鳴海璃生
マンションの扉を開けると、鼻先に空気の壁があった。締め切った部屋の中で暖められた空気が、塊となって私の前に壁を作っていた。
火村を廊下に残したまま、慌てて部屋へと飛び込んだ。一目散にリビングに駆け込み、乱暴な仕種でエアコンのスイッチを入れる。すぐに吹き出し口から、冷えた空気が勢いよく流れ出してきた。
「あー、極楽極楽。夏は、やっぱクーラーやな」
私は吹き出し口のすぐ真下に陣取り、シャツの襟から冷たい風を入れた。夏の太陽に焼かれ、吹きだした汗が一瞬の内にひいていく。
「生き返った気ィする…」
まだ少し火照ったままの頬をパタパタと掌で扇ぎながら、ちらりとソファに視線を走らせた。私のあとからリビングに入ってきた無愛想な臨床犯罪学者は、悠然とソファに座り、不機嫌な様子もあらわに煙草に火をつけていた。
カチッカチッ、と空調の音に混じってライターの音が部屋に響く。が、持ち主の気分そのままに、ライターの火はなかなかつかなかった。それに合わせたように、火村の苛立ちも募っていく。
「チッ!」
態度の悪い助教授は、不作法に舌打ちした。
---ライターにまで八つ当たりしてやがる。
気づかれないように火村の様子を観察しながら、私は小さく肩を竦めた。
大阪のど真ん中、梅田のスクランブル交差点で、車道に転がり出るという私の醜態を目撃してから、火村の機嫌は下降の一途を辿っていた。まぁ確かに、火村の機嫌が悪くなるファクターが、梅田での私のドジ以外にもあったことは否めない。
何せ、私の方からごり押しで今日会う約束を取り付けた---しかも、京都から梅田までわざわざ出てこさせて、だ---にも拘わらず、物の見事に一時間近くも遅刻してしまった。が、だからといって、それがここまで火村の機嫌を害する出来事だとも思えない。
約束の時間に遅れることは、しょっちゅう---、とまでは言わないものの、今回が初めて、というわけでもない。もっとも、車の行き交う道路に転がり出るなんてとんでもないことは、幾ら私とはいえ一度としてやったことはなかったが。
とにかく、今までかってないほどに、今日の火村の機嫌は悪い。それは、梅田からここに来るまでの間、火村がひと言も喋らなかったことでも、簡単にそうと伺いしれた。
---全く、何だっちゅうねん。
火村に対して少しだけ負い目のある私は、彼のこの態度にも強くはでれない。が、機嫌の悪さ丸出しの火村を横で見ているのは、はっきり言って余り気分の良いものではない。
だいたいあれしきのことで、ここまで怒るなんて、てんで大人げないじゃないか。今のところ取り敢えずおとなしくしてはいるが、幾ら温厚で人の良い私だとて、しまいには怒るぞ。
エアコンの風邪を独り占めしながら、ぶつぶつと心の中で悪態をついた。暫くの間エアコンからの冷風で涼み、漸く人心地ついた私は、コーヒーを淹れるためにエアコンの下を離れた。ソファを回り込んだ時、キュルルとお腹から悲しげな音が響いてきた。
一連の出来事にすっかり忘れ去っていたが、そういえば朝---時間的には、昼をとうに過ぎていたが---起きた後、まだ何も口にしていなかったのだ。思い出した途端、形を潜めていた空腹がマッハの勢いで私を襲う。随分と現金なものだ。
---う〜ん、何かあったかいな?
両手でシャツの裾をハタハタとはためかせながら、キッチンへと向かう。その私の背に、火村の抑揚の無い声が聞こえてきた。
「おい、どこ行くんだ?」
今までひと言も喋らなかった火村の声に、私は弾かれたように声の主を振り仰いだ。相変わらず憮然とした表情の火村が、双眸を眇めるようにして私の方を見つめていた。
「どこって、コーヒー淹れようと思って…」
「コーヒー? そんなもんあとでいいから、座れ」
この部屋の主は、一体誰だっていうんだ。横柄な犯罪学者の物言いに、思わずそんなくだらないことを考えてしまう。が、温厚で心のの広い私は、そんな思いをおくびにも出さず、言われた通り火村の前のソファに腰を下ろした。
「会わなかった間、お前は一体何をやってたんだ?」
憮然としたままの火村の問いに、私は天井を仰ぎ見た。
---何言うてんのや、こいつ。
どうやら連日連夜の暑さ---しかも、京都はここよりも暑さが厳しい---のせいで、優秀な火村助教授の頭もどこかあらぬ場所へ行ってしまっているらしい。意味の判らぬ問い掛けに閉口しながらも、ご親切様な私はここ1ヶ月間の出来事を懇切丁寧に語ってやる。
「仕事してたに決まってるやろ」
ああ、情けない。できれば、火村が涙を流して口惜しがるような、あれやこれやの楽しい出来事を語ってやりたいものだ。だが、残念なことに、これ以外口にできる答を私は持ち合わせていなかった。その私の答に不満なのか、呆れたように火村が紫煙を天井に向かって吐き出した。
「アリス。誰がそんなことを訊いてる?」
「君やんか」
たった今口にしたことも忘れるなんて。幾ら毎日暑いからといって、惚けすぎじゃないのか。いやそれとも、助教授殿は既に惚けが始まっているのか。
「俺が訊いたのは、その怪我の理由だよ」
「---怪我?」
口の中で小さく反芻する。煙草を挟んだ火村の指が指し示す方向に、私は視線を向けた。
その殆どがかさぶたになってしまっているので、すっかり忘れていた。が、言われてみれば、確かに肘とか腕に幾つかの擦り傷やかすり傷、それに青痣の類があった。ついでに言えば、目に見えない部分、膝や脛、背中なんかにも擦り傷や青痣がある。
「もしかして、これのことか?」
私は擦り傷と青痣のある右腕を、火村の目の高さにまで上げた。それに目を眇め、火村が小さく頷く。だったら、最初からそう言えばいいんだ。本当に日本語の使い方の下手な奴だ。
上げた右腕をおろし、私はガラスのローテーブル越しに火村の方へと身を乗り出した。
「これはな…」
芝居がかった口調で、重々しく口を開く。
「俺の日頃のおこないの良さと、運の強さの証明なんや」
一瞬の沈黙。どうだ、とばかりに胸を張った私に向かって、あからさまにバカにしたような溜め息を火村が漏らした。
「アリス、お前バカじゃねぇのか。日頃のおこないが良くて運の強い奴が、どうしてそんな怪我すんだよ。それに、俺が思うにそれだけじゃないだろ、お前の怪我は」
前半分にむかつく言葉も混じってはいたが、さすがは臨床犯罪学者。服の下に隠れた怪我まで見抜くとは、見事、見事。が---。
「チッチッチッ。甘いね、ワトソン君」
私は目の前に立てた人差し指を、左右に小さく振ってみせた。
「口を挟むのは、あとにしてくれないか。俺のおこないの良さと運の強さが証明されるのは、これからなんやからな」
そして私は、この10日間---正確に言えば、締め切りで部屋の中に缶詰状態になっていた3日間を除いて7日間なのだが---の間に起こった出来事を話し出した。
to be continued
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