§プロローグ


「ああー、ここはどこ!? どこなの!? 誰か教えて!」
 菜々美はただひたすらうろたえていた。こんなにうろたえたのはエルハザードに初めて来た時以来かもしれない。
 あたりを見渡せば、そこは夜の歓楽街だった。ただし、雰囲気が並み大抵ではない。娼婦や陰魔があちこちで客引きしている。麻薬や禁制品の売人がうようよいる。訳の分からない看板を掲げた派手な装飾の店が軒を連ねている。道は小汚く、ゴミが撒き散らされている。ありとあらゆる雑多な格好をした老若男女の人間たちがひっきりなしに道を流れる。喧嘩をしている男たちの周りには人垣ができていた。しかし誰も止めようとはしない。美しいはずの夜空でさえ、それらの喧騒によって霞んでしまっている。あちらに見えるのは人身売買の施設だろうか?
 そんな中に菜々美は独りぼっちでいるのだった。しかも迷子である。頭がくらくらする。ちょうどさっきも麻薬商人のしつこい勧誘を必死で振り切ってきた所だ。
「ファトラ姫! ファトラ姫! いないの? ねえ聴いてる!? アレーレ!」
 必死でファトラとアレーレの名を呼ぶ。が、この喧騒の中、その声は数メートルも届かない。ほとんど必然的に返事はなかった。
 菜々美はくじけそうになるのを必死でこらえ、再び歩き出した。自然と目から涙が出てくる。自分は迷子だ。ファトラたちに会えなければ、ここから帰ることはできない。赤の他人に道を訊いたって、信用できない。だいたい、そのせいで迷子になったのだから。
 ひょっとしてファトラたちはここにはいないのではないか? 自分の見当ミスだったのではないのか? という考えが頭をよぎるが、それは万策を尽くして思考から排除していた。そうでもしなければ本当にくじけてしまう。
 事の発端は数日前にさかのぼった。

 数日前。
 エルハザードの空は晴れていた。世界は平和で、たまに起こる騒動もその平和の中に組み込まれていた。いつまでも吹き続ける涼しい風は木々を撫でてゆき、さんさんと照りつける太陽は水面(ミナモ)に反射されて目映い光を放つ。
 どんな厄介ごとも溶かしていくと思われるような、そんなある日のこと。
「はぁー、困りましたわ」
 ロシュタリア第1王女、ルーンは軽く溜め息をつくと、バルコニーの椅子に腰かけた。
 それを菜々美が見つける。
「どうしたの、ルーン王女様?」
 菜々美も椅子に腰かける。
「ああ、菜々美様。実はファトラにちょっと用があるのですけれど、あの子はこの前から遊びに出てしまっているんですよ」
 困った顔をしながら言うルーン。ファトラとアレーレは2日ほど前から遊びに出かけていた。
「ふーん。そんなら私が連れ戻してきてあげましょうか?」
「まあ。でも…」
「いいのよ。ファトラ姫ったら遊んでばかりなんだもん。連れ戻してあげるわ」
「まあ。そんな…」
 断ろうとするルーン。が、菜々美はすかさずルーンの手を取る。
「心配しないで。すぐに連れ戻してあげるから」
「まあ。でもお礼は…」
 菜々美がこういうことを言う時はたいてい見返りを求めているということを知っているルーンである。
「お礼は気持ちでいいわ」
 間髪入れず言う菜々美。
「まあ」
「じゃ、さっそく探してきますね!」
「あっ、菜々美様! あの子が遊びにいった場所は――」
 菜々美は颯爽と走り去ってしまった。ルーンが止める間もなかった。
「あの子が遊びにいった場所は――危ない所ですのに……」
 ルーンの忠告が菜々美に届くことはなかった。

