安井正義社長の想い出
 
 私の人生最高の師匠だった  平成20年5月5日加筆


◆初対面はなんと麻雀クラブ

昭和29年入社した時、他の会社では 新入社員に対して 社長の訓示とかがあるのが普通であったが我々の時には 全く無かったのは前述した通りである。ゆえに入社当時は社長の顔は知らず初めてご対面したのは麻雀クラブでお相手した時だった。終了するまでポン チー 、つもった 振り込んだ 千点とか 満貫とかそんな会話だけで他におしゃべりした記憶は全く無い。社長のお相手しただけで もう 「コチンコチンのガクガク」で
冷や汗 脂汗で 早く終る事だけで精一杯、 社長がどんな方であったか 観察するなんてとんでもない。おかげで散々の負け!しかし後日 「良く負けてくれた、社長が俺より下手がいるとご機嫌であった」と聞いてがっくりした事を覚えている。これが私と安井社長の初対面でした。

◆社長の経歴と写真

社史をひもどけば 詳細にその経歴を知る事が出来るがこれからの記述の参考の為に 社長の略歴を記すと

明治41年4月
おやじさんが「安井ミシン商会」を設立
当時9歳だった正義さんはこの頃から仕事場にたった。

昭和9年1月
日本ミシン製造株式会社設立

昭和25年
社長に就任

昭和50年
会長職 

平成2年8月 86歳の生涯を終えられました。合掌

◆安井社長の写真

昭和35年自宅にお伺いした時に私が撮りました若かりし頃?の社長の写真をお見せします。いまとなっては貴重な一枚ですね〜。無断転載禁止でございますよ。



◆人生最大の師

私の新入社員の時から退職するまでこの素晴らしい「安井社長」を長と仰ぐ事が出来たのは誠に幸運でありました。入社以来退職するまで色々の部門の上司の薫陶を得ましたが 後にも先にもこの「安井正義」さんという人に会えたのは私の人生の最大の喜びであり 安井さんはわが生涯の最良の師でもありました。

大正、昭和一桁生まれの社員の間では非公式の場ではみんな社長の事を 「安井さん」ではなく親しみを込めて 「正やん・・・まさやん」と呼んでいた。お酒が入ると 先輩諸氏から 「まさやん」に どやされた・叱られた話は良く聞かされたが 誰一人 それを恨む人は居なかった。昭和二桁の後半の社員が安井社長にたいする不満でも言おうものなら、先輩から「てめ〜〜え、何を文句言うんか ばかもん!」と逆に一喝されるのが常だった。  厳しい社長だったが 逆にその厳しさの中に温情が溢れているのを皆が理解してそれだけ慕われて尊敬されていました。

そんな社長の思い出話をご披露します。


◆不出来な物は壊せ!

これは先輩から 聞いた話です。昭和30年代 家庭用ミシンが全盛期の頃 一台でも多く生産し出荷しようと現場は一生懸命頑張っていた。ある日いつもの様に社長が現場巡回に来て完成品置場の製品を見るや 「工場長 ハンマー持って来い」 何事かと工場長がハンマーを差し出すとやにはにそこにあった製品をぶっ叩いて出荷出来なくした。 
呆然として見ていた工場長や作業員に向かって 「一台でも多く作りたい気持ちは分かるが不出来な物は絶対に出荷してはならない。信用を得るには100年かかるが悪い評判は一日で千里を走って世間様に伝わる。」品質管理とか 生産管理とかの考え方が普及したのはこれより10年も後の事。その時代にすでに製品の品質にかけた情熱とプライドには全く頭が下がったと先輩がしみじみと話してくれました。



◆そんな少ないボーナスで良いか?

これも当時の労働組合委員長をしておられた先輩の話です。
昭和21年敗戦に伴って労働者を守るための労働組合が全国的に設立されつつあり、当社でも昭和24年頃に組合が結成された。その初代委員長は「俺は名前だけの委員長じゃ」と気楽トンボでおられたが、ある時組合員よりよそもやっているボーナス額決定の交渉を 社長とすべきではないかと突き上げられたそうだ。ボーナスなんてものは社長が決めて下さるもので要求するものではないと思っておられた委員長は今更俺は辞めたとも言えず恐る恐る社長室に参上し、

