鳴海璃生
−3− 「大バカ」
巷で大流行の風邪をひきこみ、二週間の闘病生活と一週間のリハビリと、ついで床上げの儀式を終え、漸く人間の生活に戻った私は、寝込んでいた間看病してくれた火村に礼をしに、大阪から土産を手にわざわざ京都までやってきた。その私を見た途端の火村の第一声が、これである。京都駅からぐるりと遠回りをして河原町まで行って、礼代わりにと《さふらん》のプリンを買って来てやったってのに…。一体何なんだ、この出迎えの言葉は。
寄り道した《さふらん》のマスターに「久し振りやなぁ…」と、コーヒーとシュークリームをご馳走して貰ってめちゃくちゃハッピーな気分だったのに---。今のひと言で、そんな気分も一千万光年の彼方にぶっ飛んでしまったじゃないか。
本やメモの類が山を為すテーブルの空いた場所に紫色のサフランの花が描かれた白い箱を置き、私はどさりと乱暴にソファに腰を下ろした。
「バカってのは、何なんや一体。失礼にもほどがあるで」
「バカだから、バカって言ったんだろうが。お前の不注意のせいで、俺が一体どんだけ迷惑被ったと思ってるんだ。このお・お・バ・カ」
最後のひと言を区切るように態とゆっくり口にした火村は、短くなったキャメルを灰皿で揉み潰した。そして、あからさまに見下ろすような視線を送ってくる。その露骨な視線に、私はムッとしたように眉を寄せた。
そりゃ確かにあれやこれやと色々看病して貰ったし、夕陽丘の私のマンションから大学に通わせたりもした。だがここまで「バカ、バカ」と連発される覚えは、これっぽっちもない。せっかく感謝の気持ちを表そうと、穏やかな気持ちでやってきたってのに---。何でそれを、この男は無碍に踏みつぶすような真似をするんだ。
「そんなに何度も繰り返すな、アホ。だいたい君はそう言うけどな、俺が風邪ひいた原因は君やないか」
新しい煙草に火をつけようとしていた火村が、私の言葉を聞き咎めたように双眸を眇める。
「何だ、アリス。今ずいぶんと面白い事をぬかしたじゃねぇか、てめぇ」
「面白い事やあらへん。俺は、事実を事実のままに伝えただけやもん」
睨みつける視線を真っ直ぐに睨み返し、私は負けじと顎を反らした。眇められた火村の視線が、私の言葉にすっと細くなる。それはまるで獲物を前にした肉食獣のようで、私はごくりと小さく息を飲んだ。
---あかん。ここで怯んだら負けや。
「よぉく判った。俺は寛大で公正な人間だからな、お前の戯れ言もちゃんと聴いてやる。遠慮なく話せよ、センセ」
フンと鼻を鳴らし、火村はキャメルを口にくわえた。その様子を眺め、私は大袈裟に肩を竦めてみせた。何が寛大で公正な人間だ。そんな出来た人間が、そんな横柄な態度とるかい。
最高学府の助教授なんて地位にありながら、この男は時として日本語の用法を間違えることがある。曲がりなりにも小説家の肩書きを持つ私は、友人の間違いを正すべく、私が風邪なんぞをひきこむ羽目に陥った理由を懇切丁寧に教えてやることにした。
「ええか、火村。俺が一体なんで風邪なんてひいたと思うんや?」
「原稿明けの惚けた頭で梅田なんかに出掛けたせいだろ。おまけに冬の真っ盛りだってのに、ずいぶんな薄着で出掛けたそうじゃねぇか」
嫌味でコーティングされた言葉に、私はゴホンと一つ咳をした。そりゃ確かに薄着で出掛けたりもしたけれど、あの日は冬とは思えないぐらい暖かかったのだ。それに、そのあと梅田の人混みで思いっきり汗をかいて、余りの暑さに上着を脱いだまま外に出たのも、不幸といえば不幸すぎる程の偶然だ。いや、第一そんな些細な出来事より、私が風邪をひく羽目に陥ったもっと大きな原因が別にあるじゃないか。
「まっ、確かにそんな事もあったかもしれん。でも、やな。俺が風邪ひいた一番の原因は、間違いなく君や」
男前の顔前にぴしりと人差し指を突きつけると、火村がさも嫌そうに眉を顰めた。そして天井に向かって紫煙を吐きながら、視線で話の先を促す。
「だいたいやなぁ、一体何で俺が梅田くんだりまで買い物に行ったと思うてるんや。全部、君が来るからやないか。京都から大阪まで来るってのに、そのうえ買い物まで行くんじゃたいへんやろう…って思うたから、俺は君が来る前に君の代わりに買い物に行ってやったんやで。原稿明けで疲れてるにも拘わらず、や。そりゃ、ちょこっと薄着で出掛けたかもしれん。でもそれは、その日が良い天気で暖かそうに思えたからや。阪神デパートの特売日やインフルエンザの流行は、絶対に俺のせいやあらへん。完璧に不可抗力ちゅうもんや。せやって、そうやろ? 俺がわざわざ狙って行ったわけやあらへんもん。---となれば、ほぉら見ぃや。俺が風邪ひいたんは、君のために買い物に出たせいやないか」
何か文句あるか、とでも言うように私は胸を張ってみせた。キャメルを指に挟んだまま私の言葉を唖然とした様子で聴いていた火村は、私の言葉が終わるや否やうんざりしたように溜め息をついた。
