鳴海璃生
−3− 部屋に入った途端、火村は上着のポケットから取り出したキャメルを口にくわえ火をつけた。大きく紫煙を吸い込み、ほっと息をつく。2口、3口、美味そうに紫煙をくゆらせ、漸く思い出したように左手に持っていたカードキーを壁のキーボックスに差し込んだ。
陽の光の明るい部屋の中に、ぽっと間接照明の淡い明かりがともる。が、まだ明かりを必要とするような時間ではない。
火村は無意識の内にキーボックスの横のスイッチに手を伸ばし、部屋にともった電気を消した。部屋の奥一面に取られた窓から差し込む陽の光のおかげで、電気を消してもドア付近の通路は僅かに薄暗い程度だ。
キャメルを口の端にくわえたまま通路の奥へと進み、火村は眩しげに双眸を細めた。時間は既に午後6時を過ぎていたが、窓から差し込む陽光は未だに強い光でもって暗がりに慣れた双眸を射る。小脇に抱えていたパンフレットやファイルをベッドの上に放り投げ、火村はぐるりと部屋の中を一瞥した。
都内でも一流の部類に入るホテルの部屋は、一私大の助教授に宛われたにしては贅沢すぎる程に広い。
「チッ。---ったく、冗談じゃねぇぜ」
若白髪の混じった髪を乱暴に掻き上げると、部屋のソファに身体を預け、ぼんやりと窓の外の風景に視線を走らせた。道を挟んで向かい側に建つ新宿の高層ビルの窓に写った夏の青空は、まるで填め込まれた写真のようだ。
口にくわえていた煙草を灰皿に捨て、新しいキャメルに火をつける。口の中に広がる独特の香りを味わうように、火村は大きく息を吸い込んだ。
担当教授の代理として参加した学会だったが、こんなことなら適当な理由をつけて断れば良かったと深く後悔する。確かにメンバーだけを見れば、この学会のために各国から集まった参加者達は超一流の犯罪学者の面々ではあった。
が、その参加者の誰もが学会というよりはちょっとしたバカンス気分---だいたいこんな夏真っ盛りの8月になんて開くのだから、当然といえば当然かもしれない---で集まっているため、各ワークショップごとに日々討論される内容の程度も、おして知るべしという処である。始まってまだ2日しか経っていないのにこれでは、残りの3日間は火村にとっては地獄の責め苦になるかもしれない。上手く教授に騙されて押しつけられたような気分になったとしても、あながち被害妄想とは言えない状況だ。
「時間の無駄ってのは、こういうことを言うんだな」
うんざりしたように紫煙を吐きだしていると、不意にサイドテーブルの上の電話がコール音を響かせ始めた。その音に小さく目を眇めた火村は、気怠げな仕種で手を伸ばし、ゆっくりと受話器を取り上げた。返事をする前に、丁寧な口調で外線を報せる声が耳に届く。その内容に、火村は僅かに眉を寄せた。
もちろん自分がここにいることを知っている人間は、数人いる。下宿の婆ちゃん、こんな面倒なことを肩代わりさせた担当教授。それに、アリスだ。だが、その中の誰を脳裏に描いてみても、わざわざ電話を掛けてくるような人間には思い当たらないし、またそれ程の用件というものにも心当たりが無かった。もしその中で強いて挙げるならば、アリスだが---。
---んな訳ねえよな。あいつは、俺の誘いを冷たく一蹴したんだからな。
心の底で少しだけ期待した自分に小さく舌打ちし、火村は頭を振った。
『お客様?』
返事のない相手に、フロントマンが再度問い掛ける。火村は慌てて意識を耳元の受話器へと戻した。
「ああ、すみません。繋いで下さい」
了承の返事を返し、キャメルをくゆらせながら電話が外線へと繋がるのを待つ。数瞬の沈黙のあと、やたらと元気のいい声が、唐突に耳に飛び込んで来た。
『火村ーっ、元気か?』
鼓膜を震わせた大声に、火村は反射的に受話器を耳元から離した。自分の名も名乗らず、ついでに電話口の相手を確認もせず、唐突に話を始める人間を火村はたった一人しかしらない。
唇の端にくわえていた煙草を灰皿へと投げ込み、火村は電話の向こうの相手に聞こえるように、態とらしく溜め息をついてみせた。
「アリス…。何の用だ、一体」
『何や? 随分やないか、その言い方。せっかくご機嫌伺いの電話を掛けてやった友人に対する返事が、それかい』
本気で怒っているわけではないのだろうが、微かに気分を害したような様子が受話器越しに伝わってきて、火村は口許に苦笑を刻んだ。
