桜前線迷走中 <6>

鳴海璃生 




 風に揺れ、空気の中を漂うようにヒラヒラと舞い落ちる桜の花弁をゆっくりと目で追いながら、細い道を奥へと進む。視線を上げれば、今を盛りに咲き誇るピンクの花の向こうに、やはり雲一つない青空が広がっていた。
「やっぱり春は桜やなぁ…。こーいうの見ると、ほんま日本人で良かったと思うわ」
 魅せられたようにうっとりと呟く。ゆっくりと空気に溶けていく私の声に、からかいを含んだバリトンの声が重なった。
「そうは言っても、アリスの場合は花より団子って気がしないでもないがな」
 背中越し、数歩後ろから聞こえてきた声に、咄嗟に言葉に詰まる。「そんなことはないッ!」と声を大にして言い返したいところだが、胸に抱えた重箱の重さが火村の言葉を否定することを妨げていた。
 果たして二人で食べきれるのだろうかという程の量を、しかも私の好物ばかりを詰め込んできた弁当を胸に抱きしめた状態で、いかに自分が団子より花を愛でているかを口にしたとしても、信憑性の欠片も無いことこのうえない。
「そうやない。俺は、花も団子も愛してるんや」
 取り敢えずこの程度が、今の私にできる精一杯の反論だろう。これ以上団子よりも花を力説すると、火村に余計な言質を取られる羽目に陥るのは、火を見るよりも明らかだ。そして小心者の私には、今のこの状況で火村の皮肉を有り難く拝聴する気など更々なかった。
「そりゃまた、ものは言いようだよな。---で、両方を愛している有栖川センセイは、一体どこまで行くつもりなんだ? あんまり奥に入り込むと、迷子になって戻れないんじゃねぇか」
 余計な世話や。本当にひと言もふた言も多い奴だ、と小さく溜め息をつく。態とらしい程にゆっくりと足を止め、私は後ろを歩く火村へと身体ごと振り返った。
 男前の顔に浮かんだ揶揄するような表情に負けじと、私はにっこり笑いかけた。一応言い返す言葉は、私だって考えているんだ。今さらの火村の皮肉にいちいち意地になって言い返す気は余りないが、負けず嫌いの私としては好き放題言われっぱなしでいるのはどうにも我慢がならない。
「何や、腹減っとんのか? だったら我慢せずに、早う言えばいいのに…。遠慮するなんて、火村センセらしくないんやないか」
 もちろん火村の辞書に『遠慮』なんて言葉が載っているわけないのは、よぉく理解している。---私は、ニヤリと勝ち誇ったような笑みを作った。その私に向かって、火村は思いっきり嫌味たらしく紫煙を吹き付けてくる。
「誰が腹が空いてるって…? 俺は時間が経ちすぎて、俺の力作の味が落ちるのが嫌なだけだ」
 腹が空いているのはお前の方だろうが、と言わんばかりの口調に、私は眉を寄せた。そうとは認めたくなくても、確かにさっきから目の前の花よりは胸の中の重箱の方に気が向いていることは否めない。
「しゃあないなぁ…。俺はもうちょっと花を愛でていたいんやけど、火村の腹の具合も考えてやらんとあかんもんなぁ…」
 目一杯恩着せがましく言い放った私を、再度紫煙の霞みが取り巻いた。
 細い遊歩道を外れ、桜の森を奥へと向かう。まるで迷路に迷い込んでいくような、嬉々とした興奮が身の内を駆け巡る。
 木々の間を縫うように数メートル進んだ所で、私達は昼食を摂ることにした。一際大きく枝を張った桜の樹の下に持参したシートを広げ、手に持った荷物を置く。そして「よっこらしょ」と年寄り臭いひと言を発し、私は靴を脱いでシートの上に座り込んだ。
 陽光にほんのりと暖まった爽やかな風が膚に触れ、耳を澄ませば、どこからか微かな鳥のさえずりが聞こえてくる。声の主を捜すようにぐるりと視線を巡らせてみても、鳥の姿はどこにも見あたらない。
 当然のことながら、辺りには私達以外の人の姿はない。この贅沢な空間を独り占めした幸運に、知らず知らずの内に笑みが漏れる。ここ数年締め切りに追われて花見の時期を逃がし続けた口惜しさも、今のこのひと時で一挙に拭い去られる気がした。
