鳴海璃生
テーブルの上に広げた分厚い専門書から視線を上げ、火村は左手の腕時計を見つめた。時間は、午後2時20分。約束の時間から、既に20分が経過してしまっている。
---やっぱり遅れやがった。
冷めた---猫舌の火村にとっては最適の---コーヒーに手を伸ばし、憮然とした表情を作る。
いつもは待ち合わせの時間に正確なアリスだが、朝---これは火村も御同様だ---と締め切り明けに約束をした場合、時間通りに姿を現したことは、過去の経験からいっても皆無に近かった。時間までに姿を見せないということは、類に漏れず今日もまた寝坊したに違いない。
「有栖川先生は、締め切り明けだろうが…。会うんだったら、明後日にしよう」
『大丈夫やて。死んでも起きる。だから、明日ッ! 絶対に明日会おうな』
欠伸を噛み殺した火村の言葉に、受話器の向こうでアリスが勢い込む。が、続く言葉はその勢いとは裏腹に、何とも情けない内容だった。
『じゃないと、芋羊羹ダメになるやないか』
受話器を片手に、火村はぽりぽりと頭を掻いた。出張から帰宅した旨の報せと、ついでに締め切りに追われるアリスの陣中見舞いを兼ねた電話で、何気なく芋羊羹を買ってきたと口わ滑らせた結果がこれだ。
火村にしてみれば、別にアリスの土産に、と思って芋羊羹を買ってきたわけでもなかったのだが、好物の名に電話の向こうの声のトーンが一気に跳ね上がった。それまでの締め切り直前の寝不足声が、途端に元気を帯びたものになったのだ。
その豹変振りに苦笑が漏れる。火村はアリスの言葉に不安を感じながらも、勢いに押されるように不承不承今日の約束をOKした。
---全く、あいつは…。
昨夜の電話での会話を思い出しながら、火村は最後のキャメルに火をつけた。空箱をくしゃりと握りつぶし、テーブルの上に放り投げる。
---仕様がない。あと10ページ。区切りのいいとこまで読んで、それでも奴が来なかったら、電話でもしてみるか。
ある程度の予想はついていたことなので、火村はこれといって慌てる様子もない。もっとも、だからといって、この不始末を快く見逃してやる程の親切さも、持ち合わせてはいなかった。
---貸しだからな、アリス。
余り質がいいとは言い難い笑みを口の端に刻み、火村は中断した読書を再開しようとした。
その時、ふと何かに惹かれたように、火村は窓の外へと視線を走らせた。足早に行きすぎる人の波と夏の陽光に輝く自動車のボンネットが、朝から一気に36度にまで駆け上がった気温を、更に上昇させている。効きすぎる程に空調の効いた喫茶店の中にいても、ガラス一枚隔てた外の暑さがじんわりと膚に染みこんでくる気がする。その様子に目を眇め、うんざりしたような溜め息が火村の口から漏れた。
互いにすれ違いの日々が続いて、電話で喋りはするものの顔を会わせることのなかったこの1ヶ月程の間に、季節は梅雨から夏へと移り変わっていた。
ぼさぼさの髪を煩わしそうに掻き上げ、火村は手元の分厚い専門書へと再び視線を落とした。◇◇◇ 「ひぇーッ! 遅刻や、遅刻ッ」
私はスクランブル交差点の一番前に立ち、忙しなく足を踏み鳴らした。火村との約束の時間は、午後2時。おまけに、昨夜の電話で「死んでも起きる」とまで断言したにも拘わらず、結局締め切り明けの爆睡から私が目覚めたのは、午後2時15分だった。
ぽっかりと目覚め、ねぼけた多摩にまず最初に浮かんだのは、臨床犯罪学者の不機嫌な顔。
「しまった!」
転げ出るように、私はベッドから飛び降りた。クローゼットの中にあるシャツを適当に引っ掛け、洗面所に駆け込む。歯を磨きながらシャツのボタンをとめるが、慌てているためか、なかな上手くとまらない。
「えいっ、クソッ!」
ぼやきながら漸くシャツのボタンをとめ、満足に顔も洗わずに、私は洗面所を飛び出した。昨夜、食事より睡眠を選んだので、昨日の昼に菓子パンを齧ったあとは何も食べていない。が、グーグーと賑やかに自己主張を始めた胃袋に構っている余裕など、今の私には到底あるはずもない。
「火村、怒っとるやろな」
開口一番、口の悪い助教授殿が何を言い出すかが容易に想像できてしまい、気が滅入ってくる。ドタドタと派手な音をたてて廊下を走り、ドアノブに手を掛けようとした私は、はたとその手を止めた。
「鍵鍵鍵」
書斎の引き出しに、車のキーを入れっぱなしにしておいたことを思い出した。慌ててUターンをして、今来た廊下を駆け戻る。リビングへと駆け込んで、左手の書斎のドアノブに手を掛けたところで、私はもう一つの事実に気がついた。
