鳴海璃生
風邪をひいた。
梅雨特有のムシムシとした暑さにパジャマのズボンだけを履いて、扇風機を回しっぱなしにして眠っていたら、物の見事に風邪をひいてしまった。
朝起きると多少喉が痛くて、何だか少しゾクゾクして、顔を顰めたくなるぐらいの頭痛を覚えた。だが大学の講義を休むわけにもいかず、また前期試験の用意やレポートの準備もあって、この程度なら大丈夫だろう、と大学に出掛けたのが運のつきだった。
その日は運悪く、愛車のベンツを修理に出していた---これから必須のエアコンが壊れたのだ---ため、火村はバスで大学まで出勤した。自宅から銀閣寺道のバス停までは、約十分ほどの道程だ。出掛ける時は梅雨の中休みの蒸し暑さにうんざりしながら歩いていったのだが、帰りに見事に雨に降られてしまった。ついていない時というのは本当についていないもので、風邪の具合も余り良くないので…と、講義を終えてすぐに大学を辞したのが禍した。
ずぶ濡れになった火村にびっくりして、大家である婆ちゃん---本名は、篠宮時絵さんという雅な名前の持ち主だ---がすぐに風呂を沸かしてくれたのだが、その時には時既に遅し。揚々の態で風呂を出た途端、急激に熱が上がり、倒れ込むようにして蒲団に潜り込む羽目に陥った。
頭痛と喉の痛みと関節の痛みにうんざりしながら熱を計ってみると、39度4分。脳味噌が沸騰しそうな熱の高さに、身体の怠さも助長される。不本意ながら翌日は全ての講義を休講にして、一日寝付くことになった。
だがそんな時に限って、妙に元気な奴というのはいるもので---。
「こんにちはぁ〜」
階下から響く聞き慣れた声に、火村はうつらうつらとしていた意識を覚醒させた。動かすのも億劫な腕を伸ばし、枕元の目覚ましを手に取ってみる。時間は、午後2時30分。どうやら食事も摂らずに、一日近くを寝て過ごしていたようだ。昨日のあの最悪の状態に比べれば、ずいぶんと楽になった。だが熱のためか、まだどこかぼんやりとした感覚が身体に残っている。
---チッ、俺としたことがざまぁねえぜ。
気怠い身体を持て余し、軽く寝返りをうつ。とその時、階下から再度「こんにちはぁ〜」という呑気な声が聞こえてきた。婆ちゃんは出掛けているのか、と重い身体を起こそうとした時、はんなりとした京都弁で返事が返ってくるのが聞こえた。ついで、パタパタと軽い足音が響く。一体なにをしに来たのかは知らないが、婆ちゃんがいるのなら放っておいても大丈夫だろう、と火村は再び枕に頭を乗せた。
階下に人のいる気配は、どこか懐かしい気分を呼び起こし、火村は再びうつらうつらと眠りに誘い込まれていった。◇◇◇ 「あらまぁ、有栖川さん。いらっしゃい」
奥の居間から姿を現した婆ちゃんに、アリスはぺこりと頭を下げた。婆ちゃんの足下には、雨で外に出られなくて退屈していたらしい猫達が、まるで先を争うようにしてこちらへと駆け寄ってくる姿があった。
「お久し振りです。ご無沙汰してます」
「ほんまやね、元気にしてはった?」
ニコニコと微笑みながらの問いかけに、アリスもニコリと笑みを作った。屈み込み、三和土の端へと寄ってきた猫達の頭を順番に撫でる。水分を含んだ毛並みは、いつも以上にしっとりとした感触を掌に伝えてきた。
「めっちゃ元気ですわ。昨日まで東京の方に行ってたんで、今日は土産持ってきました」
ニャアニャアと鳴きながら足下にまとわりつくウリとコォを両手で抱き抱えながら、アリスは明るい口調で言った。その言葉に、婆ちゃんは僅かに目を見開いた。
「あらまぁ…。てっきり火村さんのお見舞いに来はったんか、と思いましたわ」
「はっ…?」
思いがけない婆ちゃんの言葉に、アリスはきょとんとした表情を作った。
もしかして、今のは聞き間違いか…?
