異星言語科学研究所 (1〜4)

一. 七王トモ

 人類の歴史全体からすればそれほどでもない昔、それは失われた。それは人類史上かつてない衝撃的な事件であった。一部の人々の狂気とも言える未来への夢を賭けた試みは、彼らにすれば大成功だったのかもしれない。しかし、その代償は計り知れなかった。
 事件の後、地球では、地震、それに伴う津波、火山噴火、豪雨、それに伴う洪水、干ばつ、暴風など、激しい異常気象が何年にも渡って続いた。山が崩れ、低い土地や島が海に沈み、数々の湖が失われた。異常気象の本当の原因が、それが地球から奪われたためだったのか……。その証明は誰にもできなかった。しかし、誰もがそれが原因だとして疑わなかった。
 人類からは、多くの財産、幸福、そして、命が奪われた。人類以外の命も大量に失われた。
 築き上げた文化からも、多くのものが失われていった。それは形のないものにも及んだ。時を重ねながら、徐々に失われていったものもあった。
 七王トモという名の少年が住む日本では、あるものが失われた。他の国では似たようなことは起こらず、唯一日本という国に於いてのみ、それがことごとく消し去られた。

 その日、トモは夢を見ていた。母との最後の日の夢。七年前のことだ。少年はまだ七歳だった。母の名はあずさ。彼女は日本の古い言葉を研究する言語学者だった。

「お母さんが行くサセボいせきってどんなところ?」
 ベランダから夜空を観ながら、母と子は話していた。
「ここから西南西にだいたい七〇〇キロ。海底二千メートルのところよ。そこには、三百年以上昔、日本で使われていた言葉が書かれた本や記録メディアがたくさん残っているのよ」
「そのころの日本の言葉ってどんなものだったの?」
「全体的には今とほぼ同じね。たった一つの大きな違いを除いてね」
「どんな違い?」
「今は使っていない言葉が昔の日本語にはたくさん存在していたのよ」
「それらはどうして使われなくなったの?」
「きっとそれは、昔、地球から大切なものが奪われてしまったから……」
「大切なもの?」
「それはね――――」あずさはトモの耳元に唇を近づけ、小声でそっと教えた。
「――――さまって何?」
「地球のそばにいつもいたお友達よ」
「お友だち? どうしてそれはうばわれちゃったの?」
「夢を叶えるためよ。でも、そのせいで、いっぱい人が死んでしまったけど……」
「それをうばったのって、だれなの?」
「今は別の星に住んでいる人達よ。ここからもその星が見えるわ。ほらあれ……」
 指し示した先に、明るく輝く惑星があった。トモは「わあ」と声をあげた後、再び訊ねた。
「うばわれた地球のお友だちもそこにいるの?」
「そこにはいないわ――もしかしたら、お母さんの夢はそれを見つけることなのかも……」
 あずさを乗せ佐世保遺跡に向かった船は、消息を絶ち、後に遭難事故と報じられた。あずさ達は死んでしまったと皆が思う中、トモは母が生きているとずっと信じ続けてきた。
 夢を叶えようとした人達に会い、そして、地球から奪われた友達――を探せば、母にもきっと会える――いつしか彼はそう思うようになっていた。
 それと同時に、彼らが実現しようとした夢がどんなものだったのか、トモは知りたかった。
「まずは宇宙へ……そしてあの星に行きたい――」
 星の方角に消えていく母の姿を追いながら、トモが夢の中で叫んだ時、目が覚めた。

