桜前線迷走中 <13>

鳴海璃生 




「やれやれ…。ほんっとうに容量の少ねぇ頭だな。京都府警が関わっているのは殺人事件。そう言ったじゃねぇか、お前」
「あっ!」
 私は胸の中でポンと両手を打ち鳴らした。---そういえば火村先生に私の推理を披露した時、「京都府警がどこに関係しているんだよ」と問われて、確かにそう応えたんだった。
「しかも、不正医療に関係して死んだ患者---とか何とか言ってたよな」
 言った。---うんうん、と頷くように私は頭を縦に振った。
「それ、当たってるかもしれないぜ」
「ほんまっ?」
 腰を浮かせ、運転席の背もたれに張り付いた私を火村が笑う。
「実際のところどうなのかは、行ってみねぇと判らないけどな。---それより、おとなしく座ってろよ。危ねぇだろうが」
 運転席から後ろ手に右手を伸ばし、私の額を軽く押す。それに従うように、私はシートに腰を下ろした。
「薬物の過剰投与による死亡、ですか…」
 固い声音に、私は視線を声の主へと移した。声と同じように表情を固くした荒木の様子に、しまったと心の中で舌打ちする。
 私と火村の間ではごくごく日常的な---余り嬉しくはないが---殺人や死という言葉が、荒木にとっては不快なものだったのかもしれない。
 たとえ人の生死に深く関わる医者であっても---いや、逆にそれだからこそ、他人の手によって無惨にも命が奪われた死というものに対しては、理性的にも感覚的にも受け入れ難いものがあっても当然だろう。しかも今話題に上っているのは、荒木自身と同じ人の命を救うべき医者が行った行為なのだ。
 もちろん自分がそういうこと---殺人や死…、そしてそれ以外のあらゆる犯罪---に対して鈍感になっている、或いは麻痺しているとは思いたくない。だが、それでも他の多くの人達と比べれば、犯罪---とりわけ殺人と呼ばれる犯罪---はより私の身近に存在している。
 火村英生という犯罪と向き合った男を介して、私は他のごく普通に生活を営む人々の入り込めない領域にまで足を踏み入れているのかもしれない。
 そしてごく普通だと、自分には関係のないことだと信じて疑わぬ人達の傍らにこそ、犯罪の芽は存在している。その芽を摘み取るか否かは、本当に目の前の道を右に曲がるか左に曲がるか程度の差でしかなく、その選択はある意味とても簡単なことなのだ。
 だから---。
 彼の傍らに立ち、彼と同じものを見つめ、私は常に願っている。
 彼が、火村が私と同じ場所にいることを。彼が向こう側に行ってしまわないことを…。
 そしてそのためになら、彼を私の傍らに留まらせておくためになら、私はきっと自分に出来うる限りのことを、いや、それ以上のことでさえ躊躇無くやってのけるだろう。
 初めて彼に出会った時から、いや、彼の中に存在する闇に気付いた時から、私の中の想いは常にただ一つだ。
 彼のそばを離れない。彼の手を離さない。…絶対に。
「そうかもしれない…としか、今は言いようがありません」
 聞き慣れた耳に心地良いバリトンの声に、私は現実へと引き戻された。
 上げた視線の先、バックミラーに写る犯罪学者の男前の顔からは、何の感情も伺え無かった。いつも通りの、見慣れたクールな表情。だが彼の眼差しの中に、私は犯罪者を狩る臨床犯罪学者の姿を見て取った。
 ---きっと火村は、不正医療以外の殺人事件を追っている。
 何の脈絡も根拠もなく、唐突にそう思った。
 私にだけ判る。私にしか判らない。それは私だけが知っている、惹かれてやまない火村の姿だ。
 静かな口調で語られる火村の言葉に耳を傾ける。何一つ聞き逃さないように、何一つ見逃さないように…。そして---絶対に彼の手を離さないように…。
「15年前の不正医療が持ち上がった時、薬の過剰投薬が原因で妻が死んだ、と訴えた男性がいました。もちろん病院側はそれをすぐに否定しました。が、彼は諦めなかった。何度も何度も警察に足を運び、捜査を依頼した…」
「警察は捜査をやってくれたん?」
「最初の内はやったらしい」
「最初の内?」
「そうだ。もし不正医療に関連した薬物の過剰投与で患者が亡くなったとすれば、そこから切り崩していけるからな。だがいくら調べても、何の証拠も上がらない。入院記録も看護記録も、それと並行して調べていた帳簿類からも、ありとあらゆる書類をひっくり返してみても、何も見つけ出すことはできなかったそうだ」
「病院の関係者からの証言は?」
 私の言葉に、ゆっくりと火村は頭を左右に振る。
「よほどのことがない限り、証言なんてとれへんよ」
 二人で話していた空間に突然飛び込んできた耳慣れぬ声に、私は驚いたようにその声のした方向へと振り向いた。
 隣りに座る友人は、じっと前を見つめている。口許に薄く浮かぶ自嘲的な笑み。それは、見知った友人には余りにも不似合いな表情だった。---初めて目にするその表情に、私は眉を顰めた。
