鳴海璃生
「---何やねん、その指?」
「3回だ」
「はぁ…?」
「お前のその台詞を聴いたのは、今年に入って既に3回目だって言ってんだよ」
はて、そうだっただろうか…?
とんと身に覚えのない私は、頭上から両手を下ろし胸の前で腕を組んだ。そして、記憶の底を探るように首を傾げてみる。決して火村の記憶力を疑うわけじゃないが、断定的にそう言われてみても一向に思い出さない。いやそれよりも、妙なことを事細かに覚えている奴だ、と逆に呆れてしまう。
「フ‥ン…。何で俺がそんなことを覚えているかって顔だな、アリス」
火村がすっと双眸を細くした。目の前にした獲物を追いつめるような眼差しに、じわりじわりと嫌な予感が背筋を這い上がってくる。
「えっ、えっとぉ…」
私の引きつった表情とは対照的に、火村がニヤリと底意地の悪い笑みを作った。火村ファンの女子大生から見れば、この笑みも十分魅力的なのかもしれない。だが今の私にしてみれば、まるで悪魔のごとき微笑みだ。
窓際からゆっくり歩み寄ってきた火村は、テーブルの上の灰皿で短くなったキャメルを揉み消した。胸のポケットから潰れかけたパッケージを取り出し、新しい煙草を引き抜いた。だが火をつけずに、それを指に挟む。
「俺はご親切様だからな、覚えていないんなら教えてやるよ。1月2月と続けて、締め切り明けにパァーと呑みに行こうと人を誘っときながら、お前はその2回とも締め切りが守れずに約束を反故にしたんだ。ついでに---」
指に挟んだ火のついていないキャメルを、私の鼻先に突きつける。特に先端恐怖症というわけでもないが、こういう仕種は余り気持ちの良いものではない。
「呑みに行くどころか、お前は締め切りが終わるまで、食事の支度から掃除洗濯---。家事全般にわたる一切合切を、俺にやらせたんだよな。後期試験、卒論、入試と目が回るほど忙しい時期の大学助教授様に、だ」
忘れてた…。そういえば、確かにそういう事をやったような記憶が、脳味噌の片隅にこびりついている。---が、しかし…。しかし、である。
「そりゃ、そういうこともあったかもしれんけどな、でも過去は過去、や。そんな1ヶ月以上前のことにグチグチ拘るなんて、男らしゅうないで、火村」
「ほぉ…。どの口が言うんだ、そんなふざけた台詞」
そう言った途端、火村は手加減なしに私の両頬を引っ張った。
「でっ! ---ご、ごめんなさい。この口が言いました」
殆ど涙目という情けない状態で、私は慌てて謝罪の言葉を口にした。フンと鼻を鳴らし、火村が手を離す。ヒリヒリと痛む頬を撫でさすりながら、私は恨めしげに男前の顔を凝視した。取り敢えずの報復で気が済んだらしい火村は、私の様子に頓着することなくキャメルに火をつけていた。
---ちくしょうーッ! この人でなし、鬼、悪魔。
とても口にする勇気---そんな無謀な真似をするほど、私は愚かではない---はないので、心の中で思いつく限りの悪態をつく。ここで火村の機嫌をとるのは口惜しいが、こんな痛い思いをしたからには何が何がも花見に行ってやる。いや、絶対行かずにおくものか。
「前の2回は、確かに俺が悪かった。謝る。ごめんなさい。---でも、今回は絶対や。絶対、原稿を上げるッ! もう死ぬ気で頑張るから、だから、なぁ花見行こう。なっ、ええやろ火村」
これ以上はないってなぐらいの低姿勢で、ついでに哀れっぽい口調で頼む。が、私の様子に心を動かされた気配もなく、冷血魔人の火村助教授は冷たい視線を注いできた。
「今までの自分の行いの悪さを悔やむんだな」
「だから、ごめんって。幾らでも誤ります。猿以上に反省もします。お願い、火村っ。花見行こう、花見。今度こそ、絶対絶対締め切り守るッ。約束します」
拝むように、火村に向かって手を合わせる。たかだか花見に何でここまでと情けなさもひとしおだが、もうこうなったらやけくその意地だ。ここで引き下がったら、今までの私の努力はゼロになる。
「ふ〜ん…。約束、ね」
含みを孕んだ声音に、私は視線を上げた。視界の先で、火村が煙草を挟んだ指でゆっくりと唇を撫でていた。
