夏の月 <5>

鳴海璃生 




−4−

「ほんまに真っ暗やな…」
 寄り添うように隣りを歩く淵上郁子に聞こえないよう、小さく呟く。男のプライドにかけて、実は心臓がドキドキいってるなんて絶対に知られたくない。
 伺うように辺りを見回してみても、右も左も前も後ろも真っ暗。足下を照らすのは、藍色の空に輝く銀色の月だけだ。ホラーな怖さよりも何よりも、とにかく道に迷わないようにと、ただそれだけを何度も心の中で呟いた。
 ---余計な好奇心を起こさずに、真っ直ぐ真っ直ぐ。
 火村に言われた言葉を、念仏のように唱える。が、わざわざ注意されずとも、こんなとこで余計な好奇心を起こす気になど幾ら私でもなるわけがない。確かにホラーもオカルトも、そしてスプラッタだって映像や本の中でなら大歓迎だが、ナマモノモはパス。なるだけそういうものからは遠いとこに身を置きたいと思っているのだから、何があつても横道になんてそれるものか。
 そのくせして何故こういうイベントに参加したかというと、これもはもう溜まりに溜まったストレスの解消。---と、ちょっとだけ期待した、女の子との夏の思い出のせいに他ならない。そういう邪な期待も相まっているわけだから、何が何でも余計な好奇心で身を滅ぼすわけにはいかなかった。
 ---とにかく、真っ直ぐや真っ直ぐ。
 女の子の前で余計な恥をかいてたまるものか、と拳を握った時、息を飲んだような小さな悲鳴が耳朶を掠めた。ドキリと跳ね上がった心臓を、呼吸と一緒に慌てて飲み込む。
「ど、どないした…」
 口にした言葉は、途中で闇に消えた。ふわりと香る甘いシャンプーの香り。腕に触れた柔らかな温もり。ドキリ、とまた心臓が跳ねる。
「有栖川君、あそこ…」
 怯えるように少し震えたアルトの声。その声に呼応するように、ドキドキと私の心臓が自己主張を始めた。それを必死で宥め、私は細い指が指し示す方向へと首を巡らせた。ごくりと唾を飲み込み、闇の中に視線を凝らす。道の端から5メートルほど下の木々の間で、ゆらりゆらりとぼやけたような、闇に溶け損なったような白い陰が揺れていた。
「ひっ…」
 喉の奥で、言葉になり損なった声が引きつる。からからに乾いた口唇を嘗め、何とか絞り出した唾を飲み込み、乾ききった喉を潤した。右腕にしがみつく指の感覚がもたらす痛みに、私は僅かに眉を寄せた。が、その痛みさえ、どこか現実からは遠かった。
 ---落ち着くんや。怖い怖い思てるから、何でもない物まで妙なもんに見えてしまうんや。
 心の中で、自分を勇気づける言葉を繰り返す。手を伸ばせばいつでもすぐに触れることのできる存在が、今は私の傍らにない。途端に身体を貫いた奇妙な感覚を振り払うように、私は慌てて頭を振った。
 ---何考えてるんや。女の子がそばにいてるんやぞ。
 勇気を振り絞る言葉も、どこか空回りする。崩れそうになるプライドを掻き集め、私はゆっくりと言葉を紡いだ。
「あんなん、たいしたもんやないって。きっと誰かが捨てたコンビニの袋か何かが、木に引っ掛かってるんやて」
 引きつったような笑みを作りながら道の端に寄った時、木々の間の白い陰がふわりと揺れた。銀色の月の光を反射して、闇の中にその存在を主張する。
