Vanilla essenceはお好き!?
  -Side Alice- <3>

鳴海璃生 




−2−

 梅田にある数々のデパートの中でも、阪神デパートの食料品売り場の充実度は日本一だ、と常々私は思っていた。今日も今日とて売り場には元気なおばちゃん達が溢れ、ああ…うんざりする。
 おまけに天使が与えてくれた幸運か、それとも悪魔が微笑んだ不幸の結果なのかは良く判らないが、偶然にも特売日と夕方のタイムサービスが見事にふち当たり、辺りを飛び交う威勢のいい売り子の声と共に、いつにも増して場の活気は盛り上がっていた。普段の私ならこの場の喧噪に触れただけで即Uターンしてしまうのだが、今日はそういうわけにはいかない。美味しい御飯を食べるためには、それなりの労働も惜しんではいけないのだ。
 ---負けるなアリス。
 己を一喝して、私は怯みそうになる足を一歩踏み出した。途端、両手にでかい袋を三つも四つも抱えた体格のいいおばちゃんが、小錦並みの体当たりでもってぶつかってきた。反動でもってはじき飛ばされ、あれよあれよと言う間にあっちにぶつかりこっちにぶつかりで、人混みにもみくちゃにされる。もともと人混みの中を歩くのが余り得意ではない私は、流れに押されるまま抵抗の術さえない。
 もちろん何とか踏みとどまろうと、私は私なりに努力はしているのだ。が、安売り商品にかけるおばちゃん達のパワーの前には、私の儚い抵抗などまるで効きはしない。ぎゅうぎゅうと押され、あちらへこちらへと人並みを漂う私の気分は、まるで波間をゆらゆらと漂う昆布のようだ。
 ---俺の行きたいのは、こっちとちゃうッ!
 そう心の中で叫んでみても、何の役にも立たない。いつもならそんな私を救い上げてくれる腕は、今日は傍らに無い。そうして流されるままに行き着いたのは、鍋とは何の関係もないチーズ売り場だった。せっかくここまで流されたんだから、つまみの一つでも買っていこうか---なんて気は、これっぽっちも起こらない。
 たったの数分間の出来事のせいで、まるで鉛を詰め込んだかのように身体が重い。どっぷりと疲れた私は、この場に座り込みそうになる足を必死で励ました。空腹を抱えたままで、このおばちゃんパワーに対抗するには限界がある。このままでは鍋の材料の買い出しなど夢のまた夢だ、と懸命にも悟った私は、取り敢えずの鋭気を養うべくイカ焼き売り場を目指すことにした。
 阪神デパート名物のスナックコーナーは、いつもなら何をおいても真っ先に足を向ける場所なのだが、今日は空腹の割りには何となく食欲がなくて足が向かなかったのだ。
 フゥ〜と大きく深呼吸をして覚悟を決めた私は、再度おばちゃんの波へと足を踏み入れた。果たして無事イカ焼きの売り場まで辿り着けるかどうかは、私自身の意志とはまるで関係のないおばちゃん達に掛かっている。
 ---頑張るんやで、アリス。
 自らを叱咤激励し、私はふらふらとおばちゃんの波の中を漂った。そうして流されること十数分、漸く私は目的のイカ焼き売り場へと辿り着くことができた。普段なら五分も掛からず辿り着くことのできる距離に、倍以上の時間が掛かるなんて…。大阪の街を支えているのは、きっとこんなおばちゃん達のパワーなのだと、改めて実感する。
 イカ焼きの売り場は、相変わらずの行列で賑わっていた。ここに来るまでに身体中の力をおばちゃん達に吸い取られた私は、この列に並ぶのさえ億劫な気がした。イカ焼きの芳ばしい匂いが鼻腔を掠めるが、それにさえ遅々として食欲は刺激されない。---かといって、お腹が空いていないわけでもないのだ。おまけにさっきから何となくズキズキと頭が痛い気がするのは、きっとあの人混みのせいだろう。
「とにかく何か腹に入れんと、あの中には戻れへんわ…」
