大人の散歩−紫陽花の頃−

鳴海璃生 




 朝起きてカーテンを開けたら、灰色の雲の間から梅雨の晴れ間が覗いていた。ここ数日、バケツをひっくり返したような雨が続いていたので、青空を見るのは本当に一週間ぶりくらいだ。
 雲の切れ間のほんの僅かな空間だが、久し振りに見た青空に何だか嬉しくなって、私は威勢良くベッドから飛び降りた。天井に向かって拳を突き出すように、う〜ん…と大きく身体を伸ばす。激しい雨に閉口して一歩も部屋の外に出ることなくワープロに向かっていたため、すっかり凝り固まっていた身体がふわりと外に向かって開放されるような気がした。
「久し振りに今日はお出かけしようかな」
 自分でもずいぶんと単純だとは思うが、何だかウキウキと弾むような気持ちは抑えようがない。トーストとコーヒーだけの簡単な朝食を摂りながら、祈るような気持ちで窓の外の青空を眺める。頼むから、私が食事を食べている間に、また泣き出さないで貰いたいものだ。
 そんな私の切なる願いが届いたのか、起きた時はほんの一筋の細い流れのようだった青空も、徐々にその領域を広げ始めた。エントランスの玄関から外に飛び出て大きく深呼吸をすると、気の早い夏の香りが空気に混じっているような気がした。
 背中に背負った愛用のリュックには、いつものお散歩グッズに小さな折り畳み傘。荷物になるな、と一瞬だけ躊躇したのだが、この時期に傘は必需品だ。
 ---さて、折角の晴れ間や。どこに行くかな。
 いつものお散歩コース、谷町筋をテクテクと歩いて、天王寺動物園まで行ってみようか。猿山の猿達も、久し振りの天気に喜んでいるかもしれない。それとも、梅田で本屋巡りとか---。ミステリーの新刊や情報誌や雑誌。とにかく目に付いた物を色々と買い込んで来れば、これからまた数日雨の日が続いても、退屈せずにすむかもしれない。
 楽しい予定をあれやこれやと思い描き---。
「よしっ、決めた。京都行こう」
 ここのとこ火村が頻繁に私の部屋に顔を出しているのですっかり忘れていたが、もう一カ月以上も京都には足を向けていない。まぁ、雨が降っていて私が極端に出不精になっているせいもあるのだが、せめて梅雨の中休みぐらいは京都まで足を伸ばして、仏頂面の助教授の講義風景なんかを覗くのもいいかもしれない。いや、そんな辛気くさいことは止めて、ぶらぶらと観光客気取りで京都の街を散策するだけでも楽しいかもしれない。
 ---そうや、そうしよ。
 行き先も決めずに、ぶらぶらと京都の街を歩いてみるのだ。この梅雨の時期なら観光客も少ないだろうし、それに足繁く訪れている京都の街にも、まだまだ私の知らない場所は一杯あるのだ。火村のおかげで京都の街もすっかり地元のような感覚だが、足を向けている場所はだいたい決まっている。
「京都に向かって、レッツゴーや」
 軽い足取りで、私は地下鉄の駅に向かった。

◇◇◇

 京都駅から一歩外に踏み出して、その途端に私はうんざりしてしまった。
 暑い。とにかく、むちゃくちゃ蒸し暑いのだ。大阪の街もまるで空気自体が熱と質量と水分を発散しているかのようにネットリと蒸し暑かったのだが、京都の街は何だかそれ以上に空気の質量を感じてしまう。電車の中で空調の心地良い空間に浸っていたせいもあるだろうが、それにしても---。
「やっぱ盆地のせいで、空気が籠もってるんやろか」
 この暑さをものともせず颯爽と歩いていく人々に視線を走らせ、私はフゥ〜と大きく息を吐いた。何だか肺の中の空気まで、湿気と熱を孕んでいるような気がする。意気揚々と意気込んでここまで遣ってきたのだが、この蒸し暑さにすっかりめげて、既にお散歩気分は目減り気味だ。
「あ〜もう、面倒くさ。火村の講義にでも潜り込むかな」
 大学に行けば、しっかりと空調の効いた心地良い空間が私を待っているはずだ。そこであの念仏のような火村の講義を聴けば、気分良くお昼寝ができるかもしれない。脳裏に描くそれは、まさに天国の様相だ。
「---あかん、あかん」
 甘美な誘惑を振り払うように、私は大きく頭を振った。湿気を含んだ髪の毛がパサリと頬にあたって、うんざり気分がまた少しだけ上昇する。
「せっかく雨降ってへんのやから、こういう時こそ外の空気を吸わなあかんのや。初志貫徹やで、アリス」
 自らを励まし、一歩を踏み出す。特にこれといった当てもないので、足のむくまま気の向くまま、ふらふらと適当な小路へと入り込む。ちょっと気を抜いていると、条件反射のように足が北へと向かってしまう。私はなるだけ北へと向かわないように注意を払って、狭い道を右へ左へと適当に曲がっていった。