「きゃ〜〜ぁっ、いやーーーッ!」
 突然、闇の中に甲高い悲鳴が響いた。力任せにしがみついてきた郁子を支えきれず、ぐらりと身体が揺れた。途端、視界一杯に藍色の空と銀色の月が飛び込んできた。
 ---落ちるっ!
 そう思ったと同時に、私は反射的に右腕にしがみついている郁子を突き飛ばしていた。その反動が更に追い打ちをかけ、一度ふわりと浮いた私の身体は、地球の重力に引かれるように勢い良く崖を転がり落ちた。
 私の躯に薙ぎ倒されたり下敷きになった枝が、耳元でボキボキと乾いた音をたてて折れる。顔やTシャツの袖から出ている腕に、枝や下ばえの草が傷を作る。無意識の内に、私は両目を庇うように腕を上げていた。
 数メートルほど転げ落ちたあと、私は何か固い物---たぶん木の幹あたりだと思う---に思いっきり背中をぶっつけて漸く動きを止めた。頭に直接響いてくるような背中の痛みに目を瞑り、息を詰めるようにしてじっと耐える。
 5分程そうしていただろうか。何とか人心地ついた私は、二、三度確かめるように深呼吸をして、恐る恐るというよに目蓋を上げた。相変わらず背中はズキズキと痛むが、ついさっきまでの息をするのも辛い---というような痛みは感じられなかった。
 ホッと息をつき、身体を起こす。何気なくひょいと右足を持ち上げた途端、ズキリとした痛みが脳天を貫いた。瞬間的に顔を顰め、痛みをやり過ごす。
「参ったなぁ…。落ちる時に足挫いたみたいや」
 ぼそりと呟き、右足を動かさないように気をつけながら、私は木の幹に身体を預けた。首を傾げるようにして、自分の落ちてきた方向に目を凝らす。落ちている時はそれと気付かなかったが、私は結構な距離を転げ落ちてしまったらしい。いくら目を凝らしてみても、私が薙ぎ倒した草や細い小枝の先には、道らしきものなど何も見当たらなかった。
「上に登るのは、無理やろな…」
 背中の痛みだけなら、何とか耐えられる。だがこの足でどれくらいあるか判らない距離を登るのは、とてつもなく無謀に思えた。
 小さく溜め息を零した後ゆっくりと視線を巡らし、反対の方向に視線を移す。上に登るのが無理なら下に下りようと思ったのだが、それも無理なことに気付く。距離がどうのとか、足の痛みがどうのとか言う前に、この暗闇の中を何事もなく無事に動く自信がなかったのだ。それにだいいち、こういう状態では、登るより下りる方がずっと難しい。
 ---しょーがない。朝になるまで待つしかないか…。
 こんなとこで一人時を過ごすのは、余り嬉しい出来事じゃない。だが今のこの状況では、それが一番ベストな決断に思えた。
 腹を括ったように大きく息を吐き、私はゆっくり頭上へと眼差しを向けた。背の高い木々の合間に、銀色の月が見える。こんなに暗ければもっとたくさんの星が見えても良さそうなはずなのだが、明るい月の光にじゃまされて疎らな瞬きしか見つけることはできなかった。
「俺を呼べなんて偉そうに言うてたけど、こっからじゃ呼んでも聞こえへんやろな」
 目の前に浮かんだ男前の顔を振りきるように、私はそっと双眸を閉じた。