 こうして菜々美は単身フリスタリカを飛び出した。そしてあちこちでファトラの目撃情報を聞き込みし、ようやくこの歓楽街にいるらしいということを突き止めたのである。
 問題はこの歓楽街が菜々美の想像を遥かに越える場所であったということだった。路銀は残り少ない。下手をすれば娼婦のまねごとでもしなければならなくなりかねない。
「ファトラ姫〜〜。いないの〜〜? アレーレ〜〜?」
 半泣きになりながら名前を呼ぶ。返事はない。あまり叫んでいるとおかしな人間だと思われるので、少し叫ぶごとに場所を変える。
「ああ…だめ…。寝る場所を見つけないと…。早くおうちに帰りたい…」
 疲労困憊(コンパイ)になって、菜々美はとりあえず今日寝る場所を探すことにした。十分に安全な所を探す必要がある。もっとも、そのような場所はここにはほとんどないのだが…。
 ――と、急にファトラの声が聞こえたような気がした。反射的にあたりを見回す。
 雑多な人間たちの中に、若い娘の群がある。その中に濡れ羽色の長い髪を腰まで伸ばした娘がいた。その隣には蒼い髪を額で左右に垂らしている背の低い娘がいる。彼女たちは楽しそうに談笑していた。
「み、見つけたわあっ!!」
 誰はばからず大声を出すと、菜々美は娘の群れの中に飛び込んだ。
「見つけた! ファトラ姫! ファトラ姫! さあ、私と一緒に帰りましょ!」
 ファトラ――と思われる娘に抱きつき、そこまでの言葉を一気に捲くしたてる。
「なんだ。菜々美ではないか。こんな所で何をしておるのじゃ?」
 果たして、その娘はファトラであった。ファトラは菜々美がこんな所にいるのが意外のようだった。
 周りにいた娘たちはこの突然の出来事に目を丸くしたが、すぐに文句を言い始め、菜々美をファトラから引っ剥がした。
「きゃああぁぁっ! なにすんのよ!」
 菜々美の抵抗むなしく、彼女は小汚い地面に擦り付けられることになる。
 ファトラは娘たちを制すと、菜々美を立ち上がらせてやった。
「一体こんな所で何をしておるのじゃ? ここはそなたが来るような所ではないと思うのだが…」
「菜々美お姉様、お久しぶりですね」
 アレーレが菜々美にあいさつする。
「ファトラ姫、ルーン王女様があなたに戻ってきて欲しいそうよ。というわけで、私と一緒に帰りましょ」
 感動のあまり涙を流しながら菜々美が言う。
「姉上が?」
「そうよ。さ、帰りましょ」
 再びファトラに抱きつこうとする菜々美。
「触るな。汚れが移る!」
 泥だらけの菜々美であった。

菜々美、ファトラを見つけて涙するの図


 ファトラとアレーレは娘たちと別れて、菜々美と一緒にとある酒場に来ていた。
「ふーん。姉上が…。それでは帰らなくてはな。それにしても、よくここまで来れたな」
「そりゃもう、死ぬ思いだったわ! 誘拐されそうにはなるし、騙されるし、大変だったんだから!」
 菜々美はさっき泥を落とすために溜め池に放り込まれて、今度はずぶ濡れになっていた。放り込んだのはさっきの娘たちである。菜々美はあやうく溺れそうになった。
「それはそれは。しかし今日はもう遅いから、帰るのは明日じゃな。どこかで宿を取らねばならないが、どうする?」
 菜々美に向かって妖艶に微笑むファトラ。菜々美は気が遠くなる思いがした。

 そうしてファトラたちは帰ってきた。正確には、ファトラとアレーレに連れられて、菜々美は生還した。
 ルーンは菜々美にかなりの額の礼を払ったらしい。本当はロシュタリアの情報網を使えばすぐに呼び戻せるということは秘密にしておいた。礼を貰った菜々美はすぐに回復したそうだ。
「誠」
「ああ、なんですかファトラ姫?」
「手つかずの遺跡があるらしいという情報を手に入れたぞ。これじゃ」
 ファトラは誠に地図を渡した。
「ああ、ありがとうございます」

◇  ◆  ◇  ◆  ◇


「あんたねえ! この前誠ちゃんにケガさせたの何だと思ってんの!」
「いいじゃねえか! あたいは誠と遊ぼうと思ったんだ!」
「あんたの言う遊びは危険すぎるのよ! 誠ちゃんはあんたと違ってデリケートなのよ!」
「てめえだってあたいのこと言えた義理かよ!」
 ロシュタリアの首都、フリスタリカにあるロシュタリア王宮。そこのバルコニーに激しい言い争いが響く。言い争いの主はカチューシャをした茶色い髪の娘と、長い赤毛を頭の後ろで結わえた娘だった。菜々美とシェーラである。
 菜々美がああ言えばシェーラがこう言う。シェーラがああ言えば菜々美がこう言う。二人の言い争いは果てしなく続いた。事の発端はといえば、誰が誠の所に食事を持っていくかという些細なことだった。しかし活発な性格である二人のこと、一度火がつくとそう簡単には収まらない。
 言い争いは果てしなくレベルを下げてゆき、ただの水掛け論になっていた。
「えーい! やるっての!?」
 菜々美が腕をまくりあげる。
「望む所だ!」
 シェーラが拳を作る。
 言い争いが喧嘩へと変貌しようとしていた、まさにその時――
 ゴギャ!
 そんな音がして、双方の拳が何かに命中した。命中したのは相手ではなかった…。
「きゃああぁぁっ!! 誠ちゃん!」
「げっ! 誠じゃねえか!」
 拳は誠の頬に命中していた。どうやら彼は二人を止めに入ったらしい。
 誠はずるずると床に倒れてしまった。
「ふ、二人とも喧嘩はやめるんや…」
 力なく言う誠。
「誠ちゃん、この女が悪いのよ!」
 菜々美はシェーラを指差す。
「何言ってやがんでい! てめえのせいだろうが!」
 誠は菜々美とシェーラの手で、なんとか立ち上がった。
「まあ抑えて抑えて。どないしたんや?」
 誠は二人をなんとか仲裁してやった。