「そりゃ、悪かった。お優しいご友人様の思いやりに、心の底から感謝するよ」
『そやろ、そやろ。でな、火村---』
「何だよ?」
ぶっきらぼうな口調に、私はコホンと一つ、勿体ぶったような咳払いをした。
『俺、今からそっちに行くわ』
「はぁ…?」
突然何の脈絡も無く飛び出した言葉に、火村は口許まで運んでいたキャメルを取り落としそうになった。アリスの思考回路が時たまぶっ飛んでいるのは良く判っていたが、今回の飛び方はまた半端じゃない。
だいいちつい10日前、自分の誘いをにべもなく断ったと同じ口で、「今から行く」とあっけらかんと言えるその感覚が、今さらながらに良く判らない。もっともそれでこそアリスだと思えてしまうところが、こいつの得な性格というか何というか---。
『な〜んや、火村。あんまり嬉しゅうて、声も出ぇへんのか』
らしくもない惚けた声を上げたまま黙り込んでしまった火村をからかうように、私はケラケラと笑ってみせた。その脳天気な声に、火村は受話器を握りしめたまま、頭痛を堪えるかのように顳かみを人差し指で押さえた。
「アリース。お前、俺に何て言ったのか、きれいさっぱり忘れてるみたいだな」
携帯の向こうで低く呟かれた声音に、私の笑いは一瞬の内に凍り付いた。小さくごくりと息を飲む。その気配が受話器越しに伝わり、火村はしてやったりとばかりに唇の端を皮肉気に上げた。
アリスと火村を繋ぐラインの上に落ちた数瞬の沈黙。耳に当てた受話器から伝わる周りの騒音が、火村の耳に微かに響く。
「アリス」
含み笑いを隠そうともせず、火村は応えを返せずにいる私の名をからかいを含んだ口調で呼んだ。歌うような、囁くような、耳に心地よいバリトンの響きに、ドキリと心臓が踊る。
『も、もちろん覚えとるわ』
条件反射のように、咄嗟にそう応える。ドキドキと耳元で鳴っているような鼓動が、携帯の向こうの火村にも伝わっているような気がして、私はそれを隠すために慌てて言葉を継いだ。
『だからちょっと反省して、こうして会いに行くって言うてるんやないか』
焦って続けた言葉は、当然ながら大嘘である。火村が東京に行くことさえ忘れていた私が、火村に対して何と言ったかなんて覚えているわけがない。やっぱり私の記憶は自分にとって都合の悪い所をオミットして、有栖川有栖仕様に脚色が加えられていたらしい。
つまり、そうじゃないかな…と危惧していたことが、火村先生のおかげで見事に立証されたわけだ。いやあ、ほんまめでたい。---なーんてことあるかいっ。
10日前の電話で火村に何て言ったかをてーんで全く覚えてない私は、必死で平気そうな振りを取り繕って---多分それには失敗しているような気もするのだが---はいる。だがその実、内心では冷や汗たらたらものなのである。なまじ何かやったかもしれないなんて自覚があるだけに、余計に始末が悪いことこの上ない。いっそのこときれいさっぱり忘れていたら…。
---いや、いかん。そしたら、サウナでうだり捲りやないか。
心臓の音はさっきからドキドキ煩いし、この程度でおたおたする小心者の自分が情けない。それに比べて電話の向こうのセンセイときたら---。絶対、鋼鉄の心臓にグラスファイバーの毛が生えているに違いない。
だいたい無愛想、クール。他人に興味はありません---なんて涼しい顔をしているくせに、火村は私に対してだけは昔っから妙にしつこいのだ。
たぶん火村のことだから、今回も絶対に手加減するつもりはないに違いない。それが判っているだけに、ここで滅多やたらなことはできないし、言えない。山の彼方の空遠く、にある幸せをゲットするためにも、ここで道を間違って墓穴を掘るわけにはいかないのだ。
「反省したのは、ちょっとだけか?」
そう言われても、何のことやら…。が、判らないなら判らないなりに、ここは上手いこと火村に口裏を合わせるしかない。
『ちょっとだけやあらへん』
「ほぉ〜。そこまで反省して、わざわざ俺に会いにきてくれたわけだ。随分と殊勝な心がけじゃないか、アリス。そんなに俺が恋しくて、寂しかったのか?」
何ぬかしとんのや、こいつ。ちょっと人がおとなしゅうしとれば、いい気になりくさりやがって。
