火村が喋る。含みを持った言い方に一抹の不安を抱えながらも、私は群れた集団の中に見知った顔を見つけ、名を呼びながら軽く手を上げた。
「有栖川、遅いぞ」
私に気付いた湯木英明が、一団の中から抜け出してくる。彼とは4年間、刑法の授業で机を並べた仲だ。代返、テストの前のノート…と、お互いに良く協力しあった貴重な友人だ。
「何や、君も来てるなんて思わんかったわ。ということは、無事内定取れたんやな」
「まかせろッ。第一希望、ばっちりやで」
笑いながら私の肩を叩いていた湯木が、突然私の後ろで視線を止めた。僅かに驚いたように目を瞠り、そっと耳打ちする。
「珍しいやないか。火村も来たん?」
後ろに立つ火村を気遣いながら、声を潜める。同様に、私も少しだけ声を落とした。
「女の子集めに駆り出されたんや」
「なるほど…。どうりで小池の奴が自信満々で、女の子も一杯来るから…なんて言ってたんやな」
どうやら私に声を掛けてきた茶太郎君は、小池君というらしい。湯木の親しげな様子から想像するに、たぶんゼミか専門が一緒なのだろう。
「それにしても、ようこんなに集まったな」
狭い道に溢れている人数に、ざっと視線を走らせる。どう少なく見積もっても、20人近くはいそうだ。茶太郎---小池君の口調から、集まっても10人前後だろうと予想していた私は、僅かに舌を巻いた。
「女の子達の殆どは、火村目当てなんやろうけどな。これが最後のチャンス、とでも思ってるんやないか。みんな、結構リキ入ってるみたいやで」
そう言われて女の子達の様子に視線を移してみれば、確かにみんな恰好に気合いが入っているような気がする。たかだか肝試し程度にしては、それぞれ浴衣を着込んだり可愛いサマードレスを身に着けていたりと、華やかなことこの上ない。目の保養にはなるが、何か今ひとつ面白くなくて、私は強引に話題を変えることにした。
「ところで、湯木。一体どこで肝試しやるんや?」
訊いた私に、一瞬目を瞠る。そして、湯木は呆れたとでも言うように肩を竦め、小さく息を吐いた。
「相変わらずのんびりしてるよな、お前は…」
どういう意味やねん。言葉の中身が不快だと言うように、眉を寄せる。口許に苦笑を浮かべ、湯木は右手を上げた。人差し指を立て、ゆっくりと移動させる。その動きに合わせ、私は視線を動かした。
湯木の指の先、突然視界に飛び込んできたものに、愕然と息を飲む。
---じょ、冗談やろ…。
目の前にある光景に、声を出すこともできなかった。私達が集まっている場所から2、3メートル先には、良く見慣れた石の鳥居。そのすぐ横には、社務所と思しき建物。昼間は破魔矢やお守りを売っているであろうその場所の扉も、今は全て閉ざされ、人のいる気配はまるでなかった。
そして、その社務所の前を山の方へと上がっていく細い道。そこには街頭の一つ、灯りの一個も見受けられなかった。続くのは墨を零したような闇、闇、闇…。その先が一体どこへ続いているのかさえも、ここからではとんと定かではない。
「アリス」
その光景から目を反らすことのできない私の耳元から、突然バリトンの声が飛び込んできた。闇に溶けるような低い声音に、ドキリと心臓が跳ねる。
「な、何や?」
振り返って、すぐそばにある男前の顔を凝視する。笑ったつもりだったが、顔の筋肉がまるで石のように固く感じられてうまく動かない。そんな私の様子にニヤリと嗤い、火村は顎をしゃくった。
「パートナーの組み合わせ決めるみたいだぜ」
「判った…。今、行く」
一歩踏み出した足が妙に重く感じられて、上手く動かすことができない。右足左足と交互に足を出すその動きが、ロボットのようにぎくしゃくとした動きになってしまっているのが、自分でも嫌になるくらい良く判る。
できることならこのまま振り向いて帰りたいところだが、それでは有栖川有栖の沽券に関わる。横にいるのが火村一人だったら今更そんなものどうでもいいし、あとで何とでも取り繕ってやる。だがさすがにその他大勢、しかも女の子もいる前では、プライドにかけてもそんなみっともない真似はできない。
---ちくしょう! もう、どうにでもなれやッ。
半ば自棄のように、私は小池茶太郎君の差し出したこよりを一本引き抜いた。こよりの先には、緑のインクで『8』という数字。そして私のパートナーには、同様に緑のインクでマークのついたこよりを引き当てた、同じ専門の講義を取っている淵上郁子ちゃんが決まった。
彼女とは、今まで余り話したことはなかった。でも、はっきり言って結構好みだったりするから、ちょっとはお近づきになれるよう頑張ってみようかな…、と思う。女の子にとってこれが最後のチャンスなら、それは男にとっても似たようなもんだ。
---大学最後の夏の思い出のために張り切って、一体なにが悪いッ!
