SIGNAL <5>

鳴海璃生 




 まず最初は、10日前の天王寺駅でのことだった。
 高校時代の友人と久し振りに会うことになった私は、夕方のラッシュの人混みの中を走っていた。敢えて私の名誉のために言わせて貰うならば、もちろん友人との待ち合わせに遅刻をしたわけではない。ただちょっと家を出る時間が遅れただけだ。
 約束の時間を気にしながら、漸く待ち合わせ場所である地下街へと続く階段に辿り着き、勢いよく第一段目へと足を踏み出した。リズム良く階段を駆け下りながら、時間を確かめるため腕時計に視線を落とした。とその時、階段の縁に躓いたのか、それとも人の身体に接触したのか、気が付いた時には、私の身体は階段の踊り場に転がっていた。
 肩や腰。ズキズキと痛むあちこちに眉を顰める。だが不幸中の幸いと言えるのは、他人を巻き添えにせず、転がり落ちたのが私一人だったということだ。臨床犯罪学者、火村英生先生の助手ともあろう私が、こんな仕様もないことで加害者になったのでは、面目が立たないではないか。
 そして、もう一つの幸運。階段を10数段も転がり落ちた割りには、私の怪我が打ち身と擦り傷程度だったことだ。しかもそれが肩や腰ていどで、頭は打った様子もない。咄嗟のことに対処できる運動神経の賜とでもいうべきか、どうやら私はよほど上手く階段を転がり落ちたらしい。
 そうはいっても、階段の踊り場から上を見上げた時は、さすがぞっとするものがあった。だが、大怪我をしなかったというのであれば、これぐらいどうということはない。それにね商売道具の腕と頭は無事なのだから、慌てる必要もない。それよりも私にとって大問題だったのは、周りに集まってきた人、人、人の山。もちろん心配して貰えるのは有り難い。だが、それにしても---。
 時間が経つほど打った肩や腰、それに腕の擦り傷の痛みは増したが、そんなものに構ってはいられない。私は出来うる限り平然と立ち上がり、伸ばされた手や「救急車を」という声に引きつった笑いと丁寧な断りの言葉を返した。それから何喰わぬ顔で、約束の場所へと向かってゆっくりと歩き出した。できれば一目散に走り出したかった、というのがほんのだが、それでは恥の上塗りになってしまう。今思い出してみても、あの時の私は、アカデミー主演男優賞をくれてやっても惜しくない程の立派な演技だった、と自画自賛してしまう。
 とにかくそれを最初に、駅やビルの階段から転げ落ちること2回。出会い頭に車にぶつかりそうになること1回。駅のホームから線路に落ちそうになる---さすがに、これは怖かった---こと1回。そして、今日。車の行き交う道路に転がり出ること1回だ。
 しかしこれだけ色々な経験をしたにも拘わらず、そのどの場合においてもほんのかすり傷と青痣程度で事なきを得ていた。しかも今日に至っては、かすり傷の一つもない。
 これを運がいいと言わずして、一体なんと言うべきか。私はふんぞり返るように胸を張り、火村へと視線を注いだ。睨みつけるようにして、黙って私の話を聴いていた火村は、開いた口が塞がらないという様子で私を見つめている。
「どや? 俺の日頃のおこないの良さと運の強さが、よぉ判ったやろ。もしこれが君ゃったら、きっと今頃はベッドの上やで」
 鼻息も荒い私を後目に、火村は脱力したようにソファに身を沈めた。
「さすがは有栖川有栖先生。身をもって色々とご経験なさっているわけだ。残念がら、俺は有栖川先生ほどそそっかしくも慌て者でもないからな。一生掛かっても、そういう貴重な体験はできそうもないな」
 3本目のキャメルをくゆらせながら、「残念だ、残念だ」と呪文のように何度も呟く。そのふざけた口調に、私は渋面を作った。全く、ああ言えばこう言う口の減らない奴だ。火村の口の悪さは、ちょっとやそとのことじゃやり込めそうもない。