 大通りをひと筋入ると、街の様相ががらりと変わる。大路に面した道の風景は大阪あたりと対して変わりないのだが、狭い小路には京都らしい風情が感じられた。どこか懐かしいような日本家屋が、面々と連なる。時の流れを感じさせる時代がかったそれらは、まるで過去へとタイムスリップしてしまったような不可思議な感覚をもたらしてくれた。
 そんな街並みの中を、まるで身を縮めるようにしてバスが通っていく。小型車がやっと通れるぐらいの幅しかない道を、スピードを落としたバスは、ゆっくりと通り過ぎていく。運転音痴を自認する私には、とてもできない高等技術だ、と感心しながら、目の前を行きすぎるバスを見送った。
 ---ああ、そういや。
 火村の奴も、結構器用に狭い道を運転するな、と思う。ベンツの車幅でこんな道は無理やろ、と思っても、苦もなくステアリングを操るのだ。それを見るたび己の運転技術と引き比べて、何だか少しだけ口惜しい気持ちに陥る。免許を取ったのは一緒だった---大学の時に、二人で免許合宿に行ったのだ---のに、十数年後のこの差は一体なんなのだ。きっと慣れやな…、と自分で自分を慰めてみても、何だか妙に虚しい。
「でもあのバスの運転手さんには、敵わんに違いないわ」
 狭い道を器用に曲がっていくバスの後ろ姿を見つめ、自分の手柄でもないのに、何だか私は勝ち誇ったような気分を満喫した。
 バスの通っていった道筋を辿り、四つ角で、さて、どちらに曲がろうか、と思案する。いい加減にあっちに曲がりこっちにまがりで歩いてきたので、北がどちらの方向かなんて判らなくなってしまっている。
 空を見上げると、雲間からほんのりと薄日が差している。方向を計るのに当てにしていた太陽の姿は、残念ながら雲の後ろ側だ。大きく息を吸い込むと、ツンと懐かしい香りが鼻腔をくすぐる。
 柔らかな雨と夏の気配を含んだ、懐かしい香り。こういう時、私はきまってある一つの情景を思い出すのだ。
 それは、小学校のプール開き。
 何故かは判らない。だが梅雨の晴れ間の蒸し暑い天気は、私の感覚の中では小学校のプール開きの日と直結しているのだ。
 朝起きて空を眺めた時に、街中を歩いている時に、ふと懐かしい感覚に襲われる。そして、ああ…今日はプール開きの日だ、と唐突に思うのだ。それを自分以外の第三者に口にしたのは火村が最初で、そしてたぶん最後だと思う。
 学生時代に二人で構内を歩いていた時、ふと空を眺めた私は「プール開きの日や」となにげに呟いてしまったのだ。耳聡くそれを聞き咎めた火村は、当然のごとく「何だ、そりゃ」と訊き返してきた。
 実は、と私の中の懐かしい感覚を披露してみせたら、あろうことか火村の野郎はプッと吹き出しやがったのだ。そのうえ「プール開きは、ちょうど今時分に行われるからな」と頼んでもいないのに、懇切丁寧に私の不可思議な感覚を解説してくれた。
 もちろん私が怒ったのは、言うまでもない。「余計な世話や、アホんだら」と怒鳴って、それから暫く火村とは顔も会わせなかった。一体どうやって仲直りしたのかは有耶無耶---だいたいいつもそうだから、いちいち覚えていられないのだ---なのだが、私はその時、もう二度とこの話は他人にはすまい、と心に決めた。
 未だにそれを真摯に守っているから、私のささやかな梅雨の思い出を知っているのは、火村一人ということになってしまう。それはそれで、何だか無償に腹がたつものがあるが、この際それは頭の中から追い払うことにしよう。
 ぶつぶつと昔の思い出に浸っている内に、私は無意識で、立ち止まった四つ角をどちらかに曲がってしまったらしい。ふと気付いて、一体ここはどこだろう…と、辺りの様子をキョロキョロと見回してみる。と、視界に、何だか妙に怪しげな入り口が飛び込んできた。秘密めいた雰囲気漂う様相にワクワクしながら、私はその入り口に近づいてみた。
 果たして中に入っていいものだろうか…と、そっと入り口の中を覗いてみる。
 古びた入り口の柱には懐石料理のメニューが掛かっているし、屋根瓦の上には店名の入った看板が二つ並んでいる。もしかしてここは、料亭の入り口なんだろうか。京都には間口が僅かに一間。だが中に入れば、広々とした立派な日本庭園が設えてあるという料亭や旅館が、数多く存在する。だから、こういう風なちょっと興味を引かれる小さな入り口を見つけたからといって、フラフラと中に入っていくわけにはいかないのだ。
 柱の影からそっと中の様子を覗き込む。見た目には何だか料亭の入り口のようにも見受けられるのだが、奥行きは深く、ずっと先まで道が続いてるような雰囲気なのだ。
 ---どないしよ?
