鳴海璃生
何だかここ最近、私の部屋への火村の出没率が高い。
今までは講義が休みの水曜日と週末ぐらい---当然だが、それも毎週というわけじゃない---にしかやって来なかったのに、梅雨に入ってからというもの、それ以外の日にも妙にこまめに私のマンションに顔を出している。しかも「婆ちゃんにもウリ達にも会いたいし、俺が京都に行く」と言っても、自分が大阪に行くから、とごり押ししてまで私のマンションに遣ってくるのだ。
---何だかすんごく、とっても、めちゃくちゃ怪しい。
もしかしてもしかしたら、私が京都に来てほしくない理由を隠しているのかもしれない。
おっ、もしかして浮気か…。---と、さりげに火村の様子を探ってみた。
片手にスーパーの袋や寿司折り等の食料品を抱えてくるのは、相変わらずだ。ダラダラ過ごしているように見えても、結構こまめに部屋の掃除や後片づけなんかもやってるいる。
もしかして我が家のクーラーが目当てか、とも思ったのだが、とどうやらそういうわけでもないらしい。このムシムシした気候にうんざりして、私が空調をつけっぱなしにしていると、「健康に悪い」とか何とか、いいかげん耳タコな台詞を口にしてスイッチを切る。
---一体なんやねん?
火村が訪れるたびに、目を皿のようにして、細心の注意を払って伺ってみる。だが、これと言って怪しいとこは見つからないのだ。特にこれという事をやるわけでもなく、火村は頻繁に我が家を訪れる。
「---なぁ…。最近なんかあったんか?」
食後にテレビを観ながらビールを呑んでいる時に、さり気なく訊いてみた。だらりとソファで身体を伸ばし、つまみのチーズに手を伸ばしていた火村は、チラリと私の方へと視線を走らせた。
「別に…。何もないぜ。何でだ?」
さらりとかわされて、逆に質問で返されてしまった。さて、どうしようか…、と一瞬だけ考えて、私はここ数日頭を占めている疑問を口にした。
「何でって…。別に大したことやあらへんけど、最近君がよく家に来てるから、何かあったんかなぁ…って」
チラリチラリと隣りを伺いながら、私は気になっている事実を口にした。その私の言葉に、火村は「おや」とばかりに眉を上下させた。口許には、ニヤリとした質の良くない笑いが刻まれる。
「なに言ってんだ。ずいぶんと薄情な台詞じゃねぇか、アリス。自分に会いに来てる、とは思わないのかよ」
態とらしく身体を寄せながらの台詞に、私は渋面を作った。そんな殊勝な台詞を吐いても、騙されるものか。言葉の内容を裏切っているそのふざけた態度のどこをどうつつけば、そんな結論に至るっていうんだ。私は火村の肩を押し返しながら、ニヤニヤ笑いの表情を緩く睨みつけた。
「アホ。君の日頃の行いを見て、そんなん思うわけあらへんやろ」
「ひでぇな。心が痛むぜ」
笑いながら、心にもない台詞を口にする。そんな火村の様子を上目遣いに睨め付け、私は小さく息をついた。どうやらまともに訊いても、正直に応える気はまるでないらしい。だがそうなってくるとますます気になるのが、人間の好奇心てもんだ。
その時はそれ以上の追求を諦め、何事もなかったかのように時を過ごした。が、私は火村に気取られることなく、それ以降も注意深く火村の動向を探っていたのだ。
そして、ふととある事に気付いた。今までは手に持ったスーパーの袋や差し入れに目を奪われて気にも止めなかったのだが、それ以外の火村の荷物が何だか妙に大きいような気がする。そうして注意して見ていると、日によっては小振りの旅行鞄らしきものまで持ち込んでいる時があった。
火村が独り暮らしを始めた私の部屋を訪れるようになってから、結構な年月が経つ。だが、今までにそういう類の物を持ち込んだことはなかった。---と思う。記憶の底を攫ってみても、これから旅行に行くという時でもない限り、火村は私の部屋には荷物らしい荷物も持たずに遣ってきていた。
殆どの時は手ぶら---食料品の入ったスーパーの袋や差し入れは別物だ---で。そして大学から直接来る時は、書類や教科書、最近ではノートパソコンの入った鞄を片手に、という出で立ちが、火村が私の部屋に遣ってくる時の定番だった。
それも当然のことだ。私の部屋には火村専用の宿泊グッズが、いつの間にやら常備されていたのだから---。