−5−

 縋り付く腕を煩わしげに払いのけ、うんざりした様子も露わに歩を進めていた火村は、突然闇に響いた悲鳴にぴくりと眉を寄せた。聞き違えようもなく耳に飛び込んできたのは女の声だったが、きっとまたアリスが何かやらかしたのだろう、と咄嗟に判断する。
「あんのクソバカ」
 チッと短く舌打ちして駆け出そうとした背中に、尖ったようなソプラノの声が突き刺さる。足を止め、ゆつくりと振り向いた視線の先に、細い眉を寄せ、睨みつけるような眼差しを注ぐ女の姿があった。
「ふ‥ん…」
 片頬を歪めるようにして鼻を鳴らし、火村は踵を返した。
「火村君!」
 責めるような女の声が、走り出した火村の背中を追いかけてくる。だがそれに露ほどの関心も寄せず、火村は走るスピードを上げた。
 ---アリスがスタートしてから10分後に出たから、それほど距離はないはずだ。
 たいしたことはない。どうせあの好奇心の塊が、また何かすっ惚けたことでもやったのだろう。---逸る気持ちを抑えるようにそう思ってはみても、走るスピードを落とすことができない。何かに急かされるように、火村は暗い一本道を真っ直ぐに駆け上がった。
 走り出して数分過ぎた時、数メートル先の闇の中に、白い花柄の模様が浮かんでいるのが目に飛び込んできた。闇の紛れて、浴衣の色を確認することはできない。だが、ぼんやりと頼りなく闇に浮かぶ大輪の白い花の柄には見覚えがあった。アリスとペアを組んだ淵上郁子が身に着けていたものだ。
 しかし幾ら目を凝らし、その模様の浮かんでいる辺りを凝視してみても、アリスらしき人影を見つけることはできなかった。アリスは白いTシャツを着ていたから、この闇の中に紛れ込んでしまうことなどありえない。
「一体今度は何やりやがったんだ、あのバカ」
 再度口中で悪態をつき、火村は走るスピードを上げた。闇の中に揺れていた白い花模様が、次第次第にその形をはっきりと現し始める。と同時に、闇の中に紛れ込んでいたような紺の浴衣地も、はっきりと見て取れるようになってきた。
「淵上」
 呼んだ声に応えるように、白い顔がゆっくりと声のした方向へ振り返った。その表情に、驚きと安堵の色が交錯する。1メートルほど手前でゆっくりと足を止め、火村は淵上郁子へと近寄っていった。歩きながら伺うように辺りを一瞥するが、やはりアリスの姿はどこにも見当たらなかった。
「火村君」
 ホッとしたと同時に、どこか媚びを含んだような声音が赤い口唇から漏れる。それに、火村はそれとは判らぬほど不快げに火村は眉を寄せた。落ちてきた前髪を乱暴に掻き上げながら、火村は郁子に冷めた視線を注ぐ。
「アリスは?」
 ひやりとするような冷たさを含んだ口調に、縋るように火村へと伸ばされていた細い腕がぴくりとその動きを止めた。それを目の端に止め、火村は再度同じ言葉を繰り返す。射るような火村の視線に晒された郁子は、怯えたように数歩後退った。
 確かに以前から、どこか他人を寄せ付けないような雰囲気を身に纏っている人間だとは思っていた。だがこんな凍り付くような怖さを感じたことは、今まで一度としてなかったのだ。もしかしたら上手く隠しおおせているだけで、火村英生の本質は、今目の前にいるその姿なのかもしれない。
「アリスはどうしたんだ?」
 耳朶に触れる抑揚のない声に、郁子はごくりと息を飲んだ。何とか言葉を搾り出そうとするのだが、まるで喉の奥が塞がれているようで、上手く声を出すことができない。
 言葉の代わりにゆっくりと視線を巡らし、郁子はアリスが落ちていった方向を見つめた。それにつられたように、火村も視線を道の端へと動かした。視界の先には、まるで人が転がり落ちたような跡が生々しく残っていた。
「落ちやがったのか、あのバカ」
 短く悪態をついた途端、火村はそちらへと駆け出していた。その火村のジャケットを、郁子が慌てたように引いた。
「火村君、待って」
「何だよ」
 煩わしそうに振り向いた火村が、顔を顰める。一瞬ごくりと息を飲んだ郁子は、怯みそうになる勇気を必死で振り絞って言葉を紡いだ。火村の冷たい視線に怯えてここで引いたら、この真っ暗な中に一人取り残されることになってしまう。何とかそれだけは避けたくて、火村を引き留めようと彼女も必死になった。
「待ってよ、どこ行くの?」
「アリスのとこだよ」
 何を当たり前のことを訊いているんだ、とでもいうような、冷めたぶっきらぼうな口調で応える。そしてゆっくりと視線を落とし、火村はジャケットの裾を握る白い手を乱暴に振り解いた。
「そんな…。ちょっと待ってよ。こんなとこに女の子を一人で残していく気なの? 有栖川君だって子供じゃないんだから、放っておいても自分で何とかするわよ」
 僅かに上げた声に、火村は片頬を歪めた。すっと細められた双眸に、郁子は凍り付いたように動きを止めた。端正な口許に浮かんだ、嘲るような冷笑から視線が外せない。
「そんなに一人でいるのが嫌なら、下に戻れよ。5分も下りりゃ、そこに高岡がいるはずだぜ」
 吐き捨てるようにそう言った途端、火村は崖の下へと身を躍らせた。
「火村君っ!」
 細いアルトの声が、縋るように火村の背を追った。が、火村はチラリとも振り向かなかった。闇の中にブルーグレイのジャケットが消えていく。一人その場に残された淵上郁子は、続く言葉を忘れたように佇み、ただ呆然とその様子を見送っていた。


to be continued




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