「――寝過ごした」
 その日はトモが食事当番だった。トモは父の和人と二人で暮らしている。味噌汁を煮ながら、手早く食事の準備をした後、今日も階段を上り父を起こしに行く。
 黒地にカラフルな煙のようなものが描かれたTシャツ姿。トモはいつもこんな感じの服ばかり着ている。それは宇宙を現した絵だ。この服も含め、すべてがトモ自身によって描かれたものだ。星雲、恒星、銀河、超新星爆発、太陽コロナ、太陽系惑星の軌道図……、想像図も含め、そういったものが描かれた服を何枚も作っている。
「おはようお父さん!」と布団を揺すると、父は眠そうに声をあげた。
「あっ、え、もう十早か……」
 ここで父が使っている『十早』とは、日の出からの数時間のことを示した言葉である。いつの頃からかこの言葉が使われるようになっていた。代わりになる言葉がなかったためだ。
「僕、時間がないからもう行くよ」
 父は布団から眠そうな顔を出し、「え、夏休みじゃないのか?」と言ってあくびをした。
「夏休みは来週からだよ。六月の洪水の時の休みのせいで一週間ずれたんだよ。忘れたの?」
「そうか、来週だったか……」
 その言葉をちゃんと聞く余裕もなく、トモは、階段をかけ降り、あわてて家を出ていった。
 しばらくして、父は、ぼさぼさの髪で眠そうにダイニングに降りていった。食事の準備ができていた。テレビのスイッチを入れると、ちょうど、八時のニュースのヘッドラインを放送しているところだった。
「どうせ、俺は急ぐ訳じゃない。時間がないなら食事の準備なんかしなくていいのに……。ほんと、トモは生真面目な奴だ」
 今日の食卓には、茶碗にごはん、軽いセラミックのスープ皿には味噌汁。納豆のパック、そして小さい陶の器に生卵が一個。それを見て和人は顔をしかめた。
「また、卵がそのまま……」
 その時代の日本では、生卵はそのまま食卓には出さない慣習になっていた。形が崩れるようにかき混ぜてから出すのだ。しかし、トモはいつも、こうやってそのまま食卓に出す。
「そういえば、あずさもこうやって卵をそのまんまで出してたなあ……」
 日本のごく普通の家庭に育った和人は、生卵をそのままにしたりしない。和人の場合、慣習に従うというより、その状態が我慢ならないのだ。黄色い球形が目に入った瞬間、すぐにかき混ぜてしまう。何かがそうさせてしまう。それはきっと、和人の母から伝染したのだろう。和人の母も、殻から出た生卵がそのままの形で存在している状態を嫌った。
 そうやって、三〇〇年経ったこの時代も、生卵をそのまま食卓に出すことが不作法だと、人から人に伝わり続けている。気にしない人も増える一方で、不快に感じる人がまだどこにでもいる。それが、昔、あの凄惨な事件を体験した後の二十五世紀の日本の姿だった。
 和人の母があずさとの結婚を強く反対したのも、彼女が卵をそのままで出したのを見たのがきっかけだった。
「孫のこんな行為を、おかんが見たらどう思うかな……」
 卵をかき混ぜるうちに、ニュースヘッドラインが終わり、画面にアナウンサーが現れた。
「おはようございます。二〇三日、星曜日、八時のニュースです。まず初めに、大変重要なニュースをお伝えします。どうか、皆さん落ち着いて聞いてください」
 そこで、アナウンサーは少し間を置いた。和人は地震警戒宣言でも出るのだろうかと思った。それはさほど珍しいことでもなかった。
「――三年昔に設立された東北州福島県の国際社会文化研究所では、今回、新たに異星言語を学ぶ研究生を公募することになりました」
 ――えっ、何だと、異星言語だと?
 和人はそれまで全く見ていなかった画面に顔を向けた。
「なお、世界の報道機関各社との申し合わせにより、今まで、異星人に関しては、一環して報道規制を敷いておりました。申し訳ございません」
 いつになくゆっくり喋った後、アナウンサーは深くお辞儀をした。
 画面を見たまま、和人の表情は凍りついていた。卵をかき混ぜる箸が止まっていた。
「今回の研究生公募を機会に、異星人に関する報道も解禁になります。これは、世界代表者会議で決定した事項です。これからは、当社も、関係機関との連絡を取りつつ、段階的に異星人に関する報道を行なって参ります。既に言い伝えなどにより、ご存知の方も多いとは思いますが、この異星人とは、今から約三〇〇年の昔、我々から『ツキ』を奪った人々です」
 その言葉で我に返った和人は、一度瞬きをしてから叫んだ。
「ツキだと! この言葉、公共放送では初めて聴いたぞ。これは大変なことになった!」
 卵がテーブルにこぼれた。
 和人がその言葉を初めて聞いたのは、彼の妻あずさに初めて会った時のことだ。それは、昔の日本では頻繁に使われていた文字……。
「国際社会文化研究所は、実は、この異星に住む人々が現在使っている言語を研究するために設立された機関です。今日をもって『異星言語科学研究所』と正式に名称を改めます。そして、今回、日本を含め、世界八カ国で、その言語を学ぶ研究生を募集します。定員は総計約一千人。資格は年齢十二歳から二十五歳までの男女。学校は各国共、全寮制となっており、研究生になりたい人は選抜試験を受けることになります……」
「あずさはやはり生きているのだろうか。もしかして、この研究に関わっているのだろうか」
 それと同時に和人は、息子のことを考えていた。
 ――トモも、私のもとを離れ、行ってしまうのだろうか……。
 その頃、トモはまだ何も知らぬまま、学校への道を急いでいた。