「労働組合の代表として 今期のボーナスの要求に参りました」

「なに? 賞与の要求に来たのか?一体幾らにしたのか?」

「XX月分の給与をボーナスとして 要求します。」
とやっとの思いで委員長は社長に説明したそうだ。   

 「委員長 ご苦労さん。XX月分で良いのならそれを了解するよ。ところで委員長、本当にそんな少ないボーナス要求で良いのかね?」

これを聞いた委員長は 後にも先にもあんなに困った事はなかった、バカモンと一喝されXX月分も払えるか と言われるのを覚悟していたら逆にそれで良いのかと聞かれて俺は「有難う御座います」としか言えずほうほうの態で社長室を逃げ出した。組合の事務所に戻って報告したら若手から「弱腰 意気地なし」と散々な目にあったと 笑いながら話して頂いた。

 「でもその当時 会社がどの位 利益を挙げていたか 経理内容を把握されてから 交渉されたのではないのですか?」と聞いてみたが、「いやいや それは現代の話、 当時は誰も経営内容がどうなってるのか知らなかったと思う。 社長を信じてただひたすらに 働いた。 働けば働くほど給料も増える、時には社長を引っ張り出して酒盛りそれだけで 俺たちは大満足していた時代なんだ。」

現在の労使関係から見ますとまさに隔世の感があります。この話は他の先輩からもお聞きしました。当時は全て現金を給料袋に詰めて渡されていました。その渡されたボーナスの袋が机の上で立つ位の高額が支給されて 帰宅して その額に女房が涙流して喜んだと 先輩が遠い昔を偲ぶ様な目で 話してくれました。 
そんな時代もあったんですねえ。


◆伊勢湾台風の被害と無償修理の決断

 昭和34年(1959)の9月26日夜、台風15号が伊勢湾を北上して名古屋地区を襲った。この日は午後から風雨が強くなり、予報も名古屋地区を直撃すると言うので会社は
3時終業となり辛うじて動いていた市電でずぶ濡れで帰宅したことを覚えている。後に伊勢湾台風と呼ばれる大災害を引き起こした台風だ。

その当時は 昭和区の市営住宅で鉄筋コンクリート製の頑丈な3階建ての住宅に住んでいたので風で吹き飛ばされる恐れは無かったが、夕方に停電してから急に風雨が強くなって風で窓ガラスがしなり、その隙間から雨が吹き込んで何時割れるかといった状態が朝方まで続いた。

翌朝、台風が去ってから外に出てみて驚いた。
住宅の三階の部屋の窓ガラスが飛んできた小石や材木の破片で見るも無残に破壊されていた。周辺の民家の屋根瓦は飛び 壁土は落ちて惨憺たる情景。停電は続いていたので 市内がどの様な様子であったが全く分からず市電の乗り場まで行ったが電車が動いている様子も無くその日は終日自宅と周辺の散乱したごみのかたずけで終った。

28日。
なんとか市電を乗り継いで会社に行ってその惨状と被害のものすごさに魂消た!一階の事務所の机の上まで泥水が来ていたらしく何もかも泥まみれ。それでも大勢の従業員が朝から修復作業に懸命に取り組んでいた。泥水が引くまで何日かかかってやっと落ち着いてきて何とか工場の再開の目途がつきかけた頃、周辺の住宅も徐々にまた元の生活に戻りつつあった。

そうなると泥水を被ったミシンの修理調整の要請が名古屋市だけでなく近隣の町から 取引先を通して殺到、その製品が工場に山積みになってきた。一日も早く操業開始して全国の取引先に製品を発送しなければならず、一方輸出製品も船積みの期限等寸刻を争う状態であったが、社長から工場再開と修理調整を同時にするようにとの指示が出された。記憶しているのは機械類の修復している工場の灯りと別棟で泥水を洗って分解調整している部屋の灯りが何日も夜遅くまで煌々と点いていた光景だった。

その時は全く何も知らなかったが社長はこの時の修理調整費用負担はすべて会社とする決定をされたそうだ。伊勢湾台風で工場が大被害を受け少しでも復旧資金が必要のときにこの様な決定をされるとは 全く驚きであった。しかしこの決断は後日製品注文増加と言う形で現れ、売上げ利益増大に多大の貢献をしたと聞いた。損して得を取れとか言う諺があるが 当時の社長はそんな気持は全く無く困っている人から金がとれるかの全く純粋な気持からの決断であったと思う。 もし万一私がその立場であったら果たしてその様な決断が出来たか?考え込みますね・・・




◆君の意見は?