 溜め息と共に小さく呟いて、私はイカ焼きを待つ人の列へと並んだ。ぼんやりと列に並んでいる間、とりとめのないことが頭の中を過ぎる。初めて片桐さんをここに連れてきた時のこととか、京都在住の先輩作家を訪ねる折り、土産にここのイカ焼きを指定されたこととか---。
 ---見掛けは美人やのに、朝井さんはこういうもんが偉い好きやからなぁ。あっ、そういえば片桐さんはイカ焼きのこと知らんかったんや。
 初めて片桐さんをここに連れてきたのは、もう数年も前のことになる。確か片桐さんが私の担当になって二、三ヶ月経った頃で、互いの気心もそれとなく知れあってきた頃のことだ。副編集長の塩谷さんに頼まれた物があるとかで、帰り際梅田に寄るという片桐さんを案内した時のことだった。
「せっかくここまで来たんやから、イカ焼きでも喰うて行きましょう」
 そう言った私に、片桐さんが怪訝な表情を見せたのだ。今日のような長い列に並んで買ってきたイカ焼きを、片桐さんの目の前に差し出した時、彼は僅かに驚いたように双眸を見開いた。おずおずというように湯気の出るイカ焼きを口に放り込み、ゆっくりとイカ焼きを噛んだ片桐さんが「へぇ、美味しいですね」とにっこり笑ったのは、まだ記憶に新しい。
 その時はそれで別れた。だが後日、私の言ったイカ焼きを祭りの屋台で売っているイカの焼いたやつだと誤解し、何で梅田まで来てそんな物を食べる必要があるんだと不思議に思った、と片桐さんから聴かされ、今度は逆に私の方が驚いてしまった。いや確かに片桐さんの言うあれもイカ焼きには違いないんだが、大阪生まれ大阪育ちの私にとっては、イカ焼きといえば阪神デパートのこれが真っ先に頭に浮かぶ。狭い狭いと思っている日本も結構広いのだ、と思い知った一瞬だった。
 ---そういえば、火村も知らんかったんや。
 大学時代初めて火村をここに連れてきた時、火村の奴も片桐さんと同じような反応を示していたことを思い出す。その二人も、今ではすっかりここのイカ焼きが気に入っている。もっとも火村の場合は、猫舌のおかげで何パーセントかをさっ引いた美味しさしか味わえないのだろうが…。つくづく哀れな奴だ。
 列に並ぶ手持ち無沙汰に、そんなことをつらつらと思い出している内に、私の順番が回ってきた。私の前には十人近くの人が並んでいたのだが、その割りにはあっと言う間にゴールまで行き着いてしまった。味や値段の安さだけではなく、回転の速さもここの売りの一つなのだ。
 ---何にしようかな?
 少しだけ考えて、私は普通のイカ焼きを頼んだ。これ以外にも卵の入ったやつとか和風のやつとか、種類はいくつか用意されている。普段の私なら、それらを取り合わせて二個ぐらいは平気で食べたりすることもある。しかし今日は今ひとつ食欲が無い私は、もっとも無難な物を一つ頼んだ。イカ焼きの入ったホカホカの入れ物を渡され、私は列から離れ隅へと移動した。
 湯気のたつイカ焼きをひと欠片口の中へと放り込み、私は微かに眉を寄せた。いつもだったらその美味しさにほにゃりと頬が緩むのだが、何となく今日は今ひとつ---。もちろんイカ焼き自体が不味いというわけではない。味はいつもと変わりがないのだけれど、何か舌に馴染まないというか…。ここ暫くまともな物を食べていなかったから、私の味覚がどこか麻痺しているのかもしれない。
 ---せっかくの鍋も、こんな不味う感じたら嫌やな。
 冷めかけたイカ焼きを缶のウーロン茶で流し込んで、私はホッと息をついた。鉛を詰めたような身体中の重さは相変わらずだ。指を動かすのも怠くて、何となく節々が痛むような気もする。頭の中では血の流れが一際大きくこだまし、その音に合わせるかのようにズキズキとした痛みが頭蓋骨に反響する。
 ---あかん。こんなとこに座っとる場合やない。鍋や鍋。
 座り込んだまま立ち上がることを拒否する足を宥め、私は漸くの思いで立ち上がった。片手に持ったイカ焼きの皿とウーロン茶の缶をゴミ箱に放り投げ、鍋の材料を手に入れるため再び人混みの中へと踏み込んだ。