二. 一ノ瀬タカト

 父が嫌いだ。母が嫌いだ。姉も、祖父母も、学校の教師も、そして、クラスの連中も皆嫌いだ。自分を取り巻く全ての人間、全て大嫌いだ。
 何もかもが中途半端で妥協ばかりのこの日本。皮肉なことにこの国は『堕落』という言葉すらも失ってしまっている。腐っている――と彼は思った。そして、そんな日本で、多くの人間が何の問題意識もなく、適当に楽しく暮らしていることが許せなかった。やっかいな問題には目を向けようとはしない国民性も嫌いだった。
 例えば、奇跡的に助かった一人の子供のニュースにはこぞって「よかったよかった」と感動を寄せ、幼気な児童が殺される事件が起きれば、その犯人に憤りの気持ちを集中させる。しかし、一方で、毎年大勢の自殺者が出ている事実には、誰も関心を寄せようとしない。
 政府は、社会や政治に巣食う腐臭漂う大きな勢力を全く追及できない。その上、巨大国家には、飼い犬のように尻尾を振っている。国民誰もがそれに気づいているのに、決して誰も立ち向かおうとしない。
 そんな日本のすべてにうんざりしていた時、彼はその組織を知った。

 一ノ瀬タカトという名の少年は、そのニュースを薄暗い狭い部屋で見ていた。
 カーテンを締め切り、ヴァーチと呼ばれる立体映像体感装置以外は、無駄なものがほとんど何もない殺風景な部屋。そのヴァーチに平面のニュース映像が映し出されていた。疑似仮想空間を体感できるこのような大がかりなヴァーチを持つ家庭はまだほとんどない。
 彼はヴァーチを使い、格闘を学び、数学や物理学、日本の歴史、そして、昔の国語を学んだ。
 机には、中年女性の立体ホログラム写真がある。それは、彼が唯一尊敬する人だ。
 部屋とヴァーチは組織から与えられた。両親と住む家もちゃんとあるが、時々、タカトは友人宅に泊まるなどと嘘を吐き、家を抜け出て、この部屋で『朝』を迎える。
 両親がその嘘に気づき、問い質した時があった。タカトはそれに強く反抗し、しばらくの間、彼にとって苦痛な日々が続いた。
 最終的には両親は干渉をやめ、タカトは自由を得た。しかし、そこに至るまでの間に、両親の愚かさや弱さを思い知ったタカトは、ますます彼らが嫌いになった。
「試験日は、今年の三百五十七日、星曜日です」
「十二月か……かなり急な話だな」
 二十五世紀の日本で使われる曜日は《日星火水木金土》の七種類である。つまり、星曜日とは、昔の暦でいう月曜日のことだ。
 一年を十二に区切る『月』という単位を使う習慣は、この時代の日本にはなく、元旦からの通算日数が、日付を示すのに使われている。日本の暦から『月』が失われたことを知る者も、今はごくわずかになってしまった。
 しかしタカトはそれを知っている。組織が教えてくれたのだ。
「試験科目は、国語、英語、数学、物理学、状報技術、音楽、体学です。なお、試験及び授業では、最新鋭のヴァーチが使われます。詳細は公式サイトに掲載されます。アドレスは携帯でご受信下さい――引き続きニュースを続けます……」
 アナウンサーのゆっくりした喋り方が普段の速度に戻った。
 そもそも、ヴァーチも、異星人が作り出したテクノロジーだと聞く。もしかしたら、研究所では、本家異星人製作のヴァーチが拝めるのかもしれない――タカトはそんなことを思いながら、ディスプレーをオフにした。
 ――まさかそれはないか……。