「あちゃーッ、しまった。車、車検やったわ」
余りの間の悪さに、がっくりと力が抜ける。となると、地下鉄で火村が待つ梅田へ出るしかない。ふだん車が足代わりの私は、地下鉄を使う面倒くささに閉口しながら、再び玄関へと踵を返した。
ガラスの扉を力任せに押し開けマンションの玄関から飛び出すと、夏の強い陽射しと眩しい程の青空が、半ばモグラと化した私の双眸を焼いた。夏特有の、熱に暖められ膨張した空気が、まるで分厚い壁のように私の周りを取り巻く。
どっと汗が噴き出してくる感覚に、不快指数が一気に上昇する。しかし今の私には、そんなことを気にしている悠長さはない。私の不快指数よりも、もっと不快指数を高めているであろう友人が、如何に効果的に私の非をやり込めようかと、手ぐすね引いて待ちかまえているのだ。
「えーいッ! はよう変わらんかいッ」
いつまでも赤いままの歩行者用信号に八つ当たりする。
車のエンジンの音---。クラクションの音---。人々のざわめき---。
耳に飛び込んでくる街の喧噪が、余計に私の焦りを助長させた。
焦る私を笑っているかのように、ゆっくりと信号が黄色に変わる。それを横目に眺め、私はスタート地点に立つカール・ルイスの気分で、歩行者用信号が青に変わる瞬間を待った。
---位置について。ヨォーイ…。
頭の中で、お決まりの文句を唱える。
---…‥スタート!
最後のかけ声を掛ける前に、私の身体は車道へと押し出されていた。
「えっ?」
自分の身に何が起こったのか、咄嗟には理解できなかった。
強い力で後ろから押されたらしい身体は、フラフラとよろめきながら、まだ車の行き交う車道へと歩み出た。よろけながら膝をつき、四つん這いになった恰好の鼻先を、一瞬の内に車のタイヤが通り過ぎた。
「うわッ!」
大声を上げたつもりだった。が、その声は私の頭の中でだけ響き、微かたりとも外へとは発せられなかった。
「このどアホッ! 気をつけんかいッ」
私の悲鳴の代わりに、大声で怒鳴る声が私の頭の上を素通りしていった。同時に、すぅーっと、私の頭から血の気が引いていく。
---あかん。立ち上がって歩道に戻らんと…。
そう思っているのに、何故か力の入らない私の手足は、一向に私の思い通りには動いてくれなかった。
「大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」
心配そうな声が耳朶に触れ、力強い腕が私を助け起こし、歩道へと引き戻してくれた。
「---すみません。大丈夫です」
それと判る程に掠れた声で礼を言い、声の主---たぶん大学生ぐらいだと思う---へと視線を移した。
「良かった」
まだ高校生でも通りそうな童顔の青年は、安心したようににっこりと笑みを作った。
《大丈夫だってさ、ビンセント》
聞き慣れぬ言葉で、傍らに立つ長身の青年紳士へと声を掛ける。その言葉に応えるように、長身の紳士は私を支えていた腕を離した。
ほっと息をつき、自分を窮地から救ってくれた二人を、改めて見つめ直す。一人は、童顔ではあるが、たぶん大学生。そしてもう一人は、どっから見てもやり手のビジネスマンという雰囲気だ。このくそ暑いのにきっちりとスーツを着こなし、汗一つかいていない。銀縁眼鏡を掛けた端正な整いすぎた美貌と人形のように表情のない容貌は、この青年紳士の持つ雰囲気をいっそ冷たいものに見せていた。
友人というには年齢の離れすぎた二人に、むくむくと私の好奇心が頭をもたげてくる。二人の様子を交互に見つめたあと黙り込んでしまった私に、大学生らしき青年が微かに不安な表情を作った。
「あの、本当に大丈夫ですか?」
色々な想像を頭の中で組み立てていた私は、その声に現実へと引き戻された。車に轢かれそうになった恐怖をけろっと忘れ、作家の性とでもいうべき己の好奇心に埋没していた私に羞恥心が舞い戻ってくる。そういえば、助けてもらったこの二人に対して、私はまだ満足に礼も言ってないのだ。
そうと自覚した途端、かっと頬が熱くなる。朱の上った頬を隠そうと、私は慌ててぺこりと目前の二人に頭を下げた。
「本当にありがとうございました。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
勢いよく礼と謝罪を口にしたあとで、あれっ、と首を傾げる。
---ちょお、待てっ。この人達、日本人なんか?