茶碗にマグカップに歯ブラシは言うに及ばず、シャンプーやリンスやシェービングクリームに至るまで、いつの間にやら火村の愛用している物にすり替わっていた。おまけに、クローゼットには火村専用のスペース。靴箱の中にも、火村が持ち込んだサンダルやら靴やらが堂々と場所を占めている。もちろん傘立ての中も、しかりだ。
これではまるで半同棲状態ではないか、と眉を顰めていたのは、遠い昔のことだ。慣れとは恐ろしいもので、今ではそれがまるで当たり前のように、意識の淵にも引っかかりはしない。そういう場所へ遣ってくるのに、一体あの大荷物は何なのだろう。
一度気になり出すと、やたらめったらとそればっかりが目に入る。火村が手に持った夕食の材料より先に、もう片方の手に持った荷物の方に視線が行ってしまうぐらいだ。何とかあの荷物の正体を掴もうと躍起になってみるのだが、敵もさる者。なかなか尻尾を掴ませない。
事がなかなか上手く運ばずに、私もいいかげん焦れてきたある日。私がソファに寝転んで、食後のコーヒーを片手に火曜日の定番番組を見ていた時のことである。
「おい、洗濯物あったら出せよ」
不意に聞こえてきたバリトンに、上半身を捻るようにして振り向くと、ランドリーボックスを抱えた火村が、リビングのドアの所に突っ立っていた。どうやら食後の一服を終えて洗濯を始める気らしいが、全くもってまめなことだ。
「シーツとパジャマ洗ってくれたら、嬉しい」
「もう持ってきた。他は無いのか?」
「うん。あとは今着てるもんだけやから、ええわ」
「判った」
煙草を口にくわえた火村は、大股にリビングを横切りダイニングへと入っていく。それを横目に眺め、私は再度ソファに寝転がろうとした。---が、思い直して、突然ガバリと身を起こす。チラリと伺うように視線を走らせると、鼻歌を口ずさみながら火村がダイニングに姿を消すところだった。
数瞬の間、ダイニングの様子にそっと耳を澄ます。妙に機嫌の良い助教授の鼻歌が掠れ掠れに聞こえてくるが、こちらに姿を現す気配はない。
---しめしめ…。
私はダイニングの様子を注意深く伺いながら、ソファの上を這って反対側の肘掛けの方へと近寄った。
---確かここに置いてあったはずや。
巡ってきたチャンスに胸を躍らせ、肘掛けの上にひょいと顔を突き出した。が、ついさっきまでそこに無造作に置いてあった火村の黒い旅行鞄が、何故か今は見当たらなかった。
「あれ? へんやな…」
肘掛けから身を乗り出すようにして、キョロキョロと辺りの様子を見回してみる。だが、火村の旅行鞄はどこにも見当たらない。色が黒だけに嫌でも目立つはずなのに、視線の届く範囲のどこにも、それを見出すことはできなかった。
「まさか、隠した---なんてことはあらへんよな」
ここに来てからの火村の行動を逐一思い出してみる。だが鞄をどこかに隠すような素振りは、微塵も思いあたらなかった。だいたいついさっきまで、火村が私にコーヒーを淹れてきてくれるまでは、鞄は間違いなくソファの横に転がしてあったのだ。---と、そこまで考えて、私は不意に声を上げた。
---もしかして…。
転げるようにソファから飛び降りて、私はダイニングへと向かった。カウンターテーブルを回り込み、身体を伸ばすようにして火村のいる辺りを覗き込む。
まさにグッドタイミング。ちょうど火村が鞄の口を開けて、中の物を取り出そうとしている光景に打ち当たった。
「ちょーっと待てっ!」
突然の大声に、火村が驚いたように振り向いた。そんな火村に構うことなく、私はズカズカと大股に火村の方へと歩み寄っていった。
やった。遂に現場を押さえたぞ。
鞄の縁に掛かっている火村の手を払いのけ、私は鞄を掴み取ってひっくり返した。バサバサと大きな音をたてて鞄の中から出てきたのは、白い布。見覚えのあるそれは、まさしく火村の部屋の備品の一つで---。
「何や、これっ。君のシーツやないか」
手に持った物をぐいっと火村の目の前に突き出すと、火村はやれやれと言うような表情で肩を竦めてみせた。てんで悪びれた様子のないその仕種に、ピンと私の第六感が音をたてる。もしかして、もしかしてこいつ---。
「俺ん家をコインランドリー代わりに使うたな」
あの火村が、これといった用事もないのに、足繁く私の部屋に遣ってくるだなんて、どうもへんだと思ったのだ。もちろん私だとて、「お前に会いに来た」だなんてふざけた台詞を、真っ向から信じていたわけじゃない。だが、幾ら何でもこれはあんまりだろう。『親しき仲にも礼儀有り』って有り難い言葉を知らんのか、こいつ。
