桜前線迷走中 <3>

鳴海璃生 




「まいった…」
 身体の中の澱んだ緊張感を吐き出すように、私はぼそりと呟いた。早々人見知りをする方でもないし、火村に比べればそれほど他人の存在を苦手とするわけでもない。がしかし、そうとは意識していない場所で、突然見知らぬ人間に出くわすというのは、はっきり言って心臓に悪い。おまけに今回は最初の第一歩からして大ドジなのだから、言わずもがな---である。
 ---やっぱ慣れた場所やからって、気ぃ抜いたらあかんわ。いや、それよか大人の落ち着きが…。
 猿なみの反省を頭の中で繰り返す。もっともいくらこの場で反省してみても、咄嗟の場合の出来事に対処する能力はいやになるくらい欠如しているのだから、あまり---いや全然役には立たないのだが。情けなさに溜め息をついた時、どこかからかいを含んだ火村の声が頭上から降ってきた。
「今度は一体なにやったんだ、お前は?」
 妙に楽しげなその声音に、見えない火村のその表情までもが想像できてしまい、私は何となく面白くない。それにこういう時の火村の性格の悪さは、長年の経験からよーく判っている。誘導尋問のごとき火村の罠に引っ掛かると、あとでめちゃくちゃ後悔することになる。自らを落ち着かせるようにゆっくりと息を吸い込み、私は火村に対抗すべく強気の姿勢を作る。
「別になんもやっとらんわ」
 フフンと仰け反るように身体を起こし、精一杯の虚勢を張る。
「ほぉ…。それにしちゃ、随分とお疲れのご様子だが」
「そんなん、火村の気のせいや」
「そうか?」
「そうやッ!」
 僅かに声を上げる。
 ---まずいッ。このままいくと、またしても火村の手に引っ掛かりそうだ。
 美味そうに紫煙をくゆらせながらのニヤニヤ嗤いがとてつもなく癪に障るが、私は頭の中の警鐘に従い、それを無視した。
「それよか君、ほんまにええ仕事してるんやなぁ」
 本能的に私は話題の転換を図った。このままこの話題を続けていくと、火村に洗いざらい白状させられてしまうのは目に見えている。
「いい仕事?」
 唐突に何の脈絡もない言葉が飛び出し、火村は私の意図を計るように眉を寄せた。
「そや。だって、あんな美人が教え子にいてるんやもん。めっちゃええ仕事やないか。ええよなぁ、火村は…。ほんま羨ましいわ」
 最後の方は独り言のように、私は小さく呟いた。大学時代からそうだったが、とにかく火村はもてる。火村自身に全くその気がないのにもて捲るから、腹のたち具合も倍増する。
 だいたい学生時代とは違って女性とは縁の少なくなるはずのこの年齢になってからも、女嫌いの火村のそばにはあんな美人の女子大生がいて、極々普通の私の周りはお寒い限りだなんて、どう好意的に考えても理不尽な気がする。別にお付き合いをしようとか思っているわけではないが、やっぱりそれなりの潤いは必要なんじゃないだろうか。
「おい、アリス」
 つらつらとそんな事を考えていた私の耳に、火村の低い声が届いた。
「何や?」
「お前はここに何しに来てるんだ?」
「…何って、火村に会うためやろ」
 唐突にへんな事を言い出す奴だ、と首を傾げる。そしてそこで止めておけばいいのに、お間抜けな私は余計なひと言を付け足してしまった。
「でも今日みたいに目の保養ができるんなら、もっとちょくちょく来てもええな。火村だけやったら、華があらへんもんなぁ…」
 ついさっきまでの狼狽えた様子はどこえやら…。すっかり落ち着いてしまった私は、火村の不機嫌に気づくことなく調子のいい言葉を綴る。もちろん無意識の内に口をついて出る言葉が、めちゃくちゃ不味い話題だということに思い当たるはずもない。
「あ〜あ…。ほんま火村が羨ましいわ」
 ほぉ…っと大きく息をついた途端、ゴツンと握り拳で頭をぶたれた。突然のことに一瞬なにが起こったのか、想像もつかなかった。目の前でチカチカと七色の星が瞬く。頭を左右に振って瞬く星を追い払い、私は拳の持ち主をじろりと睨みつけた。
「何するんや、この乱暴者ッ」
 短くなったキャメルを乱暴に灰皿で押し潰しながら、火村はゆっくりと双眸を眇めた。眼差しに浮かぶ剣呑な光に、私はごくりと息を飲んだ。
「アリス…。んなくだらねぇ事言ってると、二度とここには入れねぇぞ」
「何がくだらねぇや。別にええやろ。綺麗ぇな女の子見て目の保養するのの、どこが悪い---」
 一気にそこまで喋って、私は続く言葉を飲み込んだ。殆ど自分のテリトリーともいえる場所で強いられた緊張感から解放され、ついでにまずい話題を避けるように無意識に口にした話題が、それ以上に不味い話題だったことに、私は漸く気づいたのだ。
 互いにどう思っているかは別にしても、その行為においてお互いが友人以上の存在になってから、火村の前では女性の話題が禁句だということが暗黙の了解の一つになっていた。なのに、不味い話題を避けるために女性の話を持ち出すなんて、有栖川有栖一生の不覚。おとぼけにも程があるってもんだ。咄嗟にまずいっと思ったが、一度口にした言葉はどう足掻いてみても取り返しようがない。