ごく当然のように日本語で礼を言ったあとにわき上がった、素朴な疑問。青年の話している言葉は、紛れもなく癖のないきれいな標準語だ。だが、先刻ちらっと耳にした言葉は、あきらかに異国のものだった。う〜ん、と考え込もうとした時、折り曲げた私の背の上をバリトンの声が通り過ぎる。その声に、頭を過ぎった疑問は一瞬にしてかき消された。
「アリスっ!」
広い横断歩道を行き交う人の波を器用に避けながら、火村が私の元へと駆け寄ってきた。その姿を視界の内に捕らえた途端、喫茶店が私を待っているはずの助教授が何でこんな所にとか、約束の時間に大幅に遅れてしまったなんてことは、幸か不幸か、私の頭の中からはきれいさっぱり抜け落ちてしまっていた。
「火村、久し振りやな」
笑いながら、私は久し振りに会って懐かしささえ感じる親友殿に向かって右手を挙げた。
「この、くそバカ。何やってやがるッ」
投げつけられた言葉に、私は手を挙げたままの恰好で唖然としてしまった。にっこり笑って挨拶しろ、とは言わないが、1ヶ月ぶりに会った友人に対する第一声がこれだなんて、幾らなんでもあんまりじゃないか。ええいっ、くそ。愛想良く挙げたこの手は、一体どうすればいいんだ。手を挙げたままの間抜けな恰好で呆然としている私に、火村の容赦のない悪口雑言が続けざまに浴びせかけられる。
「てめぇ、俺の言ったことぜんぜん聴いちゃいないな。あの時、反省だけなら猿でもできる。ちゃんと覚えとけって言っただろうが」
道路に転がり出た私の醜態を、目敏いこの友人が見ていたことに気づき、慌てて反論を口にする。
「なに言うとんのや。今のは、俺のせいと違うやろ。この間と一緒にすんなッ」
今いる場所が、大勢の人が行き交う大阪のど真ん中であることも忘れ、私は火村の罵詈雑言に負けじと言い返した。
「あのぉ…」
場所柄も忘れた私達の口喧嘩は、戸惑いがちに掛けられた声に、一時休戦と相成った。火村の声を聞いた途端、すっかりくっきり忘れ去ってしまっていた声の主の方を、私は慌てて振り返った。ああ、何てことだ。さっきのことといい今といい、これでは醜態の2乗じゃないか。
「じゃ、僕達はこれで…」
「あっ、本当にありが---」
口を開きかけた私の頭を、火村が強引に押した。
「お急ぎのところご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」
有無を言わさぬ力で私の頭を押さえ込んだまま、火村は私の代わりに丁寧な謝罪の言葉を口にした。
---ちょっと待て。何でこいつが謝るんや? こいつ、俺の保護者かッ。俺は小さな子供と違うんやぞ。
「いえ。お怪我がなくて、何よりでした」
火村の行動を不審に思う様子もなく、相手もごく当たり前のように言葉を返す。
---おいおい。普通ヘン…、やないのか、この状態はッ!
押さえ込まれた火村の手の下で、私一人がこの状態を不満に思っている。その間にも、頭の上では当たり障りのない遣り取りが交わされていく。
「それじゃ、僕達はこれで」
辞去を告げる言葉と共に、私を助けてくれた二人が去っていく気配が伝わってくる。が、その段階になっても、火村に押さえ込まれたままの私は頭を上げることができなかった。不自然に腰を折ったままの恰好で、幾ばくかの時間が過ぎる。
「---おい」
不機嫌な様子もあらわに、私は出来うる限りの低い声音でぼそりと呟いた。序で、すぅっと大きく息を吸い込み、腹に力を溜める。
「いい加減さっさと、この手をどけんかいッ!」
不必要に私を押さえつけていた力が、不意に無くなった。やれやれというように身体を起こし、私はゆっくりと首を回した。できれば一つ伸びでもしたいところだが、今いる場所を考えて、止める。そんな私に頓着することなく、火村は私をその場に残したまま歩き出した。
「おい、火村」
人混みに紛れ込む背中を、焦って追う。
「ちょお、待てや。一体どこ行くん?」
腕を掴んだ私の手を振り解きながら、火村は仏頂面で私を見据えた。
「お前んちだよ」
無愛想に言い捨て、踵を返す。
「俺んち、やと…?」
たった今、慌てて家を出てきたばかりだというのに、冗談じゃない。その場に取り残された恰好の私は、足早に先を行く火村のあとを追った。
「おい、火村。待て、って言うてるやろ」
すたすたと大股に前を歩く火村は、私の声にも足を止める気配もない。無表情にむつつりと黙り込んだまま、私の呼びかけに応えようともしなかった。
---くそッ、何やっちゅうねん。
不機嫌な助教授の様子に胸の中でぶつくさと悪態をつきながら、私は火村のあとにおしなしく付いていった。
to be continued
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