V.D.S.P. -Happiness in my hands- <3>

鳴海璃生 




 火村が言った通り、ダイニングのテーブルには新婚家庭も斯くやというように食事の用意が整っていた。さして広くもないダイニングに響くグツグツという鍋の煮立つ音が、妙に耳に心地いい。空気に溶けていく白い湯気に、空気の質量さえもがふわりと軽くなるような気がした。
 キュルルルと小さく腹の虫が自己主張をし、私はごくりと唾を飲み込んだ。火村だけではない。私も相当腹が減っていたことを、改めて思い出す。よくよく考えてみれば、ここ数日まともな食事を摂っていなかった。こういう食事らしい食事というのは、一体何日ぶりだろうか。
「寒い日は、やっぱりおでんに限るな。これで熱燗でもあったら、めっちゃ幸せなんやけどな」
 揉み手をするように両手を擦り合わせ、ニコニコと笑み崩れながら席に着く。冷蔵庫から缶ビールを取り出していた火村が、小さく肩を竦めてみせた。
「残念ながらビールだけどな」
「別に熱燗が欲しいって強請ったわけやあらへん。ビールでも、全然OKや」
 目の前に置かれた缶ビールのプルトップを引き上げながら、私は言い訳するように言葉を継いだ。おでんの鍋から立ち上る白い湯気に、私は十分幸せな気分になっているのだ。それに水を差す気はさらさらない。
「ところでアリス---」
「何や?」
「寒いのか?」
「へっ!?」
 おでんから火村へと意識を移す。何を言っているのかという怪訝な表情で、私は美味そうにビールを呑んでいる質問者を見つめた。
「寒いから君、おでんにしたんやないか?」
 おでんや湯豆腐、水炊きというような鍋物は、寒い日に食べるからこそ有り難みも増すんじゃないだろうか。事実、夏の炎天下でこんなもん食べたいとは決して思わないし、その存在さえも思い出しはしない。
「今年は暖冬だしな、言うほど寒くないぜ」
 私は1日中部屋の中にいて1歩も外に出なかったのでぜんぜん判らなかったのだが、てっきり外は寒いもんだとばかり思っていた。だから火村がおでんなんて作ったんだろう、と何の疑問もなく思い込んでいた。だが火村の口振りからすると、私の思惑は大ハズレのように聞こえるじゃないか。
「だったら、何でおでんなんか作ったんや?」
 要領をなさない質問に、私は少しだけ口調を尖らせて訊いた。ぐいっと乱暴に缶ビールを煽り、火村は罰が悪そうに視線を彷徨わせる。どうやら火村にしては珍しく、口に出した言葉に後悔しているように見受けられる。
 ---これは、もしかして…。
 不意に、ある考えが頭に閃いた。
 もしかしたら助教授殿は、らしくもなく何かとてつもないドジをやらかしたのかもしれない。---だったら、ここで追求の手を緩めるわけにはいかない。日頃思いっきりからかわれている身としては、この状況は溜まりに溜まった鬱憤を、少しでも返却する絶好の機会ではないか。うずうずと動き出す好奇心を宥めながら、私は火村の返答を待った。
「外は寒くねぇんだがな…」
 火村が、言葉を切る。余り言いたくないというその様子に、私の期待は空気を詰め込まれる風船のようにどんどん膨らんでいく。が、それを気づかれないように、努めてさり気なく振る舞わなければいけない。今ここで私が何を思っているかなんてのが火村にばれたら、いつもの口の上手さでもってさり気なくかわされてしまうに違いない。
 フゥ〜という大きな溜め息を一つ。私の努力は功を奏したらしく、腹を括ったらしい助教授はゆっくりと言葉の先を綴った。
「さっきまで俺はとんでもないとこにいたんだよ」
「とんでもないとこ…?」
 そりゃここに来る前は刑事捜査の現場にいたんだろうから、とんでもないとこには違いない。だが、今さら火村がそんなことに気に掛けるとは、とてもじゃないがチラリとも思えない。いやそれよりも、てんでらしくない火村の口調の歯切れ悪さが、それ以外の別の何かを物語っているような気がして仕方がない。