「病院て所は、閉鎖された世界やからな。中で何が起こっても、それが外に漏れることは極めて少ないんや。…やから、もしその時その場に俺がいたとしても、証言したかどうかは判らへん」
 驚いたように見つめる私の視線に気付き、荒木は微かに苦笑いめいたものを口許に浮かべた。
「大学病院みたいなところやったら、対立する派閥から相手にとって不利な証言も得られるかもしれん。けど、個人経営の病院やったら、まず無理やと思う。---医者いうても、一介のサラリーマンと変わらへん。誰かて自分のことはかわいいもんやろ」
 どこか投げやりにも聞こえる口調。私の中の彼に対する違和感が一層大きくなる。---私の知っている友人は、こんな台詞を口にするような人間だっただろうか。
「病院なんて、中に入ってみると汚いもんやで。人のために役立つとか、病に苦しんでいる人を救うとか、そんな理想なんて通用せぇへんことが色々あるんや。そんなきれい事、いつまでも言ってられへんのが普通や。でも俺は、そういう人達を単純に責められへんと思うわ」
 どこか苦しそうな、傷ついたような荒木の表情に、ズキリと胸の奥が痛む。
 理想や夢や、そんなきれい事だけを信じていられる年齢はとっくに通り過ぎた。共に夢を語り合って過ごした時間よりも遙かに長い時間を、それぞれの場所で過ごしてきている。その間に友人が自分の知り得ぬ彼になっていたとしても、それはそれで当然のことなのかもしれない。
 だがそれでも、それが判っていても、きっと変わらないものもある。---私が信じているもの…。私の中にいる彼…。学生時代に夢を語り合った友人の姿は、今も変わらずに私の中にある。
「…でも、荒木は違うやろ?」
 呟いた私の言葉に、荒木が僅かに頬を歪める。
「買い被りや。俺かて---」
「私もそう思いますよ」
 耳朶に触れたバリトンの声に、私と荒木は揃って運転席へと視線を移した。こういう場合めったに口を挟むことのない火村が突然割って入ったことに、私は当惑にも似た驚きを隠せなかった。バックミラーに写る火村をぽかんと見つめる私に、鏡の中の犯罪学者はふっと双眸を細くした。
「私は貴方自身のことは良く知りませんが…」
 ミラーの中の視線を荒木へと移す。鏡の中で、火村の視線と荒木の視線が交錯した。
「アリスが信じているのなら、そうなんじゃないんですか」
 めちゃくちゃだ。
 生真面目に語られたその台詞に、私は唖然とした。全然ロジックな火村先生らしくない。私が信じているかどうかなんて、そんな事まるで何の理由にもなってないじゃないか。全く何を言い出すんだ、こいつ…。
 やっぱり慣れないことはしない方がいいんじゃないか、と思いながら「らしくもない余計なことを言わずに、運転に専念しろ」と言いかけた時、不意に荒木がクスリと笑った。
「…そうですね。有栖川が信じてくれてるんなら、俺もまだ大丈夫かもしれない」
 一人で納得したようにすっきりとした表情で笑った友人に、私は頭を傾げた。バックミラーの中の火村も、その応えに満足したように眸を伏せる。
 ---一体なんなんだ、こいつらは…?
 訳が判らない…。---火村と荒木は勝手に納得しあってるみたいだが、一人訳の判らない私は妙に居心地が悪い。だが何か文句を口にしようにも、これまた何に対して言えばいいのかが、てんで判らない。
 その結果として、私は黙り込むしかなかった。むっつりとしたまま、シートに沈み込む。何だかもの凄く理不尽な扱いを受けている気がする。その私の様子をミラー越しに眺め、火村はからかうように言った。
「急におとなしくなったじゃねぇか、アリス。話の続きはもういいのか?」
「何の話や?」
 自然と口調にも険が混じる。火村と荒木の二人だけで納得するような話なら、もう聴く必要はない。
「今回の件だよ。まだ途中だろ?」
「不正医療の話やったら、もういいで。奥さんを薬の過剰投薬で亡くしたって警察に訴えても、結局はダメやったって言うんやろ。やったら、それで終わりやないか。それ以外一体なにがあるって言うんや」
「柳井警部の上司って人が関わっている方は、まだ済んじゃいねぇだろ」
「その亡くなった奥さんてとこやないんか?」
 ゆっくりと火村が頭を左右に振る。
「まーた、自分が言ったことを忘れてやがるな。不正医療程度で柳井警部の上司が関わるのはへんだって、お前が言ったんだろうが」
 そうだった。つい証言云々のせいで、すっかり忘れていた。
「でも、火村。たとえ事件が不正医療であっても、それに関連して人が亡くなってるんやったら、柳井警部の上司---えっと…、岡本さんやったっけか---が出てきてもおかしいことはないんやないか?」
「確かにそうだな。だが、それじゃ不十分だ。捜査一課が出てくるほどの事件じゃない」
「やったら…」