 瞬きの時間程度に考えて、私は中へと足を踏み入れた。やっぱり、むくむくと沸き上がる好奇心には勝てなかった。これでもしここが料亭の入り口だったのなら、「間違えました」と謝って戻ってくればいいのだ、と開き直る。そう覚悟は決めてみても、そこはやはり小心者。恐る恐るという風に、私は中へと足を踏み入れた。
 木の壁で挟まれた狭いトンネルのような空間を抜けると、その先には細い石畳の小路が伸びていた。両脇の時代がかった日本家屋の軒先からは、緑濃い木々の枝葉が小路へと伸びている。人の気配のない静かな佇まいは、まるで時代を飛び越えたかのような、どこか厳粛で情緒ある雰囲気を醸し出していた。
「---こんな場所もあるんや」
 雰囲気に圧倒されるように一瞬息を飲み、私は感嘆の声を絞り出した。もしかしたらあの狭い木組みのトンネルを通って、過去の時代へと時を飛び越えてしまったのかもしれない。---そんな、まるで小説か夢の中のような出来事が確かに信じられるような雰囲気が、この小路には満ち溢れていた。
 辺りの様子にキョロキョロと視線を走らせながら、私は石畳の上を一歩一歩進んでいった。目に鮮やかな緑と古びた木造の感触が、何だか空気までも清浄にしているような気がする。
「きっと火村かて知らへんよな、こんな場所…」
 誰にともなく、得意げに呟く。あの現代生活にすっかりどっぷり浸かりきった助教授は、こんなひと時の優雅な時間を過ごすこともなく、講義に明け暮れているのだ。そう思うと、何だか自分がもの凄く得をしているような気分になってきた。
 これはもう是が非でも今日中に火村に会って、自慢してやるのだ。きっと火村は「無駄な時間を過ごしているな」とか何とか、嫌味まみれの言葉を口にするだろう。だが、そんなのは単なる負け惜しみだ。
 心地良い勝利の予感に浸りながら石畳を歩いていた時、鼻先にポツリと雨粒が落ちてきた。あっ、いかん、と思う間もなく、バケツをひっくり返したような雨が、天上から零れ落ちてくる。それはほんの一瞬の出来事で、傘をさす余裕も隙もなかった。
 慌てて適当な軒先に避難し、恨めしげに空を見上げる。雲間に顔を覗かせていた青空はいつの間にか姿を消し、空一杯に灰色の雲が重く垂れ込めていた。辺り一面が白い霧のような雨のベールに覆われ、私は為す術もなく佇んだ。
「まいったなぁ…」
 リュックの中に折り畳みの傘は入っているのだが、この滝のような雨では、小さな折り畳み傘など余り役に立ちそうにない。特に先を急ぐわけでもないし---。
「小降りになるまで待つか」
 壁に寄りかかり、私はハァ〜と大きく息をついた。今まで我慢して我慢して雨の素を思いっきり溜め込んで、それが一気に破裂したかのように、雨は際限なく空から落ちてくる。小降りになるまで待つ、と覚悟は決めたものの、果たしていつになれば和らぐのか。降り出してまだ間もないというのに、私は既にうんざりとした気分を持て余していた。
 ---文庫本でも持ってくれば良かったかなぁ…。
 普段は必ず文庫本をリュックの中に詰め込んでいるのだが、今日は歩き回りから、とわざわざリュックから取り出して部屋においてきたのだ。失敗したなぁ…と思ってみても、今では既に後の祭りで、どうしようもない。
 ---こうなったら、今度の新作のトリックでも考えるか。
 偶にはこういう日本情緒溢れる裏小路を、小説の舞台に使うのもいいかもしれない。そう考えて、もっと良く観察しようと辺りに視線を巡らせた時、モノトーンの風景の中に色鮮やかなブルーバイオレットが咲き誇っていた。
「あっ、紫陽花や」
 日に日に色を変えていく大輪の花は、華やかというよりも、どこかしっとりとした落ち着きと風情を感じさせる。それは明るい陽の下よりも雨の降る風景の中でこそ、よりその美しさを発揮するかのようだ。
「日本美人な花やんな」
