§2  名探偵、アフラ


 コッ……
 乾いた音が部屋に響く。若い女の手がチェスの駒を卓に置いた音だ。
 手の主でもあり、この部屋の主でもある、切れ長の双眸をした彼女は口の端で軽
く笑った。涼やかな赤茶の瞳は目の前の年下の男を悪戯っぽく観る。
「あちゃー。また僕の負けやなあ…。強いですね、アフラさんは」
「こういうものはインスピレーションが大事どすよ、誠はん。うちらの仕事もそう
どす。考えるより、ひらめきどす」
 奇麗に手入れされたアフラの爪がチェスの駒を弄ぶ。
「そうですね。がんばります」
 誠は笑顔で答えた。
 アフラ・マーン----彼女は助手である誠と共に探偵業を営んでいた。別に、他に
やる仕事がなかったからではない。ただ、刺激を求めてのことだった。

 リリ…ン……
 小気味良い鈴の音が来客者を告げた。
「あ、お客さんだ」
 誠は席を立ちあがると、出入り口へと小走りした。
 アフラの双眸が不機嫌な色を宿す。誠とのチェスを邪魔されたからだ。
 しばらくすると、誠の手によって、恰幅の良い中年の男性が案内されてきた。
 もちろんチェスは片付けてある。脇に置いてある引出しに放り込んでおいたのだ。
「これはこれはお美しい。私、ストレルバウと申します」
 ストレルバウと名乗るその男性は誠の手によって、さっきまで誠が座っていた椅
子に座らされた。
「で、ご用件は?」
「はい。それが……」
 ストレルバウは用件を話し始めた。

「お邪魔します」
 アフラと誠はストレルバウの案内によって、彼の雇い主である人物の屋敷へと案
内された。ちなみに裏口からである。
 ぎしぎし軋むリノリウム張りの安っぽい廊下をしばらく進むと、建て付けの悪い
扉をくぐり、おそらくは応接間であろう----物置と見間違えるような部屋へ案内さ
れる。そこでしばらく待てとのことだ。
 アフラはほこりっぽいソファに座るのが嫌だったので、立って待つことにした。
 そうしてしばらく待たされた後、屋敷の主が現れた。ストレルバウの話では、陣
内菜々美とかいうそうだ。
「あんさんがうちらの雇い主でっか?」
「そうよ。よろしくね」
「じゃ、さっそくその警備して欲しいとかいう物を見せてもらいまひょか」
「ええ。こっちよ」

「この人形を怪盗に狙われているわけでっか」
「そうよ。この人形を狙われてるの。怪盗もたいしたんもんよね。これの価値を見
抜くなんて」
「この人形がねえ…」
 アフラは呆れ顔で人形を見る。とてもじゃないが、怪盗が狙うようなものとは思
えない。
 アフラたちの目の前には、身長1.5メーター程の食い倒れ人形が台座に乗って
鎮座していた。
「この人形はマニア価格2万ロシュタルはする、大変貴重な物よ。で、こっちが怪
盗が出してきた、予告状」
 菜々美がアフラに一通の便せんを渡す。それは上質な紙と、かぐわしい香水の匂
いとで創られたものだった。
 アフラは胡散臭げな目でそれを受け取ると、ざっと目を通した。

『某月某日夜中の2時に貴殿の所有する食い倒れ人形を頂戴する。   朱雀仮面』

 それを読んでアフラが最初にしたことは、眉をしかめることだった。
「帰りますで、誠はん」
「あ、ちょっと! アフラさん!」
 アフラは菜々美に便せんを突っ返すと、出口へ向かって歩き始めた。
「ちょっと! 警備引き受けてくれるんじゃなかったの!?」
「気が変りました」
「アフラさん。そんなこと言わないで、引き受けましょうよ」
「別にうちらはこんなふざけた依頼を受けなならん程貧窮してまへん」
「そういう問題じゃないでしょ」
「依頼料ならはずむわよ」
「そういう問題でもありまへん」
「じゃあ、どういう問題よ?」
「うちらのプライドの問題どす」
「ぷらいど?」
「そうどす」
「なによ。じゃあ、殺人事件でも起きなきゃだめだとでも言うの?」
「うちはこの仕事を趣味でやってるんで、おもしろくなさそうなのは断っとるんど
す」
「ア、アフラさん……」
 誠が顔を青くする。が、アフラはつんとすまして、何も聞き入れようとしない。
「なーによ! えっらそうに!! 私がこの食い倒れ人形を手に入れるのに、どれ
だけの苦労をしたと思ってんの!?」
「ほほー。どんな苦労でっか?」
 アフラの態度があまりにも高慢なので、菜々美は怒る気が失せてしまった。
「……言わないでおこうと思ってたんだけど…。……この食い倒れ人形はね、ミス
テリー食い倒れ人形なのよ。だから価値が高いの」
 アフラの耳がぴくりと反応する。
「ミステリー品どすか…」
「アフラさん。ミステリー品って何ですか?」
「ミステリー品というのは歴史上、現れては消え、消えては現れる品どす。盗まれ
たり、災害で紛失したりした後、何10年と経って、突然発見され、そしてまた数
年経つと、どこかへ消えてしまい、それからまた数10年後に見つかり、また失わ
れるというのを何度も繰り返す品どすな」
「へえー。そんなものがあるんですか。不思議ですね」
「どう? 引き受ける気になってくれた?」
 菜々美が余裕ありげに訊く。
「引き受けまひょ」
 こうして、アフラと誠は食い倒れ人形の警備を行うことにした。