含み笑いを隠した楽しげな口調に、思わず声を荒げそうになる。いや、いつもだったら、とっくの昔に怒鳴っているところだ。
---我慢や、アリス。
気を落ち着けるために心の中で数字を数え、羊に柵を飛び越えさせる。そして私は、火村に見えないながらも、お愛想のように引きつった笑みを表情に張り付かせた。
『そや。ものすごーく恋しかってん』
うわっ、まずい。口からザザッと砂を吐きそうだ。でもぐっと我慢して、私は喉元まで上がってきた砂を胃の中に押し戻した。
『もう会いとうて会いとうて、夜も寝られへんかったわ』
ああ…、いかん。これ以上続けていたら、終いには口が腐ってしまう。
いつもだったら絶対口には出さない台詞を、私は我慢の10乗の無限大で言ってのけた。この健気に涙ぐましいまでの努力。携帯の向こうで火村が僅かに息を飲んだ気配が伝わってきて、私は瞬間的に勝った、と思ってしまった。
---いや、違うわ。そういう問題やあらへん。
まあ、私の台詞をどういう風に理解したかは、受け取った方しだいだ。だが私自身は砂は吐いても、嘘はついていない。
---ほんまに心の底から恋しかったわ、クーラーが…。
暑くて暑くて夜は眠れなかったし、食欲は無くなるし---。本当に今思い出してみても、涙無しには語れない極悪の2日間だった。
「今日は随分と素直じゃねぇか」
『俺はいつだって素直やで』
君と違って、という言葉は咄嗟のところで飲み込んだ。
「ふん…」
私の言葉をまるで信じてない様子も露わに、火村が鼻で笑う。ちょっとカチンとくるものはあったが、私は寛大な心でもって無視してやった。
『でな、火村。そっち行ってもかまへんやろ?』
意味は違うが、ここまで恥ずかしい台詞を私に言わせているんだ。これで「ダメだ」なんて言いやがった
ら、今度会った時に絶対1発殴ってやる。
「今さらだめだって言っても、来てるもんは仕方ねぇからな」
やった。これで心地よい睡眠が手に入る。クーラーさん、待っとってや。俺は今すぐ君の元に行くで。
「---で、新幹線は何時に着くんだ?」
『はい?』
「はい、じゃねぇだろ。到着する時刻が判らなきゃ、迎えにもいけねぇだろうが」
『そう言われても…』
「おいおい…。困るようなことか、アリス」
心底呆れたような口調が耳朶に触れる。私は何となく罰が悪くて、照れ隠しのように髪の毛をぼりぼりと掻いた。
はっきり言って火村の質問は、私にとっては無茶苦茶応えがたいものだったのだ。理由を言ったら、火村のことだからきっと絶対バカにするに違いない。それが判っているだけに、なるべくお茶を濁したい話題なのだが、言わないわけにもいかないし---。数秒間じっくりと思い悩んだあと、私は諦めにも似た心境でそっと一つ深呼吸をした。
『んなこと言われても、適当に飛び乗ってきたから全然判らへんねん』
おまけに新幹線に乗った途端、冷房の心地よさにころりと眠ってしまった。そのせいで、社内放送もまるで耳にしていない。
「アリス…」
溜め息と共に火村が私の名を呟く。言外に、仕様がねぇ奴だなという含みが感じられて、私は非常に居心地が悪い。
「それじゃ、今どこ通っているか言えよ」
『通ってる場所?』
火村の言いたいことが良く判らなくて、私は彼の言葉を繰り返した。
「そうだよ。それで到着時間を割り出すから」
『あっ、そっか。さすが火村先生やな。ちょい待ちぃや。えっとお---』
きょろきょろと辺りの様子を見回しながら、私はふとあることに気づいた。
『なぁ火村、何で俺が新幹線に乗ってるのが判ったん?』
電話の向こうで、情けなさそうに火村が息をつく。
「推理小説家のくせして、それかよ。さっきから煩いぐらいに有栖川先生の声の後ろに流れているのは、一体何の音だ? それで判らないって方がどうかしてるぜ」
やれやれと言うような口調でそう言われて、漸く気づく。私を取り巻く風の音と高速で回転するエンジンの音。そうと気づくと嫌になるぐらいに煩い音を、今の今まで気にも止めなかったなんて---。それほど緊張して、私は火村と電話していたのだろうか。確かに後ろ暗い所はある。だがそうは言っても、所詮相手は火村だ。なのに、こんなに煩い音にも気づかなかっただなんて…。本当にアホみたいだ。
『さすがは火村先生や。伊達にフィールドワークはしとらんちゅうことやな』