 その時、淋しげなアルペジオが室内に響いた。タカトは机の上の携帯を掴み、無言で出た。
「――ニュースは見たか?」
 低い男の声だ。携帯のディスプレーには映像も発信者名も表示されていない。少し間を置き、タカトは口を開いた。
「――ああ、概ね予め聞いた通りの内容だったが、まさか『月』という言葉をこれほどあっさり使うとは思わなかった。正直、びっくりしたね。連中はそんなに焦っているのか?」
「『月』を示す文字をこれほど嫌う国は日本だけだ。だから直接関係はないだろう。だが、研究生を一般公募するという行為自体はまさに焦っている証拠だろうな」
「何故、公募に踏み切ったんだ? やはり、星に行く気なのか?」
「はっきり言う奴だな。まあ結局はそうだろう。星に行くには、秘密を知る今のスタッフだけでは不足するのだろう。公募に頼らなければならない状況まで、奴らは追いつめられているという訳だ」
「しかし、星に行くなら、まずは、宇宙飛行士や宇宙船建造スタッフなどを募集すべきだろう。何故、言語研究の研究生なんかを募集するんだ?」
「さあな。憶測だが、外交などの目的で、言語を修得した人材が大量に必要なんだろうな。それに星へ行く計画自体はやはりまだ隠したいのだろう。友好的な関係を築く目的なら、交流は長距離通信だけでもできる訳で、今回の話は、表向きそういうことになっている」
「友好的関係だと? 笑わせる……」
 笑わせるといいつつ、タカトの声には、怒りの感情が滲んでいる。
「ああ、お笑いだ……」
 通話相手の声も、そのタカトの怒りに同意するように厳しい口調で答えた。
「それに、十二歳から募集するなんて異常だ。まだ子供じゃないか。試験科目に物理学、数学、状報技術など、子供向けらしからぬ科目も存在するし」
「公式サイトはまだチェックしていないのだろうが、小中学生には免除科目もある。そもそも子供のうちに始めた方が言葉の習得も早い。第一、そういうお前もまだ子供だろうに……」
 確かにタカトもまだ十五歳だ。笑う顔に子供のあどけなさを残している。
「そんなガキをスパイに任命したのはどこのどいつだよ」
「ガキの方が怪しまれないからな。大体、お前はそんじょそこらの大人よりもずっと有能だ」
「ゆ、有能……しょ、少々、買いかぶり過ぎだ」
 男が使う言葉にタカトはまだ違和感がある。何度も聞く『お前』にはすっかり慣れているが、『有能』などは、その単語の意味を一瞬考えてしまう。それは組織でしか使わない言葉だからだ。タカトはまだ失われた言葉を習得している段階にあった。
「もちろん、入学試験には合格してくれるんだろうな」
「無論だよ。日本での募集定員は一〇〇人。試験をパスするのなんて余裕だよ」
「一〇〇人に入るだけじゃ駄目だ。多分その先にまだ選抜がある」
「星へ行くメンバーの選抜か?」
「ああ、多分……。そこまでの道のりはまだまだ遠いぞ」
「――そうだろうな……まあ、気長にやるさ」
「それからお前、任務中はうっかり正しい言葉を使うなよ」
 タカトはニヤリと笑った。まだまだそれをうっかり使わない自信を持っている。
「お前もな……」
 通話を終えると、タカトは立ち上がり、ホログラム写真の方に顔を向けた。スーツ姿の穏やかな笑みを浮かべた聡明そうな女性がそこに立っていた。
「連中の思う通りにはさせない――」そう呟いてタカトは部屋を出た。

