桜前線迷走中 <5>

鳴海璃生 




−3−

 青い空に淡いピンクの花が揺れる。
 まるで1枚の風景画を見ているような、見事なコントラスト。---人間の手ではとうてい造り出すことのできないその美しさに、私はホッと大きく息を吐いた。
「日本の春やなぁ…」
 頬に触れる心地よい風を思いっきり吸い込み、誰にともなく囁くように呟いた。
 締め切りに追われていた昨日までの日々が、まるで嘘のような開放感。身体を取り巻く空気は暖かく、そして柔らかい。時折髪を揺らす風さえもが、ほんのりとした甘さを含んでいるような気がする。
 確実に季節が一つ進んだことを感じ、私は空を抱きしめるように大きく伸びをした。開いた掌に空の青が触れるような感触に、私はふわりと笑み崩れた。
 見上げた視線の先に広がる、雲一つない晴天。目に痛い程の青い空が、遥か彼方まで続いている。冬のりんとした、どこか尖った感じを受ける青とは違う、ほんのりと柔らかさを含んだ春の青空。その空に反射する陽の光が、昨日までもぐらのごとき生活をしていた私には、とてつもなく眩しく感じられた。
 目の前で空気の粒子の一つ一つがキラキラと輝き、ダンスを踊る。それに合わせたように揺れる桜の花。---風のそよぎに合わせ淡いピンクの花弁がゆらりゆらりと漂う様は、まるで幸福の象徴のようだ。
 ああ…、頑張って原稿上げた甲斐があった。---などと、ひと時の幸せを満喫する。
「おい、アリス」
 幸せ満杯状態で深呼吸を繰り返す私の耳に、無粋なバリトンの声が響いてきた。この夢のような美しい風景の中でさえも、いつもと何ら変わらぬその声の調子に、私は僅かに双眸を細めた。
 初めて聴いた時からずっと、いい声やなぁ…と感心していたし、また持ち主本人には絶対内緒の、私のお気に入りの一つでもあるのだが、余りいつもと変わらないその声音が、今日のこの風景の中では妙に無粋に感じられた。
 眼前の広がる美しい風景に心を奪われるとか、感動するとか、幸せを感じるとか---。せめて口調の端にでも、微かにでもいいから、言葉の中にそういう雰囲気が感じられれば、少しは可愛げもあるのに…。が、耳に飛び込んできたバリトンの声には、そんなものは微塵も感じられなかった。
 もっとも火村にそういう感覚を求めても仕方がないというのは、10数年に及ぶ長い付き合いの中で重々承知している。だが、このふんわりとした風景の中に響くクールなバリトンの声は余りにも場違いも甚だしくて、ちょっとだけむかついてしまったとしても、それは断じて私が悪いわけではない。甘く優しい夢の中から無理矢理現実に引き戻されれば、誰だって多少は気分が悪くなるものだ。
 当然私の幸せ気分も、直滑降でトーンを下げた。心を乱す締め切りとも暫くの間は無縁だし、念願の桜は夢のようにきれいだしで、本当に久し振りに幸せをしみじみと噛み締めていたのに…。あ〜あ、勿体ないったらありゃしない。
 なのに、容赦のない火村の無粋な声は、腹がたつぐらいに朗々と周りの景色に溶け込んでいく。---なんや、やっぱりいい声やないか…と、頭の片隅でちらりと考えてしまった自分が、めちゃくちゃ口惜しい。
「日本の春は判ったから、いい加減その惚けた表情を何とかして、荷物を一つ持てよ。それとも、ここで店を広げるつもりなのか?」
「だめやっ! もっと奥にいい場所があるんやから」
 慌てて振り返った私に、火村がニヤリと頬を歪めてみせた。
「だったらこんなとこで足止めくってねぇで、さっさと行くぞ」
 本当に情緒のない奴だ。この美しい景色と人みな浮かれ捲る季節に、これほど不似合いな人間も早々いはしまい。
「ほれ」
 私のリクエストに応じて作られた弁当が目一杯詰め込まれた重箱の風呂敷を、ぐいと私の胸に押しつける。そして私が間違いなく両手でそれを受け取ったことを確認すると、火村はくわえ煙草で歩き出した。
 周りの景色に心惹かれた様子など欠片もないほど、大股にスタスタと歩いていく。いやそれどころか、この桜のトンネルが目に入っているかどうかさえ怪しい。
 ---ったく、もう…。
 前を行く背中に向かって一つ溜め息をつき、私はおいていかれないようにと、小走りにその背中を追い続けた。
「アリス、どこまで行くんだ?」
 交わす言葉もなくテクテクと桜のトンネルの中を歩いていた時、突然火村が声を掛けてきた。その声に、私は視線を声の主へと移した。ぼんやり上を見上げながら、或いはキョロキョロと辺りの様子を見回しながら歩いている私と、周りの様子など気にも止めていない火村との間には、結構な差が開いていた。
