3月31
朝、腹が減って9時に(日本時間4月1日22時)眼が覚める、始めて寺さんに起こされる前に自分で起きる。
寺さんも体調が良さそうで一安心。朝食後目黒氏に電話、午前中に「ダーマ」へ行き整備の手伝いを約束。
10時にタクシーを呼び、チャガラマスのピーク・シップヤードへ行く。車はエアコンの効いた日本のトヨタの
右ハンドルのクラウン、料金は150TT$(日本円3000円)。
ピーク・シップヤードに到着して、ビールを飲みながら、
ケープホーン通過のチリ海軍発行の証明書を見せて貰う。凄いなあ〜!の実感!

水漏れの修理をするので、船内の荷物を全部出しシップヤードで借りた部屋へ運ぶ作業のお手伝い。
8畳位の部屋がベット以外に足の踏み場が無い位に荷物が多い、流石世界一周の積荷。汗が噴出すので
脱水症状避ける為?水代わりにビールを飲みながらです。温度は30度位ですが湿度が随分高そう。

作業を終え、しばしお昼寝の後、目黒氏、寺さんと3人で、「マキシー」でホテルへ、一人5TT$(日本円100円)。
道路で手を挙げると停まってくれ、ブザーを押すと停まって降ろしてくれる、超安くて便利な乗り合いタクシーです。
ホテルで聞いて、夕食は近所の中華料理店「イーグルス」。超安い美味い早いレストランでした。

トリニダード・トバゴ目黒氏(世界一周中)激励旅行(13日間苦行禁煙の旅)

3月27日
目黒氏にポートオブスペイン着の日時&いつもの携帯電話が使用可能をメールで送信して「フレデリカ」寺島君と約束の時間に
新幹線乗り場に行くも着てない。携帯電話に掛けるも留守番電話っ!なんじゃこれわ?!今回の旅行の行く末に不安がチョッピリ。
約束の時間の「のぞみ」が来たので乗車。目黒氏から26日10時(日本時間26日23時)に入港の電話が携帯に入る。

寺さんから連絡が無かったか、三河ヨット、伊藤会長、寺島君の自宅と車内から電話を掛けまくる。
結局、品川駅付近で寺島君から今東京駅にいると連絡が有り、一安心。結局は時間を間違えた、携帯電話を忘れたそれだけの事。
もう一つ、入国審査を終え飛行機に乗る直前寺さんがエアラインの係員に呼び出される。機内預けの荷物の中に、
持ち込み禁止のキャンプ用簡易ガスボンベを入れていて没収。んがっ?!

17時、エアカナダ002便の機上の人となり12時間禁煙の旅の始まり、と思ったのが結果、実は甘かった!。
機内放送は英語、フランス語、日本語。乗り換えのトロント(カナダ)までの苦しかった事。
16時10分(日本時間28日朝5時10分)トロント到着、待ちに待った喫煙っ!タバコの吸える場所を探すも、空港内は全面禁煙。
えっ!!乗り換のエアカナダ73便までは6時間の待ち時間だぞっ!期待を裏切られガックリ!
禁煙ガムを噛み、本を読むしかない。
長〜い6時間が経ち22時35分カラカス(ベネズエラ)行きに乗る。
機内放送は、英語、フランス語、スペイン語の順。
28日朝3時40分(日本時間29日14時40分)5時間のフライトでやっとカラカス空港に着く。早速喫煙場所を探すも、
ここも空港内全面禁煙と事。再び期待を裏切られ、え!えっ!と絶句。1時間15分の待ち時間を悶々と過ごす。苛々はもう最高潮、
寺さんの涼しそうな顔が何とも眩しい?!4時55分何故か?トロントから来たのに又同じ飛行機でエアカナダ73便トロント行きに
再び乗り込む。しかもゲート入り口にはパナマ行きと表示されている、まあ〜南国の事でいい加減は判っているからOKだけどネ!
1時間15分のフライトで6時10分(日本時間29日19時10分)やっとトリニダード・トバゴの首都ポートオブスペインに着く。