さもなくば、あの病原菌も裸足で逃げ出しそうな犯罪学者が、一体なんの病気にかかったんだ? そんな根性のある病原体がこの世に存在していただなんて、びっくりもいいとこじゃないか。
自慢じゃないが、病気といえばアリスの専売特許だ。風邪をひいたり、お腹を壊したり、インフルエンザにかかったりと、あれやこれやを季節ごとに律儀に煩っている。そしてそのたびごとに、見舞いに訪れた火村から「バカ」だの「間抜け」だの、病人に掛けるにはあるまじき言葉の数々をお見舞いされているのだ。
---その火村が病気やて?
これは、まさに千載一遇のチャンスというやつではなかろうか。ズキズキと痛む頭の上から容赦なく降ってくる罵詈雑言の数々を、火村に返す絶好の機会到来だ。これも、日頃の行いの良さがなせる業。表情は神妙に取り繕いながらも、アリスは心の中でこの好機に万歳三唱を叫びたいぐらいの浮かれた気分を味わっていた。
「火村の見舞いって、あいつどっか悪うしたんですか?」
「この気候やからね。風邪ひかはったんよ」
「風邪ですか…」
そりゃまた、ずいぶんと元気な風邪菌もいたものだ。火村に取り付くだなんて、今年の風邪はもしかしたら史上最強の風邪菌なのかもしれない。
「熱が高うて、昨日から大学休んで寝てはるわ」
婆ちゃんのはんなりとした口調を聞きながら、アリス「はぁ…」と曖昧な返事を返した。自分がこてんと寝付くことは儘あることだが、あの火村が大学を休んで寝付いているとなると、何だかちょっと心配になってくる。
「それやったら俺、ちょっと様子看てきます」
「そうしてやって。有栖川さんの顔見たら、火村さんも元気にならはるかもしれんし…」
踵を摺り合わせるようにして靴を脱ぐ私に、婆ちゃんがにっこりと笑いかけた。
「あっ、そうや」
両手に抱きかかえていたウリとコォを廊下に下ろし、アリスは背中のリュックから東京土産の包みを取りだした。婆ちゃんに土産を渡しにきたのに、思わぬ出来事に相対して訪問の第一目的を忘れるところだった。
「これ、東京の土産です。お茶受けにでも食べて下さい」
「いつもありがとう。火村さん見舞うたあとで、下に寄ってって。一緒にお茶にでもしましょう。もし時間あるんやったら、夕飯も一緒に食べてってぇな」
アリスが渡した包みを大事そうに胸に抱き、婆ちゃんは問いかけるように緩く首を傾げた。頭二つほど下にある婆ちゃんの顔を見つめ、アリスはゆっくりと頷いた。
「ありがとうございます。火村のとこに顔出したら、下に寄らせて貰います」
「ウリちゃん達も外に出られへんで退屈してはるから、遊んであげて」
「そうします。ウリ、コォ、桃。ほんなら、あとでな」
名残惜しそうにアリスの方を振り向きながら婆ちゃんのあとに付いていく猫達に、ヒラヒラと手を振る。一人と三匹の姿が襖の向こうに消えるのを見届け、アリスはくるりと踵を返した。腰に手を当てるようにして、階段の上を見上げる。シンとした静寂の広がる二階には、人のいる気配は微塵も感じられなかった。
ゆっくりとした足取りで階段を上がると、年月を経た板木がぎしりと音をたてる。それが妙に大きく聞こえて、アリスは殊更にゆっくりと階段を上っていった。
一番手前のドアの前に立ち、軽くノックする。そのままの体勢で暫く待ってみても、中からは何の返事も返ってこなかった。
「寝てんのかな…」
音をたてないようにそっとドアを開けると、暖かく湿った空気が頬を撫でた。ついで、嗅ぎ慣れた煙草の香りが鼻腔を掠める。
「おい、火村…。寝てんのか?」
囁くように声を掛けながら、アリスは部屋の中へと入っていった。閉め切った部屋の中で淀んだような空気に眉を寄せ、アリスは細く窓を開けた。ひんやりとした空気と雨の匂いが胸を満たし、アリスはホッと息をついた。