 ---だいたいおでんてのが、合わへんよな。
 現場でぐちゃぐちゃの死体---脳裏に浮かびそうになり、私は慌てて頭を振った---を見た後で、肉が喰いたくないってのはミステリーでは偶に使われるシチュエーションだ。だが、それが火村に当てはまるとは決して思えない。こいつは時として私をからかうために、ぐちゃぐちゃの殺人現場の話をした後で、「じゃ焼き肉でも喰いに行くか」と言うような情緒未発達の底意地の悪い奴なのだ。
 いや、火村先生に突如として変化が起こって、仮にもしそうだったとしても、それで何故おでんに行き着くのかがぜんぜん判らない。部屋に来た時、火村は腹が空いているらしい態度---長年の付き合いで隠しているつもりでも、その程度のことは一目瞭然なのだ。私の観察眼をみくびって貰っては困る---だった。なのに、おでん。腹が空いている火村が作るには、まるで不似合いなメニューだ。何せ猫舌の先生は、モノが冷えるまで空腹を満たすことができないのだから。
 コクリと喉を鳴らしてビールを呑み、言葉の先を促すように私は火村を見つめた。どうせフィールドワークに関係あるのなら、勿体ぶらずにとっとと話せ。
「---冷凍庫の中にいたんだよな」
「冷凍庫?」
 ビールを片手に、火村が大仰に頷く。
「何や、殺人現場が冷凍庫の中やったんか」
 それは、なかなかにユニークだ。捜査する人間にとってはたいへんなのかもしれないが、事件としては結構面白い部類に入るのではないだろうか。
 ---やっぱ俺もついていけば良かったかな。
 火村からの電話を受けた時のだらけた自分をきれいさっぱり頭の中から追い出し、不意にそう思う。冷凍庫の中に入るなんて滅多にできない経験だし、それに後学のためにも一度冷凍庫の中には入ってみたい。---ただし、短時間だけ、の限定付きでだ。
「アリス」
 ふわりと暖かい空気の中に沈むバリトンの声。不埒な思考が一瞬にして止まる。目の前の助教授殿は、うんざりした視線で私を見つめている。
「お前の小説ならいざしらず、冷凍庫の中で殺人をするような奴は早々いやしねぇよ」
 ハァ〜と、火村が態とらしく息を吐き出した。---何なんだ、その心底ひとをバカにしたような態度は。
 そりゃ私だってそんな妙なことは…、と一瞬思ったんだ。が、冷凍庫の中にいたと言ったのは他ならぬ火村自身じゃないか。例え私が単純にそう考えたからって、そこまであからさまにバカにされる覚えはない。
「じゃ、一体なんやったんや?」
 語尾がほんの気持ちばかり強くなったとしても、ご愛敬だ。火村は若白髪の混じったぼさぼさの前髪を、煩わしそうに掻き上げた。
「凶器を隠しやがったんだよ」
「冷凍庫の中にか? …確かに中で人を殺すってよりは、ありえそうなことやな。---でもな、火村。そんなとこは、普通は入れへんもんやないんか」
「まっ普通は鍵が厳重に掛かっているし、入れないな」
「ふ〜ん…」
 私は臨床犯罪学者殿に向かって、ニヤリと意地の悪い笑みを作った。
「だったら、事件は簡単に解決したはずやな。やって、そうやろ? 犯人は自ずと絞られてくるんやから。---つまり、冷凍庫の鍵が手に入る人間…。その会社の人間に決まっている」
 火村先生の優秀な頭脳をもってしなくても、事件はスピード解決したはずだ。---火村がここに来るのが、私の考えていた時間より随分と早かったのも、これで納得できる。
「ハズレだ、アリス。相変わらずお気楽な推理で、涙が出そうになるぜ」
 してやったり、とばかりの満面の笑みが、一瞬にして強ばる。---何やねん、その言い種は。私は、ミステリーの要素を含んでいない極々一般的なことを口にしただけじゃないか。冷凍庫の中に凶器が隠されていたなんて聞いたら、誰だってそう思うのが普通だろうが。
「推理小説家殿のせっかくの御推理だがな、犯人はその冷凍庫を持っている会社とは、全くなんの関係もない奴だったぜ」
「関係ない奴…?」
