鳴海璃生
−4− 手元が微かに薄暗くなってきたことに気づき、火村は膝の上に置いていた分厚い専門書から視線を上げた。窓越しに見える新宿の高層ビル街は、未だにむっとするような夏の熱気を感じさせる。偏光ガラスの壁面には、夕暮れというにはまだ高い位置にある太陽が写し出されていた。
首を伸ばし眼下を見下ろせば、まるで玩具のように小さな車が広い道路を埋め尽くしている。ひと時たりとも休むことのない街の喧噪が、遠く離れていてさえも妙に身近に感じられた。
火村はテーブルの上に放り投げていたキャメルのパッケージへと手を伸ばし、中から無造作に1本を取りだした。りんと冷えた部屋の中には、外の明るさと反比例するかのように徐々に薄紫の宵闇が滑り落ちてきている。
その薄闇の中で、部屋の中にある全ての物---ベッドやテーブル、そして自分自身さえも---が、ゆっくりとその存在を希薄にしていくような錯覚に捕らわれる。手の中のライターの頼りない炎だけが、薄暮に混じらずに自分自身の存在を主張している。
大きく息を吸い込み、火村は天井に向かって紫煙を吐きだした。薄闇に漂うように白い煙が溶けていく。まるで自分の周りだけ時間が止まってしまったような、そんな不可思議な空間に取り込まれる。空調の音が、空気を震わせるように部屋に響く。が、次第次第にそれさえも遠くなっていった。
何も聞こえない。何も見えない。
手を伸ばしても、その先には誰もいない。何もない…。
声は誰にも聞こえない。誰にも届かない。
自分は、一体なにを欲しているのか…。何を望んでいるのか…。この空間の中では、それさえも良く判らなくなる。
火村は、テーブルの上に置いた両手へと視線を落とした。凝視しているそれは、消えるように闇の中に溶けていく。ゆっくりと、確実に---。
その存在を確かめるように、火村は両手を強く握りしめた。と同時に、手の中に蘇る感覚。人を殺したいと思ったあの瞬間の、生々しい感覚…。
---何を望む? どちらを望む? お前は、こちら側にいたいのか。それとも、あちら側に行きたいのか?
目を眇め、空間に消えて行く紫煙を追っていた時、不意にドアフォンの音が鼓膜を振るわせた。
静止した空間を切り裂くように鳴り響くドアフォンの音。
その瞬間、固まったように止まっていた時間がゆっくりと流れ出した。まるで火村を引き戻すかのように、ドアフォンの音は鳴り続ける。それは世界が再び動き出す、その始まりを告げる音だ。
どこか緩慢な動きで、火村は腕時計を見つめた。時間は、午後7時を僅かに過ぎている。ドアの向こうに立っているだろう人物の姿を脳裏に浮かべ、火村は口許に微かな笑みを刻んだ。
世界を動かし始めたのは、唯一自分をこちら側に引き留める存在。名を呼んで、手を伸ばして、触れることのできるぬくもり。何よりも確かに傍らにある存在。---たぶんいつまで経っても開かないドアの前で、彼はイライラしながら自分を待っていることだろう。
ゆっくりと椅子から立ち上がり、火村はその存在を迎え入れるべくドアへと歩み寄った。
「何やってるんや。遅いやないか」
ドアを開けるや否や、想像した通りの苛立ちを含んだ声音が耳朶を掠め、火村は表情を緩めた。その妙に楽しげな笑みに、アリスは何となくむかつく気分を押さえきれない。
ドアが開く瞬間までは、学会に来ているところをじゃまするわけだし、ここは下手に出て火村のご機嫌を取らねばと、一応は殊勝なことを考えていた。だがそれも火村の顔を見た途端、どこかにぶっ飛んでしまった。だいたい人をドアの外で待たせるだけ待たせて、その嬉しげな表情は何なんだ。
くそ重い荷物---その殆どは、火村の部屋で読もうと八重洲のブックセンターで買い込んだ本だったのだが---を両手に抱えて、いつまで経っても開かないドアの前に佇んでいたアリスの機嫌は、はっきり行って余り宜しくない。
むっつりと佇んでするアリスを部屋の中に招き入れるために、火村は壁際に身を寄せた。その脇を通り抜け、アリスは1歩中へと踏み込んだ。きょろきょろと部屋の中を見回し、傍らに立つ臨床犯罪学者へ怪訝な視線を投げかける。
「何でこんな暗いとこにおるんや、君? 別に自分で払うわけでもないんやから、電気代ケチる必要はないんと違うか」
まぁドアから敗ってすぐの所だから窓の光が届かなくて暗いのかもしれないし、一寸先も見えないというわけではない。ないが、それにしてもこの暗い中を動き回るってのは、理解の範疇外だ。
もちろんアリスとて、暗いところが苦手というわけではない。ましてや鳥目でもないから、この程度の暗さなら、これといって何が困るわけでもない。が、当然の反応として、どっちかっていうと暗いよりは明るい方がいいんじゃないか?
