SIGNAL <6>

鳴海璃生 




 一体どこに電話をかけたのか。10数分間の長い電話を火村が終えた後、私達は少し早めの夕食に出掛けることにした。
 場所は、珍しく火村が決めた。前にも何度か行ったことのある、心斎橋のフランス料理店だ。空腹を持て余していた私としては、別に心斎橋まで出なくても、天王寺周辺の近場で済ませるか、さもなくばその辺で材料を買ってきて、火村の手料理でも良かった。だが、火村が何故か頑固に心斎橋を主張するので、仕方なく首を縦に振った。
 間の悪いことに車は車検に出していたので、地下鉄で行くことにした。が、ものは考えよう。そろそろ帰宅ラッシュ時間に入るというこの時間、車に乗って渋滞に巻き込まれるよりは、地下鉄の方が幾分早いかもしれない。
 私達はもしもの時のために、行きつけの店を幾つかピックアップして、さっそくマンションをあとにした。もう午後5時を回っているというのに、むっとした暑い空気は相変わらずだった。
 まだ暑いなか、だらだらと四天王寺前まで歩いていき、谷町線に乗る。ここから心斎橋まで行くには、谷町6丁目で新しくできた鶴見緑地公園線に乗り換えることになる。
 通常の足代わりに車を使っている私にとって乗り換えは面倒なことこの上ないが、この線ができる以前は、谷町9丁目と難波で2回乗り換えだったことを考えると、乗り換えが1回に減っただけでも、ずいぶんと楽になった気がする。それに、どう多く見積もっても、時間的には30分以内には行き着ける距離だ。
 ちょうど会社が終わった時刻のためか、地下鉄の中はアフターファイブを楽しみに街へ繰り出す人々でひしめき合っていた。このうんざりするような暑さの中、しかも一日の仕事を終えた後だというのに、サラリーマンの皆様方は何でこうも元気なのだろう。相も変わらず込み合った電車に、知らず知らずの内に溜め息が漏れる。もともとラッシュ時の電車が大嫌いな私は、ひしめきあう人いきれにどっと疲れる気がした。何せ専業作家になって私がしみじみと良かった、と思うことの一つに、このラッシュ時の電車に乗らなくて良いというのが入っているぐらいだ。
 谷町6丁目で谷町線を下り、鶴見緑地公園線に乗り換えるため、私と火村は並んでホームから乗り換え通路へと続く階段を下りた。その時、ふと例のサンタの気配を感じて、私は階段の途中で足を止めた。乗り換えの人並みが、途中で止まった私をじゃまそうに追い越していく。
 右手の壁際に身体を寄せ、キョロキョロと辺りを見回してみる。が、それらしい人の姿はどこにも無かった。とは言っても、私はそのサンタの姿をはっきりと見知っているわけではない。だから、もしその人が近くにいたとしても、判らない公算の方が大きかった。
「アリス」
 私が足を止めている間に先に階段を下りてしまった火村が、階段の下から私を呼んだ。その声に応えるように、私は止めていた足を1歩踏み出した。
「悪い、火村…」
 下にいる火村に向かって片手を上げた瞬間、ドンと背中を強く押された。一体なにが…、と思った瞬間、私の身体は一瞬だけ宙に浮き、すぐに地球の重力に引っ張られるように下へと落ちていった。
 落ちていく私の耳に、周りの悲鳴がまるで薄い膜を通したようにくぐもって聞こえてくる。階段を下へと落ちているのは紛れもなく私自身なのに、何故か叫んでいるのは私以外の人達なのだ。
 まるでスローモーションフィルムを見ているように、回りの景色がゆっくりと進んでいく。確かに目に見えているのに、なのに私の眸はその何をも写してはいないのだ。ただ、私の周りで時間だけが進んでいくような不可思議な感覚---。その中でたった一つ、私の意識の中でただ一人だけが、鮮明にその姿を保っていた。
 火村の顔。
 無愛想なその友人の姿だけが、私の視界の中にあった。
 いつもの彼らしいクールな表情は影を潜め、驚きに双眸が見開かれる。そんな火村の表情を見たのは、長い付き合いの中でも数えるほどかもしれない。