じろり、と睨みつける私に向かって、火村はフゥ〜と紫煙を吐き出した。
「しょーがねぇだろ。この天気で、洗濯物が乾かねぇんだから」
白々と言ってのける図々しさに、頭の中でプッチンと何かが切れる音がした。
「何がしょーがねぇ、や。外に干せんのやったら、部屋の中に干せばええやないか」
「部屋の中に5キロの洗濯物を干すと、3リットルの水を部屋の中に撒いたことになるんだそうだぜ。知らねえのか?」
知るか、そんなこと。あいにく我が家には乾燥機っていう有り難い文明の利器があるから、部屋の中に洗濯物干す必要はないんだ。
「それやったら---」
続けざまに文句を口にしようとした私を、火村が止めた。煙草を挟んだ指を、目の前で左右に揺らす。
「それに部屋の中に洗濯物を干しておくと、それにウリ達が飛びついて遊んじまうんだよ」
確かに宙空でユラユラと揺れる洗濯物は、雨で外に出れないウリ達の恰好の遊び相手かもしれない。だがしかし、だからといって我が家をコインランドリー代わりに代用されたむかつきは、解消しはしない。
「それやったら、蒲団乾燥機を使えばええやろ。あれ、確か中に洗濯物を入れて乾かせるはずやぞ」
「あー、お前が冬にウリ達と一緒に潜り込んでいたやつな」
煩い。相変わらず余計なとこばかりに、記憶力の良い奴だ。
目を細めるようにしてその場面を思い出しているらしい火村を、じろりと睨みつける。
「---押入の奥から出すの、面倒くさいんだよな」
この野郎、飽くまで我が家をコインランドリーとして使用する気だな。よぉし、それならそれで私にだって考えがある。
「君が俺ん家をコインランドリー代わりに使うっていうんなら、俺にかて考えがある」
ぴしり、と火村の鼻先に人差し指を突きつける。そんな私の様子を面白そうに眺め、火村は文楽人形のように眉を上下させた。
「使用代金取っちゃる」
「ほぉ…」
双眸を眇めた火村を見つめ、私はフフンと鼻で笑ってやった。
「1回100円や。ほんま物のコインランドリーの相場がどんなもんか知らへんけど、安いもんやろ」
ガステーブルの横に置いてあった灰皿に短くなった煙草を捨て、火村は口許にニヤリと笑みを刻んだ。
「いいぜ。その代わり、アリスも俺の労働に対する報酬は払えよ」
「あ?」
「ここに来るたび、掃除洗濯に飯の仕度。あれやこれやと、やってやってるもんな」
「タ、タイムっ! ちょお待って。今のナシ、取り消し。この部屋のもんは自分のもんやと思うて、好きに使うて下さい。君と俺の仲やしな。そんなんチマチマ気にするほど、俺は肝っ玉小さくないわ」
「それじゃ」とばかりにじりじりと後ろにさがる私の腰を片手で抱き、火村はぐいっと自分の方に引き寄せた。
「まさか。幾ら俺でも、そこまで図々しくないぜ。---そうだよな。幾ら親しき仲とはいえ、礼儀ってのは大切だよな。判った。お前ん家をコインランドリー代わりに使った代金は、ちゃんと払ってやるぜ」
「いやもう、ほんまに気にせんといて。何やったらそれは、君の働きとチャラってことでええで」
表情を強ばらせながら、固まったような笑みを作る。同時に後ろ手で、腰に絡まった火村の腕を外そうと試みる。だが鋼のようにがっちりと腰に回された腕は、ぴくりとも動かなかった。
「バカ言うなよ、アリス。どう見積もっても、俺の労働の方が高いだろ」
優しげに微笑まれた表情は、凶悪のひと言だった。何と言っても、口許は笑いながらも目がまるで笑っていないのが怖い。
---俺、また墓穴掘ってしもうたんやろか。
ごくり、と息を飲み込みながらの後悔は、程なく現実に取って代わった。
翌朝、私の部屋から大学に向かう火村の右手には、選択したシーツ入りの旅行鞄。いつも以上に軽い足取りも、ベッドの中から眺めると、むかつくことこのうえない。
「おい、アリス。昨日使ったシーツは洗濯機に放り込んであるから、起きたら乾燥機かけておけよ」
寝室のドアから顔だけ出してそう言った火村目掛けて、私は思いっきり力を込めて枕を投げつけてやった。End/2001.06.21
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