桜前線迷走中 <14>

鳴海璃生 




−7−

 京都府警の柳井警部を先頭に、荒木、火村、そして私が続く。その後ろには、紺色の制服を着た数人の鑑識官と制服の警察官。山の入り口には、中に関係者以外が入れないように数人の警官が立ち番をしている。
 山越総合病院の裏手にある小高い山の登り口で、久し振りに会った柳井警部は福助によく似た顔に笑みを浮かべ、私のおかげで長年の胸の遣えがおりる、としきりに恐縮して礼を述べてくれた。その柳井警部のホッとした表情を見つめながら、私本人としては少々複雑な気持ちでその言葉を聴いていた。
 私にしてみれば、掘り当てたのが豚の骨だと思っていたからこそ、花見の話題として気軽に持ち出せたのだ。ともすれば記憶の底に埋もれてしまいそうな、ほんの笑い話で済ませられるような、その程度の思い出でしかなかったのだ。だがそれが一瞬の内に、その存在を変えてしまった。
 ---もし本当に豚の骨じゃなく、人間の骨だったら…。
 脳裏に浮かんだ思いを振り払うように、強く頭を左右の振った。バサバサと伸びた前髪が額に当たる。---それは、私にとって余り嬉しい想像じゃなかった。
 もちろん病院の不正医療が摘発されるのは良いことだし、行方不明の長沼さん---だっけ---の行方が判る---もちろん元気な姿で戻ってきてくれるのがベストだし、私としても切実にそれを願いたい---のも良いことだと思う。がしかし、しかし、である。実際に骨を掘り出した私としてみれば、それとは全く別の次元で、あれは豚の骨であってほしいと説に願っていたりもする。
 ---あ〜あ…。
 空に向かって、そっと溜め息をつく。目の前には嫌になるくらいの青空。水彩絵の具で塗ったような淡い柔らかなブルーは、まさしく春の色だ。
 その青空に映える白ともピンクとも言えない桜の花---。京都市内よりも気温の低いこの辺りでは、その桜もまだ七分咲きぐらいだ。たぶん細い上り道の両側に並ぶ桜樹の盛りには、あと数日の日にちを要するのだろう。
 普通ならば花の盛りを楽しみに歩くであろうこの道を、何故こんなどんよりとした暗い気持ちで歩かなければならないのか。目の前の青空を見ても、淡いピンクの花弁を見ても、私の気持ちは一向に浮上しない。15年振りに事件解決の糸口が掴めるかもしれないとの期待に、軽い足取りで歩く柳井警部の後ろ姿さえもが恨めしい。
 気を取り直すようにもう一つ溜め息をつき、私は斜め前を歩く荒木へと視線を向けた。
「それにしたって、荒木の奴よぉ覚えとったな」
 何の迷いもなく道案内をする荒木に対して、賛嘆とも呆れとも判別のつかない呟きが漏れる。私にしてみれば、気を取り直すためのほんの独り言のつもりだったのだが、地獄耳の火村はそれを耳ざとく聞きつけて、ニヤリと意地の悪い笑みを口許に刻んだ。
「脳味噌のデータ容量が、お前とは違うんじゃねぇのか」
「煩いわい。俺かて、何となくは覚えとるんや」
「何となく、ね。---だったら、荒木さんが覚えていたのは大正解だったな。何せ、お前の『何となく』ほど当てにならねぇもんもないしな」
 失礼な。何となく覚えていた私は辺りの景色を見つめている内に、記憶の断片がパズルのように組み合わさってきているところなんだ。ここからだったら、私にだって道案内はできる。---と、思う。
「言うとくけどな、俺だってしっかり思い出したで。ここをもうちょっと登って、道なりに右に曲がって突き当たったところが、俺達が花見をやった場所や」
「ほぉ…」
 当てにならないという雰囲気を滲ませて、火村がいい加減に相槌を打つ。
「君、俺の言うこと信じてへんな。ほんとやで。その突き当たった場所ってのが結構おもしろくてな。偶然やと思うんやけど、ぽっかり空いた空間をまぁるく取り囲むように桜が植わってるんや」
「なるほど。---で、お前が掘り起こした桜ってのは、その内のどれなんだよ? 場所じゃなく、肝心なのはそれだぜ」
 ニヤニヤ笑いの火村の顔を、私は嫌そうに見つめた。肝心要のその部分は、残念ながら記憶のパズルのピースの中には存在していなかった。---いや、もしかしたら私の繊細な神経が、無意識の内にそこだけをオミットしているのかもしれない。
 応えを返せない私に、火村は大仰に溜め息をついてみせた。
「お前がちゃんと覚えていれば、わざわざ荒木さんに面倒をかけることも無かったんだがな」
 悪かったな。どうせ私の脳味噌はつるっとしてて、データ容量が少ないんだ。しかも私自身だって、お前が面倒かけまくっても、ちらりとも心が痛まんような奴だ。