「アリス。その奥さんを亡くした人---長沼さんていうんだがな---、どうしたと思う?」
 言葉の端を折られ、それどころか逆に問い掛けられて、私は一瞬返事に詰まった。どうしたと思う、と言われても---。
「警察は調べてくれたんやろ。それで何も証拠が出なかったんなら、諦めるしかないんと違うか。そりゃ長沼さんにしてみればめっちゃ口惜しいかもしれんけど、仕方ないんとちゃう?」
「そうだな。だが、長沼さんは諦めきれなかったらしい。警察が駄目なら、自分の手でって思ったんだろうな。京都府警が捜査を断念したあとも、一人で証拠を探していたらしい」
「ふ〜ん…」
 私は曖昧に頷いた。
「そんで?」
 話の続きを促した時、車がゆっくりとその動きを止めた。
「着いたぜ」
 低い火村の声につられたように、視線を窓の外に向ける。フロントガラスの向こうには、数人の制服警官の姿が見えた。話に夢中になっていて気付かなかったが、車はいつの間にか京都市街を抜けて、洛北の大原の手前辺りにまで辿り着いていたらしい。
 キーを抜き、先に降り立った火村に続き、慌てて私も車の外へと飛び出した。その後ろから荒木がゆっくりと外に出る。それを視界の端で一瞥し、私は火村へと視線を移した。
 車中で禁煙を強いられた火村は、早速キャメルを口にくわえていた。辺りの様子を見回しながら、風に吹かれて落ちてきた前髪を掻き上げる。
 ---こいつ、これからフィールドワークなの判ってんのか。
 思わずそう疑いたくなる程のんびりとした様子で、火村は煙草をふかしている。実際のところ、火村はひと言もフィールドワークという言葉を口にしていなかったのだが、私がそれに気付くはずもない。警察、事件、火村---とくれば、連想ゲームのように、私の頭の中にはフィールドワークという言葉が湧いて出るのだから…。だから、辺りの風景に溶け込んでいるような火村の様子に、思わず私の方が焦れてしまった。
「火村、途中やで。そんで、どうなったんや?」
 肩越しに振り返った火村は、陽の光が眩しいとでもいうように微かに目を細めた。
「行方不明になったんだよ」
「えっ?」
 さらりと言われた言葉が、耳に馴染まなかった。まるでその場に相応しくないことを聴いた時のような、妙な違和感。ぼんやりと佇む私を見つめ、火村はゆっくりと言葉を継いだ。
「当時大学生と高校生だった息子と娘から、京都府警に捜索願いが出されたそうだ。---15年近く経った今でも、まだ長沼さんの行方は判らないそうだぜ」
 クールな表情に相応しい、何の感情も籠もらない声。足下から這い上がってくる嫌な予感に、私はごくりと息を飲んだ。
「火村、それって…」
 掠れた声が喉に張り付く。
 ---嫌な予感…。
 指先が徐々に冷たくなっていく。背筋をジワジワと不愉快な感覚が這い上がる。
 ---嫌な予感…。
 その私を嘲笑うように、咄嗟に一つのことが閃いた。
 火村が妙に気にしていた豚の骨…。---人間の歯によく似た形状を持つそれ…。
 乾いた喉を潤すように、私はごくりと唾を飲み込んだ。
「火村…。もしかして、俺が掘り出したのって---」
 それ以上は考えたくない。---言いたくない…。
 顔を顰めた私を見つめ、火村がニヤリと笑った。
「岡本さんの口から洛北の山越総合病院の名が出た時にはそれ程でもなかったんだが、あとになって良く考えてみると妙にお前の話と符号が合いすぎるんだよな。妻の死の原因を追い続けていた長沼さんが行方不明になったのが、14年前。そしてお前が骨を掘り出したっていうのが、今から13年前。しかも病院の持つ私有地から、だ」
 目の前にいる火村の声は、何故か酷く遠くから聞こえてくるような気がした。まるで、逆さまに覗いた望遠鏡を通して聞こえてくるような、そんな感覚---。なにの、思わず耳を塞ぎたくなるほど、言葉の意味ははっきりと認識できる。
「お前は病院の名を良く覚えていなかったが、そけでも頭に『山』が付く名で、洛北にあるということだけは覚えていた。---アリス…」
 囁くような低い声に、私は足下へと落としていた視線を上げた。視界に写った火村の表情が、臨床犯罪学者のそれに変わる。
「当たり前のことだが、小さな個人経営の病院もあわせれば、洛北には相当数の病院がある…」
 火村は空に向かってゆっくりと紫煙を吐きだした。青い空に溶けていく煙が、何故か目に染みる気がした。
「---だが頭に『山』の付く名で、お前が言ったような私有地を持つ病院は、たった一つだけだったぜ」
 ジャケットの内ポケットから取り出した簡易灰皿でキャメルを揉み消し、呆然と佇む私を火村は一瞥した。
「行くぜ」
 先にたって歩く臨床犯罪学者のあとに続き、私は普段の倍以上の重力を感じながらも、ゆっくりとした足取りでそのあとに続いた。


to be continued




NovelsContents