「火村先生は、そう言うけどな。実はこれには、まだ続きがあるんや」
「続き?」
「そや。こっから先が本当の本当に、俺の日頃のおこないの良さの証明やな」
 暗にそんな態度をとっていられるのも今の内だ、というニュアンスを口調に含ませる。遙か彼方にあった勝利という名のゴールが、ほんのすぐそば、手の届くところにまで来ている気がする。
「続けろよ」
 興味もなさそうな様子もあらわに、火村は気怠げに話の先を促した。
「俺な---」
 勿体ぶって、ひと呼吸おく。用心深く火村の様子を伺いながら、私はゆっくりと言葉の先を続けた。ああ、天使が吹き鳴らすラッパの音さえ聞こえてくるではないか。
「サンタクロースを見たんや」
「うっ!」
 口にくわえていた煙草の煙を思い切り吸い込み、火村はゲホゲホとせき込んだ。ざまぁみろ。その苦しげな様子に、私は少しだけ溜飲を下げた気がした。
「どや、驚いたやろ?」
「ああ…。驚いた」
 乱れた息づかいを宥めながら、火村は私へと視線を注ぐ。深呼吸するように2度3度と大きく息を吸い込み、まだ長い煙草を灰皿の上で揉み消した。
「いやぁ、全く驚いたぜ。ただし、別の意味でな…。さすがは推理作家の有栖川先生。ふだんファンタジックで馬鹿馬鹿しい小説を書いているだけのことはあるぜ。言うことが、一般人の俺には想像もつかんな」
 心底バカにしきったような口振りに、私は勢い込んで言い返そうとした。が、喉元まで出かかった私の言葉を、火村のバリトンが止めた。
「だいたい今、何月だと思ってるんだ、アリス。一体どこの世界に、夏真っ盛りの7月にサンタクロースだ、なんて言ってるバカがいる? 今日び幼稚園生だって言わないぜ、そんなこと」
「そりゃ、サンタクロースってのは、俺だって季節はずれやと思うけど…。でも、街で擦れ違ってどこかで会った、って思う人はサンタや、って言うやないか。それに、絶対俺の記憶違いやあらへん。街中で同じ人間に何度か会ってるんや。それをちょっとロマンチックにサンタや、って言うて何が悪い。こんなに暑うてうんざりするんやもん。少しぐらい夢のあること考えたってええやないか。まっ、一種の積極的に生活を楽しむ方法その1みたいなもんやな」
 ここぞ、とばかりに熱弁をふるう。自分で言うのも何だが、ここ一番の開き直りとは強いものだ。そして、論理的な火村先生に対する最終手段としては、もう強気と開き直りで押すしかないのだ。その私の態度に興味を引かれたのか何なのか、それまで完全にバカにしきったような火村が、突然前のめりにテーブルへと乗り出してきた。獲物のを狙う肉食獣のように、双眸がすっと細められる。
「おい、アリス。サンタ云々は抜かして、詳しく話せ」
「一体なんなんや、君の豹変ぶりは…」
 火村の変わり身の速さに、一瞬虚をつかれる。が、すぐに我に返り、ぶつぶつと文句を唱えながらも、私は律儀にサンタ、もといここ数日の間街中で良く見かける人物について話し出した。
「見かけるとか擦れ違うっていうのとは、ちょっと語弊があるな。それよりふと気づくと、俺のそばに似たような雰囲気があるって感じやな」
「いつからだ?」
「いつからって…」
 胸の前で腕を組み、記憶の底を探る。そんなこと余り気にしたことはなかったが---。
「2週間ほど前ぐらいからやな」
「2週間---」
 私に倣ったように、今度は火村が胸の前で腕を組んだ。口の中で「2週間」と、何度か小さく繰り返す。
 ---あーッ、うざったい。それが一体なんだっていうんや。
 曖昧だった空腹が、今でははっきりと自覚できる。それと同時に温厚な私も、少しだけ苛立ちを感じ始めた。一体この出来事の何がそんなに気になるのか。腕を組んだまま考え込む火村に、私は大きな溜め息をついた。これでは、今さら「食事に行こう」とは切り出しにくいではないか。