寝室にしている隣りの六畳間と居間とを隔てる襖を、そっと開ける。カーテンの引かれた部屋は薄暗く、淀んだ空気と一緒に時間までもが止まってるような感覚を覚えた。
部屋のど真ん中に敷かれた蒲団に横たわっている火村の枕元に、そっと膝をつく。そして眠っている火村を起こさないように、額に手を乗せた。掌にほんのりと伝わってくる暖かさに、アリスはホッと安堵の息をついた。薬が効いているのか、思ったほど熱は高くない。
---こっちも、少しだけ部屋の空気を入れ換えるか。
窓際に近寄りカーテンを開け、アリスは細く窓を開いた。しめやかな雨の音と一緒に、少し冷えた空気が流れ込んできた。
「---アリス?」
雨の音に紛れるように聞こえてきた声に、アリスはくるりと振り向いた。眩しそうに双眸を眇めた火村が、二度三度と瞬きを繰り返して、アリスの方へと視線を向けてくる。大股に歩み寄り、アリスは火村の枕元にペタリと座り込んだ。
「気分どうや?」
「昨日よりは随分いい…。それよりお前、いつ来たんだ?」
少し掠れた低い声に、アリスは僅かに眉を寄せた。
「ついさっきや。昨日東京から戻ってきたから、婆ちゃんに土産持ってきたんや。そしたら君が風邪やっていうから、びっくりしたで。鬼の攪乱もええとこやな、センセ」
「るせぇよ。報せてもいないのに見舞いに来るだなんて、都合の良い夢でなきゃありえないよな」
「何や、それ…。もしかして君、夢に見るほど俺に見舞いに来てほしかったんか?」
楽しげに笑いながらの台詞に、火村はさも嫌そうに渋面を作った。
「違うよ。さっきお前の声がしたから、それが夢かなって思ってたんだよ」
「なかなか苦しい言い訳やな、センセ。婆ちゃんに土産渡したあと大学にも行く予定で、君の分の土産も持ってきたんやけど…。喰えるか?」
「---喰う。昨日の昼間っから何にも喰ってねぇんで、腹空いてるんだ」
よっ、と声を掛けて、火村は半身を起こした。それを心配げに見つめ、アリスは火村の肩に綿のカーディガンを掛けてやった。
「おい、起きて大丈夫なんか?」
「ああ…。もう熱は下がってるんだ。それよりほれ、さっさと土産出せよ」
目の前ににゅっと伸ばされた手を、アリスはパシリと叩き落とした。いてぇな…と、火村が態とらしく掌を撫でる。
「何言うてんねん、病人が。腹が空いてるんなら、お粥とかのがええんと違うか? すぐに作るから、ちょお待ってろ」
そう言いながら立ち上がりかけたアリスのシャツの裾を、火村がぐいっと引っ張った。
「いらねぇ。お前の料理喰ったら、今度は腹壊しちまう。それより、土産だせよ」
「---ったく、口のへらん奴やな。病人なら病人らしく、もっと殊勝にせぇっちゅうねん」
ぶつぶつと文句を口にしながら、アリスはリュックの中から上品な和紙で包まれた土産を取りだした。「ほれ」とふてたような仕種で、それを火村の手の中に置く。ずしりとした重みを伝えてくる包みに、火村は僅かに眉を寄せた。
「何だ、こりゃ?」
「イチゴ大福」
「はぁ?」
今までにも東京土産と称して、アリスは何度もきてれつな物を買ってきていた。だがしかし、それらは一応『東京土産』と銘打っている品々ばかりだった。こんなどこででも手に入れることのできるイチゴ大福という代物は、アリスの土産物の意識からは随分とかけ離れているような気がする。
いやそれとも、食べ物に関してのアンテナは、鬼太郎の妖怪アンテナ以上に性能の良いアリスのことだ。もしかしたらどこぞの情報番組か情報誌から、『東京で一番美味しいイチゴ大福』なんていう情報を得て、早速試しに買ってきたのかもしれない。
「東京土産が、これかよ…」