「わけ判らん奴やで、ほんま…」
口中でぶつぶつと呟きながら、アリスは壁のスイッチに触れた。部屋中に間接照明の柔らかなオレンジ色の光が満ちる。
「間接照明やと、余り明るうはないな。でもま、ムードはあるわな」
男二人が泊まる部屋にムードも何もあったもんじゃない。だがそれがアリスの素直といえば素直な、1番の感想だったのだ。---当たり前だが、妙な含みはない。
取り敢えず自分一人で納得して部屋の奥へと進もうとしたアリスの肩を、後ろから火村が抱きしめた。
突然のことに心臓がドキリと跳ね上がる…。な〜んてな少女マンガなこと、あったら怖いわ。
だいいちアリスの頭の中は、クーラー様のことで満杯状態なのだ。どう頑張ってみても、ロマンチックになど浸れるはずがない。---最もいい年齢をして、そんなものに浸りたいとも思わないが。
「---何するんや?」
妙に冷静なアリスは、自分の真横にある火村の顔を横目にじろりと睨みつけた。
「アリスの言葉に従って、部屋のムードに合わせてんじゃねぇか」
「アホか。こんな時間から、何考えてるんや」
明確な意志をもって肩に回った手をピシャリと叩き、それを外す。
「あんまり変態振りまかん方がいいんと違うか。そのうち大学にばれて、職なくすで」
「ここには、俺とアリスの二人だけだろ。大学どころか、どこにもばれる心配はないんじゃねぇか?」
「壁に耳あり障子に目ありっちゅう有り難ぁ〜いお言葉を知らんのか、先生は…」
聞こえよがしに溜め息をついた後、アリスはその場に火村を残して部屋の奥へと歩を進めた。ダラダラと怠惰の限りをつくそうと思って東京くんだりまで来たのに、こんなとこで火村の変態の相手をしているわけにはいかない。何といっても目と鼻の先には、アリスの待ち望んだ天国があるのだ。
「やれやれ…」
両手に荷物を抱えてホテホテと歩いていくアリスの後ろ姿に、火村が小さく肩を竦めた。が、その声が聞こえているのかいないのか、アリスは振り向きもせずに部屋の奥へと姿を消した。若白髪の目立つ髪を乱暴に掻き上げながら、火村はアリスの後を追うように部屋の奥へと向かった。
ツインルームの窓側のベッド---使わずに空けてあったベッドに、アリスがごろんと身体を伸ばしている姿が視界に入った。見るからに気持ちよさそうに身体を伸ばしている姿に、笑みが漏れる。ふと気づくと、先刻までの不可思議な空間は、部屋の中から一掃されていた。
それは単に、部屋の中が明るくなったせいだけではないに違いない。本人はまるで気づいていないだろうが、それは多分にベッドの上でゴロゴロと満足そうに寝ころんでいる人間の力に因る所が大きい。
初めて知り合った時からそうだったことを、火村は思いだした。
そうとは意識せずに、何故かアリスだけが自分の周りで止まった時間を動かすことができた。自らの意志によって閉ざした空間にさえ、アリスはするりと入り込んできた。そして驚いたことに、自分にとってそれは、決して不愉快なことではなかったのだ。
共に時を過ごす内に、いつの間にか傍らにいることが当然になっていった。
名を呼べば、振り返る。自分の声に応える。
手を伸ばせば、触れることができる。
ただそれだけの事が何よりも大切だと思えるようになったのは、一体いつのことだっただろう。
枕を胸に抱きしめて、すっかりマグロになってしまっているアリスの傍らに、火村はゆっくりと近づいていった。
気づかないところで望んでいるのは、たった一つのことかもしれない。失いたくない…と、ただそれだけなのかもしれない。
そっとベッドの端に腰を下ろし、火村はアリスの前髪に触れた。柔らかな、慣れ親しんだ手触り。指先に伝わるぬくもりに、ほっと安堵の息が漏れる。が、それをアリスに気づかれたくなくて、火村は伸びすぎた前髪を指に絡ませながら口許に皮肉げな笑みをはいた。
