桜前線迷走中 <12>

鳴海璃生 




−6−

 麗らかな陽の光を浴びたおんぼろのアートなベンツは今出川通を西に進み、百万遍の信号を左折して東大路通に入った。ちょうど東山近衛の信号を通り過ぎた辺りで、右手前方に広い京大医学部付属病院の建物が見えてきた。
 熊野神社前信号の手前、東大路通に面した正門を入り、ベンツは広い正面玄関の前にゆっくりと滑り込んだ。火村がエンジンを切ると同時に助手席のドアを開け、私は外へと降り立った。空気にツンと病院独特の消毒薬の香りが混じったような気がして、私は僅かに眉を寄せた。
 一瞥するように周りの様子をキョロキョロと見回し、懐かしい友人の姿を探す。が、忙しなく行き交う人の波の中に、友人の姿は見あたらなかった。約束の時間までにはまだ数分あったので、もしかしたらまだ来ていないのかもしれない。
 そう思い視線を落とした時、私の名を呼ぶ声が耳に飛び込んできた。
「おーい、有栖川」
 その声に視線を上げると、正面玄関のガラスの扉の前で立ち話をしていた一団の中から、懐かしい姿が私の方へと歩みだしてきた。同時に周りの人々の視線も一斉に珍妙な名の持ち主へと集まってきて、私は非常に居心地が悪い。
 ---だから、人混みで名を呼ばれるのは嫌なんや。
 まぁ、名前の方じゃなかった分だけ、まだましかもしれない。照れ臭さにポリポリと頭を掻きながら、私は名を呼んだ男の元へとベンツのノウズを回り込んだ。
「久し振りやな、荒木」
 運転席側のドアの前に佇み、私は右手を上げた。それに応えるように、友人も手を上げる。
「ほんま久し振りやなぁ、有栖川。元気にしてたか?」
「もちろん元気や。君も相変わらずやなぁ…」
 笑いながら肩を叩き合う。昨夜電話で話したのも久し振りだったが、こうして直接顔を会わせるのは一体何年振りのことだろう。思い出そうとしても、既に記憶さえ定かではない。
「急にお前から連絡あるから、びっくりしたで。一瞬、遂に結婚でも決めたんかと思ったわ」
「んなわけあるかい」
 どうやらこいつ、そういう人生の一大事がないと私が連絡してこない、とでも言いたいらしい。随分と大袈裟な言い種だが、反論の余地のない私は曖昧な笑いを口許に浮かべるしかなかった。
 何せ生来の筆無精、そのうえ怠け者を自負している私には、荒木の言葉に反論するだけの確たる実績がなかったのだ。
 それでも、まだ印刷会社でサラリーマンをしていた時代には、それなりに---もちろん人並み以下ではあるが---高校時代の友人達との行き来もあった。がしかし、専業作家生活に入ってからというもの、一般社会人と生活時間帯が完璧にずれてしまった私は、極々一般的な職業と生活を営む友人とは、なかなか連絡を取り合うことができなかった。
 たまに同窓会のお知らせなどとが舞い込むこともあったが、曜日の感覚が希薄な私がそのことに気付いた時には、既に同窓会そのものが終わっていたということも数度を数えた。そうこうしている内に、望むと望まざるとに拘わらず、数多くの堅気の友人達とは疎遠になっていってしまったのだ。
 こうして考えてみると、私の交友関係も結構狭いことに気付く。---作家仲間に編集関係者。だがそれも、私から積極的に交友関係を広めているというのには程遠い。
 それ以外といえば、時間の最も多くを共有する火村。
 決して友人が少ないというわけではないのだが、こういう普段の行状を顧みれば、「友人が私だけ」などと火村のことを連呼して、早々からかえないような気もしてくる。
 が、たとえ数年ぶりに会ったとしても、以前と変わらず接してくれる友人の存在というものは、本当に有り難いものだとしみじみと痛感する。
「それで、ほんまにどないしたんや? お前にしては随分と唐突やないか」
「う〜ん、それがやなぁ…」
