鳴海璃生
揚々の態で火村の下宿から帰ってきたのは、月曜日の朝。
不幸にも通勤ラッシュに巻き込まれ、ボロボロになって懐かしの我が家へと辿り着いた。そのまま倒れ込むようにベッドに寝ころんで、気がついたら周りはすっかり闇に包まれていた。何だか損をしたような気分でダラダラとしている内に、瞬く間に日は過ぎていった。
これといってやることもなく、怠惰に過ごす日々---。花見を餌に締め切りに追われていた原稿はクリアしたし、喜ぶべきか悲しむべきか、今のところ急ぎの用事も締め切りもない。エアポケットに落ち込んだようにぽっかり空いた時間を過ごす内に、私の中に申し訳程度に残っていた時間の感覚は、すっかり抜け落ちてしまった。
カレンダーとお日様を見ていない日々が、一体何日続いたのか---。とてもじゃないが、今さら数える気にもならない。鳥のさえずりを合図に明け方に眠って、昼過ぎに起きるという時間のずれた生活は相変わらずだったが、普段は執筆に使っている夜中の時間が、ここ数日は私の読書時間に取って代わっていた。
そして、今日も今日とて規則正しい---私にとってだけだが---生活のリズムを崩さず、夕方近くに起きて軽い朝食---普通のご家庭では、おやつか早すぎる夕食って時間だ---を摂ったあと、リビングのソファにごろんと寝そべって、珀友社から送られてきた献呈本や作家仲間に貰った本を怠惰に貪り読んでいた。
ふと気づき、視線を本から窓へと向ける。四角く切り取られた窓の外には、既に夜の帳が降りきってしまっている。
---一体いま何時やねん?
ソファの肘掛けから亀のように首を伸ばし、壁に掛かった時計を覗き見る。長針と短針の角度は、ぴったり90度。良い子の皆さんはお休みの時間で、私はそろそろ昼食の時間だ。
ひと息つこうとテレビのリモコンをオンにすると、画面一杯に澄んだ青空が広がった。どこまでも続く明るいブルーに、私は僅かに目を瞠った。ほんの数日前に目に焼き付けた青空を思い出し、何となくまた桜が見たくなってくる。
青空にはピンクの桜---。莫迦の一つ覚えのように、私の中にはその風景がインプリンティングされているのかもしれない。
「また、火村誘うかな…」
手作り弁当もいいが、今度は山椒のピリリと効いたちらし寿司とか、筍と蕨の炊いたものとか、どこかでお気に入りの京弁当を買っていくのもいいかもしれない。ちょっと値は張るが、下鴨茶寮の桜弁当などは満開の桜の下で食べるにはぴったりの一品だ。
そんな呑気なことを思いながらお腹に手を当てた時、テーブルの上に置いた電話機の子機がけたたましく自己主張を始めた。その音に反応するかのように、反射的に身体がぴくりと跳ねる。
ほんの一瞬の間、固まったように私は音の主を凝視した。知らず知らずの内に詰めていた息をゆっくりと吐き出し、煩い程に自己主張をするテーブルの上の子機へと手を伸ばす。
「もし…」
最初のひと言を言い終わらぬ内に、遠慮会釈のないバリトンの声が耳に飛び込んできた。
『よぉ、アリス。久し振りだな、生きてるか?』
何言ってんのや、こいつ。---ポリポリと頭を掻き、私は呆れたように息を吐いた。
---まっ、突然用件を言い出されるよりはましか。
それにしても、たった今その姿を思い浮かべていた人物からの電話だなんて、余りのタイミングの良さにうんざりする。以心伝心なんて言葉、糞食らえだ。
「何やねん、こんな時間に。今から飯喰おうか、と思うてたところやのに…。相変わらずええタイミングでじゃましてくれるやないか」
『飯? こんな時間に夕飯だなんて、随分とお忙しいようだな、有栖川先生は』
「夕飯とちゃうわ。昼飯や」
『昼飯?』
呆れたような声のあと、沈黙が落ちる。やがて受話器の向こうで、カチリとライターをつける音がした。ゆっくりと紫煙を吐き出すその感触が耳に伝わり、私はくすぐったさに身を縮めた。
『もぐら生活もそこまでいくと、犯罪に近いものを感じるぜ。まっ、この調子でどんどんずれていけば、その内世間様なみに戻るかもな』
フン、余計な世話や。私がもぐら生活を享受しているからって、世間様や君に何か迷惑でもかけたんかい。---受話器を通してダイレクトに耳に伝わるくぐもった嗤い声とからかうような口調に、私は顔を顰めた。
「んなこと言うために電話してきたんなら、先生もよっぽど閑持て余してるってことやな。他に用事が無いんなら、切るで」
『おーっと、待った。せっかちな奴だな、相変わらず…。用なら大事なやつがあるんだよ』
「フィールドワークかっ?」
勢い良く跳ね起きる。自分でそれと判るほど、声には喜色が混じる。
本音を言えば、このもぐら生活にもそろそろ飽きがきていたのだ。ここでフィールドワークのお誘いが来るんなら願ったり敵ったり、火村様々だ。多少の口の悪さも無礼も、寛大な心でもって目を瞑ってやろうじゃないか。
『まぁ、そんなもんだ。それより、おいアリス。この間話していた、ここ掘れワンワンの場所覚えているか?』
---ここ掘れワンワンの場所? 一体何なんだ、それは…?