「おい、アリス。ちょっと訊きたいんだがな---」
「…何や?」
先ほどから前髪に触れてくる火村の指先を煩わしげに払いのけ、アリスは枕を抱いたままゴロンと腹這いになった。眠たいわけではない。だが心地よいベッドのクッションと適度に冷えた部屋の空気、それに認めたくはないが、しつこい程に触れてくる火村の指先の心地よさに、自然と目蓋が落ちてくる。
「お前が欲しかったのは、一体なんだ?」
「そりゃあ決まってる。クー…---」
ぼんやりとした意識の底に響いてきた火村の声に、ありのままを応えそうになって、アリスは慌てて続く言葉を飲み込んだ。
---ひぇーッ、危ない危ない…。余りの心地よさに、もう少しで本音を吐いてしまうとこやったわ。
口許に引きつったような笑みを貼り付け、アリスは顔だけを火村の方に向けた。もしかしたらもう既に遅いのかもしれないが、一応のフォローはやっておかなければならない。
「もちろん火村にや。決まっとるやろ」
硬い声音が、どこか白々しさを含む。それは自分でも良く判ったのだが、ここで折れてしまってはアリスの目論見は全て水泡に帰す。
「なるほど…。アリスは俺に会いたかったわけだ」
何となく皮肉の籠もったクールな口調。火村はそう言いながら、髪に触れていた手を項へと滑らせていった。くすぐったいようなその感覚に、アリスは僅かに身を震わせた。
---このまま放っておいたら、ちょーっとまずいんやないか。
即座に頭の中で警報が鳴り響く。
「火村、くすぐったいやないか。ええ加減にしろ」
触れてくる手に確かな意図を感じ始め、アリスはその手から逃れようと身を捩った。が、火村の手の動きを止めることはできないし、その動きから逃れることもできなかった。何だかんだ言っても、触れる指先は温かくて優しい。おまけに気持ちいいことは、アリスだって好きだ。結局口で言うほどに嫌なわけでもないから、いつもいつも困ったもんだの結果に寄り切られてしまう。
---いかん、しっかりするんや。このままやったら、火村の変態の餌食や。
「俺が恋しくて、俺に会いたかったんだろ、アリスは。だから、それに応えてやってるんじゃねぇか」
口許に刻まれた笑みは、どこか楽しげだ。考えたくはないが、もしかしてこいつ全部判っててやってるんじゃないだろうか? ---そう思うと、ますます抗う腕から力が抜ける。頭に浮かんだ思いを振り切り、アリスは精一杯の虚勢をはった。
「別に応えて貰わんでもええわ。俺はここでゴロゴロできたら、それで十分なんや。先生のじゃまはせんから、先生も好きにしててや」
「つれないこと言うなよ」
アリスの抵抗を押さえ込み、僅かな隙を縫うようにして、火村はアリスを胸の中に抱き込んだ。突然のことに虚を突かれて、アリスの頭の中は一瞬真っ白にブリーチされた。ふわりと鼻孔をつくキャメルの香りに酔いそうになる。が、すぐに我に返ると同時に、アリスは火村の躯の下でじたばたともがき始めた。
「火村、重い」
出来うる限りの抵抗でもって胸の中に抱き込まれた体勢から何とか逃れようとするが、背に回された火村の両腕はまるで頑丈な檻のようで、ぴくりとも緩まない。項に感じる柔らかな感触に、徐々に意識が奪われていく。
---まずい。めっちゃまずいんやないか、この状況は。
頭の中の警鐘は、目まぐるしく点滅する。
「火村、離せって。ふざけるのも大概にしろッ!」
慌てふためいて、アリスは声を上げた。はっきりいって、これは予定外だ。火村とこういうことする予定など、アリスの頭の中には微塵も無かったのだ。to be continued
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