桜前線迷走中 <8>

鳴海璃生 




 いくら鈍感な私でも、その言葉で火村の言いたいことが完璧に判ってしまった。火村に言われるまでもなく、確かにそうだ。もし私が人間の骨を見つけていたのなら、それは間違いなく警察の記録に残るはずだ。そして、火村は…。
 ---ああ、俺のアホアホアホ。何でこんなことに気付かんかったんや。
「漸く気付いたみたいだな。---で、アリス。お前に言わせると、俺は一体なにやってんだろうな?」
 私の思考をそのままなぞらえたように、火村のからかいを含んだバリトンの声が耳朶をうつ。相変わらずのタイミングの良さに、全く罰が悪いったらない。
「…臨床犯罪学者」
 自棄のようにぼそりと呟いた声に、火村が小さく嗤う。
「---だよな。お前が俺のことをそう言いだしたんだ。その俺に、その話が伝わってこないと思うか? しかもお前が関わっているんだぜ。だがここ数年、俺はそういう話は誰からも聴いたことがない」
「数年やなくて、もうずっと前のことやから伝わらんかったかもしれんやないか」
 言うだけ無駄な繰り言だと思いながらも、意地っ張りで諦めの悪い私は、最後の足掻きを止めることができない。
「いつだよ?」
「---大学2年の時。君と会う1ヶ月くらい前や」
「なるほど…。確かに10年以上前じゃ、警察からは伝わってこなかったってこともあり得るかもな。---だがな、アリス。例え警察からじゃなくても、嫌でも俺の耳には入ったと思うぜ」
「---何でや?」
「考えてもみろよ。もしお前が人間の骨を掘り当てたとしたら、世間じゃでかいニュースになるに違いねぇだろうが。何せ学生が花見に行って、梶井に倣って---おっと、アリスは坂口安吾だったな」
 だから、もうそれはええっちゅうんじゃ。本当にしつこい奴だ。
「俺の雑学データベースも火村先生のお陰でしっかり修正できたから、いい加減そこは省け」
「へぇへぇ…。とにかく、だな。学生が花見に行って、桜の樹の下から人間の骨を掘り出したんだぜ。単なる事件のニュースとしてだけじゃなく、ワイドショーあたりも飛びつきそうな三文ネタじゃねぇか」
 言われてみれば、そんな気もする。もしあの時掘り出したのが豚の骨じゃなく人間の骨だったら、一躍私は時の人だったかもしれない。---あんまり嬉しくないが…。
「よぉ、判った。有無を言わさぬ説明、痛み入るわ。---でもな、火村。もう一つだけ判らんことがあるんやけど…」
 上目遣いに見上げた私に、火村が「どうぞ」と言うように掌を返した。
「何で豚の骨って判ったんや?」
「人間の歯と豚の歯が似てるってのを、以前事件で一緒になった検死官から聴いたことがあったんだよ」
 素朴な疑問に、呆気ないほど素朴な応えが返ってきた。答が判ると「何だ、そうか」と思ってしまうのは、テストでもミステリーでもなぞなぞでも似たようなもんだ。
「ふ〜ん、なるほど…。結局、火村先生のフィールドで勝負しようと思うたんが、俺の一番の間違いやったわ。よぉ判った。---でもな、火村。火村の推理も、途中間違うとるとこあるで」
 意外なことを聴いたとでもいうように、火村が僅かに目を瞠った。その表情に、なけなしの勝利感を味わう。
「言うとくけど、俺は骨を全部掘り出したわけやないからな。いくら俺が好奇心の塊やいうても、誰がそんな気色悪いまねするかい。歯が見えた時点で止めたわい」
「何だ。アリスの雑学データベースの中にも、人間と豚の歯が酷似しているなんてデータが入っていたのか?」
 あるかい、そんなもん。---からかいを含んだ口調に、私は微かに眉根を寄せた。