昭和34年頃から社長は英文タイプライターのポータブル型の自社生産の検討を始められておられた。技術的な問題や開発の経緯は省略するとして、翌年35年の5月頃から試作品が少しずつ出来上がってきた。なんと、その試作品の実用テストを私が命ぜられ、自宅に持ち帰りテストを繰り返す日々を送った。

勿論当時はテストマニュアルなんてものは全然無し、 何を基準にテストするかは試行錯誤で少しずつ作り上げていったが、専門家でなく私のような素人が使っても扱い易く綺麗に印字できるかその方に重点が置かれたものと思います。

その頃の私の住まいは社長の邸宅の道を挟んだ隣にあり、、営業部長と営業課長の家は社長宅から50米位の位置にあったことから日曜日にポッケーとしていると、突然社長宅への召集令状!

5分以内に社長宅で部長課長そして私ペイスケと営業会議ができるメンバーが勢ぞろい。そこで試作品を前にして部長課長が海外販売見込み等のざっくばらんな検討会をされ。それが終ると試作品の使い勝手等についてどの様な問題点があるか社長部長と課長の目の前で実演しながら意見を述べる。そんな日曜会議が度々ありました。全く汗顔の至り、盲蛇におじずとかなんとかの類で色々感じたままの意見を述べましたが、社長は真剣に聞いてくれてそれは何故かどうすればよいか?君の意見はどうかと聞いてくれたのが印象に残っています。

何日か後に社長室に来るようにとの呼び出しで恐る恐る顔をだすと先日の君の意見に基ずいてここを改良したが、これについての君の評価を聞きたいと改良試作品が目の前においてあった。当時専門のタイピスト以外にタイプライターをなんとか使いこなす者が居なかったとはいえ、当時はペイスケだったの私の意見を真剣に聞いて頂けたのは嬉しかった思い出として残っています。



◆10年後のすりこ木の形
 
ある日 社長との打ち合わせが済んだ後 社長のご機嫌が良かったんでしょう、こんな話を聞かせてくれました。

私は入社した新入社員一人ひとりにすりこぎを渡してあると思っている。
どう使おうがそれは各自の勝手だが、楽しみは10年後そのすりこぎがどんな形で残っているかを見る事だ。ある者は傷だらけで中にはひび割れたすりこぎを持っていると言う事は喧嘩ばかりして すりこぎを振り回してきた。ある者は磨り減って爪楊枝くらいになっているのを持っている。と言う事は お追従のごますり専門にすりこぎを使ってきた。君は 一体どちらになるのかなあ?

その時は もう入社10年はたっていた時で、しかも影のあだ名が「喧嘩○○」と言われて居た事を知っていたので社長が冗談なのか本気なのか返事が出来なかったが、今になって振り返ってみるとどう贔屓目に考えても衆目の一致するところは傷だらけのすりこぎになっていたと思われます。



◆勲章はいらない

社長はその卓越した功績により昭和44年に藍綬褒章、そして昭和50年には 勲二等瑞宝章を宮中で頂くと言う栄誉に輝いた。私の様に 全く勲章など縁の無いやからにも この勲二等瑞宝章とやらの価値は おぼろげながら理解したが 世の中には 勲章を欲しくて国会議員や関係の筋に裏面工作したり 自薦他薦の叙勲活動をする連中も多いと聞いて居る中で 安井社長は 勲章はいらないと散々関係者を手こずらせたそうだ。

電気工業会の幹事会社であった時に工業会のトップより中部地区経済活性化に多大の功績ありと認めて感謝状と記念品を贈呈致したいが打診して欲しいとの要望を受けて 総務部長に相談したら、即座に「全く受ける気持ちはありませんから丁重にご辞退申し上げる様に」との返事だった。その時はお断りして別に問題は無かったがその後も社長は 勲章とか表彰状とか全く頂く気持がないと総務部長がこぼされておられた。 
 
ある時、中部経済界の重鎮の方より 「安井社長にも困ったものだ、個人で叙勲を断るのも何とかして欲しい。実は叙勲該当者が他にも居られるのだが安井社長を差し置いて 勲章を頂く事は出来ない仕組みで 次の方 またその後の方も 困っておられる、なんとか説得出来ぬもんか」との依頼が 総務部長にあったそうだ。そこで総務部長が これこれしかじかかくかくでと説得されたら「他の方に迷惑おかけしては 申し訳ないから 頂きます」との返事。全くしぶしぶの了解を得て やっと勲章を頂く事になったとか。そんな裏話をお聞きしました。社長にとってはユーザーからお宅の製品買ってよかったと言われるのが 最高の勲章ではなかったかと思います。





平成20年5月1日


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