三. 森川ゆみち

 森川ゆみちは、将来の進路に一応の結論を出したばかりの頃、家族と共に食事をしながら、そのニュースを見た。
 今年になってから、ゆみちは何か語学を学んでみたいと思うようになっていた。元旦、賽銭箱に小銭三百五十七円をじゃらりと投げ込んだ時、ふとそう閃いた。
 そして、一五八日(六月六日)の夜、特に親しい友達のいないゆみちは、両親と弟とで誕生日をささやかに祝っていた。
 ケーキに並ぶ十六本のろうそくの炎をぼんやり眺めながら、ゆみちは考えた。
 ――やっぱり、なんか新しい言葉を学びたいな。そろそろどれにするか決めなきゃ……。
 来年は高校三年生。そろそろ進学のことを真面目に考えなければならない時期だった。
 その国の人と話せるとか、就職の際に履歴書に書けるとか、そういう時にも役立つだろうけど、それよりも、ただ純粋に、他の国の言葉が学びたいな。だから、とにかく語学を学べる大学(別に短大でもいいや)に進みたいな……。
 二十日ほど昔(二十日ほど前)の初めての進路指導の時、そんな話をしたら、担任は、そんなゆみちの考えに全面的に賛成してくれた。でも、何語を勉強したいんだ? と訊かれると、はて何にしようか、その時は全く思いつかなかった。
 英語は苦手じゃないけど、学校で嫌という程、勉強させられてる。そうなると、まずはオーソドックスなとこでフランス、ドイツ、ロシア? それとも、少しマイナーなスペイン、イタリア? でも、そんな国々の文化にも社会にもあんまり興味ないな。まぁ、欧州のブランド物は結構好きだけどさ……。国交がない中国なんかも面白そうだけど、使ってる字が日本と同様漢字というのが、かなり不満だな。そういえば、韓国は文字の形が面白いな。
 よく考えてみたら、ゆみち的には、既視感を抱くような言葉が嫌なんだ。結構嫌。かなり嫌。絶対嫌。そうなると、英語に似ているヨーロッパの言葉も全部嫌……。
 自らの吹く息がろうそくから炎を奪ったその瞬間、
 ――韓国語もいいけど、文字を右から書くアラビア語がいいかな――そんな思いが湧き出てきた。それが十六歳を迎えたゆみちの決意だった。
 誕生日の三日後、二回目の進路指導の時、その気持ちを伝えると、
「え、アラビア語学科を設置している大学を受験したい? そりゃいいね」などと、担任は全面的に賛成してくれた。でも、その理由を聞かれて、
「だって、全然その言葉に馴染みがないから……。文字を右から書くのも面白いし」
と答えたら、変な顔をされた。
 その後、担任から、アラビア語文化圏の慣習とか宗教の難しい話を色々されて、アラビア語を使う人達って、そんなになんか色々と拘るの?――とちょっと驚いた。
 家に帰って両親に話すと、今度はいきなり怪訝な顔をされた。ママは国旗がどうとか言ってたけど、やっぱあれを気にしてるのかな……。でも、結局反対はされなかった。
 なんかちょっと不安だけど、アラビア語でいいか……。
 さっそく、アラビア語入門の本も買ってみた。結構面白い。何故か解らないがすいすい頭に入る。こんなに適性を持ってるとは思わなかった。こないだは、通りすがりのピザ配達のヨルダン人とアラビア語でちょっと話ができちゃった。兄ちゃんはすんごい嬉しそうだった。ゆみち的にもとっても嬉しかったから、頼まれるままにお金を貸してあげた。
 そんな訳で、ゆみち的にはそれで決まり! そういう結論が出ていた。さっきまでは……。