「きれいやなぁ…」
 ここに来て一体何度口にしたか判らない言葉を、飽きることなく口にする。
「何か日頃の行いの良さが、こうやって報われるんやなぁ…って気ぃするわ」
 桜の花を見上げ、私はすっかり夢見心地だ。が、口からひっきりなしに漏れる賛嘆の言葉とは相反するように、私の手は身近な、だがそれなりに切羽詰まった現実を握りしめていた。
「弁当開きながら言われても、素直にそうとは頷けねぇな」
 視線は頭上の桜を追いながらも、確固たる手つきで弁当の風呂敷を紐解く私の手元を見つめながら、火村は呆れたように呟いた。
「煩いわ」
 私だって自分の言葉と行動がぜんぜん伴っていないことは、嫌になるぐらい自覚しているんだ。それをわざわざ口にするなんて、余りに根性がひねくれ捲りすぎてるんじゃないか。こういう場合は、そうと判っていても気付かない振りをするのが友情ってもんだ。
 しかし火村に悪態をつきながらも、風呂敷を紐解く私の手は止まらない。固く結ばれた結び目を解き、三段重ねの重箱を一つずつシートの空いた場所に置いていく。
 どちらかといえば、火村の方よりも私のいる場所に重箱が近いのは、私の当然の権利だ。確かに弁当の中身を作ったのは火村だが、私だってちょっとは手伝ったし、材料代は全部私持ちだし、いやそんな些細なことよりも、ここまで大事に大事に重箱を抱えてきたのは、他ならぬ私自身なのだから。
 火村の持っていたペーパーバッグの中身も取り出して、シートの上に置く。目の前に店を広げたお弁当の数々を一瞥し、私はにっこりと満面の笑みを刻んだ。
 ぱっと見、その様子はまるで小学校の運動会のようで、私は妙に嬉しくなってしまった。いや、それを差し引いたとしても、お弁当の時間というものは何より嬉しいものだ。運動会にしても遠足にしても、そして日々の学校生活の中に於いても、1番の楽しみはこれにつきる。
「いただきます」
 丁寧に手を合わせ、私は早速おにぎりの並んだ重箱へと手を伸ばした。私のリクエスト通り、のり玉がまぶした物や婆ちゃん手作りのお漬け物で巻かれた物が、窮屈そうに重箱の中に並んでいた。もちろんオーソドックスに海苔で巻いたおにぎりもあるし、少しだけ手間を掛けたお味噌をつけて焼いたおにぎりだってある。
「アリス、自分で作ったやつを取れよ」
 きれいな三角形ののり玉おにぎりを手に取った私に、火村がすかさずクレームをつけてきた。人がいい気分に浸っているのに、いちいち小煩い奴だ。
「別にどれ取ったかてええやろ。君も遠慮せんと、俺の作ったおにぎり食べてもええで」
 そう言いながら、空いている方の手で三角とも丸とも言えない抽象的で前衛アートな形のおにぎりを取り上げ、私は火村の前に突き出した。それを嫌そうに見つめ手を出してこない火村に向かって、ほれほれとばかりにおにぎりを近づけていく。
「何でお前の作ったこんな不格好なやつを、俺が喰わなきゃいけないんだ。自分で作ったやつは、自分で責任持って喰えってんだ」
 ぶつぶつと文句を唱えながらも、火村は私の力作の前衛芸術的なおにぎりを手に取り、仕方なさそうに口へと運んだ。
「なっ、多少形は悪うても味は超一流やろ?」
 私の問い掛けにジロリと質の悪い視線を注ぐだけで、これといった返事はない。
 ---まっ、ええか…。
 頭の中から火村を追っ払い、私は目の前の弁当へと視線を落とした。材料を調達してきたのが私なのだから当然と言えば当然なのだが、重箱の中には見事なくらいに私の好物ばかりが並んでいる。
 一番上の重箱には、グリーンアスパラを牛肉に巻いて焼いたもの、クリームコロッケ、鳥の唐揚げ、ミニハンバーグ、焼売に茹でた海老。面倒くさいと渋る火村に、「めちゃくちゃ食べたい」と強固に主張したお麩の霰揚げも入っている。