私は、緩く首を傾げた。もっともそれ以前に、火村の言う「この間話していた」の部分から良く判らなかった。---はてさて、どこかで私は、火村に『花咲か爺さん』の話でもしてやったのだろうか。
---それにしたって、この間って一体いつのことや?
時には利点ともなる日本語の曖昧さに頭を傾げつつ、ビデオテープを再生するようにゆっくりと記憶を巻き戻す。
---確か火村に最後に会ったのは花見の時やから、そん時のことかいな…。
もちろん花見の後にも色々あったのだが、己の幸福のために本能が敢えてその部分をオミットする。だいいち子供の寝物語じゃないんだから、いくら私でもああいう状況---あれも一応ピロウトークって言うんだろうか?---で『花咲か爺さん』の話なんてするわけがない。
いやそれどころか、まともに喋る余裕なんてあるもんか。ちくしょう、火村の奴…。
---あっ! いかんいかん。
せっかくオミットした部分を逐一思い出しそうになり、私は慌てて頭を左右に振った。
「ここ掘れワンワン、ここ掘れワンワン…」
行き当たりばったりの節をつけ、口の中で何度か呟いてみる。が、話の内容はおろか、いつそれを火村に話したのかさえ一向に思い出さなかった。
考えようによっては、『花咲か爺さん』というのは確かに花見の話題としては相応しいかもしれない。---もっともその話を火村が喜んで聴くかどうかは、この際おいといて、との注釈付きでだ。
が、いくら頭を捻ってみても、何も思い出せない。やがて受話器から諦めたような、おまけにこれみよがしの特大級の溜め息が響いてきた。
『相変わらず容量の少ねぇ頭だな。ほら、この間の花見の時に話していただろうが。お前が、昔埋めた骨を掘り出したって』
私が昔埋めた骨?
露骨にからかいを含んだ言葉を聴いた瞬間、頭に浮かんだのはマンガに出てくるような、お犬様御用達の骨。
唐突に頭の中で、記憶がフラッシュバックする。
「どアホ! 何言ってるんや。ぜんぜん違うだろうが」
『おっ、漸く思い出したか』
楽しげな笑いを含んだ声に、私はがっくりと肩を落とした。両肩にどすんと乗った重力に逆らうことができず、ごろんと仰向けにソファに寝ころんだ。
「しーっかり思い出したわ。豚の骨を掘り出したっていう、あれやろ」
『そう、それだ。---で、その場所覚えているか?』
「洛北の方や。えっと、病院の名前は山…う〜ん、山なんとかいうたと思うけど、よぉ思い出せへんわ」
受話器越しに、再度でかい溜め息が聞こえてきた。
「…何やねん。その溜め息は?」
口調に少しだけ険が混じる。場所と訊かれたから応えてやったのに、随分な態度じゃないか。
『それっくらい、俺にだって判ってるよ。お前、花見ん時話してただろうが』
そうだっただろうか…。うんざりしたような口調に、何となく罰が悪くて、私はポリポリと頭を掻いた。---だが、話した内容を一から十まで覚えていなくても、決して私が悪いわけじゃない、と開き直る。
『俺が訊きたいのは、骨が埋まっていた場所だ。一体どの樹の下かってことだよ』
「知らん」
打てば響くように応えを返した私に、火村がこれ以上はないってなぐらいの超特大級の溜め息を零した。
『お前なぁ…。少しぐらい考える振りしたっていいだろうが』
「いくら考えたって知らんもんはどうしようもないんやから、そんなん時間の無駄や。だいたいなぁ、何十本て数の桜があったんやで。そんな中から、これやなんて判るわけないやろ」
『ああ、そうかい。じゃ、その時のメンバーで誰か覚えていそうな奴はいるか? お前より、ちょーっとだけ頭の容量の多い奴だ』
どんな場合においても、皮肉だけは忘れん奴だ。
そんな奴いるわきゃない、と思いながらも、どこか真剣な色を匂わせる火村の口調に、律儀に記憶の底をひっくり返してみる。