どこかうんざりした口調の火村を見つめながら、アリスは頭を大きく左右に振った。
「ちゃう。それはさっき、ここ来る前に梅田で買うてきたんや」
「おい…」
微かに声を低め、睨みつけてきた火村を無視して、アリスはどこか自慢げに言葉を続けた。
「まぁまぁ…。ちょぉ、これ見てみ」
ひょい、とアリスが和紙の一部を指さす。言われるままに視線を移すと、そこには見慣れた文字が印刷されていた。
「---何だこりゃ、マジかよ」
アリスが笑いながら指さした場所には、『株式会社ありす』という社名が印刷されていた。まるで冗談のようなその社名に、火村は僅かに目を見開いた。
「な、おもろいやろ。朝井さんがそれに気付いて、俺に教えてくれたんや」
「確かにお前と同じ名だってのは面白いが、これちゃんと喰えんのか? お前と同じ名だと思うと、すっげぇ不安だぜ」
「失礼な奴やな。朝井さんが買うて食べたらしいけど、美味しいって言うてたで」
「ふぅん…。まっ、朝井さんが言うんなら大丈夫だな」
小憎らしい言葉を口にしながら、火村はガサガサと包みを開け始めた。包み紙を破り、長方形の箱を開ける。中には白くて真ん丸い大福が、行儀良く六つ並んでいた。
「へぇ、美味そうだな」
早速その一つを摘み上げ、火村は口元へと運んだ。興味津々という眼差しでその様子を見つめていたアリスは、火村が大福を飲み込むのを待ちかねるように訊いてきた。
「どや。美味いか?」
「ああ…。お前と同じ名の会社が作ったにしちゃ、美味いぜ。大福というよりは、もっと上品な感じだな。外側も餅というよりは牛皮みたいで、食感は和菓子に近いな」
二つ目の大福に手を伸ばした火村を見つめ、アリスはすくっと立ち上がった。
「お茶煎れてくるから、俺の分はちゃんと残しとってな」
「へいへい…」といういい加減な返事を聞きながら、アリスは台所へと向かった。
急いでお茶を煎れ、湯飲み茶碗を手に小走りに火村の方へと戻ってくる。もしかしたら無くなっているのでは、と心配したイチゴ大福は、ちゃんと三つ箱の中に残してあった。
それでは戴きます、とイチゴ大福に手を伸ばそうとした時、火村のバリトンがそれを止めた。
「おい、アリス」
「ん〜、何や?」
「土産」
「あっ?」
たったひと言呟かれた言葉に、アリスはきょとんとした表情を晒した。土産って、今渡したこれが--- 。
「お前、東京土産って言っただろうが。まさか、これのことじゃねぇよな」
じろりと睨みつけてくる視線を受け止め、アリスはポンと両手を打ち鳴らした。いかんいかん。イチゴ大福に気を取られて、すっかり忘れていた。
「すまん。渡すの忘れとったわ」
傍らに置いたリュックをガサゴサと漁り、アリスは賑やかなイラストの入った小さな紙袋を火村の目の前に置いた。それは、誰でも一度は見たことのある東京土産の定番。ディズニーランドの紙袋だった。それを見た火村が、嫌そうに顔を顰める。
「いやぁ、俺って先見の明があるのかもしれん。風邪ひいとる君にぴったりの土産やで、開けてみ」
イチゴ大福を摘みながらの台詞に、火村は胡乱な眼差しを注いだ。ニコニコと笑うアリスを胡散臭げに見つめ、紙袋の口を開ける。中に入っている物を引っ張り出し、火村は双眸を眇めた。透明なラッピングに包まれたそれは、有名なディズニーキャラクターの一つだ。
「…何だよ、これは」
「プーさんや。しかも、中に蜂蜜入ってんで。風邪ひきさんな君には、ぴったりのお土産やろ」
一個目の大福を早々と食べ終え、二個目の大福に手を伸ばそうとしていたアリスが、自慢げにそう口にした。それを横目に眺め、火村はフンと鼻を鳴らす。
「何だよ、お前。片桐さんに原稿を渡しに行く、とか言っていたくせして、その実ディズニーランドに遊びに行ってたのかよ」