税関もいい加減で寺さんは税関で荷物を全部開けて調べられるが、タバコが4カートンも入れて有ったが、OK!!
税関検査が終わったら、丁度目黒氏から私の携帯に電話があり後15分位で空港に迎えに行くとの事。
やはり外国旅行は携帯電話の持ち歩きは非常に便利です、目黒氏も私も携帯電話をもっていますから、
私はさっさと先に空港からでてタバコ。成田を出てから約26時間ぶりのタバコ!感激でしたが空港の出入り口付近にも灰皿は
一切無し、道路に捨てろと言う習慣なのか?後程聞いてみよう。余談ですが、
便利な世の中になったのもんですネ、
いつもの携帯電話の番号のままで外国で電話が使えるんですから。
15分ほどして寺さんが税関検査を終え外に出てくる、
荷物を寺さんに見ていて貰って、トリニダード・トバゴドルに両替に
空港建物内へ再び戻る。米ドル200$で1186TT$20¢だった。
(T・T・$トリニダードドル、1USドル=6T・T・ドル)
簡単に考えるとトリニダード・トバゴドル(TT$)1ドルは、
日本円の20円の感覚でしょう。
朝と言うのに気温はもう約30度あり物凄く蒸し暑い、待つ事30分位で目黒氏が懐かしい、
が元気な笑顔で到着。
寺さん曰く目黒氏に会うなり「真っ黒に日焼けしてるかと思ったら、あまり焼けて無いネ」だって

寺さんは、街を探検に行くと言って出かけましたんで、私の携帯電話を持たせました。私から寺さんに部屋の電話から連絡がつくし
寺さんからはホテルを通じ部屋に電話が通じますし、目黒氏ともリアルタイムで連絡がとれますから。ついでに要領の良い私は、
寺さんに剃刀をに買って来て呉れる様頼みました。爪切りも剃刀も飛行機には持ち込めません、時代も変わりましたネ。

目黒氏はセールの修理屋が打ち合わせに船に来て、午後からはアメリカ大使館へビザの申請に行きました。
その後、15時過ぎ米国大使館から戻った目黒氏と3人で、入港したチャガラマスのマリーナへタクシーで行く。

Hで始まるナンバープレートが付いているのが正規のタクシーです、屋根の上に看板とかボデーにタクシーの表示は殆ど
有りませんから気を付けないといけません。勿論?メーターは有りませんから、乗る時に値段を決めます。

普通の人々は安い乗り合いタクシー(マキシー)に乗ります。公共交通機関である鉄道は無い様です。旧日本帝国軍は占領したら
直ぐ鉄道を(ビルマ*クワイ河マーチ?中国*満州鉄道等)作ったのに、大英帝国は植民地にしたんなら、罪滅ぼし?に
鉄道くらい作ったらどうだ!紳士の国と自惚れてるらしいが呆れるネ。どケチか?やらずぶったくりじゃないか?
カリブ海域に来て、改めて東南アジアとは別に、未だ植民地が多い事に気が付き、今更ながら驚いた。
一部気が付いた所を列挙して見た。島や地域の半数以上が独立していない。
(イギリス)タークス&ケイコス諸島、ケイマン諸島、英領バージン諸島、アンギラ、モントセラート、
(アメリカ)プエルト・リコ、米領バージン諸島、(フランス)セントマーチングアドループ、マルチニーク、
(オランダ)サン・マルタンアンティル諸島、キュラソー、ボネール。
東南アジアは植民地は私が知る限りでは1つも無い、第二次世界大戦を機に欧米から全部独立したと思う。
こんなもの掲載して私は、欧米諸国へはイミグレーションでブラックリストに載り、入国できなくなるかな?んっな事は無いか!

裏切りの世界史(発行所 祥伝社、著者 清水 馨八郎)の
「あとがき」に共感する事が多かったので、
参考文献として一字一句間違いなく(勿論著者に無断で、添削はしない)転載したい。
*コペルニクスの地動説の誤り(新天動説の進め)
今から500年ほど前、ポーランドの天文学者コペルニクスは、
太陽中心の宇宙観を提唱し、従来の地球中心の宇宙観を批判した。このように物の見方考え方がガラリと変わる事を
コペルニクス的転回と言う。かくて以後近世五百年の間、人々は地動説を真理として、古代の人々や宗教家の天動説を
愚かなことと笑っていた.。とろこが、地動説を信じながらも人々は依然として太陽は東から昇って西に沈むもの、
月も星も動いている、人類の歴史も日常生活も地球は静止していて天体が動いているという前提で成り立っている。