 思い重箱を抱きしめながら、慌てて前を行く背中を追いかける。情けないことに、僅か数メートルを走った---それも全力疾走というわけでもないのに---だけだというのに、私の息はそれと判るくらいに上がってしまった。
「えっ‥と…、もうちょい行って右や」
 息を整えながら応えを返す。が、それに返事を返しもせずに、火村---しかもこいつ、チラリとも振り向きもしない---は大股に歩を進めた。
 ---腹空いてんのかな、こいつ。
 身体の正面にある重箱の包みを、細心の注意を払って少しだけずらし、私はチラリと素早く腕時計に視線を落とした。時計の針は既にお昼の時間を超え、堅気の会社ならば昼休みも終わろうか、という時間を指し示していた。
 朝起きた時間が、そう早かったわけではない。だが、それでも8時半には起きて弁当を作って、それから火村のおんぼろベンツに揺られてここに到るまでに、既に4時間以上の時間が過ぎ去っている。
 ---何か俺も腹空いてきたなぁ…。
 現金なもので、そうと時間を意識した途端に、今までおとなしかった腹の虫が活発に活動を始める。
 ---我慢や。あともうちょっとで、目的の場所に着くんや。
 私の目指す目的地までは、多分あと5、6分は掛かるに違いない。別に無理にその場所まで行く必要もないのだが、締め切りの合間を縫ってガイドブックをひっくり返して見つけたその場所を、まだ我慢できるくらいの空腹で捨て去るのは、めちゃくちゃ勿体ないような気がした。
 何せガイドブックには、穴場中の穴場と書いてあったのだ。しかも今日は、春休みとはいえ極々普通の平日。穴場中の穴場は、きっとスペシャル級の穴場にランクアップしているに違いない。
 心持ち歩く速度が速くなった私は、火村の右に並んだ。相変わらずチェーンスモーカーの助教授は、冬場の排気口のように煙を吐き出している。だが呆れるくらいの早さで次から次へと吸い殻を生産しているにも拘わらず、マナーの悪い喫煙者のように吸い殻のポイ捨てをすることなく、ジャケットのポケットの中に簡易灰皿を持ち歩いているところなどは、喫煙者の鏡と言ってもいいくらいだ。
 さすがは最高学府で教鞭をとる教育者。普段は礼儀やマナーという言葉を辞書の片隅にも載せていないような奴だが、こと煙草に関してだけはたいしたものだと、心の中で感心する。できればその品行方正さを、他の面でも見せて貰いたいものだ。
「アリス」
 不意に名を呼ばれ、私は弾かれたように視線を上げた。遥か彼方まで続くかと錯覚しそうな程の桜のトンネルがいつの間にか途切れ、視線の先には広い空間が広がっていた。サラサラと、どこからか水の流れる心地よい音が響いてくる。
 ゆっくりと視線を巡らせれば、左手にはまるで空気の色さえも変えてしまいそうな桜の森。まるでその美しさを競うかのように咲き誇る桜の数に圧倒され、私はごくりと息を飲んだ。その桜の森の中を迷路のように何本も続く遊歩道の奥は淡いピンク色に霞み、それが一体どこまで続いているのかさえ想像できない。
 右手には、緑の野原と青い空。視線の先には緑の山々が連なり、その麓には薄く霞んだようなピンクが身を飾るリボンのように長く続いてた。
 遊歩道や野原にはちらほらと人の影が見えるが、あの想像を絶するような花見の喧噪はここでは微塵も感じられなかった。まるで桜のトンネルを抜け、別世界に迷い込んだような気さえする。もしかしたら、この場所では時間さえもがゆったりとたゆたいながら流れているのかもしれない。
「桃源郷みたいやな」
 ぽつりと呟いた言葉に、火村が小さく笑った。
「ほぉ、まるで行ったことがあるような口振りだな。---ということは、アリスは弁当を食べなくても霞みで十分てことか」
「どアホッ! んなわけあるかいっ!」
 喉の奥で笑いながら、火村は片手に持っていた包みをひょいと掲げてみせた。
「それじゃ、どこで食事にする?」
「そやな…」
 私は辺りの様子をキョロキョロと見回した。視界に、桜の森へと通じる、迷路のような遊歩道が飛び込んでくる。
「なぁ、あの遊歩道をもうちょっと奥まで行かへん?」
「アリスがまだ飯を我慢できるって言うんなら、俺は別に構わないぜ」
「人を欠食児童みたいに言いなや。あと数分食事の時間が遅くなったからって、文句なんて言わへんわ」
 火村のからかいに応戦しながら、私は先にたって遊歩道の一つ、一番細い道へと入っていった。


to be continued




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