 確かに火村に雑学データベースと言われるだけあって、私の頭の中には妙な知識が詰め込まれているかもしれない。だが、いくら何でも豚の歯についてのデータなんて入っているわけがない。そういう不気味な知識を持っている奴なんて、世の中広しといえども医学部の学生と火村ぐらいのものだろう。---あ〜、検死官もいたっけ。
「ちゃう。そんなんあるわけないやろ。ちょうど花見しとった仲間の中に、医学部の奴がおったんや。そいつが『豚の歯と人間の歯は似てるから、豚なんじゃないか』って言ったんや」
「それをアリスは信じたわけだ。珍しいじゃねぇか。好奇心の塊みたいなお前が、それをあっさり信じて、骨を掘り出すのを止めるなんてのは」
「そりゃ、だって…。普通は、人間の歯っていうよりは豚の歯っていう方が、簡単に信じられるんやないか? それに、場所が場所やったしな」
「場所?」
「そうや。病院の裏山やったんや。---えーと、何て言ったかな…。確か洛北の方の、山…、山‥何とか病院だったと思うけど、結構大きい病院やったわ。そんでな、そいつが、多分その病院で実験か何かで使ったやつを埋めたんじゃないかって…」
「おい、待てよアリス。公共の場所にそんなもんホイホイ埋めていいのかよ」
「公共の場所やないもん。その病院の私有地やったんや」
「アリス…」
 若白髪の混じったぼさぼさの前髪を掻き上げ、火村は額に手を当てた。
「お前達は、他人様の私有地で花見なんてやってたのか。呆れた奴らだな」
「何やねん、その言い方。言うとくけどな、黙って入り込んだわけやないで。医学部に行ってた友人の先輩がその病院でインターンやってて、ちゃーんとその人通じて許可は取ったんやからな」
「なるほど…。だがな、アリス。そういう私有地を掘り返すなんて気になるか、普通?」
「悪かったな。後にも先にもそれ一回きりやから、ええやないか」
「へいへい、よーく判りました。さて、と。余興の謎解きも終わったことだし、そろそろ帰るか?」
 火村の言葉に辺りを見回してみると、気付かない内に随分と陽が低くなっていた。膚に触れる風も、ひんやりと冷たい。世の中すっかり春で、昼間はいくらポカポカ陽気とはいえ、陽が翳り出すとまだまだ寒い。
 夜桜見物の場所取りだろうか、木々の陰にちらほらと人の姿が見える。一日の仕事を終え、これから憂さを晴らすように春の風物詩ともいえる花見のドンチャン騒ぎが始まるのかと思うと、その計り知れないパワーに知らず知らずの内にも溜め息が漏れる。「仕事に疲れたサラリーマン」などとドリンク剤のCMで時折耳にするが、何のことはない、私に比べればずっと彼らの方が元気じゃないか。
「…そやな。そろそろ帰るか」
 言いながら、最後の豆餅を口に放り込んだ。
「今日は泊まっていくだろう」
 突然の火村の言葉に、私は埒もないことを考えていた意識を声の主へと戻した。問い掛けというよりは、確認の色の濃い口調に首を傾げる。
 口の中の豆餅を飲み込み、ついでに紙コップの中に僅かに残っていた冷めたお茶を飲み干し、私はゆっくりと火村へと視線を向けた。
「何や、その断定的な言い方は? それとも、今日君んちに泊まらないかんような、何か特別の用事でもあるんかいな?」
 今のところ特に急ぎの原稿を抱えているわけではないし、絶対今日中に大阪に帰らなければならないような予定が入っているわけでもない。だから、別に火村の所に泊まっていくのは吝かではないのだが、敢えてそれと確認されるのは何となく納得いかない。
「何だ、アリス。食い逃げする気だったのかよ」
「食い逃げぇ? 何言うてんのや。人聞きの悪いこと言うなッ」
 予想もしなかった言葉に、私は目を剥いた。
「そうじゃねぇか。お前が牛みたいにパクパクたいらげた弁当は、一体誰が作ったんだよ。なのに礼もせずに帰るたぁ、どういう了見だよ」