私は素直に感嘆の台詞を漏らした。それと認めるのは口惜しいが、たぶん私だったら同じ音を耳にしても、火村のような判断はできないに違いない。
「アリス。そんなことより早く場所を確認しろ、場所を」
このままいくと話がずれたまま元に戻らなくなるとでも思ったのか、火村は私の言葉を遮るようにして、話題の軌道修正に入った。
『忙しない奴やな。ちょい、待ちぃや』
右手に携帯を持ったまま、私はドアの窓から車窓を流れて行く景色を覗き見た。
『う〜ん。一体どの辺なんやろ、ここ…』
ぶつぶつと独り言を呟くアリスの声が、手に持った受話器を通して柔らかに火村の耳朶を掠めていく。その声が妙に心地よくて、火村は僅かに表情を緩めた。つい先刻まで身の内に抱えていた苛立ちさえもが、ゆっくりと溶けていく気がする。
『あかん。ぜんぜん駅とか通り過ぎらへんわ』
あっと言う間に通り過ぎていく景色に目を凝らしてみても、なかなか場所を特定できるものは見つけられない。窓の向こうを流れる風景には、どこにでもある有り触れた街並みが続き、私は携帯に向かって溜め息をついた。
その声音にまだ暫くは時間が掛かりそうだとふんだ火村は、受話器を肩に挟みながら器用にキャメルをくわえ、火をつけた。大きく吸い込んだ紫煙を、天井に向かって吐き出す。短いような長いような数分が、殊更にゆっくりと過ぎていく。
耳元には微かなアリスの吐息---。受話器越しに直接耳朶に触れる柔らかな息づかいが、妙にくすぐったい。今さらそういうことを気にする仲でもないのにと、火村は口許に苦笑を刻んだ。
『あっ、火村。今、新横や』
心地よい静寂に浸っていた火村の耳に、突然アリスの大声が飛び込んできた。まるで何かを発見した子供のような邪気のない弾んだ声音に、火村は小さく笑った。
『火村、聞こえとる?』
応えの返らない携帯に向かって、私は少しだけ不安を滲ませた声を上げた。---まさか待ちくたびれて切ってしまった…、なんてことはないよな。
「聞こえてるよ」
笑いを含んだ声音に、私は何故かほっと安堵した。
「それじゃ、あと20分ぐらいで着くな」
『そやな。でも、迎えはいらんわ。子供やないんやから、新宿までぐらい独りで行けるわ。それに夕方やいうてもまだ暑いし、わざわざ出てくることあらへん』
「迎えに行ってやらねぇと、また寝過ごすんじゃないのか」
本気とも冗談ともつかないようなからかいを含んだ声音に、私は眉を上げた。前に新幹線を乗り過ごして博多まで行ったことを、火村は暗に匂わせているのだ。確かに歴とした前科があるだけに、反論しようにも強くはでれない。
だが、あれはあれ、これはこれである。一緒にされては堪らない。だいたい東京が終点の新幹線を、一体どうやって乗り過ごすというのだ。幾ら私だとて、そんな器用な真似はできない。
『アホ。東京が終点の新幹線で、一体どうやって乗り過ごせっていうんや』
「新幹線は大丈夫でも、中央線を乗り過ごすと高尾の山の中だぞ。いくらご親切様な俺でも、そんなとこまで迎えにいってはやらねぇからな」
全くどこまでも口の減らない奴だ。よくもまぁ次から次へと、こういう捻くれたことが言えるものだ。
『煩いわい。余計な世話やッ。いらんこと言わんと、お前はそこで待っとればいいんや』
一息でそれだけ怒鳴ると、火村が何か言い返す前にと思って、私は不通話ボタンへと指を伸ばした。が、唐突に思い止まり、携帯に向かって大声を上げた。
『火村、ちょい待ちぃ。部屋、何号室やねん?』
受話器を置こうとしていた火村は、予期しなかったアリスの大声に反射的に受話器を耳元へと戻した。若白髪の目立つぼさぼさの髪を掻き上げ、面倒くさそうに呟く。
「んなこと、フロントで訊けばいいだろうが」
『嫌や。そんな恥ずかしい真似、絶対にせぇへんからな』
慌てふためいて、私は携帯に向かって声を上げた。フロントで火村の泊まっている部屋番号を訊くだなんて、冗談じゃない。例え天地がひっくり返っても、私はそんな真似しないからな。
煩いエンジンの音の間をぬって、ドキドキと私の心臓の音がする。僅かに顔が熱い気がするのは、絶対に私の気のせいだ。
「---恥ずかしいって…」
まさに打てば響くというようなタイミングで返ってきた応えに、火村は一瞬言葉に詰まった。
---恥ずかしいって、一体なにが恥ずかしいんだ?