 夜。今、夜中の1時。アフラと誠は食い倒れ人形の警備を行っている。
「朱雀仮面とかいうのは本当に来るんでしょうかねえ…」
「これでこなかったら、菜々美はんの身辺でも暴きまひょ」
「そうですねえ…」
 2階まで吹き抜けになっている玄関ロビーに食い倒れ人形はある。今までアフラ
たちが案内されていた場所などに比べると、そこは圧倒的に豪華だった。
「ふあー。眠いですね。ちょっと休みましょうか。予告された時刻までにはまだ余
裕がありますよ」
 誠が生欠伸を噛み潰しながら言う。アフラは頭を掻いた。
「そうどすなあ…。ちょっと休みまひょか」
 二人はソファに座ると、誠が茶を沸かし始めた。

 しばらくの時が経つ。アフラは無性な眠気を感じ始めていた。
 ソファの隣に座っているはずの誠を見ると、彼は茶を飲むのもほどほどに、ソフ
ァに横になっていた。
「誠はん……」
 不明瞭な発音で誠を呼ぶ。眠い。茶の器を持っているのももどかしい。
 やってはいけないことだと思いつつも、アフラは茶の器をテーブルに置くと、誠
に寄り添うようにしてソファに横になった。

 こつ…
 不意に、足音が耳に入った。途端に意識が戻る。
 目を見開くと、部屋に自分と誠以外の人間がいることが分かった。
「だ、誰でっか!?」
 ばっと起き上がると、不審者に向かって叫ぶ。
 その声で誠も起きた。
「あー、見つかっちゃいましたかぁー」
 相手は気の抜けるような声を出すと、吹き抜けの2階を見た。アフラもそちらを
見やる。
 と、2階の手すりの上に人影が立っていた。その姿は月の明かりによって、はっ
きりと見て取ることができる。若い女だ。
「何物どすか!?」
「おやおや。きちんと予告しておいたのに、つれないのう」
「あんさんが朱雀仮面どすか!?」
「いかにも。わらわが朱雀仮面じゃ」
 月の光に映えるその姿は、長い黒髪にレザーの衣装を纏い、顔にはその名の如く
朱雀の仮面を被っていた。
「食い倒れ人形は渡しまへんで!」
 とりあえず、お約束の台詞だけは言っておくことにした。自分が敵意を持ってい
るということを相手に知らせておくためだ。
「おやおや。つれないのう…」
 朱雀仮面はやれやれといった様子で頭を振る。アフラは身構えて、臨戦状態に入
った。
「やあっ!」
 かまいたちが朱雀仮面向けて放たれる。が、当たる前に朱雀仮面はそこからジャ
ンプした。結局、手すりがかまいたちの犠牲になる。
「!!」
 信じられないような身軽さで、朱雀仮面はアフラの背後に降り立った。
 ぎょっとして、振り向こうとするアフラだが、それより前に朱雀仮面の腕がアフ
ラの顔に延ばされる。
「うぐぅ!」
 布切れが鼻に当てられる。うっかりそれを吸ってしまった。
 布切れには何等かの薬品が染み込ませてあったらしい。途端に誠と茶を飲んでい
た時と同じ感覚の眠気に襲われ、意識が朦朧とする。
 朱雀仮面の体を振りほどこうにも、それだけの力を出せないし、このまま眠らさ
れてしまうことは明らかだった。
 せめてもの可能性と、誠の方へ視線を投げてみるが、誠は朱雀仮面の仲間らしき
小柄な女に昏倒させられている。
(ここまでどすか……)
 アフラの意識は深い闇に融かされていった。

「…ん……ううん……」
 徐々に意識がはっきりしてくる。それに伴って、何で今まで意識がなかったのか
も思い出せてきた。薬のせいか、頭がだるい。
「うん…?」
 まわりの景色が少し変わっていた。さっきまであったはずの食い倒れ人形が台座
だけ残してなくなっている。
(やれやれ……。あんな重そうな物をねえ……)
 別にどうということも思わない。物憂いだけだ。
 怪盗は自分を誠と一緒にソファに寝かせておいてくれたらしい。誠が自分の下敷
きになって、苦しそうな顔をしている。しかし、まだ意識は戻りそうにない。
 アフラは誠が楽になるように体の位置をずらすと、誠の肌に自分の肌を軽く擦り
つけた。

 しばらくすると、誠が目を覚ます。
「あれ…。僕気絶させられちゃったんですね。アフラさんはどうなったんですか?」
「うちも同じどす。まんまとやられました」
 アフラは体を起こしながら言う。
「じゃあ僕、何か手掛かりがないか探してみますね」
「そうどすな」
 誠は起き上がると、さっそく調査に取り掛かった。
 アフラはテーブルの上に置いてある茶を飲んだ。冷えていてまずい。が、淹れ直
す気にもならなかった。