◇◇◇

「ただいまぁ〜」
 やっとの思いで重い鉄の扉を引き明け、私は倒れ込むように部屋の中に入った。体調の悪さは最低最悪で、ズキズキと頭は痛むし、同時にムカムカと吐き気までしてきた。そんなに寒いわけでもないのに、身体中がゾクゾクと震える。鉛を詰め込んだような身体の重さはピークに達し、何てことはない食料品の入った袋でさえも、まるで鉄の錘のようだ。
「あかん、やっぱ寝不足が堪えてるんやわ」
 幾ら人混みが苦手とはいえ、普段ならここまで参ることはない。やっぱりあの食品売り場の熱気に対抗するには、寝不足と栄養不足の身体では無茶を通り越して無謀だったようだ。
 きっとこの身体の怠さは、熱気にあてられ、活気溢れるおばちゃん達に思いっきりパワーを吸い取られた結果に違いない。人混みの中を漂うようにふらふらと流されながら、私には頭の天辺からヒョロヒョロと抜け出たエクトプラズムが、そこらのおばちゃん達に吸い込まれていく様子がはっきりと見えたような気さえした。
「だめや。少し休も…」
 両手に持っていたシャリシャリ袋を玄関の廊下に置き、私は壁に寄りかかるようにしてリビングへと向かった。袋の中に入っている生鮮食料品の数々が気にならないわけでも無かったが、それよりも何よりも今は身体を横たえたかった。二、三時間眠ればこの怠さも良くなるだろうし、その程度の時間放置していたからといって中の物が駄目になるということはないだろう。
 最後の気力を振り絞るようにして何とかリビングまで辿り着いた私は、崩れ込むようにソファに倒れ込んだ。眼を閉じた途端、暗い眠りへと誘い込まれていく。それが最後の記憶だった。
「う〜ん…」
 ムカムカする吐き気と、寒いのに、でも暑苦しい不快な感覚を持て余し、私はごろんと寝返りをうった。間違いなく私は眠っているはずなのに、どこか意識の一部が目覚めているような感覚に眉を寄せる。その起きている部分が頭の痛みや吐き気や寒気、そういった様々に異なる不快のごった煮感覚を、懇切丁寧に余すことなく私に伝えてくるのだ。
 ---眠ってしまえば楽なのに…。
 頭のどこかでそう思っている私がいる。ぼんやりとした意識はどこまでが夢で、どこからが現実なのか良く判らない。気持ちが悪くて、苦しくて、寒くて、暑くて---。誰でもいいから、この状態を何とかしてほしかった。
 苦しさから逃れるようにごろんごろんと何度か寝返りをうっていると、霞んだ世界の向こう側から小さな音が聞こえてきた。それは良く知っている音だ、と私の意識が認識する。だが、一番肝心なこと。どうすればその音を止められるかが、今の私にはぜんぜん判らないのだ。そんなに大きな音でもないのに、それは私の神経に嫌になるぐらい引っ掛かる。
 ---誰か、あの音を止めてくれ。
 そう頭の中で呟いた時、まるで私の声が聞こえたかのように遠くから響く微かな音が唐突に止まった。ホッと安堵の息をつき、私は再び眠りの底に沈み込もうとする。が、いくら眠ろうと思っても、何故か私の意識の一部分は目を覚ましたままなのだ。
 そうしてどれくらいの時間を過ごしたのか。一度止んだはずの音が、また意識の中にこだましてきた。しかも今度はさっきよりも大きな音で、だ。
「煩いッ!」
 声を上げ、私は何とかその音から逃れるようと、手探りで毛布を探す。頭からそれを被れば、この音が小さくなるような気がしたのだ。なのに、そこら中パタパタと手を彷徨わせてみても、指先には何も触れはしない。
 遠くから響く音は、相変わらず意識の中を行ったり来たりしている。それが苦しくて、気持ち悪くて仕方がない。毛布を探すことを諦めた私は、ごろんと横向きに体勢を変え、膝を抱えて子供のように身体を丸くした。そうすれば、少しだけでもこの苦しさから逃れられるような気がした。
 何度かしつこく鳴り響いていた音が止まり、代わりにパタンと何かが開いたような音がした。それに続いて、ゆったりとした足音が徐々にこちらに近づいてくる。誰か人が入ってきたような気配。警戒心よりも先に、私はこの部屋に自分以外の誰かがいることにホッと安堵した。
「しょーがねぇな…」
 低いバリトンの声。
 膚に馴染むくらい、とっても良く知っている気配。