「礼って…」
「当たり前だろ。労働に報酬はつきものだぜ。今時ただで動くのは、地震くらいのもんだ」
 言い掛かりに近い無茶苦茶な論理に、私は頭を抱えた。
「なに素っ惚けたこと言うてんのや。まだ30過ぎやいうのに、もうボケが入ってきたんか。---火村先生は大事なことを忘れているようやから、教えてやるけどな。君がパクパク食べた弁当の材料は、ぜ〜んぶ俺持ちなんやで。君の労働の報酬なんて、それでご破算や」
 全く冗談じゃないとばかりに、ぶつぶつと文句をたれる。が、厚顔無恥、自分の欲求を満たすためなら論理のすり替えなどお手のものの犯罪学者様は、私の言葉に何ら動ずることない。それどころか楽しそうな、それでいてどこか質の悪いものを含んだ笑みを、その男前の顔に浮かべた。
「花見に誘ったのはお前なんだから、材料費ぐらい持つのは当たり前だろうが。それ以外、例えば弁当を作ったり、ここまで車を転がしてきたり、そういう俺様の過分な労働の数々に対する報酬は、材料費とはぜんぜん別物じゃねぇか。一緒くたにしようだなんて、図々しすぎるぞ」
 図々しいのは一体どっちだ。---そう反論しようとした私の言葉を、火村のバリトンが止めた。ニヤリと嗤い、双眸を細くする。
「そうだな…。俺の多大な労働に対する報酬と礼を兼ねて、当然今夜はアリスがサービスしてくれるんだよな?」
「サ、サービスぅ?」
 ニヤニヤと嫌らしい嗤いを作る火村の表情に、私は一気に血が頭へと逆流するのを感じた。いくら寛容でおとなしくて人の良い私だとはいえ、きれる時はきれる。火村の勝手な言い分に対する我慢も、そろそろ臨界点だ。
「ど、どアホッ! 何がサービスや。だいたいなぁ、そういう意味やったら、君、昨日の夜好き勝手やったやないか。もうそれで十分やろ。冗談やないで、全く…。払いすぎるくらいに前払いしとるわ」
 フンとそっぽを向いた私の顔を引き戻し、視線を合わせる。そして火村は私の目の前で人差し指をたて、それをゆっくりと左右に振った。
「違うだろ、アリス。昨日の分は、俺の部屋に泊まった宿泊代と、ついでに今日の朝飯代だ」
 聞き分けのない子供に説いて聴かせるように、噛んで含むような口調で言う。火村になされるままに、私はその様子を唖然と見つめてしまった。
 開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだ。次から次へとよくもまぁ、ここまで勝手な言い分が出てくるものだと、呆れるというよりは妙に感心してしまった。よく舌先三寸と言うけれど、火村の場合は十寸ぐらいあって、ついでに舌は二枚じゃなく九枚ぐらいは軽くあるに違いない。
 が、しかし---。ここで火村の言葉に丸め込まれたら、今夜も昨日の二の舞だ。いくら人の良い私だって、二度払いなんて絶対にごめんだ。---いや、そういう問題じゃないのは良く判っているんだが…。
 頬に触れている火村の手を乱暴に払いのけ、私はその男前の容貌を真っ正面から睨みつけた。
「なに言うてんのやッ。俺んちに泊まっても、君、そんなん払ったことなんてないやないか。なのに、何で俺だけがそんなもん払わなあかんねん」
「何だアリス、払ってほしかったのか? だったら早く言えよ。俺はいつだって気前よく払ってやったぜ。何なら溜まった分のつけを、今日払ってやっても構わないぜ?」
 ゲッ、冗談じゃない。---慌てて、私は頭を振った。余りに力一杯振りすぎて、目の前がクラクラする。いや、いかん。ここで倒れたら、有無を言わさず火村の部屋に連れ込まれてしまう。
「せっかく親切に申し出てやってんのに、遠慮深い奴だな」
 ぜんぜん違う。誰も遠慮なんてしてない。