「まだ何か言いたいことがあるか?」
 不機嫌も露わな口調と常以上の仏頂面に、私は返す言葉もなくブンブンと音がしそうなほどの勢いで頭を左右に振った。前髪がバサバサと額に当たって煩わしいことこのうえないが、今はそんなこと構っちゃいられない。
 慌てふためいた私の様子に小さく鼻を鳴らし、火村は新しいキャメルを口にくわえた。春爛漫の陽気に浮かれて、どうも今日の私はいつも以上に無防備で浮き上がっているらしい。
「---で、」
 煙草に火をつけながら、不機嫌のオーラを背負った火村が器用に言葉を綴る。既に二つもドジを繰り出した私は、次に何を言われるのかかが心配で心配で仕方がない。火村のなけなしの親切心---んなモンあるのかは大いに疑問なのだが---に縋って、願わくば別の話題を口にして欲しいと心の底で手を合わせた。
 開いた窓に向かって、火村が紫煙を吐き出す。青い空に溶けていく白い煙を私は目の端で追った。
「今日は一体なんの用なんだ。また何かやらかしたのか?」
 こいつ、私のことを何だと思っているんだ。---言っている言葉の内容はむちゃくちゃ腹立つが、取り敢えず火村が先刻の話題を続ける気がないことにほっと安堵する。
「別に何もやらかしてへん。何かっていうと、人をトラブルメーカーみたいに言うのは止めんかい」
 私の言葉を端から信じてないように右から左に聞き流し、火村は喉の奥で小さく嗤った。---全くもって癪に障ることこのうえない。そりゃ確かに色々とトラブルを引き起こしているかもしれない。だが、それは決して私の本意とするところではないのだ。全てが偶然の産物。声を大にして言いたいが、絶対に間違いなく私のせいではない。
「とにかくやな、今日はそんなんと違うんや」
 止まらない火村の嗤いを必死の努力で無視して、私は言葉を継ぐ。もっとも火村がどこまでマジに私の話を聴いているのかは、とてつもなく怪しいのだが---。
「今日は火村先生をお誘いに来たんや」
「---お誘い?」
「そや」
 一応聴いていたんやなと思いながら、私はゆっくりと頭を上下に振った。が、僅かに気を緩めたのも束の間、私見つめる眼差しに、私はむっとしたように頬を膨らませた。---よく目は口ほどに物を言うと言われているが、僅かに眉を寄せ振り向いた火村の眸の中に、またくだらない事じゃなかろうな…という懐疑の念が透けて見えたのだ。
 ---ちくしょう。この野郎、俺んことを一体なんやと思ってるんだ。
 この件については、一度じっくり膝突き詰めて火村と話し合う必要がある。あからさまに胡散臭そうな火村の視線に、私は心の中で拳を作った。が、取り敢えず今日のところは涙を飲んで、この件は保留にする。何といっても、貴重な原稿執筆時間を捨て、大阪から京都くんだりまで遣ってきた私の第一目標は、こんなことのためではないのだ。
「火村先生は研究に忙しくて気づいてないかも知れないがな、世の中春爛漫や。---で、この麗らかな季節にやることといったら、もうたった一つしかないやんか」
「---花見、か」
 長い指に煙草を挟み、イヤそうに呟く。
「そうッ、その通り! へぇ…、火村センセの辞書にもそういう情緒のある言葉が載っとったんかいな。殺人とか死体とか、殺伐とした言葉しか載っとらんのかと思っとったわ」
 揶揄るような私の口調に、火村が大袈裟に肩を竦めてみせた。
「俺の友人に、この季節になると毎年毎年同じことを言ってくる馬鹿の一つ覚えみたいな奴がいてな。そいつのせいで載せたくもねぇのに、余計な言葉を載せる羽目に陥っちまうんだよ」
 悪かったな、馬鹿の一つ覚えで。私はそんなに毎年毎年花見だと騒いでは---いたな、確かに。ただ色んな状況が重なって、ここ数年実行できなかっただけだ。
 そうと決まれば積年の恨み---あ、違うか---積年の仇---いや、これも違う---積年の…、あーっ、もう何だっていいッ。とにかく、今年こそは花見をやるんだ。決意も新たに、私はぐっと拳を握りしめた。
「なっ、なっ。火村、ええやろ。花見やろ、花見」
「---今からかよ」
「ちゃう。えっとぉ…」
 頭の中でカレンダーを捲り、私は指を折った。
「明後日、木曜日や。なっ、ええやろ。どうせ春休みやし、他に予定とかあらへんよな」
「木曜日? 何だよ、その妙に限定的な日付は…?」
 風に吹かれて落ちてきた前髪を鬱陶しそうに掻き上げ、火村が訝しむように訊く。それに、私は胸を張りながら応えてやった。
「実はな、今やってる中編の締め切りが、明日の水曜日なんや。だから脱稿祝いも含めて、締め切りを終えた後にパァーっと…」
 言葉に合わせたように、私は勢い良く両手を頭上で広げた。その私の鼻先で、仏頂面を晒した火村が指を3本突っ立てた。その仕種の意味が理解できず、私はそのままの恰好で眉を寄せた。


to be continued




NovelsContents