 でも、ゆみちはその日、ニュースを見てしまった。
「――国際社会文化研究所では、今回、新たに異星言語を学ぶ生徒を公募することに……」
「いせいげんご――」
 人と話す時でさえ、いつも、ぼそぼそと抑揚なく喋るゆみちは、その時も抑揚なくアナウンサーの言葉を繰り返したのだが、実はその言葉を聞いた瞬間、結構大きな感動を覚えていた。甘美な響きだな――とさえ感じていた。
 一方、両親は、ニュースの内容に驚愕していた。『月』という言葉に酷く動揺したのだ。
「つ、つ、ツキ……そ、そ、そんな恐ろしい言葉、どうしてニュース番組なんかで……」
 あれ? いきなり泣き出してる……。ママ、かなりやばいな。
「おちつけ、光子! しっかりしろ!」
 そういうパパも、全然落ち着いてない。「しっかりしろ」という言葉を繰り返しているだけ。そんな貴様こそオチケツ……。
 ユズキはテレビの電源を急いでオフにしている。そうか、それが先だよな。
「救急車、呼ぼうか」
「だ、駄目だ。きっと、今、日本全国でパニックになってる……一一九はきっと繋がらない」
 パパはわりと沈着なんだな。取り乱したママに怯えているだけなのかな。
 こんな状況で、異星言語科学研究所で勉強したい。異星言語を学びたい――などと言ったら、両親はどうなるだろうか。でも……。
「――異星言語が学びたい」
 そんな言葉は叫び声にかき消された。ゆみちのその声もやはり抑揚なく小さかった。
 パパは、急いでソファーにママを寝かせている。ユズキは氷枕を用意している。でも、え、冷やすの? 何で?
 私も何かやった方がいいのかな。でも、それより、今は、この自分の素敵な気持ちを言葉として発したい。こんな甘美な気持ち初めて……。ああ、今ならいつもは出ない声が出せそう。で、出る、やれ出る、今出る……。
 ゆみちはちょっと常人には理解し難いところがあった。その性格は、日常生活上はあまり大きな問題にはならなかったが、それでも時折、小さなトラブルを起こすことがあった。友達もまともにいない一つの原因はその性格だった。
「イセイゲンゴカガクケンキュウジョでベンキョウしたいノ!」
 その時、信じられないほど大きな声が出た。
 それに驚き、気を失いかけていたゆみちの母ですら、一瞬、体を起こしたほどだった。そして、その後、完全に気絶した。それにつられるように父も同じく気絶した。
 次々に気絶する両親を眺めながら、結構言いにくい言葉なのに、何だかやたら活舌(滑舌)よく発声できたなと、ゆみちは感じていた。
「お姉ちゃん!」ユズキが大声で叫んだ。姉はいつもボーっとしてるので、いつもついつい大声で呼ぶのだけど、この日は特に大きな声になった。
 ユズキは、姉のことを、ルックスはそんなに悪くない、成績も悪くない。行動力もわりと持ってる。英語だけでなく、アラビア語を話せるのも凄いし……。でも、いつもぼーっとしているのだけがどうもイマイチだな、と思っていた。
 他にも姉にはたくさんの問題があるのだが、それはともかく、ユズキはそんな姉がこんな溌剌とした声を発したことに驚いていた。異星言語科学研究所で学びたいと言ったことよりも、そのことに驚いた。ちょっとした感動だった。何だか舞台女優っぽかったと思った。
 その時、弟ユズキは、姉のその思いを全力で応援することに決めた。
 一方のゆみちは、その様子に、ついにユズキにも見捨てられたのかな――と勘違いしていた。