 火村のことだ。私のこんな話など、きっと大笑いしてさらりと聞き流すだろうと思っていた。その私の読みは、完全に当てが外れてしまった。こんな話するんじゃなかった、と僅かに後悔の念が頭をもたげる。だいたいそんなどうでもいいことより、私は食事に行きたいんだ。自分から持ち出した話題であることをすっかり棚の上に上げ、私は頭の中で思いつく限りの悪態を並べ立てた。
「アリス」
 小難しい顔をして考えこんでいた助教授が、不意に私の名を呼んだ。頭の中でその助教授の悪口を順序よく整理していた私は、まるで心の中を見透かされたような気がして、焦って顔を上げた。
「2週間前に何があった?」
「はっ?」
 ---もしかして、私はとてつもなくアホなんだろうか。最高学府助教授の言っている言葉の意味が、全くもって判らない。暫く私の応えを待ったあと、漸くそれに気づいたらしい火村先生は、きょとんとした表情の私に判るように質問の内容を言い直してくれた。
「2週間前に、何か変わったことはなかったか?」
「変わったこと?」
 そう言われて、ここ2週間の記憶を辿ってみても、これといって思い当たることはない。いつも通りの、日付さえまともに判らなくなる日々の繰り返しだった。
「う〜ん、特にこれといってないけど…。締め切り前の3日間は、部屋に缶詰状態やったけど---」
 図らずも、ぎりぎりまで遊んでいて締め切りがきつくなってしまった己の怠慢さを、暴露することになる。このうえ約束に遅刻したことまで持ち出されてはかなわないので、私は慌てて話題を逸らしにかかった。
「うん。まぁ、いつもどおりやな。これといってやることも無くて、退屈しとったぐらいや」
「相変わらず、モグラみたいな生活をしていたわけだ」
 ケッ、余計な世話じゃい。私がモグラな生活をしようが、吸血鬼のように夜だけ起きてようが、それでどなた様に迷惑をかけるっていうんだ。---いや、東京在住の担当編集殿には、幾らかの迷惑をかけてしまったか。
「あっ、そや!」
「何だ。何か思い出したか?」
 火村が、伺うように私へと視線を走らせる。
「本出たで」
「本…?」
「そや。ほら、5月に君が東京に行くっていうんで歓送会やったやろ。その時、片桐さんから電話が入ってきて---」
「ああ、あの時か」
 どうやら思い出したらしい火村が軽く頷く。
「お前が自殺未遂やらかした時のやつだな」
 違うって。
「それが2週間前に出たのか?」
「さぁ…?」
 私は首を傾げた。珀友社から出来上がった本が送ってきたのは、それよりもっと前だったような気がする。私の態度を一瞥し、火村は興味を無くしたように視線を逸らした。その様子にむっとしながらも、私は言葉を続けた。
「もう見たか?」
 返事の代わりに、火村が緩く頭を左右に振った。
「やったら、今持ってきたる。自分で言うのも何やけど、急いで書いた割りにはええ出来やで」
 自画自賛。ニコニコと笑いながら、私は本の置いてある書斎へと向かった。その私の背に、4本目のキャメルに火をつけるライターの音が響いてきた。序で、火村の小さな溜め息が聞こえる。ほんっとーに、友達甲斐の無い失礼な奴だ。
「ほい、これ」
 私は、火村の前に『小説ミスト』と銘打った雑誌を置いた。私がいつもお世話になっている珀友社から出ているSF、ファンタジー系の月刊誌だが、何故か今回ミステリーの特集をやったらしい。片桐氏が言うには結構売れている雑誌らしいのだが、私自身は畑違いということもあって、本屋で見かける程度の知識しかなかった。
 火村は既に何本目か判らなくなったキャメルを片手に、ぱらぱらとページを捲っていく。やがて私の書いた小説が載っているページに行き当たったらしく、ページを繰る手が止まった。
 私の最初で、最高の読者である火村には、いつも私の小説が本になった時点で渡してはいた。だが、それを目の前で読まれるのは、未だに何となく気恥ずかしいものがある。