背中に感じる視線に言い訳をするように、私は心の中で拳を作った。
「じゃ、男共のこよりに書いてある順番で、10分おきにスタートするからな。天神様の社の前まで行って、賽銭箱の前に置いてある藁人形を一つずつ、証拠として持って帰ってくること。それから帰りはこっちの道じゃなく、裏道の方を下りてくるんやで。藁人形を取り忘れたり、同じ道を戻ってきたりしたら、失格やからな」
この肝試しの主催者らしい小池茶太郎がそう怒鳴った後、まず最初のカップルが暗い鳥居の奥に向かって歩き出した。女の子の方が、僅かに隣りを歩く男に寄り添っている。あれはあれで、それなりに気持ちのいいものかもしれない。ただ私の場合、問題は---。
「ねぇ、有栖川君。こういうの得意?」
柔らかなアルトの声で、淵上郁子が訊いてくる。私はごほんと取り繕うように咳を一つして、紺色の浴衣に身を包んだ彼女の方を振り返った。
「苦手ってこともあらへんけど…」
語尾を濁した私の言葉に、郁子は胸に手を当てホッとしたように息をついた。
「良かった…。私、あんまり得意じゃないんよね。頼りにしてるから、宜しくね」
女の子のこういう台詞に張り切らなきゃ、男じゃない。---ってことで、私はドンと胸を叩いてみせた。
「大丈夫。任せたってや」
あー、俺のアホアホアホ。ここで見栄張って、一体どうするってんだ。確かに、ホラー系もオカルト系も、スプラッタだって苦手じゃない。但しそれは、映像や本の中でってだけで、ナマモノはどうにも今ひとつ…。
いや、それよりももっと大きな問題があるんだった。
火村の台詞じゃないが、真っ昼間の大学構内で器用に道に迷うことのできる私が、果たして無事社まで行き着けて、戻ってくることができるのだろうか…。どっちかっていうと、ホラー云々よりそっちの方が、ずっとずっと不安だ。
---こんなとこ来るのも初めてやのに、裏道やて…。冗談やないで、全く。あ〜あ…。こんなことなら、火村に道訊いて---そや、火村がいてるやないか。
淵上郁子にひと言断りをいれて、私は火村の方へと走っていった。まるで当然のように、火村の隣りに立つ美女に目を瞠る。お似合いといえばお似合いなその様子に、私の足取りは徐々に遅くなっていった。
「アリス、どうした?」
自分の方へ遣ってくる途中で立ち止まってしまった私を訝しむように、火村がこちらへと駆け寄ってきた。チラリと火村の後ろへ視線を走らせる。何となく睨まれている気がして、思わず火村の陰になるように移動した。
「おい、アリス。どうしたんだ?」
僅かに首を傾げ、火村は私の顔を覗き込んだ。
「別に何でもあらへん。それより君、ミス英都とペア組んだんか。ラッキーやな」
「バカか」
チラリチラリと後ろの様子を気遣う私の前髪を、くしゃりと掻き混ぜる。その手を振り解きながら、私は火村の端正な容貌を見つめた。皮肉気に口許を上げ、火村は私の耳元に唇を寄せる。
「この後の約束、忘れるんじゃねぇぞ」
「約束?」
聞き返した私に、いつもの質の悪い笑みが返ってくる。図書館での一連の遣り取りを思い出した私は、思わず目の前の男の頭を軽く叩いた。
「アホ。こんなとこで何言うとんのや、このスケベ。そんなことより俺、君に訊きたいことあったんや」
「スケベのうえに、そんな事とは…。随分と失礼な奴だな、お前も。この後の約束よりも大切な訊きたいことって、一体何なんだよ」
「言ってみな」とでも言うように顎をしゃくる火村を無視して、私は言葉を続けた。
「あんな、道教えてほしいんやけど…」
「道…?」
「そや。帰って来る時、裏道通るって言うてたたやろ。俺、ここ来たん初めてやから、そんなん言われても全然判らへんやん」
私の言葉に納得したように、火村は小さく頷いた。
「そんな心配しなくても、行きも帰りも一本道だから、迷ったりしねぇよ」
「ほんまに?」
「ああ。余計な好奇心を起こして妙なとこに入ったりせずに、真っ直ぐ道を辿れば、嫌でも社に着いて戻ってこれるって。それでも道が判らなくなったら---おい、お前何番目だ?」
唐突な火村の言葉に、私は手の中で握りつぶしたこよりを広げてみせた。
「8番目か…。俺の前だな。---だったら道に迷った時は、大声で俺を呼べよ。すぐ行ってやるから」
道に迷ったからといって火村に助けて貰うのも、何かめっちゃ情けない気がする。いつもだったら「ふざけるな」とか何とか、強がりでもって怒るところだ。しかし今日の場合は、例外だ。背に腹は返られない。仕方なく、渋々というように私は頷いた。私の応えに満足したように笑い、火村はもう一度私の髪をくしゃりと撫でた。to be continued
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