 口の中で言葉が濁る。何せ荒木の問いに応えようにも、当の私自身が良く判っていないのだから、どうしようもない。返事に詰まった私は、後ろ手にそっとベンツのウインドウを叩いた。
 困った時の犯罪学者様。---いやそうでなくても、今の状況を一番理解しているのは火村本人だけだ。すぐに背中に開いたドアが当たり、私は慌てて身体を少しだけずらした。
 ゆっくりとドアが開き、中から火村が長身の姿を現した。 何の前触れもなしに突然現れた見知らぬ人物に、荒木が瞬間目を瞠った。
「有栖川?」
 問い掛けるように、私へと視線を走らせる。
「紹介するわ。こいつ俺の大学時代の友人で、火村。今、英都で犯罪社会学を教えとる。…で、今回の呼び出しの大元や」
 そう言って、傍らに立つ火村へと視線を巡らせる。
「火村、荒木や。昨日、電話で話したやろ」
 私の声に軽く頷き、火村は僅かに頭を下げた。
「火村です。本日はご多忙のところ、ご無理を申し上げまして申し訳ありません」
 こいつ、猫5匹は被っとるな。
 余所行き仕様の殊勝な対応をする火村の様子を横目に、私は呆れたように空に向かって溜め息を吐いた。日頃の私に対する、無礼と傲慢を足して嫌味といじめっ子で練り上げた態度との余りの違いに、半ば賛嘆の念さえ感じる。これも一社会人としての心得、教養ある大人の対応ってやつか。
「いえ、どう致しまして。今日は午後から休みでしたし、構いませんよ」
 荒木の方も、しっかり余所行きモードだ。二人の本性を嫌になるくらい知っている私には、今のこの二人の遣り取りがまるでくだらない三文芝居のように思えた。
 ---いや、まてよ。
 火村と荒木の両方の友人である私は、既に二人に全てを知られていて、今さら余所行きモードを発動することもできないではないか。猫の被りあいを横目に見つめながら、何となくこれは不公平ではないかと思う。
 そんな埒もないことを私が考えている内に、一通りの自己紹介が終わり、ついでに二人の間でそれなりの話もついたらしい。私の名を呼ぶ火村の声に、私は意識を目の前の現実へと引き戻した。
「アリス。ぼやっとしてないで、乗れよ。柳井警部達が首を長くして待っているだろうから、さっさと行くぜ」
「行くって、どこへや?」
 私が豚の骨を掘り出した場所へ行くというのは判るのだが、かといってそれがどこの何という場所なのか、詳しいことはまるで判らない。なのに、何故火村は確信に満ちた声で、「行く」と言えるのだろう。しかも、柳井警部達が待ってる…?
 ---う〜ん、ますます判らん。
「いいから乗れ。詳しいことは車の中で説明してやる」
 気ぜわしくそう言いながら、火村はさっさと運転席へと身体を滑り込ませる。それにつられて助手席へとベンツのノウズを回り込もうとした私は、不意に思い立ち、足を止めた。コンコンと運転席のガラスをノックすると、火村がウインドウを下げてぬっと顔を突き出した。
「何だ? さっさとしろって言ってるだろうが…」
「判っとるて。それより火村、俺、今日は後ろに乗るわ。やから、はよロック開けて」
 荒木同様、私も今回のことについては何一つ判ってはいない。そういう状態で話を聴くのなら、荒木と一緒にうしろに座った方がいいような気がしたのだ。
 私の言葉に小さく頷き、火村が手を伸ばしドアロックをはずす。後部座席のドアを広く開けて、私は荒木に先に乗るようにと促した。私の後ろに立ち一連の遣り取りを見つめていた荒木は、小さく頷くと長身の身体を折り曲げて、中へと滑り込んだ。荒木が奥に座ったのを確認して、私もそのあとに続く。
 バタンと大きな音をたててドアを閉めると同時に、ゆっくりとベンツが動き出した。いつもに比べて随分と丁寧な発進のように思えるのは、あながち私の考えすぎとはいえない気がする。
「おんぼろ車やけど、一応走るから安心してな」