「アリス…」
「何やっ?」
好転の期待に声が上がる。それと判るほどに喜色を含んだ声音に、火村が唇の端を微かに緩めた。
「もし約束を破ったら、どうする?」
「破ったら…?」
そんなことはない---と胸を張って豪語したいところだが、例え世界がひっくり返っても、というほどの自信はない。それどころか、どちらかといえば地球が一回転する間に、私の強い決意が南港のヘドロの藻屑と消え去っている確率の方がずっと高い。
---いや、いかん。弱気は禁物や。
眦を上げ、私は火村と視線をあわせた。
「今回に限っては、そういう心配はあらへんけどな…。けど、もし---もしもやで---締め切りに間に合わんかったら、火村の言うこと何でも聴いたるわ」
「俺の言うことを何でも、ね。---ずいぶん強気じゃねぇか、アリス」
「当然や。今回の俺は、今までの俺とは違うんや」
フフン、と眉を上げ胸を張る。その私の姿を横目に見つめながら、火村は暫くの間勘案するように煙草をくゆらせた。その火村の一挙一動を推し量るように、私はじっと凝視した。
「OK、判った」
キャメルを指に挟んだ火村が、おどけたような仕種で両手を広げ、それを肩のあたりまで上げた。
「アリスのお誘いを受けようじゃねぇか」
「ぇっ、ほんまに?」
テーブルの上の灰皿に短くなったキャメルを投げ捨てながら、火村は鷹揚に頷いた。
「---ただし、だ。もしまたアリスが締め切りに遅れたせいで約束が反故になったら、さっき言った通り俺の言うことは何でも聴くんだぜ?」
ニヤニヤと質の悪い笑みを口許に浮かべ、火村は念を押すように問い返す。男前の容貌に浮かぶ妙に楽しそうな表情に、私はごくりと唾を飲み込んだ。
---何か、嫌な予感…。
もしかしたら花見に浮かれて、私はめちゃくちゃ不味いことを口走ったんじゃなかろうか…。
「あ‥、あんなぁ、火村…」
恐る恐る口を開いた私の言葉の先を促すように、火村が片眉を上げる。
「言うとくけど、何でも言うことを聴くいうても、俺にできる範囲内で、やで」
「当たり前だ。お前にできないことを言っても仕様がねぇだろうが」
「…だよな」
安心したように、ほっと息をつく。火村の持って回った言い回しと妙に楽しそうな表情に一抹の不安を覚えたのだが、それだったらこれと言って問題はない。
もしまた締め切りをドジったとしても、ちょーっと火村の言うことを聴く程度でことが済むのなら、万々歳だ。オールオブオッケーのノープロブレム。勝ったも同然じゃないか。
「じゃ、決まりやな」
満面の笑みで確認する。
「いいぜ、木曜日だな。ちゃんと心して、時間と身体を空けといてやるよ」
「んじゃ、水曜日の夕方までに原稿を上げて、それから火村んちに行くわ」
「言い出したのは、お前だからな。何でもお前の好きにしろよ」
ナイス。今日の火村は100年に一度拝めるかどうか、というぐらいに物わかりがいい。さすがは世紀末。不気味なこともあるもんだ。
---この機会を見逃したら、次はいつになるか判らへんからな。
100年に一度の行幸とばかりに、私はついでのように、そして殊更さりげなく---が、もちろん期待だけとド〜ンと背負って---、もう一つの謙虚なお願いも口にすることにした。
そう…。花見といえば、これ。忘れちゃならないのが、お弁当だ。
「でな、火村。ついでと言っては何やけど、弁当も作って欲しいんやけど…」
言葉尻が、心持ち小さくなる。いくら100年に一度の行幸、世紀末の珍事とはいえ、日頃の経験が私を臆病にする。思った通り、花見に浮かれた私の言葉に、火村がぴくりと肩を揺らした。
---ありゃ、まずったかな…。
小心者で臆病な私は、僅かに身体を固くした。微かな緊張を孕む私の視線の先で、火村は大袈裟に息を吐き出した。
「まっ、仕様がねぇか…。好きにしろって言ったしな。但し、材料はお前持ちだからな。それでいいんなら、来る時に好きなもん仕入れて来いよ」
---ちょっと待て。一体なんなんだ、火村のこの反応は…?
