桜前線迷走中 <10>

鳴海璃生 




−5−

「あら、いらっしゃい」
 昔ながらの格子の引き戸を開け中に入ると、柔らかな声が私を出迎えてくれた。キョロキョロと声のした方を見回すと、左手にあるつつじの植え込みの奥から、婆ちゃんがひょっこりと顔を出していた。
「こんにちは。度々おじゃましてすみません」
 婆ちゃんが佇む植え込みへと近寄りながら、私は簡単な挨拶を口にした。つい数日前にも長々と火村の部屋に転がり込んでいたばかりなので、何となく決まりが悪い。が、私の度々の訪問にも嫌な顔一つ見せず、婆ちゃんはニコニコと品の良い笑顔を作った。
「あら、そんなん気にするなんて有栖川さんらしゅうないんやね。有栖川さんが来てくれはると賑やかになって嬉しいんやから、いつ来たって構わんのよ」
「ありがとうございます。あっ、そうや」
 私は右手に抱えていた紙袋を、ひょいと胸の辺りまで持ち上げた。
「下鴨茶寮の桜弁当買うてきたんです。婆ちゃんの分もあるから、一緒に食べませんか?」
 時間も時間だし、火村が昼食を作ってくれるだろうことは想像に難くなかった。だがどうせ京都に行くのならと、私は出町柳駅から歩いて5分ぐらいの御蔭橋からすぐの処にある下鴨茶寮に寄って、この時期限定の桜弁当を買ってきたのだ。
 もちろん火村の作る昼食も捨てがたいが、それはいつだって食べられる。何と言ってもこの時期限定、しかも名前が桜弁当とくればついついそちらを選んでしまっても仕方ないことだろう。
 私の申し出に、婆ちゃんはにっこりと笑みを深くした。
「おおきに。こっち終わったら戴かせて貰うから、茶の間にでも置いといてくれはる?」
「はい」
 良い子のお返事をして、私は玄関へと踵を返した。カラカラと軽い音をたててガラスの引き戸を開けると、左手奥の居間から茶色の塊が飛び出してきた。靴を脱ぎ玄関へと上がる私の足に擦り寄るように、茶色の虎縞の毛皮が柔らかに触れてくる。
「なーんや、ウリ。弁当の匂いを嗅ぎつけてきたんか?」
 足にまとわりつく瓜太郎を左手に抱え上げ、鼻先で呟いた。まるで私の言葉に応えるかのように、瓜太郎がニャーンと小さな鳴き声をたてる。
「やったら、一緒に食べるか? あれ、そういえばコオと桃はどないしたん? お前ひとりおいて、二人して遊びに行っとるんか?」
 いつもなら団子状態で駆け出してくる猫達の数が今日は少ないことに、私は首を傾げた。その拍子に柔らかな毛が頬に触れ、くすぐったさに肩を竦める。
「そやなぁ。こんなにいい天気なんやもん、家の中にじっとしてるのは、勿体ないよなぁ。…でも、ウリは残ってて得したんやな」
 クスクスと笑いながら話す言葉に、ウリが相槌をうつように鳴く。火村に言わせると、この家では私もウリ達と同じ立場なんだそうだ。考えようによっては、随分と人をバカにした失礼な言葉である。
 「それじゃあ、俺はお前の飼い猫かいッ」と怒鳴ったら、ニヤニヤ嗤いの火村が余裕綽々のポーズで顎をしゃくって、私の手元を指し示した。それにつられるように視線を落とした先には、火村の作った朝ご飯。
 ---何が悪い。
 確かに御飯を食べさせて貰っているという次元では、火村の飼い猫達と私は同等の立場かもしれない。だが火村だって我が家で私の作った御飯を食べることもあるんだから、一緒じゃないか。
 と反論してもみて、当の猫達もそう思っているのか、火村と婆ちゃんは飼い主として認めているのに、私だけはどう見ても同等の立場として扱われているような気がするのだ。
「まっ、ええけどな…」
 独り言を呟きながらウリを肩に乗せたまま、私は勝手知ったる茶の間の襖を開けた。
「テーブルの上でええかな」
 屈み込み、紙袋の中から弁当を一つ取り出す。低くなった私の肩から、ウリが軽い動作で畳の上に飛び降りた。身体を伸ばしテーブルの上に前足をつき、鼻先を弁当にくっつける。