「誠ちゃん、普段はこの辺歩いてないのに、何で歩いてんの?」
 菜々美は誠の頬に湿布を当ててやりながら訊く。誠は普段は研究室に閉じこもっているので、外を歩くことは希なのであった。
「うん。ちょっとファトラ姫に訊きたいことがあってな」
「何を訊くの?」
「これや」
 誠は菜々美たちに地図を見せる。この前ファトラに貰ったものだ。地図はロシュタリアとその隣国のものだった。その中の一ヵ所、印がつけてある所を誠が指差す。
「ここには先エルハザード文明の遺跡があるんや。せやけどここはロシュタリアの領土内にはないんで、探索するにはどうしたらいいのか訊こうと思ってな」
「ふーん」
 先エルハザード文明のことについてはルーンよりファトラの方が詳しかった。おもしろいものも結構あるからである。国家間のことと先エルハザード文明のことと両方に詳しい人間として、誠はファトラを選んだのだろう。菜々美はそんなことを考えながら、遺跡探索についていくことを決めた。遺跡探索なら誠と一緒になれる機会もあるだろう。もっともシェーラもついてくるだろうが…。
「いいわ。誠ちゃん。私もファトラ姫の所に訊きにいってあげる」
「あたいもいってやるよ」
 菜々美に負けじとシェーラも口をはさむ。
「んー、そうかあ?」
「さ、いきましょ」
「あ、ちょっと!」
 誠は左右を菜々美とシェーラに挟まれて、半ば無理矢理連れられていった。

「…………」
 ファトラは言葉が出せないでいた。
 出そうと思えば出せるのかもしれない。しかし出せない。
 そんなことを考えながら、引きつった顔を姉の要望に合わせて無理に笑顔に作り替えていた。
「まあ、とてもかわいらしいですわ」
 対するルーンはにっこりと見事な笑みで微笑む。
「は…はあ……」
 顔は無理矢理笑顔に作り替えても、言葉までは手が回らなかった。口から漏れるのは中途半端な返事ばかりである。
 何でこんなことになったのか考えてみる。確か泊まりがけで遊びにいっていたら菜々美に連れ戻されて、何事か訊くためにルーンの部屋に来たらこうなっていたような気がする。何で頭に大きなリボンがついているのかと訊かれれば、最愛の姉の趣味だから仕方ないと答えるしかなかった。かわいらしい飾りのたくさんついた服も、靴も、みんな姉が着るようにせがんだのだ。
 目の前の鏡の中では、おおよそ自分とは似つかわしくない少女がぎこちない笑みで微笑んでいる。その隣にはその少女の肩に手をかけている姉がいた。
「こんなのわらわじゃない…」
 そんな言葉が口から漏れる。しかし姉の耳には届かなかったようだ。
 この部屋にはルーンとファトラの二人しかいない。ルーンはファトラの頬をそっと両手ではさむと、顔を近づけてきた。ファトラの胸が高鳴る。澄んだ水色の瞳に見つめられ、身動きが取れない。顔はさらに近づいてきて、目の焦点があわないくらいになると、鼻と鼻が触れ合った。
「…………っ……」
 それ以上の事は起きない。
 ファトラにとって永遠のようにも感じられたその時間は、ルーンが顔を離したことによって終わりを告げ、ファトラは湯にのぼせたような顔をルーンにさらした。
「あ…、姉上……」
「なんですか?」
「その…このようなことは……」
 ルーンから目を逸らし、言いよどむファトラ。
「このようなことは……?」
 ルーンの目に優しく、いたずらっぽい光が宿る。
 このようなことは恥ずかしい。恥ずかしいからやめて欲しい。それがファトラの本心だった。しかし、ルーンはそのことを知っている上で妹にこんなことをさせているのだ。やめて欲しいと言いつつも、ファトラは必ず受け入れるから。ファトラは必ずしも嫌がっていないから。
「かわいい妹…」
 ルーンはファトラをそっと抱いた。妹の躰は何の抵抗もなく胸の中に引き寄せられ、思いのままに抱くことができる。
「姉上…」
 姉のぬくもりや柔らかさはそのまま彼女の優しさであるような気がした。ルーンのためならなんでもできる。この優しさを守るためなら命だってかけられる。そういう確信がファトラにはあった。ルーンほど自分を大切にしてくれる人間はいないから。
 不意に、扉をたたく音が聞かれた。
 ファトラは反射的に身を固くする。こんな姿を他人に見られたくはない。
 それを察してか否か、ルーンはファトラをベッドの下にしまい込む。
「どなたですの?」
 扉に向かって声をかけるルーン。ファトラはおとなしくベッドの下に潜っている。
「僕です。誠です」
「誠様ですか。お入り下さい」
「はい。失礼します」
 扉が開くと、誠たちが入ってきた。ルーンは今まで何事もなかったふうで、ベッドに腰かけている。
 菜々美は衣装箱やかわいらしい服などが散らかっているのを見て訝ったが、気にしないことにした。
「どうなさったのですか?」
「はい。ファトラ姫にちょっと訊きたいことがあるんですが、ファトラ姫はここにいると聞いたんです」
「まあ。でもファトラは今ここにはおりませんよ」
「ええ。そのようですね」
 あたりを見回す誠。部屋の状況は全く気になっていない様子だ。
「その湿布はどうしたんですか?」
「えっ、いや…。これは……」
 誠はばつが悪そうな顔をする。シェーラと菜々美は顔をそらした。
「ふふ…。誠様。私に分かることでしたら、どうぞ私に訊いて下さい」
 ルーンは穏やかな口調で言う。
「そうですか? その、実は遺跡の探索をしたいんですが…」
 誠は遺跡の探索をしたいこと、しかしその遺跡はロシュタリアの領土内にはないことなどをルーンに説明した。
「まあ。そうですか。その遺跡はエランディアにありますのね」
「はい。どうしたらいいでしょうか?」
「そうですわね…。勝手に探索するわけにはいきませんから、とりあえずエランディアの方に許可を取らなければいけませんわね」
「許可ってどうやって取ればいいんですか?」
「ファトラに頼めば取ってくれますわ。こういうことはあの子の方が詳しいですから」
「はあ。ファトラ姫に」
 と、その瞬間、ルーンが座っているベッドの下から物音がする。
「あれ? 何の音ですか?」
「猫でもいるのでしょう」
「そうなんですか?」
 誠はベッドの下を確認しようと屈み込む。しかし、ルーンの足元を覗き見る格好になるのを見て、菜々美が誠を引きとめた。同時に軽く肘打ちを加える。
「ファトラには私から言っておきますわ」
「そうですか。それじゃあお願いします」
「ええ」
 誠はルーンに一礼した。
「ルーン王女様、ありがとうございます」
 菜々美とシェーラもお辞儀する。
「お礼ならファトラに言っておいた方がいいですわよ」
「そうですね」
 こうして誠たちは部屋から出ていった。後にはルーンと、ベッドの下に隠れているファトラだけが残る。