一体動くとは何か。これは相対現象で、太陽に中心をおけば地球が動くし、地球に中心をおけば太陽が動くことになる。
子供と汽車に乗れば「パパ、景色がどんどん走っている」と正直に叫ぶ。まっすぐに降っている雨も、車窓に斜めに水滴が当たる。この時、親が汽車が走っているから景色が動いているように見えるのだなどと説明することはない。
子供の正直な観察に従うべきだ。さて人類は地球上の生物で、過去も未来も太陽の側に立つことは絶対にない。
地球は永遠に静止していて暦も時間もカレンダーも天体が動くことで成り立っていて問題はない。
してみると人類が絶対に住めない太陽からみるコペルニクスの地動説は以後の人々を惑わしたこと甚だしい。
地球は水星、金星、火星などと同じ太陽系の惑星であるという天文学的知識を知ったうえで、
改めて人類中心の天動説を信ずるのが正しい。この新しい仮説を「新天動説」と名づけておく。

*従来の日本の世界史はすべて西洋中心の思想
日本人の歴史は日本列島の上に生起した歴史である。東洋史も然り。
ところが日本人が学校で学ぶ世界史はすべて西洋中心にみてもので、西洋は文明で非白人は未開か野蛮になっている。
これは先の地動説的誤りを長く神事こまされていたためである。西洋史ではコロンブスは英雄で、アメリカ「発見」となっているが
「到着」しただけで、アメリカはずっと以前からインディアンが見つけて住んでいたものだ。大航海時代などと誇っているがこれは
白人の世界的海賊侵略泥棒、大バイキング時代というべきだ。十字軍は聖地奪還の聖戦(クルーセイド)などというが、
すでに高い文明圏にあった中近東にとっては無頼の西洋の野蛮人の侵略だったのだ。また七つの海を海賊的に支配した
イギリスの大英博物館は、世界中から略奪してきた何百万もの宝物を並べているので大泥棒博物館というべきものだ。
日本の学校で教える世界史がなぜ西洋文明史観になったかは、先述した通り、西洋史学の父といわれたランケの高弟
ルードベヴィッヒ・リースを明治中期にお雇い外国人として招いたからだ。ランケの世界史は西洋中心論でアジア野蛮論を説き、
西洋は善であり父であるという西洋優位支配の正当性を説き、これがリースによって東大の西洋史学の伝統になり、
林健太郎などに受けつがれ、今日に到っているからだ。

西洋は野蛮だの証明
日本人及び非白人は長い間、「西洋人は文明人だ」が常識として疑わなかったものを、「西洋人は野蛮人だ」と価値観、
歴史認識逆転させることは、正にコペルニクス的転回である。この観点からすると、白人が二〜三百年の短期間に全世界を
アッと言う間に植民地的支配ができたのは、文明人だったからではなく、全く逆に野蛮人だったから可能だったことになる。
次にこれを肉体的野蛮性と精神的野蛮性の両面から証明してみる。西洋人がなぜ白人と呼ばれるのか。地球の生命は
すべて太陽の恩恵で緑色や、動物なら黒か褐色と多少の色がついて生きているのが普通である。ところが白人だけが長ネギの
白い根元の部分のままである。人類は数十万年前アフリカの熱帯圏で生まれたと言われる。強烈な太陽の光、紫外線を
よけるために皮膚の表面をメラミン色素で覆い黒色になるのが普通である。人類の仲間に使いゴリラやチンパンジーの皮膚の色が
真っ黒なのはそのためだ。黒人として生まれた人類が北に進むに従って、太陽の乏しさに応じて褐色や黄色人種になってゆく。

西洋人の祖先はコーカサスあたりに住んでいたが、アジアの蒙古民族などに北に追われ、追われて、寒帯圏でやっと生き延びた
人種のようである。一年の半分は太陽が当たらないので白クマのようなハダになり、目は爛々として凶暴性を帯びるようになった。
ハダがシラコ状で普通の人間になっていないので、造化の神からみると出来損ない、焼き損ないの人間である。西洋人はアフリカの
土人をクロンボと呼んで馬鹿にするが、実は白人のほうが人間になっていないので、「シロンボ」と呼んで卑下されるべき存在
だったのである。白毛で覆われているので、私たち祖先が「毛唐 ケトウ」と呼んだのは正しい。毛むくじゃらで猿に近い人種である。また寒い空気を温めて呼吸するためハナが長く突出する点、犬に近い生物となった。現在西洋人の居住空間は、