 持ち主の代わりに、おんぼろベンツの言い訳をする。その私の細やかな心配りに、火村がバックミラーの中で眉を寄せた。
「なに言ってやがる。お前の青い鳥だって、これと似たようなもんじゃねぇか」
「そんなことないわ。俺の青い鳥の方が、ずーっとまともやもん」
「ケッ、良く言うぜ」
 鼻で笑った火村の頭を、私は後ろから厚い友情を込めて思いっきりひっぱたいてやった。もちろんこれぐらいは、かわいい愛車ブルーバードを不当に評価された持ち主が行使できる当然の権利だ。
「何しやがる。危ないじゃねぇか」
「煩いわ。それより、さっさと説明せい。俺も荒木もまるでわけ判らないんやからな。なぁ…」
 同意を求めるように荒木に視線を向けると、荒木は額に拳を当て少しだけ俯き、押し殺したような小さな声で笑っていた。
「何や? どうかしたんか」
 訝しげに眉を寄せる私を左手で制し、荒木は必死で笑いを止めようとする。だが、その努力も一向に功を奏さないらしい。私の目の前で、小刻みに肩が震えている。
「悪い、有栖川。何か珍しいもんを見せて貰うたから…」
「珍しいもん?」
 私はキョロキョロと窓の外の様子を伺った。付属病院を出たベンツは東大路通から丸太町通に入り、東に向かって進んでいる。左手には左京税務署、右手には平安神宮の神苑が見える。その両方に目を凝らしてみても、荒木が言う『珍しいもの』の欠片も見出せはしなかった。
「気にしないでくれ、有栖川。たいしたことじゃないんだ」
 そう言いながらもクスクスと笑いを納められない荒木の様子に、私は何となく落ち着かない。困ったようにバックミラーを覗き込むと、視線を上げた火村と目があった。鏡の中の火村は、気にするなというように肩を竦めてみせた。
 ---まっ、ええか。
 火村が気にするなと言うのならば、きっとたいしたことではないのだろう。その程度のことを、いちいち気に病む必要はない。不本意ながらも何となく納得した私は、未だに笑いを止めることのできない荒木を放っておいて、己の欲求を最優先させることにした。
「火村…?」
 問い掛けるように名を呼ぶ。バックミラーに写る火村は、それだけで私の問い掛けの内容を理解したらしい。片眉を上げ、口許に小さな笑みを刻んだ。
「荒木さんは、山越総合病院の件をご存じでしょうか?」
 車内に響いたバリトンの声に、私はきょとんとした表情を作った。
 ---こいつ、俺の言いたいこと、ほんまに判ってたんか?
 突然わけの判らない病院の名を告げられて、私は先刻の火村の表情を苦々しげに思い起こす。わざわざ火村が口に出すぐらいだから、今回のことに何か関係があるのかもしれない。
 とはいえ、私には何が何やらとんと検討がつかない。
「火村、それじゃよけい判らん…」
「噂やったら聴いたことがあります」
 右隣から不意に聞こえてきた低い声に、私の言葉は途中で掻き消されてしまった。つい今し方まで愉快そうに笑っていた荒木は眉根を寄せ、じっと前方を見つめていた。突然の荒木の変わり様に、私の混乱は深まるばかりだ。
「なるほど…。ではこの車が今どこに向かっているのかも、お判りですよね?」
 確信に満ちた火村の口調---。返事の代わりに、荒木はゆっくりと頷いた。
 その二人の様子をかわるがわる見つめながら、はっきり言って私はてんで面白くない。二人して私にはまるで理解不能な言葉を吐き、なおかつ二人だけで納得しあっているなんて、これじゃあどう見ても、私一人が蚊帳の外に置かれてるいるようではないか。
「何言うとんのや、火村。どこに向かってるって、そんなん言わんでも判ってるやないか。俺達が昔花見をした場所やろ、洛北の。それっくらい俺にでも、よぉ判っとる。そうやなくて、俺が言いたいのは---」
「アリース」