---何言ってやがる。確かにアリスの顔を見に行くとは言ったが、買い物に行くなんてオプションはその中に入っちゃいなかったはずだぜ。
ついでにいうと、当然その後に続くだろう夕食を作るという行為もだ。餌付けしたのは間違いなく火村自身なので、今さら言っても繰り言でしかない。だが、どうやらアリスの中では火村がアリスの部屋に行くということ自体、既に食事を作るだの買い物に行くだのという言葉と一体になってしまっているらしい。
「あのな、お前。もし俺がお前のために買い物に行って、そのせいで風邪をひいても同じ台詞が言えんのかよ」
やれやれという風に訊いてきた火村に、私はきょとんとした表情を作った。何言ってんだ、こいつ。アホちゃうか。
「そんなん、何で俺のせいなんや? 唯の間抜けやないか。君のファンの女子大生達が聴いたら、嘆くでセンセ。それにやな、君んとこの学生が迷惑するだけやろ? 大学でセンセしてるんやから、体調管理も仕事の内やないんか。社会人としての自覚が足りへんで、君」
私の台詞に火村ががっくりと頭を垂れた。私のありがたい忠告に、少しは反省する気になったらしい。傍若無人を絵に描いたような火村先生にしては、なかなか殊勝な心掛けやないか。こんな状態の火村を見ていると、さっきちょっとだけムッとして、分けてやるのは止めようか…って気になった《さふらん》のプリンも、食べさせてやってもいいかな…って気になってくる。まぁ、火村も反省しているようだし、これぐらいで許してやるか。
何となく気分の良くなった私は、ゴミ溜めのような机の上で頭を抱え込んでいる火村にニッコリと笑いかけた。
「なぁ、火村。それより、これ食べよう。せっかく河原町で買って来たんやから」
せっかく冷えているのに、生暖かくなったら美味しさも半減ではないか。持参した白い箱を指差す私を見つめ、火村が口許に苦笑を刻む。
「そうだな。珍しく有栖川先生が手土産付きでやってきたんだ。ありがたく戴くとするか」
指に挟んだままだったキャメルを灰皿に投げ捨て、火村はコーヒーを淹れるために席を立った。ちょうどその時、まるでその瞬間を待っていたかのように机の上の電話が軽やかに鳴り始めた。その音に振り向き、火村は僅かに眉を寄せる。一瞬立ち止まった後、火村はコーヒーセットを置いたキャビネットへと再び歩き出した。
電話は相変わらず鳴り続けている。だが当の火村自身は、その音に頓着する素振りなど欠片もない。却って私の方が焦ってしまい、キョトキョトと火村と鳴り続ける電話機に視線を彷徨わせた。
「おい、電話やで」
困ったように声を掛けた私に、火村はゆっくりと振り返り、電話の音など存在しないかのような平然とした表情で口唇の端を上げた。
「いいんだよ。どうせ内線なんだから」
そう言われても、「はい、そうですか」と納得できるわけがない。ましてや鳴り続ける電話の音が、気にならないはずがないではないか。だからといって、火村の代わりに私が取るわけにはいかないし---。おろおろと視線を彷徨わせる私の耳朶を、電話の合間を縫うように小さな舌打ちの音が掠めていった。
いつの間にか机の方へと戻ってきていた火村が、忌々しげに電話機をひと睨みした後、乱暴な仕種で受話器を取った。鳴りやんだ呼び出し音に、私はホッと安堵の息をつく。
「はい、火村です」
不機嫌な火村の声が狭い研究室に響く。電話の相手は判らないが、火村にとっては余り歓迎すべき相手ではないらしい。押し問答のようないくらかの遣り取りの後、火村は渋々というように承諾の返事を返し、受話器を置いた。
「どうしたんや?」
訊ねた私に、火村が大袈裟に肩を竦めてみせる。
「教授に呼ばれた。入試のヒアリングだとさ。悪いが、少し行ってくる」
「ふ〜ん、そうか。大学のセンセも色々とたいへんなんやな」
日頃の火村を見る限り、大学の先生なんて先生の中でも一番気楽な商売に違いない、と思っていたのだが、どうやらそういう訳でもないらしい。小さく溜め息をつき、私は白い箱に掛けていた手を膝に戻した。そんな私の様子は、余程がっくりしているように火村には見えたらしい。火村が小さく苦笑を漏らす。
「先に喰ってていいぞ、アリス。コーヒーは淹れておいてやる」
「うん、ありがと。でも、いい。待ってる。せっかくのバニラの香りが無くなってしまうやろうから」
火村の魅力的な申し出に、私は笑って返事を返した。《さふらん》のプリンはとっても名残惜しいが、一人で食べるよりは絶対に二人で食べた方が美味しいに決まってる。
「すぐ戻ってくるから」
そう言い置いて、火村は研究室をあとにした。to be continued
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