人類の中で最も北に位置する集団で、その祖先はさらに北、北緯60度以北から移動してきたバイキング(海賊)の子孫である。
世界一の酷(キビ)しい環境が生きるため野獣性を帯びるのは当然である。

特に太陽の光に対する疎外感から南方民族を憧れ嫉妬し、憎悪と怨念の根を以て、南への侵略が始まるのである。
白人が人間が住んではならない厳しい自立環境から、肉体的欠陥と同時に精神的欠陥におちたのも当然である。
雪と氷の環境では農業はできない。彼らの生業は狩猟、牧畜、略奪である。狩猟は動物を罠や囮で騙して捕らえ殺して食する
生活だ。貿易品の第一は毛皮、第二が奴隷だ。他民族を襲って女、子供を狩りすることは動物を捕らえるより容易だ。
鷹が吾が子を育てるのに兎やリスを捕らえ与えて何のあわれみも罪の意識もないように、白人の祖先は人間を奴隷にして家畜と
同じに扱って罪やアワレミの情など感じては生きていけない。彼らはこのような生活を数千年も続けているうちに、人間が当然もつ
憐憫の情や約束を守る徳義の情を失ってしまった。つまり、人間性を失ってしまったのである。彼らが海賊のウマミを知ってからの
八世紀から十一世紀に及ぶバイキングの跳梁で、その闘争性、残虐性、略奪性はいよいよみがきがかけられた。

彼らの野蛮性は十一〜十三世紀に及ぶ十字軍の暴走で、さらに訓練されてきた。この野蛮なバイキング的暴走族が十五世紀以後
一度世界の海に乗り出すとアッという間に世界を制覇してしまった。大航海時代とは正に世界バイキング侵略暴走時代だったのだ。太平洋には二万の島々があったが、何の防備もせず平和な暮らしをしていたが、彼らは片っ端から鉄砲と十字架をかついで
襲いかかり、略奪していった。無主物先取特権(主のない物は最初に見つけた人のもの)だとばかり自分の土地にしてしまった。
誰も住んでいなかったので早い者勝ちで自分の所有にしてしまったのだ。何が悪いかという言い分だ。先住民がいたはずだと言えば、白人以外は人間として認めておらず、先住民は猿やけものとみなしていたからである。オーストラリアのインディアンは、
白人の狩の対象で、またたくまに絶滅に近く追いこまれてしまった。明らかに人道上の犯罪である。

*大東亜戦争史観のコペルニクス的転回
異なる二国間で歴史の共有は困難である。例えばジョージ・ワシントンはアメリカでは独立と建国の英雄だが、
英国では植民地を奪った悪人となる。また百年戦争のジャンヌ・ダルクは仏の救国の英雄だが、英国では火あぶりの刑が妥当な
魔女となる。伊藤博文は三回も首相を務めた明治維新の元勲だが、韓国では伊藤をハルピン駅頭で暗殺したテロの安重根を
英雄にしている。全くアベコベの評価である。戦争は正義が勝つとは限らない。正義は常に勝者が、一方的に創るものである。

日米戦争は東京裁判でアメリカの立場では日本を侵略国と断定したが、これは全く逆で、米が侵略者で日本が被害者なのを
アベコベに評価させられている。戦後日本はこの敵の都合で決めた歴史を自国の歴史として信じこまされてきた。
ここに奇妙な「自虐史観」が生まれた。歴史上自国の戦争を侵略だと認めた国は一つもない。

何らかの理由をつけて正当化している。自虐史観などという概念はどこにもなかった。ここに日本の不幸が始まる。
敵の大将マッカーサーも帰国後上院で、日本は自衛のために戦ったので東京裁判は誤りであったと断言している。
裏を返せば米が侵略者だと言っているのだ。また印度のパール判事の日本無罪論も、英米のほうが有罪で侵略者だと言外に
のべているのである。このことから大東亜戦争は日本の立場からすると明らかに英米のほうが日本への侵略戦争を
仕掛けてきたことになる。次に日本人は、あの戦争は無謀な負けいくさだったと認識させられているが、世界史的にみると
勝ちいくさだったのである。戦争の勝敗は個々の戦闘にあるのではなく、目的をはたしたかどうかで決まるものだと独の哲学者、
クラウゼウィッツは「戦争論」で明言している。この点、白人は植民地をすべて失い西洋の古巣へ帰り、アジア、アフリカの植民地は
解放され人種差別なき世界地図が実現したのである。アテネオリンピックで白人にまじって、黒も褐も黄色人種も二〇二ヶ国が
参加できたのは誰のおかげか。大東亜戦争以前は白人のみの三、四十ヶ国しか参加できなかったのだ。
地球上に日本国がなかったら、世界は依然として白人の植民地下に呻吟していたであろう。かくて大東亜戦争は世界史的、
長期的に大観すると、日本はその目的に勝った大聖戦であったのだ。昭和時代とは暗い時代ではなく、日本民族が
人類解放のため独り正義のために戦って勝利した。