四. 小白川綾子

 その日、小白川綾子は、いつも通りとても朝早く登校した。だから、八時に報じられた重大ニュースのこともまだ知らずにいた。一番先に教室に入り、これまたいつも通り、ある書物をこっそり読んでいた。
 珍しく紙に印刷されたその書物は、手製の綺麗な刺繍入りの布製のカバーに包まれている。一ページ目には、某放送局名と枠で囲まれた社外秘の文字。書物にタイトルはない。
 その本の内容は、中学生にはかなり刺激が強いものであった。もし、彼女のやや厳格な父親が発見したら、すぐに本を破棄し、その後、厳しく彼女を叱りつけるだろう。
 だから綾子は、誰にも見つからないように、少し厚めのその本を肌身離さず持ち歩き、深夜や、朝早くにこっそり読んでいるのである。その彼女の『十早(朝)の習慣』は、クラスメートの中の何人かには、とっくにばれていたのであるが……。
 その書物には、彼女のような真面目な女子学生が読むのには不似合いな、卑猥な言葉が多数含まれていた。それは書物としてはあまりにも非常識な量だったが、その書物にとっては必要な量だった。差別用語もたくさん載っていた。
 彼女は、目に入るものはしっかり読む律儀な性格なので、結果として、それらの言葉の知識が、同年代の誰よりも遙かに多く蓄積されていった。
 しかし、彼女の関心はそれらとは全く別のところにあった。
 その書物は、ある放送局の『放送禁止語』を集めたものであった。古い本で、今はもう現場では使われていない。友人の祖父の遺品の整理を手伝った際、譲り受けたものだ。
 それはまるで辞書のようなフォーマットになっている。単語が五十音順に並んでおり、その後に、その言葉の言い換え方や簡単な説明が書いてある。それぞれの単語は、《放送禁止》《アナウンサーは禁止》《避けた方がよい》《好まない人もいる》《当社では問題なし》という五つのランクに分かれていた。
 卑猥とか、差別的な理由でリストアップされたものの他に、漢字に直すと月を含んでしまう言葉がその本には含まれていた。綾子の関心はそこにあった。但し、直接月を含む漢字で書かれた単語は一つもない。それは、日本ではすべて社会的に禁じられてしまったのだ。特殊な用途で作られたこの本でさえもその例外とはならない。
 月が含まれていた言葉を判別するのは比較的容易だ。卑猥語や差別語は、その後に書かれた説明で大抵判別できる。したがって、その残りの、どうして禁止なのか良く解らない言葉が、それであると大体考えてよかった。
『あさ』や『まえ』、『あかるい』などは、使用が完全に禁止された言葉だ。
 体の部分や臓器を示す言葉も、軒並み放送禁止語としてリストアップされており、この時代、それらは大半が外来語に言い換えられている。
 漢字では『蒼』や『碧』などと書かれる『あお』という発音は、アナウンサーが青色を表現するのには使ってはいけないとされた。それは、そもそもは、読み上げると月を含む『青』という文字を想起してしまう人がいたためだった(そんな日本人は、もうこの時代には少なくなっていたが……)。それらは『そう』とか『へき』と読むのが正しいとされた。
『ムーン(moon)』は《避けた方がよい》言葉に含まれるが、アメリカとの外交に配慮して、禁止にはなっていない。同時に、三日月など月を象ったものを含むマークなども禁じられていない。これはアラブ諸国への配慮だ。
 一方、月を含む漢字を遠慮無く使用する中国等とは、外交関係が拗れてしまっていた。
 また、『用』『済』『備』などを含む言葉は、《好まない人もいる》言葉に含まれる。しかし、例えば『使用』などは、普通に学校や日常で使用する言葉であり、それらを使わないのは、具体的に言うと、東救光教の信者達ぐらいだということは、中学生でも知っていた。これらの言葉を許すか許さないかで、この宗教は西と東に分裂したのだと綾子は聞いたことがあった。
 綾子は、この放送禁止語『辞典』を眺めながら、三〇〇年前には存在したおびただしい数の単語が、どうやって一つ一つ失われていったのか、その経緯等に思いを馳せるのが、楽しくて仕方なかった。少し後ろめたい思いを抱きながらも止められることではなかった。それは趣味というより、もはや研究の域に達していた。彼女はその研究成果を紙の手帳に記述し、肌身離さず持っていた。
 文章を筆記具で紙に書く行為は、その時代には珍しくなっていたし、学校で書き順を学ぶこともない。書道などという教科も失われていた。それでも、彼女は敢えて研究成果を筆記用具で紙に残した。
 一つの理由は、字を書くこと自体が好きだったこと。そしてもう一つの理由は、デジタルで残せば、知らないうちに誰かが盗み見るかもしれないと思ったからだ。
 でも実際は、何人かのクラスメートにその手帳は覗かれていた。
 その迂闊な綾子は、その日も、本に熱中している最中に、仲良しのクラスメートに背後から、「わっ!」とおどかされた。そして、その後に研究所のニュースを初めて知ったのである。

