Vanilla essenceはお好き!?
  -Side Alice- <5>

鳴海璃生 




−4−

 パタンと小さな音がして扉が閉じた途端、私はぱったりとテーブルに張り付いた。そうと意識したつもりはないのに、やたらと大きな溜め息が口から漏れる。
「あーあ。めっちゃタイミング悪いわ」
 せっかくプリンにありつけると思ったのに、余りのタイミングの悪さに力が抜ける。《さふらん》でコーヒーとシュークリームをご馳走して貰った時は、今日はめっちゃくちゃついてる、と思ったものだが、どうやらそれは私の期待薄だったようだ。
「火村、はよ帰ってこい。プリン不味うなってしまうぞ」
 机に張り付いたままぶつぶつと呟いていた私の耳に、微かなノックの音が響いてきた。もしかして火村が帰ってきたのだろうか、と慌てて顔を上げる。が、よくよく考えてみたら、自分の城ともいうべきこの部屋に戻ってくるのに、火村がノックなんぞという行儀の良い真似をするわけが無かった。
 ---一体誰や?
 訝しむように眉を寄せた私の目の前で、ゆっくりとドアが開いた。そこには、明るいオレンジ色のセーターと細身の黒いジーンズに身を包んだ女の子が立っていた。
「あ、あのぉ…」
 予期しなかった見知らぬ人間の存在に、入り口に佇む女の子が困ったように首を傾げる。セーターと同色のリボンで緩く纏められた髪が、ふわりと揺れた。
「えっとぉ、もしかして火村の生徒さん? 火村やったら、今ちょっと出てていてへんけど、でもすぐ戻ると思うから中で待っとったら?」
 私の言葉にもはかばかしい反応は返ってこない。そんなに驚かせるようなことを言った覚えも、またやった覚えもないのに、女の子はドア口に佇んだまま一歩も動こうとはしない。
 ---う〜ん、困った。
 もともと女の子の扱いにはそう慣れている方じゃない。だいたい周りにこんな若い女の子がおいそれといる環境ではないから、それはそれで仕方ないことなのだ。だがこういう場面に直面するたび、女嫌いと豪語する火村のあの女あしらいの巧さが妙に羨ましくなる。
 ---ええい、火村のドアホ。さっさと戻ってこんかい。
 意味のない八つ当たりを不在の部屋の主へとぶちまけていた時、ドア口に立つ女の子が恐る恐るというように口を開いた。
「あのぉ、もしかして火村先生のお知り合いですか?」
 その言葉に、自分のことを言うのをすっかり忘れていたことに思い至った。そりゃ確かに、見も知らぬ人物がいる場所じゃ警戒もするわな。
「あっ、ごめん。俺は有栖川いうて、火村とは学生時代からの友人なんや。別に怪しいもんやあらへんよ」
 女の子は警戒心が緩んだかのようにクスリと笑い、ついでペコリと頭を下げた。
「ごめんなさい。失礼しました。私は加藤美也子っていいます。今、社会学部の3回生です。火村先生に質問があって来たんですけど…」
 ぐるりと部屋の中を見渡すように視線を巡らせ、加藤と名乗った女子大生はがっかりしたように溜め息を漏らした。
「今、教授に呼ばれて出て行ってるんや。でもすぐ戻ってくるて言うとったから、ここで待っとったらええよ」
 どうぞ、と言うように、目の前の椅子を指し示してやる。ドア口に佇んだままの加藤美也子は、どうしようか…と迷ったように緩く小首を傾た。やがて漸く決心がついたのか、滑るような歩調で中へと入ってきた。
「失礼します」
 カタンと軽い音をたて、向かい側の椅子に座る。ここ数年、若い女の子と二人になるなどという経験が皆無に近い私は、一体何を話題にしたらいいのか、とんと見当がつかない。でも何か喋らねばと、頭の中で知っている限りの話題をこねくり回した。
「あら」
 不意に響いたソプラノの声に、私は視線を目の前の女子大生に移した。私の視線を感じ僅かに頬を染めた加藤美也子は、恥ずかしそうに小さく肩を揺らした。
「どうかしたん?」
 私の質問に緩く頭を振る。そのたびに真っ直ぐな髪が、サラサラと音をたてているような気がした。
「あっ、ごめんなさい。《さふらん》の箱が置いてあったから、ちょっとびっくりして…」
「あれ? 加藤さんも《さふらん》知っとるん?」
 何を莫迦な質問を、とお思いの方もいることだろう。だが、これには確固たる理由がある。確かに《さふらん》は知る人ぞ知る老舗の洋菓子屋兼喫茶店なのだが、普通の人にはそれと判らぬ店構えをしているのだ。
 河原町の表通りからは一本中に入った奥まった場所にあって、おまけに店の外にはそれと判る看板が出ているわけでもない。そのうえ店の造りといえば、極々普通の民家で、だいいち喫茶店なのに店の扉がガラガラと引き開ける格子のガラス戸なんて店は、世界中探したってきっとここだけに違いない。
「ええ、知ってます。だって私、京都生まれの京都育ちやから。あのお店、うちのお婆ちゃんの代からの行きつけなんですよ」
 ニコニコと笑う女の子に妙な親近感を覚え、途端に私の口も軽くなる。
「へぇ、ほんま。せやったら加藤さんもプリンとシュークリームのファンなん? 俺は、あそこのプリンとシュークリームは絶品やって思うてるんやけど…」
「あっ、私も。もうめちゃくちゃ美味しいんですよね。あそこの食べたら、他のなんてよう食べられへんもん」
 思わず「同志!」と手を握りたいような衝動にかられ、私は目の前の箱をそっと開けた。中にはちょこんと並んだ黄色いプリンが二個、寄り添うように鎮座ましましていた。箱の中からは、ふわりとバニラの香りが漂ってくる。
「せやったら、これ食べへん?」
 中から一個を取り出し、加藤美也子の前に置く。もう一個は当然私の前だ。
「あっ、でも、これ火村先生へのお土産じゃないんですか?」
 当惑したような表情に、私はにっこりと微笑んだ。まぁ、確かに火村への手土産のつもりで買ってきた物だが、私とは違い火村自身がそれ程このプリンに固執しているわけじゃないことは良く知っている。ここで彼女が火村の分のプリンを食べたからといって、一体何の不都合があろうか。それにどうせだったら、こういう物は火村と食べるよりは可愛い女の子と食べた方が、ずっと美味しいに決まってるじゃないか。
「構へんよ。買うて来たのは俺やし。それに、火村よか君みたいな女の子の方が似合うとるし…。プリンかて、加藤さんに食べて貰った方が嬉しいと思うで」
 クスクスと笑いながら、加藤美也子はぺこりと小さく頭を下げた。
「せやったら遠慮なく戴きます」
 それからは火村の噂話で、一頻り盛り上がった。どうやら彼女も他の女子大生と同じように火村のファンの一人らしく、火村の学生時代の話を聴きたがった。
 学生時代に二人してやったアホな出来事の数々は引きも切らないのだが、火村先生の名誉のために私は当たり障りのないことを幾つか話してきかせるに留めた。もっともそれでさえも、今の火村からは到底想像することができず、彼女には大いに受け捲っていたようなんだが---。
 時間の経つのも忘れ話し込んでいると、突然乱暴にドアが開いた。反射的に話を止め、私達は同時にドアの方を振り返った。そこには憮然とした表情の助教授が突っ立っていた。


to be continued




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