 遠くでガサゴソと人の動き廻る音がする。自分以外の他人がこの部屋にいるということが、こんなに安心するものだとは思わなかった。身を襲う苦しさは相変わらずだったが、それでも身体のどこかでホッとしていた。
「アリス!」
 漸く眠れるかもしれない…と思ったその時、誰かが私の名を呼んだ。ついで、額に触れる冷たい掌の感触。ほんわりと暖かい何かに包まれ、そっと抱き上げられる感覚に、私はゆっくりと目蓋を上げた。
「あ、火村やぁ」
 眉を寄せた男前の顔が、どこか怒っているように私を見つめている。夢にしてはやけにリアルで、でも現実にしてはどこか危うい。
 ---ああ、もうどっちでもええわ。
 今私の目の前にいるこの男が夢でも現実でも、もうどっちでも構わなかった。とにかく火村がここにいるんだ、とそう思うだけで、身体中の力が抜け落ちていくような安心感に包まれる。一人でいる時はずって目覚めていたような意識が、もう大丈夫だよ、と告げる。安心してもう眠ってもいいんだよと、そっと囁かれたような気がした。
 耳元で小さく響く鼓動にふわりと微笑むと、目の前の顔が辛そうに歪んだ。そんな顔をしてもやっぱり男前だ、と思う。自分自身それほど面食いだとは思わないけれど、火村の顔だけは特別だと思う。
 ---やっぱ好きやなぁ。
 ぼんやりとそう思っていた時、低い囁くような声が耳朶を掠めた。
「気が付いたか?」
 夢が喋るなんてできすぎやなぁ…、と思う。でも声の中に潜む心配するような様子や不器用な優しさが、妙にくすぐったくて嬉しかった。もっとずっとこの声を聴いていたくて、私は絞り出すようにして声を出した。
「うん? 何や気持ち悪い…」
「もう少し我慢してろ。それより一番近い病院はどこだ?」
 病院…?
 夢の中の火村の言葉を頭の中で繰り返す。
 ---元気そうなのに、どこか悪いんか、こいつ。
 病気といっても、どこか今ひとつピンとこない。歯医者とか内科なんてのは、この男に似合わないこと甚だしい。だいいちこいつに取り付くほど根性のある病原菌なんて、果たしてこの世にいるんだろうか。火村のことだ。もし病院に用があるというのなら、それはたぶん外科とか形成外科ってとこじゃないだろうか。それとも漸く変態を治す気になったとか…。
 ---やったら精神科かいな。
 何か違う、と思いながらも霞みの掛かった頭の中で、病院の場所を検索してみる。が、これといった病院が頭の中に浮かび上がってこなかった。
「---確か…」
 頭の中同様ぼんやりとした口調で呟く私に、火村は小さく溜め息をついた。
「…もういい、寝てろ」
「ん」
 正直に言えば、この状態で考え事をするのは辛かったのだ。低い火村の声に微笑んで、私はゆっくりと双眸を閉じた。
 そこから先はどこからが夢で、どこまでが現実なのか判然としない。寒くて、でも頭だけは熱くて、吐く息にさえ熱が籠もっているような気がした。
 時折襲ってくる苦しさに耐えきれずに目を開けると、いつも視線の先に火村の顔があった。どこか怒っているような仏頂面。カサカサの唇で小さく名を呼ぶと、男前の顔が辛そうに歪められる。
 ---へんやなぁ…。
 苦しいのも辛いのも私のはずなのに、何故か火村の方が辛そうに見える。
 ---ああ、そうや。いつもそうなんや。
 笑っている顔も怒っている顔も、飽きるぐらい色んな表情を見ているのに、知っているはずなのに、私の思い出す火村の顔はいつもこんな仏頂面か辛そうな顔をしている。
 ---ううん、ちゃうわ。
 ぼんやりとした意識の中でそう思う。いつもいつも最初に思い出すのは、初めて会った時のあの横顔---。
 皺くちゃの白いシャツ。固そうな黒い髪。唇を辿る指先。
 モノトーンの世界の中で、そこだけが色を放っているような鮮やかな印象。
 時間が経てば経つほど、思い出は褪せることなく、より一層鮮やかに色を増す。思い出すたび恥ずかしくて、くすぐったくて、幸せな気分になる。きっとそれは、最後の一瞬まで変わらない。
「火‥村…」
 伸ばした指先に触れた温もりにホッと息をついて、私は再び眠りに落ちた。


to be continued




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