いつもなら「ふざけるな」とか、「甘えるんじゃねぇ」とか、「いい気になるな」とか---。罵詈雑言の限りを尽くす男が、何で今日に限ってこんなに極端に物わかりがいいんだ? いくら世紀末で世の中奇妙なことのオンパレードとはいっても、さすがにここまでくると、明日にでも地球が滅びるんじゃないかと不安になってくる。
「---火村、体調でも悪いんか? もしかして熱あるとか?」
心優しい私は、目の前で呑気に煙草をふかしている友人に恐る恐るお伺いをたててみる。いつもと違うと単純に喜んで目先の幸せにどっぷり浸っていると、あとの反動が怖い。地球の明日も大事だが、それより何より自分の明日の方がもっと大事だ。
「別に何ともないぜ」
胡散臭そうに私を見つめる友人の言葉に、私は曖昧に頷いた。
「あっ、ほんま…」
火村が胡乱な眼差しで、私の質問の真意を問い掛けてくる。が、さすがに「今日の君が物わかりが良すぎて不気味やから」とは言えなくて、私はモゴモゴと口中で言葉を濁した。
「…あんなぁ、ちょっと訊きたいんやけど。君、もしかして俺が絶対締め切り破る、とか思ってるんやないやろな?」
「そこまでは思ってねぇぜ。まぁ今までが今までだから、絶対だって言うお前の言葉をまるまる100パーセント信じちゃいねぇがな」
火村にしては、なかなか謙虚で控え目な言葉だ。そりゃま、日頃の私の行いを省みれば、火村の言葉は全くもってその通りなんだろうが、それにしても何か…。今日の火村と私の知っている火村との言葉の隔たりが余りにも大きすぎて、今ひとつ素直に火村の言葉を信じることができない。
---俺が疑り深すぎるんやろか…。
一見いつもと何ら変わらない表情の裏に隠された真意を推し量るように、私はじっと火村を見つめた。私の視線に、火村は小さく肩を竦め口許に苦笑を刻む。
「何だよ、その面」
「だって、何か不気味ゃないか」
「ふ〜ん、不気味ね。---別にいいぜ。アリスがそこまで言うんだったら、花見も弁当も無しってことで、俺は一向に構わないぜ」
「あっ、うそうそ。今の取り消し。やから、ちゃんと花見やろうな。---で、もちろん弁当は火村の手作り。これで決まりや、なっ」
火村の言葉に、私は慌てて場を取り繕った。こんな事で気分を斜めにされて、花見が取り止めになったらたまったもんじゃない。もしそんなことになったら、今までの私の努力は全て無駄、水泡に帰してしまうじゃないか。
わざわざ京都くんだりまで遣ってきて何の楽しみも見いだせない---しかも途中まで上手く行きかけて、だ---なんて、冗談じゃない。しかもこれからまた大阪に取って返して、あの『男と女のうんたらかんたら』の続きを捻出するのかと思うと、もうお先真っ暗。地獄への道程だ。締め切りなんて、絶対に守れっこない。
それぐらいだったら、火村が不気味だろうが、世の終わりだろうが、もう何だっていい。目先の幸せ、万々歳だ。100年に一回ぐらい、火村の物わかりがいい日があってもいいじゃないか。今日は大安で大吉でラッキーデイで、何かよく判らないが、きっとめちゃくちゃいい日なんだ。うん、そうだ。そうに違いない。
「おい、アリス」
耳朶に触れたバリトンの声が、私の思考を止めた。
「何寝惚けたこと言ってやがる。ちゃんとやるのは、お前だろうが。---いいか、帰ったらさっさと原稿に取りかかるんだぞ。いつまでもウダウダダラダラやってんじゃねぇぞ」
私の思惑などどこ吹く風という様子で、半分嫌味を交えながら、まるで宿題をしない子供を諭すように火村が言う。有り難すぎる火村先生のお言葉に、私は大まじめでVサインを作ってみせた。
「大丈夫、まかせてや。---人間、やっぱ励みがあると違うもんやて。見事に締め切りをクリアして、木曜日は火村の手作り弁当でパァーと花見やっ」
反り返るように胸を張り高笑いをする私を横目に見つめ、火村は呆れたように小さく肩を竦めた。to be continued
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