 が、口ではいくら殊勝なことを言っていても、実際のところの火村は荒木に面倒をかけて悪いことをした---なんて、ぜんぜん思っていないのだ。長年の付き合いでよーく知っているが、こいつはそういう奴だ。だいたいもしそう思っているのなら、その口調を何とかせい。言葉の内容とまるで合っていないじゃないか。---相手にするのも馬鹿馬鹿しいというように、私は火村の言葉をケッと吐き捨てた。
 木々の匂いを運ぶ風に吹かれながら、ピクニックするには最適の小道を歩く。陽の光はポカポカと暖かいし、髪を揺らす風は心地良い。
 これで行き着く先に待つものがアレじゃなければ、スキップの一つでもやりたい気分だ。もっとも、周りの風景から浮き捲っているこの異様な一団の中でスキップなんぞしたら、不気味なことこのうえないのだが---。
 数メートル歩いたところで、ただ歩くことに退屈した私は隣りを歩く火村の袖をそっと引いた。
「なぁ、火村。ここ、私有地なんやろ。掘り返したりしても大丈夫なんか?」
「なに言ってる。とっくの昔に掘り返した人間のいう台詞じゃねぇな」
 からかうように喉の奥で笑う。
「15年前なんて、もうとっくに時候や。それより冗談やない。俺はマジに訊いてるんやで」
「---大丈夫だろ。令状は取ってあるし、俺達がここに来る前に、柳井警部が院長の方には話を通しているはずだ」
「ふ〜ん…。随分と手回しがええんやな」
 呟いた私を、チョイチョイと火村が指で招いた。
「何や?」
 肩が触れ合うほどに近寄り、顔を近づけた私の前髪をツンと引っ張って、火村は私の耳元に唇を寄せた。
「そりゃあ、手回しもいいだろうさ」
 先を行く柳井警部の背中にチラリと視線を走らせ、小声で囁く。
「考えてもみろよ。15年前に証拠不十分で捜査打ち切り、なんて大恥かいてるんだぜ。今回の捜査には、警察の面子がかかっているんだ。何が何でも、否応無しに張り切らざるを得ないさ」
 なるほど、と納得する。柳井警部の背中にみなぎるあの並々ならぬ闘志には、そういう理由があったのか。---が、しかし…。ここまで期待させておいて、張り切らせておいて、それでもし---97パーセントの確率であり得ない、とは思っているんだが---空振りだったら、どうする気なんだろうか。
「何や、気が重うなってきた。これで出てきたのが単なる豚の骨やったら、俺、妙な責任感じるで」
 もちろん私の精神衛生上からだけみれば、その方が大歓迎なんだが…。
 一つ溜め息をおとし、前を行く柳井警部の背中を顎で差しながら、私は火村の耳元で囁いた。ぼそぼそと囁く私を横目に見つめ、火村は口許を歪めた。
「気にすることはねぇさ。もしハズレだった場合は、警察が鋭意努力のうえ捜査を続行するさ」
 臨床犯罪学者にしては、随分と無責任な台詞のような気がする。が、まっ、現実なんてそんなもんだろ。
 一般市民の皆様からの情報なんて、50パーセントはハズレと相場が決まっている。警察だってその程度の確率で、万に一つもビンゴがあればいい---ぐらいにしか思ってないのかもしれない。私はありのままを花見のネタに話しただけだし、だいいち警察を引き込んだのは、火村だ。いくら繊細で小心者の私でも、そこまで気に病むことはないか。
 ホッと息をつきと、辺りの様子に気を配る余裕も出てきた。耳を済ますと、サヤサヤと木々の間を渡る風の音が聞こえてくる。そして、周りの人達の息遣いさえ聞こえてきそうな程の沈黙---。
 言葉も無く、私達は細い小道をもくもくと歩いていった。一歩進むごとに、緊張感が少しずつ増していくような気がする。
 やがて私の数歩先を歩いていた柳井警部が、唐突に足を止めた。振り向き、すぐ後ろの荒木に何事かを確認するように声を掛ける。数歩後ろを歩いていた荒木は、ゆっくりと歩み寄り、柳井警部の隣りで立ち止まった。辺りの様子を一瞥し、思案するように首を傾げたあと、鷹揚に頷いた。
「火村先生、有栖川さん。着きました。ここだそうです」
 シンとした静けさの中に、突然響いた声。
 隣りを歩く火村と顔を見合わせ、私は少しだけ歩調を早めた。
 荒木の隣りで足を止め、辺りの様子を見回す。私の微かな記憶の中にあったように、そこはぽっかりと拓いた丸い空間になっていた。それを取り囲むように植えられた桜の樹が、風にフワフワと揺れている。
 ゆっくりと近づき、私の隣りで歩みを止めた火村に、私は勝ち誇ったような笑みを見せた。
「どや? 俺の言った通りやったやろ」
 自慢げな私の言葉に、火村は肩を竦めてみせた。
「言ってるだろ、アリス。それだけじゃ不十分なんだよ」
「でも、荒木かてこの先は判らへんに決まっとる」
「フ‥ン…。そん時ゃ、片っ端から掘り起こすさ」
 揶揄を込めた口調でそう言いながら火村は視線を巡らし、柳井警部と荒木を交互に見つめた。
「荒木さん。ここで間違いはありませんか?」