不機嫌を滲ませた火村の口調に気付くことなく、アリスはご機嫌な調子でニッコリと微笑んだ。
「もちろん第一目的は、片桐さんに原稿を渡すことや。ディズニーランドはオプション。そん時偶然、当日券を片桐さんから貰うたんや。六月一日からエレクトリカルパレードも新しくなったって言うてたし、これは行かんとあかんかなぁ…って」
「それで片桐さんと二人で行ったのかよ」
憮然とした火村の言葉に、アリスは思わず腕をさすった。
「ディズニーランドに男二人やなんて、何サムイこと言うてんねん。見てみぃ、サブイボたってもぉたやないか」
アリスは腕をさすりながら、態とらしく身体を震わせてみせた。
「じゃ、一人で行ったのか?」
それはそれで随分サムイ光景だと思いながら、火村は訊いた。
「ハズレや。ちゃーんとカップルで行ったで」
得意げなアリスの言葉に、火村はぴくりと眉を上げた。それをアリスに気付かせないように、勤めてさりげなく訊く。
「へぇ…、お前とディズニーランドに行ってくれるような奇特な人間がいたのか?」
「当然や。---と言いたいところやけど、相手は取材やねん。坂本さんていうて、片桐さんの前に俺の担当をやっててくれた人が、今情報誌の編集部にいてるんや。そんで坂本さんの取材も兼ねて二人でディズニーランドに行ったんやけど、いやぁー楽しかったわ」
嬉しそうにその時の話を披露するアリスに、火村は眉を寄せた。自分が風邪をひいてダウンしていた時に、アリスが女と遊んでいたのかと思うと、むかつく気持ちが抑えられない。しかも、それを楽しげに披露してくれるのだから尚更だ。
「おい、アリス」
エレクトリカルパレードの美しさをとくとくと語っていたアリスが、火村の声にふいと視線を上げた。
「アリス、風邪にびったりな土産なら、プーさんじゃなくもっと別のもんがあるだろうが」
唐突な火村の言葉に、アリスは首を傾げた。頭の中を色々な物が過ぎっていくが、これといった物は思いつかない。「それは一体なんだ」と眼差しで問いかけるアリスを、火村はチョイチョイと人差し指を折って呼んだ。
手にしていた大福を箱の中に戻し、火村の方へと身を寄せる。その瞬間、思いも寄らぬ力でぐいっと引き寄せられた。発しようとした抗議の声は、火村の唇に縫い止められる。貪るような接吻にいいかげん息が上がりそうになった時、ペロリと軽く唇を嘗められて突然なそれは不意に終わりを告げた。
「な、何すんねんド阿呆」
手の甲で唇を拭い、アリスは声を上げた。真っ直ぐに睨みつける視線の先で、火村がニヤリと口許に笑みを刻む。
「何言ってんだ、アリス。風邪にぴったりな土産を貰っただけだろう」
「アホか。何でキスすんのが、風邪にぴったりの土産なんや」
噛みつかんばかりの勢いで怒鳴りつけるアリスの目の前で、火村は立てた人差し指を左右に振った。
「風邪は他人にうつすと直るって言うしな」
「な…」
抗議の言葉を口にしようとしても、あまりなことに上手い言葉が出てこない。むかつく思いだけが空回りして、アリスは酸素不足の金魚のようにパクパクと口唇だけを動かした。それを横目に眺め、火村は白々しい台詞を口にする。
「そういや、汗をかくってのも良いんだよな」
「えっ…」
ちょっと待て、と思った時には、強い腕で引かれ火村の腕の中に倒れ込んでいた。視界に写るのは、男前の顔と見慣れた天井。
「俺の風邪が早く治るように協力してくれるよな、アリス」
鼓膜を震わせる掠れたバリトンに、アリスは今日ここに顔を出した己の間の悪さを呪った。
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