 それまではお麩なんて鯉の餌と思っていたのだが、大学に入ってから食べた---火村にむりやり食べさせられた---京都のお麩がめちゃくちゃ美味しくて、今では豆腐と共に私の二大お気に入りにまでなってしまった。
 卵焼きは出汁巻きと、卵に牛乳と砂糖を混ぜて甘くしたものの2種類。---余った卵で茹で卵も作って、ちゃんとかわいらしいお花型に切ってある。そして、忘れちゃならないお弁当の定番、タコさんウインナー。最近ではめっきり見掛けなくなった赤い色付きウインナーをわざわざ選んで買ってきた私をからかいながら、火村はついでとばかりにカニさんウインナーも作ってくれた。
 二段目の重箱は、花見に行くのなら…と婆ちゃんが腕を振るってくれた煮物類。もちろん、私の大好きな肉じゃがと筑前煮だ。火村の作ってくれる煮物も十分美味しいが、やっぱり婆ちゃんの味には35年ほど敵わない。
 三段目は、火村と私が作ったおにぎり。それに、これまた婆ちゃん手作りのお漬け物と梅干し。鮭の塩焼きに切り干し大根。ひじきの煮付けも婆ちゃんが入れてくれて、なかなか渋いお重になっている。
 火村が抱えていたペーパーバックには、お茶とコーヒーが入った魔法瓶が一つずつ。小学校の遠足前の注意で「これはおやつですか?」と必ず突っ込みの入るバナナも、私が一人でお約束の突っ込みをやりながら入れてしまった。
 婆ちゃんが貸してくれた小さなお弁当箱には、うさぎさんの林檎にオレンジとキウィ。ここに来る途中、出町ふたば本舗に寄って豆餅も買った。ついでに嵐山の琴きき茶屋の桜もちも買いたいとリクエストしたのだが、「いい加減にしろ」と火村に一喝されて泣く泣く諦めた。
 何はともあれ、好物ばかりが並んだ弁当というものは、全くもって気分がいい。しかも、周りは満開の桜の花。お花見につきものの煩わしい人影も喧噪も無く、完全無欠な貸し切り状態。もしかしたら今の自分が世界中で一番幸せなんじゃないか、と感じるのは、きっとこんな時に違いない。
 風に乗ってゆっくりと舞い落ちる桜の花弁を目で追い、話す言葉も無くもくもくとお弁当をたいらげる。まだ温かいお茶を飲み人心地ついたところで、私は漸く目の前の人物に気を回す余裕が出てきた。豆餅を掴みながら視線を移すと、火村はコーヒーの入った紙コップを片手に、食後の一服を楽しんでいた。
「天気良くて良かったな」
 私の言葉に、火村は僅かに肩を竦めた。
「全くだぜ。もしこれで雨でも降ったなら、少なくとも3年はアリスの愚痴を聴く羽目に陥ったぜ」
 火村の言う3年という期間がどういう根拠で出てきたのか定かではないが、失礼にもほどがある。火村じゃあるまいし、私はそんなにしつこくはない。だいたい、今日がダメなら明日、明日がダメなら、明後日、明々後日---。桜が咲いている内に、きっちりと花見は決行してやる。そのために締め切りを守ったんだから、絶対に諦めるもんか。
「好きに言ってろ。今の俺はもう幸せ満杯気分なんやから、君の悪口雑言も心よぉ聞き流せるわ」
「寛大な心遣い痛み入るぜ」
 そうとはぜんぜん思っていない口調で、火村が呟く。私の繊細な神経にピリピリと障るが、まっいいか。
 文句を口にする代わりに、私は手に持ったままだった豆餅を口の中に放り込んだ。素っ気ないくらいに甘さを抑えた餡が口中一杯に広がり、満足の息をつく。手の中で少しだけ温くなったお茶を一気に飲み干し、私は2個目の豆餅を手に取った。
「しっかし、桜きれいやなぁ。こんなにきれいやと、坂口安吾の言うたんはほんまかもしれんて思えてくるわ」
「坂口安吾? 何だよ、そりゃ」
 コーヒーに豆餅という不気味いい組み合わせを楽しんでいる火村が、訝しむように眉を寄せた。


to be continued




NovelsContents