 バックミラーの中で、火村が唇の前に人差し指を立てた。騒々しい子供を黙らせるような仕種に、むっとする。しかし口惜しいが、確かに私が余計な茶々を入れては進む話も進まないのは否定できない。
 仕方なく、私は火村に従うことにした。少しだけふてたようにシートに身を沈め、口を噤む。そうして上目遣いに睨みつける私に、バックミラーの中の火村が少しだけ笑みを作った。
「有栖川から火村さんが犯罪社会学者やって聴いた時に、もしかしたらって思いました。まさか、それが当たるとは思わんかったけど…。---火村さんがご興味をお持ちになっているのは、山越総合病院の不正医療の件やないんですか」
 荒木が口の端で小さく笑った。
「少し違いますが、そうとも言えます。私の方もまさか荒木さんがご存じだとは思いませんでした。おかげで話が早くて助かります」
 瞬間、どこか人を食ったような笑みがバックミラーの中に写る。
 そういえば、私は荒木に火村が単なる犯罪学者ではなく臨床犯罪学者であること、そして警察に協力して数々の殺人事件を解決に導いたことをまだ伝えてはいなかった。だから荒木は火村が学者としての興味から、その山越総合病院とやらの不正医療に興味を持った、と考えたのだろう。
 それはある意味正解で、全体的には不正解に違いない。きっと火村が興味を持った---いや、関わっているのは…。
「医者いうても狭い世界やから、嫌でもそういう噂は耳に入ってきます。しかも山越総合病院の不正医療の噂は、今回が初めてやない。確か10数年前にもやったらしいと、小耳にはさんでいます」
「今から15年---正確には14年と4ヶ月前ですが---前に、山越医院、現在の山越総合病院で不正医療疑惑が持ち上がりました。帳簿のごまかし、過剰医薬投与など、疑惑の争点となったもの自体は、他の不正医療疑惑と何ら変わりはありません」
 不本意ながらも二人の話を黙って聴いていた私は、不意に浮かんだ疑問に、沈み込んでいたシートから身体を起こした。
「火村、質問」
 学生のように右手を挙げた私に、火村先生はバックミラーの中から眼差しで質問の許可を与えてくれた。
「その山越総合病院が、また不正医療疑惑を起こしてるなんてへんやないんか? やって前---えっと、15年前やったか---の疑惑が出た時に、営業停止とか何とか、当然何らかの罰をくらったはずやろ。それなのに、また懲りずにやるんか? いくら何でも根性ありすぎやで、それ…」
 けなしているのか誉めているのか良く判らない私の言葉に、火村が喉の奥で小さく笑った。
「残念ながら、罰せられていないんだよ。証拠不十分で、捜査打ち切りだ。よほど上手く隠しやがったらしくてな、警察の必死の捜査にも拘わらず、結局疑惑は疑惑のままで終わっちまったらしい」
「ふ〜ん、なるほど…。それやったら、またやろうって気になるかもしれんな。---ついでに、も一つ質問。事件が不正医療やったら、柳井警部の元上司って人は関係ないんと違うか? やって、その人かて捜査一課の人なんやろ?」
 私の疑問に、火村が揶揄るように笑った。
「お前、さっき自分で何て言ったよ?」
「俺…?」
 人差し指で自分の鼻先を指し示す。バックミラーの中の火村が、それを肯定するようにゆっくりと頷いた。
「---俺、何か言うたか?」
「さっき、寝言をほざいている時に言っただろうが。もう忘れちまったのか?」
 露骨に呆れたような火村の口調に、記憶の底を掘り起こしてみる。だが一体なにを言ったのかは、霧の彼方だ。
 ---あの時は確か…。
 う〜ん…と唸りながら、首を傾げる。---確かゾンビが何たらと力説して、さんざん火村にバカにされただけじゃないか。


to be continued




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