 問い掛ける火村に、しっかりと確信に満ちた様子で荒木は頷いた。腹がたつことに、火村は私の言葉をまるっきり信じていなかったらしい。
 口惜しさに後ろから小突いてやろう、とそっと手を伸ばしたのだが、簡単に火村に腕を取られ止められてしまった。後ろ手に手首を握られたままじたばたともがく私を平然と無視して、火村は言葉を続けた。
「では、アリスが掘り起こした樹がどれなのか、覚えていらっしゃいますか?」
 当の本人の私に判らないのに荒木に判るか、と思いながらも興味津々という様子で、私は荒木の顔を見つめた。
 期待も露わな柳井警部の視線。感情の欠片さえも垣間見せない火村の視線。そして、興味津々の私の視線---。それぞれに異なった意味を持つ視線が、一斉に荒木へと注がれる。
 その視線を静かに受け止めながら、片手を顎に当て古い記憶を掘り起こすように考え込む。その数瞬後、荒木は不意に腕時計へと視線を落とした。やがて何を思い立ったのか、丸い空間の中央へと歩き出した。
 キョロキョロと辺りを見回し、自分がちょうど真ん中にいることを確かめ、その場に足を止める。そしてもう一度左手の腕時計で時間を確認したあと、青空に輝く太陽に背を向けた。一体彼が何をやっているのか検討がつかず、私達は荒木の一挙一動に眼差しを注ぐ。
「私の影が伸びている方向の延長線上にある樹が、有栖川が掘り起こした樹です」
 突然耳に飛び込んできた荒木の声に、私は彼の足下へと視線を移した。春の陽に照らされた荒木の足下には、黒い影が太陽とは反対の方向に向かって一直線に伸びていた。
 その影を辿り、視線を移動させる。まるで日時計の柱が時刻を指し示すように、彼の影は一本の樹を指し示していた。
「あれか…」
 低い火村の呟きが耳朶に触れる。同時に、鑑識官や警官に指示を飛ばす柳井警部の声が辺り一帯にこだまし、ふわりとした暖かな空気を震わせた。静けさに支配されていた周りの空気が、一気に騒然となる。
 私の視界の先で、紺の制服がバタバタと駆け回る。私達関係者以外には人気のない場所なので、野次馬除けの黄色いテープを張る必要もないのだろう。荒木によって示された桜の樹の下へと駆け寄った警官達は、手際よくその樹の根本を掘り始めた。
「これで宜しいですか?」
 意識の片隅を通り過ぎた荒木の声に、私は声のした方向へと視線を移した。いつの間にか戻ってきていた荒木が、火村の向かい側に佇んでいた。
「ありがとうございます。このバカが覚えていなかったために、とんだご足労をお掛けしてしまいました」
 火村は心持ち頭を下げ、肘で私の腕をこづいた。その言葉に、荒木が訝しむように眉を寄せた。
「ほんまに有栖川、覚えてなかったんか?」
 心底驚いた様子での問い掛けに、私はといえば罰の悪さよりも疑問の方が先にたってしまった。
「何言うてるんや。そんなん覚えとらん方が普通やで。この場所だけならともかく、君が桜の樹まで指し示すんやもん。逆に俺の方がびっくりしたわ」
 呆れたというように、荒木が空に向かって溜め息を吐いた。
「何言うてんのや。さっきのやり方で、有栖川がどの桜の下を掘り起こすか決めたんやないか」
「へっ?」
 間の抜けた返答を返した私に、荒木が再度溜め息をつく。
「あの時『桜の樹の下には屍体が埋まってるって言うから、掘り返してみよう』って言ったお前に、河村が『こんなにたくさんある内のどれにするんだ。全部掘り起こすのか』って訊いただろうが---」
 そうだっただろうか…。
 間違いなく自分のことを言われているのに、まるで他人事のような表情を晒す私を見つめ、荒木は諦めたような口調で言葉の先を続けた。
「それでお前が『お日様に訊けやッ』って、今と同じことしたんやないか。偶然にも、あの時と日にちや時間が近うて良かったわ。そうやないと、さすがにどの桜の樹までかなんて思い出せへんもんな。いや、もし思い出したとしても、これや言うて指し示すのは無理やろ」
 呆気にとられ、ぽかんとした間抜け面を晒す私を見つめ、荒木は慰めの言葉を口にする。
「まぁ、あの時はお前ずいぶん呑んでたし、覚えてなくても仕方あらへんかもな」
 友情が心に痛い。持つべきものは心優しき友人や、などと感慨に耽っている私を引きずり落とすように、無粋なバリトンの声が耳朶を打った。
「要するにこいつの限られたメモリー容量が、極端に少ないってことでしょう」
 この野郎、私に喧嘩売っとんのかい。
 売られた喧嘩は買うぞ、との意気込みで火村を睨みつけようとした時、甲高い大声が辺りの空気を震わせた。
「出たぞっ!」


to be continued




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