天井を見つめ、遥か10数年前の花見を思い出す。---あの時は確か…。
「河村やろ、緒方に妹尾に森田に…」
懐かしい友人の顔が次々に浮かんでは、消える。
「戸川に生島に、ああ…、そうや荒木がおったわ。他は---。う〜ん、よぉ思い出さへん」
『それだけ思い出せれば十分だぜ。お前のデータ容量から考えりゃ、たいへんなもんだ』
この野郎---。
火村にしてみれば誉めているつもりなのかもしれないが、一向にそうとは思えない。どちらかといえば、徹底的に莫迦にされている気がする。
が、私がこの花見のメンバーを覚えていたのは、私にとってラッキーな面があったからに他ならない。だいたいいくら私だとて、高校時代からのクラスメイト---しかも、何かの折りには必ず寄り集まったメンバーだ---を早々忘れ去るわけないではないか。これがもしどこぞのコンパで知り合った奴とか、一般教養のクラスメイトだったりしたら、きっと記憶の底にも残ってはいなかっただろう。
『…で、アリス。その中で場所の判りそうな奴いるか?』
「場所の判りそうな奴ねぇ…。う〜ん、どやろ。あの花見を企画した奴ならもしかしたら…」
口の中で言葉がフェードアウトする。
そもそもあの花見は、一体誰がもってきた話だったのだろう。儚い望みではあるが、もしかしたらそいつならば、あの桜の場所も覚えているのではないだろうか。
こめかみに人差し指を当て、頭を捻る。が、悲しいかな、一向にその人物の名は思い出せない。
---こういうのって、いっつも適当やったからなぁ…。
毎回寄り集まっては、花見だ何だと騒いだものだが、その場合の連絡方法は、殆ど伝言ゲームののりだったことを思い出す。
受話器を抱えたまま唸っている私の耳に、心地よいバリトンが届いた。
『おい、アリス。医学部の友人てのはどうだ? そいつの先輩がインターンしてた病院の私有地だ、とか何とか言ってたじゃねぇか』
「あっ、そやそや。そやったわ。さすが火村、よぉ覚えとるな」
受話器の向こうで、火村が苦笑した。
『煽てても何にも出ねぇぞ』
「そんなんやない。素直な俺の感想や」
『そりゃ、どうも。---で、誰なんだ、そいつは?』
「荒木や。荒木祐一。高校ん時からの友達なんや。今、確か京大医学部の付属病院におったわ。荒木やったら、場所覚えてるかもしれん。でも、火村。荒木が、どの桜の樹かまで覚えているかどうかは、確約できへんぞ。何たって10数年以上前やし、それに何十本の内の一本なんやからな」
『判ってるさ。取り敢えず、連絡つけてみてくれよ。もし微かにでも覚えているようだったら、そうだな…。明日会えると助かるんだが』
「う〜ん、どやろな。休みやったら大丈夫なんやないか。たぶん---」
言葉を切り、身体を起こす。ソファの背もたれ越しに壁の時計を見て時間を確認したあと、私は途切れた言葉を続けた。
「夜勤やなかったらもう帰ってきてると思うから、電話してみる。それから、またそっちに折り返すわ。それでええ?」
『ああ、頼むぜ』
火村が電話を切ったのを確かめ、私は通話ボタンをオフにした。なぜ火村が急にこんなことを言い出したのかがめちゃくちゃ気になるが、それをぐっと我慢する。取り敢えず今は、荒木に連絡を取る方が先だ。
---火村やったら、遅うなってもかまへんしな。
テーブルの上に子機を戻し、私は書斎へと飛び込んだ。爆発したような机の引き出しの中からアドレス帳を掘り起こし、番号を確かめながらプッシュボタンを押す。
呼び出し音を数回数えたあと、懐かしい声が耳に響いてきた。to be continued
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