 クックッと喉の奥で笑う火村を、私は精一杯陰険な目つきで睨みつけた。が、口惜しいことに、当の火村本人には何の効力も無かったらしい。
「---ということは、今夜はやっぱりアリスがサービスしてくれるってわけだ。いやぁ、張り切って弁当作った甲斐があったってもんだぜ」
 ひとっ言も言うてへんわい、そんなこと。---楽しそうなバリトンの声に、目眩すら覚える。
 やがて自分に都合のいいことを呟きながら、火村は手際よく辺りを片づけ始めた。呆然と佇む私には、火村を手伝って後片づけをするなどという、ごく当たり前の考えも湧いてこない。
 重箱を風呂敷に包み、行儀良く二つ並んだポットをペーパーバックに入れる。最後にシートを折り畳んでねじ込むようにペーパーバックの端に詰め込み、助教授殿はゆっくりと私の方へと視線を向けた。
「ほら、アリス。これはお前の荷物だ」
 風呂敷に包んだ重箱を、私の胸に押しつける。それを両手で抱きしめるように抱え、私は険悪な眼差しを目の前の恥知らずな男に注いだ。
「お前んちになんか泊まらへんからな」
「じゃ、ここから歩いて帰るか?」
「じょ、冗談や---」
 言葉に窮する。花見の穴場だと勇んで遣ってきたのは、人家も疎らな鄙びた田舎なのだ。当然近くに電車の駅はないし、バス停だって来る途中には見あたらなかった。
 そりゃやろうと思えば、最寄りの駅かバス停まで、歩いていけないことはない---かもしれない。だが、それより何より私にとって一番の大問題は、そこに行き着くまでの道順がぜんぜん判らないということだ。何せ「ここや、ここ」と火村に地図を見せて、あとは任せっぱなしだったのだから、一人で、しかも歩いて帰るとなると、その結果は---。考えるのも嫌だ。
 幾ら何でも、今さらこの年齢で迷子になんかなりたくない。それが十分判っているくせして、平然と「歩いて帰るか」なんて言ってくるのだから、火村の底意地の悪さは天然記念物ものだ。
 畜生、口惜しいッ! 口惜しいけど、どうしようもない。結局いつだって、最後には火村の思惑通りにことは進んでいくんだ。あぁ…、世の中ほんまに理不尽や。
「---言うとくけどな、絶対にサービスなんてせぇへんからな」
 最後の意地とばかりに、地を這うような低い声で呟く。が、それに動じる風もなく、火村はふざけたように肩を竦め、ニヤニヤと品の良くない下卑た嗤いを口許に刻んだ。
「しょーがねぇなぁ。だったら、俺がサービスしてやるよ。ただで弁当作って貰ったうえに、俺様にサービスして貰えるんだから、ついてるよなぁ、アリス」
「どアホ。全然ついてへんわッ! なぁ〜にがサービスや。そんなもん熨斗つけて突き返したるわい」
 桜の森にこだまする程の大声で怒鳴った私に、火村は楽しそうな笑いを返してきた。風に揺れる桜の花弁さえもが、火村に合わせて楽しそうに笑いさざめいているような気がする。それを恨めしげに見つめ、私は少しだけ藍色を濃くした青空に向かって大きな溜め息を吐き出した。
「あ〜あ、全くもう…。ただより高いものは無いってのを実践させられた気分やで、ほんま」
 全くもって昔の人は偉い。先人の教えを莫迦にしてはいかん。確かに間違いなく、『禍福はあざなえる縄のごとし』や。結局幸せなんて、長く続かないものなんだ。「上り詰めたらあとは下るしかない」と歌ったのは、さだまさしだったっけ。
 ---くそっ、こんなことになるんやったら、やっぱり琴きき茶屋の桜もちも諦めるんやなかったわ。
 口中でぶつぶつ呟きながら、春爛漫の麗らかな景色の中で、私一人が真冬のブリザードを背負っていた。


to be continued




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