 誠はすぐに手がかりを見つけた。
「食い倒れ人形を運ぶ時にできたと思われる跡が地面に残ってます。これを伝って
行けば怪盗のアジトに着くかもしれませんよ」
「しかし、そんな安直な手がかりだと、罠という可能性もありますな」
「はい。どうします?」
「罠と分かっていても、今はそれしか手がかりがない以上、仕方ありまへん。その
跡を追ってみまひょ」
「じゃあ、そうしますか」
 こうして、アフラと誠は地面に残された跡を伝って行った。

「跡はこの廃屋で止まっていますね」
 街の郊外。二人の目の前には寂れた廃屋がある。
「どうやら連中はここにおるようでんな。それじゃ、行きますか」
「はい」
 二人は廃屋の中に入っていった。
 中は陰鬱な雰囲気に包まれている。二人は一緒に中を探索した。
 と、不意に、目の前を一つの影が横切った。
「あっ!」
 誠は急いでその後を追った。アフラは罠ではないかと気になったが、誠が先に行
ってしまったので、仕方なくその後を追う。
 刹那。
 ぼぐうっ!!
 強かに後頭部を殴りつけられる。目の前が真っ白になり、意識が明滅したかと思
うと、霧散した。

「うっ…。うう……」
 心臓の鼓動に合わせて、後頭部がずきずき痛む。アフラは意識を取り戻した。ま
ず、目は開かずに、手足を動かしてみる。
 きちんと反応が返ってくる所を見ると、手足は無事らしい。頬が何やら冷たく、
固くて平たい物に当たっている感触がするのは、おそらくは体が石畳の上に横に寝
転んでいるからだろう。
 それから、ゆっくりと目を開いた。
「はっ!」
 そこでは、誠が椅子に縄で縛り付けられていた。
 縛られていないアフラはばっと飛び起きる。
「アッ、アフラさん!」
 誠が悲痛な声をあげる。
「どうやらお目覚めのようじゃな」
「あんたたちは……」
「人の屋敷に入る時はきちんと礼儀をわきまえたらどうなのじゃ?」
 誠のそばには朱雀仮面が立っている。誠は縛られてはいるものの、幸い暴行され
たような形跡はなかった。が、だからといって何の解決にもならない。
 朱雀仮面はこの状況を明らかに楽しんでいた。
「うちらをどうするつもりでっか?」
「別に…どうもしない…。ただ、暇潰しにはなった…」
 それを聞いて、アフラは激昂した。すぐにも飛び掛かりたかったが、朱雀仮面の
すぐ隣には誠がいる。へたに飛び掛かれば、誠の命の保証はない。
「暇潰しにはなったって、あんさんどういうつもりなんでっか!? うちらを解放
しいや!」
「ははん! わらわたちを捕まえに来たくせに、いざ自分たちが捕まったら、解放
せよとは面白い! もし、わらわたちが捕まって、わらわたちが逃がしてくれと言
ったら、そなたたちはわらわたちを逃がすのかな?」
「あんさんたちはぬすっとなんだから、当然どす!」
「ぬすっととは人聞きの悪い。わらわたちは怪盗。ないしは都市盗賊といった所じ
ゃな。わらわの専門は高価な美術品じゃ。貧乏人など相手にせん」
「どっちも同じどす!」
「別にそんな議論がしたくて、そなたたちを捕まえたわけではない。では、さっさ
と本題に取り掛かろうか」
 朱雀仮面は腰の半月刀を抜くと、誠の首筋に突きつけた。
「ひいっ!」
 誠が情けない声をあげる。
「な、なんのつもりどすか!?」
 さすがのアフラもこれには動揺した。
「別にそなたたちをこのまま帰しても良いのじゃが、それではわらわがつまらんじ
ゃろう?」
「何が望みどすか? 金?」
 苦虫を噛み潰したような表情で、アフラ。
「そなたの財布などたかが知れておるであろうが。それに今は仕事外じゃ。つまり、
今は遊び。金などではなく----そんなものより……分かるじゃろう…?」
 優しい口調で喋りつつ、朱雀仮面の目がアフラの躰を舐めるように見る。
 アフラはそれで、朱雀仮面が何を求めているのか悟った。
「下衆が!」
 吐き捨てるように言う。が、朱雀仮面は口の端で皮肉な笑みを漏らしただけだ。
「勝者の余裕と言ってもらいたいな。敗者の言うことなど、聞く耳もたんわ。それ
に、ちょっと楽しませてもらうだけじゃ」
「…………」
 もはや文句を言う気も失せ、アフラは自分の纏っているものに手を掛けた。主導
権を完全に相手に握られた今、彼女にできる唯一の主導的なことだ。
「アフラさん……」
 誠が悲しそうな目で彼女を見る。
「誠はん…。見ないでおくれやす……」
 衣擦れの音が軽く響いた。


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