「綾ちゃん。異星人ってやっぱりいたんだね。異星言語ってどんな言葉なのかなあ」
 でも、綾子にとっては、異星人や異星言語の話よりも、『ツキ』という言葉が放送されたことの方が、よっぽど驚きであり、同時にとても嬉しいことだった。もしかして、自分のこの趣味を、この研究を、堂々と発表できる日がいつか来るかもしれない……。
 それと同時に、綾子は親友のトモのことを思った。
 七王トモ、その名字の『七王』は、『亡王』が変化したもの――という仮説を綾子は立てていた。『亡王』では、亡くなった王という意味になり、印象が良くないので、『七王』に変わっていった――彼女はそう考えた。
 綾子は、放送禁止語辞典の『のぞむ』の項を読んでいる時にその仮説を思いついた。
 そこには、《『臨む』の場合は使ってもよいが、もう一つの意味としての『のぞむ』は使ってはならない》と書かれていた。そして、その使ってはならない言葉の方の補足として《時に『亡王む』とも書かれる》という記載があったことに、綾子は注目したのだ。
 その言葉は、『観覧する』とか、『願う』などに言い換えるべきと、その辞典には書かれていた。だからきっと、この『のぞむ』の『のぞ』は元は月という形を含む一つの漢字だったのだろうと彼女は考えたのだ。
 その『のぞむ』という字がどんな形をしているのか、綾子は知らなかったが、トモの名字は昔はきっとその字だったのだろうと推測した。一方、自分の名字の『小白川』は昔からずっと小白川だったに違いない。そう思うと、ちょっとトモのことが羨ましかった。
 確かに彼女の推理はかなり当たっていた。しかし、彼の名前には、彼女の推理した一つの月に加えて、あと三つの月、合計で四つの月が含まれることは綾子にも全く想像できなかった。
 彼が祖先から引き継ぐはずだった名字は『望月』であった。そして、彼の本来の名は『朋』。それは、彼の母、あずさがつけた名だ。『七王トモ』は本当は『望月朋』であった。

 そのトモは、始業時刻ぎりぎりに息を切らせながら教室に飛び込んだ。すると、彼の前に、「十早のニュース見たか?」などと、クラスメートが何人か集まってきた。トモが宇宙大好き少年なのは、誰もが知っていた。
 そして、クラスメート達が、もったいづけながら、代わる代わる異星言語科学研究所のことを話した。みるみるうちに少年の目に輝きが増していき、しまいには、感激のあまり涙さえも溢れ出ていた。研究所の場所も聞かずに、トモは声をあげながら教室を出ていった。
 その様子に、いかにもトモらしいな――と綾子は感じた。そして、
 きっと入学するんだろうな。ちょっと淋しいな――と、トモの父と同じことを思った。


This page copyright (c) 1996-2014 Masatoshi KATO(Shinmeikai)
Last Modified on Saturday, 13-Oct-2007 20:52:05 JST