呆れたように火村は一つ溜め息を吐いた。受話器の向こうからは、むすっとしたような雰囲気が伝わってくる。
「はいはい、判りました。恋人の部屋を訊ねるのが恥ずかしいお姫様のために、お教え致しましょう」
冗談めかした火村の言葉に、気のせいだと思っていた頬の熱さが、血液の流れと共に全身を駆け巡る。
『アホ! 何言うてるんやッ。一体誰が恋人やねん』
自分でも気づく程度には上擦った私の声を無視して、火村は言葉を続けた。
「ふ〜ん…。誰が恋人やねん、ね」
嫌味ったらしく繰り返す皮肉気な口調。ニヤリと唇の端を上げた質の悪い笑みが、私の脳裏に浮かぶ。私は思わず、目の前にいるはずのない火村から逃げるように壁際へと身を寄せた。
「例えばあーんなことや、こーんなことを色々やっていても、恋人じゃないわけだ」
あからさまに含みを持った言い方に、私はうっと言葉に詰まる。確かに間違いなく、とても他人様には言えないあーんなことやこーんなことはやっているし、火村の変態性欲の権威の理由ってのも、我が身をもって嫌になるぐらい良く判ってはいる。いるが、面と向かって恋人と言われると、何か違うような気がするのだ。私の感覚の中での恋人っていうのは、やっぱり可愛い女の子とか綺麗な女の人とかで、決して決して火村ではない。
もちろん同性愛を否定しているわけではない。まぁ、世の中にはそういう人達もいるんだなぁ…と、理解はできる。できるが、自分がそうかと問われれば、絶対に違うと断言できるのだ。私にとっての火村はそういうんじゃなく、もっと---。
---ああ、いかんッ! こういうことを考えてる場合やない。
私は右手の携帯を握りしめ、頭を大きく2度、3度左右に振った。そうして気持ちを切り替えるように、大きく深呼吸をする。その勢いのまま、挑むように携帯に向かった。
『煩いわい。んなこと、今は関係あらへん。それより、さっさと部屋番号を言えや』
「1710だ」
先刻までの様子は微塵も感じさせないクールなバリトンの声に、何故かほっと息をついた。そして、私の頭の中も瞬時に切り替わる。
『17階?』
ほんの一瞬前とは口調さえ違う。それを自分でもはっきりと感じて、私は照れたような笑いを作った。携帯の向こうからは、火村が苦笑いをしている感触が伝わってくる。相変わらず一つのことしか考えられない奴だと、きっと呆れているのだろう。
「そうだ。迷子にならないよう気をつけろよ」
どうやら火村先生も、恋人云々からしっかり頭の中を切り替えているらしい。毎度のことながらの皮肉な言いぐさは、今日も健在だ。顔の前に持ってきた携帯を両手で握りしめ、私はすぅーと大きく息を吸い込んだ。
『なるかいッ!』
息を吐き出すと同時にひと言携帯に向かって怒鳴り、私は一連の動作のように不通話ボタンを押した。これが家の電話機なら、思いっきり本体に向かって受話器を叩き付けているところだ。携帯だとそれができないのが、ちょっとだけ口惜しい。こういう風に八つ当たりの場所がどこにもないという状況は、何となくむかつくものだ。
「ほんま、口の悪い奴や」
それでも諦めきれない私は、手の中の携帯に向かって小さく呟き、舌を出す。だがそんな行為も、切れてしまった携帯相手では何となく虚しい。
「続きは火村に会ってからや」
黙ってしまった携帯をポケットに放り込むと、私はデッキから自分の席へと向かった。東京到着まで、あと20分弱。寝ようと思えば、ひと眠りできるくらいの時間だ。
---おまけに終点やから、乗り過ごす心配はないし…。
そんなことをつらつら考えながら席に着いた途端、私はころっと眠りの国へと旅立ってしまった。to be continued
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