「こら、あかんよ。それは婆ちゃんの分なんやから。俺たちの分はこっち」
 袋を揺すりながらカサカサと音をたてると、ウリは見比べるようにテーブルの上の弁当と私の方を交互に振り返った。
「火村も待ってるやろから、上行くで」
 名残惜しそうにひと声鳴き、ウリは私のあとについてきた。数歩進んだところで、庭に面した縁側の方から誘うような鳴き声が聞こえてきた。
「あれ…? コオ達が帰ってきたんかいな」
 振り向いた私の視界に、脱兎の如く駆け出していくウリの姿が飛び込んできた。
「おい、ウリ。どこ行くんや? 桜弁当はええんか?」
 私の声など耳にする気もないのか、小さな茶色の身体は一瞬の風のように視界から消え去った。
「お〜い、ウリィ」
 縁側に向かって呼んでみても、鳴き声一つ返ってこない。
「なんや、ガールフレンドでも迎えに来たんかいな。生意気な奴ちゃなぁ、飼い主にも俺にもいてへんのに…」
 ぶつぶつと口の中で呟きながら、置いてきぼりをくらった私は茶の間を出て、火村の部屋へと向かった。
「火村、弁当買うてきた」
 親しき仲にも礼儀ありとはいうが、今さらいちいちご丁寧にノックをするような間柄でもない。その代わりとばかりに、桜弁当の袋をガサゴソいわせながらドアを開けた。窓際で本を読んでいた火村が、その音にゆっくりと顔を上げる。
「ずいぶん早いじゃねぇか」
「乗り継ぎがぴったしやったんや。こんなん3年に1度ぐらいやで」
 あちこちに処狭しと氾濫する本の山を避けながら、私は火村の元へと近寄り、その前に弁当の入った紙袋を置いた。
「ちょうど昼時やから、下鴨茶寮の桜弁当買うてきたんや。そのへん片づけて、中出しといて」
 言うだけ言うと、火村の返事を聴く前に、私は茶を煎れに台所へと向かった。
「下鴨茶寮の桜弁当? 随分と豪勢じゃねぇか。まさかまた花見に行くってんじゃねぇだろうな」
 背中を追いかけてきたからかいを含んだ声音に、鼓動が少しだけ跳ね上がった。火村の言葉通り、今度は夜桜見物に誘おうと目論でいたのだ。が、先手を取ってそう言われると、何となく言い出しにくい。---それにしても、何か全てを見透かされているみたいで、めちゃくちゃ嫌だ。
「別にそういうわけやあらへん。忙しい火村先生に、昼食の用意をさせたら申し訳ないって思うただけや」
「アリスにしちゃ随分と細やかな気配りだな」
「何言うてる。俺はどこかの誰かさんと違うて、いつでもどこでも100パーセント気配りの人や」
 応えの代わりに、くぐもったような嗤い声が聞こえてきた。妙な嫌味を言われるよりずっとましかと思いながらも、何となく胸くそ悪い。
 ゆっくりと深呼吸をして、少しだけむっとした気持ちを落ち着ける。そして文句を言う代わりに、私は適当に茶葉をぶち込んだ急須に、乱暴な仕種でポットのお湯を注いだ。
 湯飲みに火村の分と私の分のお茶を注ぎ、両手にそれを持って火村のいる方へと踵を返した。お茶を零さないように足下に注意を払う。簡単なようでいて、これが結構たいへんなのだ。両手に熱い湯飲みを持っているため、そこかしこに障害物のように積まれている本の山を、バランス良く避けて歩くのはなかなか至難の業なのだ。
 ---障害物競走と卵リレーを足したみたいなもんやな。
 漸く弁当を置いたテーブルに辿り着き、両手の湯飲みを無事その上に置いた時には、思わずホッと安堵の息が漏れてしまった。
 目の前に座るこの部屋の主は、そんな私の苦労も何処吹く風で、さっさと桜弁当をぱくついている。それを横目に眺め、火村の向かい側に腰を下ろし、私も弁当の蓋を開けた。
 ふわりと鼻孔を擽る、どこか懐かしいようなお弁当の匂い。旬の素材を薄味で仕上げたおかずを花型や扇型、色々な形に細かく細工して詰め込んである桜弁当は、春らしい色合いと共に盛りつけもかわいらしく、思わず口許に満足の笑みが零れる。これなら、わざわざ出町柳の駅から遠回りをしてまで買ってきた甲斐があるってもんだ。