 ゆっくりと、まるでコマ送りのフィルムを見ているように、火村が私に向かって両手を伸ばす。それに応えるように、私も火村に向かって手を伸ばした。
 それは、ほんの一瞬のことだったかもしれない。だが、私にとっては、まるで永遠のような長さに感じられた。
 何かに激しくぶつかり、下へと落ちていた私の身体はそこで止まった。腕の先にあるものが何かを見極めることなく、私はそれを力一杯抱きしめた。それに応えるように、私の背にある腕に力がこめられる。
「森下さんッ!」
 頭の上で、耳慣れた声が聞こえた。が、私は目の前にあるものに埋めたままの顔を上げることができなかった。悲鳴と怒号が連絡通路のコンクリートに反響する。通路に座り込んだ私の傍らを、バタバタと大きな足音が幾つも通り過ぎていく。
 周りで一体何が起こっているのか、全く判らなかった。目の前にあるのは、見慣れた黒いシャツ。耳には、穏やかな規則正しい鼓動が聞こえてくる。
 ---大丈夫。ここにいる限り、俺は大丈夫や。
 何の脈絡もなく、不思議なほどの強さでそう思った。
 やがて悲鳴と足音が収まり、通路に静寂が戻ってきた。
「おい、アリス。終わったぜ」
 頭上から穏やかな声が降ってきた。その声に導かれるように、私はゆっくりと顔を上げた。
「---火村…?」
「どこも怪我はねぇな?」
 柔らかな問い掛けに、小さく頷く。まるで確認するように首を傾げ、私の姿を一瞥した火村の顔に、安堵したような穏やかな笑みが浮かんだ。
 火村は私の肩に手を置いたまま、ゆつくりと立ち上がった。それにつられて、私も一緒に立ち上がる。
「火村先生」
 背中越し、私の後ろにある階段の上から、これもまた聞き慣れた声が響いてきた。ここにいるはずのない声の主を見極めようと、私はゆっくりと振り向いた。既にトレードマークと言っても過言ではないアルマーニのスーツを着こなした森下刑事が、私の視線の先、谷町線のホームから続く階段をゆっくりと下りてくる。
「有栖川さん、大丈夫でしたか? お怪我はありませんか?」
 不安の混じった心配そうな声に、私は軽く首を縦に振った。森下の涼しげな目許に、ほっと安堵の色が浮かぶ。私に向かって小さく会釈すると、森下は火村へと視線を移した。
「最初お話をお聴きした時は、半信半疑でしたが、やはり火村先生の仰る通りでした。ありがとうございました」
 森下が火村に向かってぺこりと頭を下げる。何が何やらわけの判らない私は、小村の腕に抱きしめられたまま、まるで映画のワンシーンでも見ているように一連の出来事を凝視していた。
「お前のせいやッ。やっぱりお前のせいで…」
 突然耳に飛び込んできた怒鳴り声に、私はぴくりと身を竦ませた。恐る恐るという風に、声のした方へと視線を向ける。手首に手錠を掛けられ、両脇から警官二人に腕を掴まれた男が、階段の上から憎悪の眸で私を見つめていた。
「火村…」
 頼りない声で火村の名を呼ぶ。そんな私を男の視線から隠すように、火村は私の前に回り込んだ。
「それじゃ、森下さん。私達はこれで。アリスの調書の方は、明日で構いませんか?」
「あっ、はい。明日府警本部の方に来て頂ければ、それで十分ですので。今日は、本当にありがとうございました」
 はりきりボーイらしいてきぱきとした態度で、森下が火村にそれと告げる。わけも判らぬまま、私は火村の後ろで二人の会話を聞いていた。言葉の端々から、間違いなく私を中心に話が回っているらしいのに、当の私自身には一体何が何やらてんで検討もつかない。まるで狐に化かされたような気分というのは、きっとこういう状態をいうに違いない。
「アリス、行くぞ」
 幾つかの短い会話のあと、唐突に振り向いた火村が私の肩を押した。私は火村の為すままに、野次馬達の輪の中を抜け出して、鶴見緑地公園のまだ新しいホームへと向かった。


to be continued




NovelsContents