「やったわね、誠ちゃん。これで探索できるじゃない」
「許可が出たらやけどな」
「そうね。でも誠ちゃん。あんなことしたらだめよ」
「あんなことって……ああ、そうやな」
 誠は自分のやったことがよく分かってないらしかった。
 一方、ルーンの部屋。
 ルーンは誠たちがいなくなった後、しばらく待ってからファトラに出てくるように声をかけた。
 ファトラはルーン以外誰もいないのを確かめると、ベッドの外に出てくる。そしてすねたような目でルーンを見つめた。
「姉上。わらわが許可を取ってくるのですか?」
「許可は私が取りますから、あなたは誠様たちについていってあげて下さい」
「別にわらわがついていく必要はないと思いますが…」
「他国ですし、念のためです。それにあなたがいた方がエランディア側と問題が起きた時の交渉がやりやすいでしょう」
「はあ…。わらわが交渉するんですか」
 ファトラも交渉の術を心得てはいるが、交渉はいつもはルーンが行うのであまり使う機会はなかった。そもそもファトラは公のことがあまり好きではない。
「してあげて下さい。私は公務で行かれませんし」
 ルーンはロシュタリアにおける公務が忙しいので、遠出はなかなかできなかった。ファトラの方はというと、ルーンがいろいろと気を利かせてくれるおかげで遠出ができた。あちこち遠出して、諸国の情報を集めてくるのである。もちろん遊びつきだが。
「…姉上がそう仰しゃられるのでしたら、そう致しましょう」
「ありがとう、ファトラ」
 ルーンの顔に安堵の表情が浮かぶ。
 ルーンはこういうことに関しては少々強引なところがあるものの、彼女の笑顔が見られるというのならファトラは大抵願いを聞き入れた。もっとも、自分にあまり不利益ならすっぽかすこともあるが。
「いえ。このぐらい平気です」
 こうしてファトラはルーンの頼みを引き受けた。実際の所、ファトラも内心遺跡がどんなものか見てみたかったのである。


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