「戴きます」
 手を合わせ、私は早速弁当に取りかかった。開いた窓から入ってくる心地よい風が頬に触れ、何となく気分はピクニック…ってな感じだ。遠くから聞こえてくる車の音も、この穏やかな時間の中では耳に優しいBGMだ。
 ぼんやりとその音に耳を傾けながら弁当を口に運んでいると、いつの間にか寝入ってしまいそうになり、私は慌てて頭を左右に振った。すっかり昼夜逆転の生活が身についてしまった私にとっては、真っ昼間のこの時間帯は真夜中にも等しかった。それでなくてもこの季節は、空気の中に睡眠効果の高い成分か夢魔の魔法でも織り込まれているかのように、人を心地よい眠りの淵へと誘う術に長けている。
 ---いかん、いかん。
 眠気を覚ますために急いで弁当をかき込み、ゴクリと一気にお茶を飲み干す。せっかくの桜弁当を味わう余裕もなくて勿体ない気もするが、致し方ない。そして早速、眠気覚ましの特効薬、昨日から私の中で燻っている疑問を口の端に上らせた。
 昨夜荒木と連絡を取ったあと、折り返し火村の処にも電話をして、しつこいぐらいに私は今回の件について色々と訊いてみた。だが不機嫌な「眠い」のひと言でもって、私の質問は会えなく封じられてしまったのだ。もっとも久々だったのでついつい荒木と長電話をしてしまい、火村に電話をかけた時間が午前2時では、不機嫌極まりない助教授の所行を強く責めるわけにもいかない。
 先に弁当を食べ終えた火村は、冷めたお茶を片手に優雅に食後の一服を楽しんでいる。私の目の前で火村の吐き出した煙草の煙が、たゆたうようにゆっくりと青空の中に溶けていく。
「それで、一体なにがあったんや?」
 窓の外の景色をぼんやりと見つめていた火村が、私の方へと視線を移した。焦らすようにゆったりと紫煙を吐く。
「何があったかは、まだ行ってみねぇと判らねぇな」
「はぁ? 何や、それ…」
 左手に持った湯飲みをテーブルの上に置き、火村は若白髪の混じったぼさぼさの前髪を乱暴に掻き上げた。
「昨日ちょっとした用があってな、京都府警の柳井警部の処に行ったんだ」
 唐突に変わった話題に、私は眉根を寄せた。火村の口調はいつもとは違い、どことなく歯切れが悪い。質問したいことは山積みで喉元まで迫り上がってきていたが、取り敢えずは黙って助教授殿の話の先を聴くことにする。
「その時ちょうど2年前に退職した柳井警部の上司に当たるって人が、近くまで来たってんで挨拶に寄ってらしたんだ。偶然その人---岡本さんていうんだが---が、俺が以前論文に使った事件の担当だったんで、これ幸いとばかりにその事件について色々と話を聴いていたんだが、そのうち話が15---いや、まだ14年と数ヶ月だな---年前の不正医療の件になったんだ。岡本さんはずっとその事件を追っていたんだが、解決する前に退職したのを、今でも随分と気に病んでいてな…」
 火村の口許を見つめ、私は曖昧に相槌をうった。事件の内容が不正医療じゃ、殺人が主な研究対象の火村とは余りに関係が無いように思える。
 私としても推理作家という仕事上、不謹慎ではあるが、やっぱり事件としては不正医療より殺人事件の方が好ましい。白い巨塔なんて社会派小説ならともかく、推理作家にはまるで縁のない世界だ。
 ---いや、待てよ。
 噛み締めるようにゆっくりと言葉を綴る火村の口許を見つめ、私はふとあることを思いついた。---そう…、昨日の電話で火村は、私が豚の骨を掘り当てた場所を訊いてきたんだった。ということは、当然あの骨が事件と何らかの関係があるということに他ならない。


to be continued




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