 日本固有の花である紫陽花は、順々に色の変わる様から『七変化』とか『八仙花』とも名付けられ、人々に愛されてきた。また一般には花弁だと思われているガク片の数から、『四葩(よひら)』という別名も持っている。
 そんな紫陽花の語源は、『あず(集まる)』+『さい(藍色)』と一説では言われている。と同時に、学名に使われている『オタクサ』が、最初の命名者であるシーボルトによって彼の妻である長崎丸山の遊女お滝さんにちなんで付けられたことは有名だ。もっともそのオタクサ自体は、紫陽花の一変種なのだそうだが---。
「そーいえば、何かに紫陽花の花の色が違うってのを使ったトリックもあったよな…」
 小説だかテレビのサスペンス劇場だかは忘れたが、その話は紫陽花の花の下に屍体が埋まっているせいで、群生した紫陽花の一つだけ花の色が違っているというものだった。咲き始めは白色の花が徐々に色を変え、土壌のPH値によって淡空色や淡紅色、中間色の青紫色になるという紫陽花の性質をトリックに使ったものだ。聞きかじっただけなので詳しくは覚えていないが、確か青系の花がアルカリ性で、赤系の花が酸性だったような---。
「…って、それやったらリトマス試験紙やな」
 雨上がりの御所を歩きながら、そういう雑学の知識を披露した私に向かって、火村は『雑学データベース』と宣った。確か知り合って一カ月ほど経った、梅雨の真っ最中の出来事だ。お互いの距離を測りながら始まった辿々しい友人関係が、まさか未だに続いているなんて---。
「世の中判らんもんやなぁ…」
 しみじみと溜め息をつくと、雨の匂いに混じって嗅ぎ慣れた煙草の香りがふと鼻先を掠めた。何だか柄にもなく、妙に懐かしい気分になるのは、柔らかな雨の香りと密やかな雨音のせいだ。そう自分に言い聞かせながら、私はリュックのポケットから携帯電話を取りだした。
 メモリの二番を押し、火村の研究室に電話をかける。コール音を数えるほどもなく、少しだけ不機嫌そうなバリトンが返事を返してきた。
「火村、俺や」
 妙に明るい私の声に、受話口の向こうから微かな笑い声が響いてくる。
『何だよ、どうしたんだ』
「今な、京都に来てるんや。そんでもし君の予定が無いんなら、夕飯一緒に食べへん?」
『いいぜ。で、どこに行けばいいんだ?』
「うん、それやけど…」
 カチリ、とラインの向こう側でライターをつける音がした。火村が紫煙を吸い込む一瞬の間に、私はごくりと息を飲み込んだ。
『アリス…?』
 雨の音に馴染む柔らかな問いかけに、背を押され---。
「今どこにいてるか判らへんねん。頼むっ、迎えに来てくれ!」
『はぁ…?』
 意を決して大声で告げた言葉に、火村はらしくもなく惚けた声を出した。ついで、大きな溜め息が鼓膜を震わせる。
『お前一体なにやってんだよ、こんな雨降りに…』
「実は---」
 浮かれ気分でうろちょろ歩き回っている内に、自分が一体どこに迷い込んでしまったのやら…。要は所謂---。
『迷子かよ、この馬鹿っ!』
「あっ! 君、今漢字で馬鹿って言うたやろ。関西人にバカって言う--- 」
『バカだから馬鹿って言ったんだろうが、このクソ馬鹿、間抜け、ドジッ! お前、一体幾つなんだ?』
「そんなん言うたかて、仕方ないやんかぁ〜」
 しとしととそぼ降る雨空のように、私の心もどっぷりと湿っている。おまけに携帯の向こうでは、鬱陶しい雨音のようにくどくどと火村助教授の説教が続く。
『おい、聴いてるのかアリス』
「ちゃんと聴いてます」
 タイムスリップしたような軒先で雨粒を見つめながら、携帯から届く現実。
 ---この雨と火村の説教って、どっちが先に止むんやろ。
 どんよりとした梅雨の雨空を見つめ、私は火村に聞こえないように小さく息を吐く。視界の先では青紫色の紫陽花が、雨の中で可憐な美しさをより一層際だたせていた。


End/2001.06.22




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