 暫くの間、火村は貪るように私の小説を読んでいた。やがて深く息を吐き、ゆっくりと本から視線を上げた。真っ正面から私の顔を見つめ、ニヤリと口許わ綻ばせる。
「自分の自殺未遂もそのまんま飯の種にするとは、たいした根性じゃねぇか、アリス」
 だから、違うって。例の窓から落っこちそうになった事件をしつこく持ち出す火村に、いい加減閉口する。まぁ、それほど心配してくれたんだ、と思えば、温厚な私としては、笑って許してやろうという気にもなれた。---ただし、あくまで良い方に解釈して、との注釈付きでだ。
 私の小説を読み終えた後も、パラパラとページを捲っていた火村の手が、唐突に止まった。何か面白いものでも見つけたのか、と火村の手元を覗き込んでみる。が、そこには興味を引きそうなものは、何も無かった。ただ奥付と来月の発売日が書いてあるだけだ。
「アリス。こいつは、毎月15日に発売なのか?」
 火村の問い掛けに、私は応えられなかった。だいたい自分が執筆した本は全て編集の方から貰っているのだから、本の発売日なんか知っているはずもない。それに何といっても、この雑誌は私とは畑違いの代物なんだ。
「そこに15日って書いてあるんなら、そうなんやないか」
 私の応えは、ひどく適当で曖昧だ。
「もし15日発売なら、今月はちょうど2週間前だな」
「そうやな」
 独白にも似た火村の言葉に、素っ気なく相槌をうつ。毎月読んでいる雑誌ならいざ知らず、ただの一度だけの、それも私とは畑違いのジャンルの雑誌の発売日なんかに興味もない。それより何より、今の私にとって大問題なのは、限界にまで達したこの空腹の方だ。
「なるほど…」
 身体をソファに預けた火村は、ゆっくりと人差し指で唇をなぞり始めた。低く唸りながら、暫くの間なにごとかを考え込む。その様子を、私は向かい側からぼんやりと観察していた。こうなった場合、火村に何を言っても無駄なことは良く判っている。私にできることといえば、火村先生の沈思黙考のじゃまをしないこと。そして1分でも1秒でも早く、火村が答に到達するのを、お預けをくらった犬のようにおとなしく待つことだけだ。
 唇を撫でながら考えに沈む火村を、ぼんやりと見つめること数分間。これといってやることもない私は、次の締め切りまでの日数を数えていた。と突然、パシンという何かを叩くような音が耳朶に触れ、私は一気に現実へと引き戻された。ソファの背に掛けた上着から黒革の手帳を取り出した火村が、目の前で徐に立ち上がった。
「電話借りるぞ」
 ぶっきらぼうにそう言って、電話機の置いてあるローチェストへと大股に歩み寄る。が、突然見えない壁にでもぶつかったように、その歩みを止めた。
「おい、アリス。受話器がねぇぞ」
「あっ、悪い。受話器、寝室においたままやわ」
 火村の言葉に、昨日コードレスの受話器を寝室に持ち込んでそのままにしていたことを思い出した。
「チッ、仕様がねえな。子機は書斎の方だな」
 手帳を捲りながら、火村は書斎のドアへと踵を返す。
「火村ぁ…」
 頬杖をついたまま火村の様子を見つめていた私は、今まさに書斎の中へと滑り込もうとしていた火村の背中に向かって声を掛けた。
「何だ?」
 視線は手帳に落としたまま、振り向きもせずに火村が応える。
「俺、お腹空いた」
 私の言葉に、火村の肩からどっと力が抜け落ちるのが、はっきりと見てとれた。例の口の悪さでもって、また何か言われるかな、と思わず身構える。
「…ったく」
 背中越しに、嘆息する気配が伝わってくる。
「仕様がねぇな。この電話が終わったら飯喰いに連れて行ってやるから、いい子で待ってな」
 振り向いた火村の顔には、苦笑が浮かんでいた。


to be continued




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