 相変わらず嫌味な言い方の上手い奴だと思いながら、私は火村の言葉を繰り返した。それに応えるように、ゆっくりと火村が頷いた。
 その様子を見つめながら、私の頭の中ではクエスチョンマークが手に手を取ってラインダンスを踊り始めた。---犯人と冷凍庫を持っている会社とに何の関係もないのなら、一体どうしてそんな場所に凶器が隠されることになったんだ。
 もしかしたら私の顔には、頭の中で考えたことがそのまま書き写されたのかもしれない。まるで私の疑問を読んだかのように、火村が視線の中で肩を竦めた。
「俺が船曳警部に呼ばれたのは、犯人というよりはその凶器を見つけるためだったんだ。まっ最も、俺が出るまでもなく警察の地道な捜査ってやつで、いずれ凶器を隠した奴も場所も割り出せただろうがな」
 自分自身を揶揄するような声音に、私はそれと判らないぐらいに目を瞠った。
 ---何や、ほんまに機嫌斜めやないか…。
 一つ溜め息をつき、言葉の続きを促すために合いの手を入れる。
「---で、誰やったんや? 勿体ぶらずに、早う言えや」
「犯人の男に惚れてる莫迦な女」
 呟かれた言葉に、火村の機嫌の悪さの理由が何となく判ってしまった。多分その女のせいで、火村先生は随分と無駄な手間を掛けさせられたのだろう。これは女嫌いの火村ならではの機嫌の悪さかもしれないが、極々普通の私としては、その女性に同情を禁じ得ない。例え詳しい事件の内容は知らなくとも、だ。
「でも、火村。惚れた男のためにそこまで尽くすやなんて、結構健気やないんか」
「---健気、ね」
 私の言葉を心底莫迦にしたように、火村は鼻で嗤った。
「そりゃそうだろうさ。何せ相手にもされてない男が犯した罪を隠すために、---しかもそいつは、金持ちの女と結婚するために、じゃまになった恋人を殺したんだぜ。そういう奴のために、凶器隠しにご協力なさったってわけだ。健気も健気、腹がたつぜ」
 口の中に広がるビールの苦さよりも、数段苦々しげな口調。---その女性には悪いと思いつつも、私は吹きださずにはいられなかった。冷凍庫の中で、船曳警部の手前、機嫌の悪さを面と出すこともできず、淡々と凶器探しに奔走する助教授の姿が脳裏に浮かんだせいだ。
 ---機嫌が悪いというよりは、拗ねた子供やな。
 何だか、頭の一つでも撫でてやりたい気分だ。最もそんなことをしたらあとの報復が怖いので、実際にやりはしないが---。
 全くもって、ご愁傷様としか言いようがない。そんなとこに数時間いたのであれば、さぞや温かい食べ物が恋しかったことだろう。京都まで帰らずに私の部屋に来て、火村がおでんを作った理由がよく判る。
「でも、火村。先生は札幌生まれなんやから、寒いのには強いんやないか? 今さら冷凍庫の中ぐらい、どうってことはないやろ」
「ぬかせ。確かに俺は札幌生まれだがな、アラスカやシベリアで育ったわけじゃないんだ。零下30度なんて場所、糞食らえだ。二度と入りたくないぜ」
「なーに言うてんのや。フィールドワークに勤しむ者が、労を惜しんじゃいけないんやないんか?」
 以前、雪の中で雪だるまにされながら聞いた言葉を、そっくりそのまま返してやる。
「お前に言われたかねぇよ。人が寒い中苦労している時に、どこぞの先生は、暖かい部屋で惰眠を貪っていらっしゃったんだからな」
 おっと、やぶ蛇だ。このままこの話題を続けていると余計なことまで持ち出されそうな気がして、私は話題を変えることにした。フィールドワークの話は喉から手が出るほどに聞きたいが、取り敢えずは場を納めることが先決だ。
「悪かった。尖るなよ。それよか火村、おでん美味しそうやけど、もう食べてもかまへんやろ?」
 私の意図を読んだのか、火村が僅かに目を眇めた。肩肘をつき、どうぞと言うように反対側の掌を翻す。
「ほな、戴きます」
 手を合わせ、私は鍋の中を覗き込んだ。


to be continued




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