明るい「勝和」時代だったのである。かくて我々は戦後、敵が都合よく捏造した歴史観(侵略戦争と敗戦)からの自虐史観から
解放されるのである。大東亜戦争は日本からみると、米が侵略戦争をしかけ、結局勝ちいくさであったということを知れば、
正に歴史認識のコペルニクス転回ということになる。これで国民の自信と誇りは高まり、本然の日本にもどることができる。

*太古からの平和大国、日本
二十一世紀最初のオリンピックが、アテネで開催された。五輪は平和の祭典である。五輪の敵は戦争である。
戦後日本は六十年、一度も戦争をしていない。先進国の多くは何十回と戦争を続けている。クーベルタンが国家平和賞を
決めておいてくれたら、日本は毎回金メダルである。今回日本がメダルラッシュに沸いたのは、金メダルをとった個人努力だけ
でなく、これを支える、国家の平和力、経済力、文化力の裾野の広い総合力の結果とみるべきだ。初代神武天皇の建国の理想が
「八紘一宇」である。これはクーベルタンの五輪精神とまったく一致している。
二十一世紀の世界平和も、世界は日本に期待しているのである。

第一章で指摘した、西郷隆盛の西洋人は野蛮ぢゃの先見の明の達観には改めて敬服する次第である。)
 

マリーナ敷地内に入管、税関が在りレストラン、銀行、スーパーマーケットも在る至れり尽くせりの設備です。
ここへ昨日まで泊めていたという場所を見て、ピークと言う近くのシップヤードに上架して有る「ダーマ」に行く。
船上で私が持って行った目黒氏の大好物の「カズノコ」で、ビールのミニ宴会。勿論、三河ヨットから預って来た図面を参考に、
水漏れ箇所の点検修理改造等の話し合いも。タクシーが待たせて在ったので、そこそこで切り上げチャガラマスのマリーナに有る
レストラン「クルーズイン」で夕食をする。ここは2階に有りオ−プンエアで禁煙では有りません。
久しぶりに寛いで飲み食い出来ました。以後目黒氏をピークの「ダーマ」に送り、ホテルに着いたのが23時頃でした。

寺さんが飲み足ら無い様子だったんで、ルームサービスでライムをココナッツミルクでシェイクしたトロピカルドリンクで有名な
「ピナコラダ」を頼み、部屋で飲む。翌日朝寺さんが「夕べのアレ効くなあ〜!」って言ってました。

旅行記2へ

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目黒氏は「オーニングが在るから大丈夫なんだ。」早速ポートオブスペインの街中に在る、予約済みの「クラウンプラザホテル
(868−625ー3366)へ行きアーリーチェックイン。部屋のベランダからパリア湾&港が見え海の眺望も素晴らしい。

道中道端にバナナや椰子が実をたわわに付けてなっている、寺さん感激。朝でもなく昼でも無い中途半端な時間にてホテル内の
店はコーヒー位しかなく、止む無く目黒氏とダウンタウン迄冷えたビールを買いに行き、部屋にて早速再会を祝しカリブビールで
乾杯!!ルームサービスは11時からだそうで厳格?

元イギリスの植民地らしく車も左側通行、右ハンドルです。
ホテルのフロントロビーもグランドフロア、2階が1階だと言ったら寺さんウッソーって吃驚!
昼、ダウンタウンのチャイニーズのテイクアウエイの店へ食べに行く。庶民の町に普通のレストランは殆ど無い、
現地の人は昼飯はテイクアウエイの店に行き好きな物を色々混ぜて弁当にして各自の事務所へ持ち帰り食べている様だ。
米語ではいわゆるテイクアウトと云うしろもの。3人で、たらふくビールを飲んで食べて全部で180ドル(3600円)とは凄く程安い。

歩いてホテルへ帰り、晩飯の時間迄誰が言出す訳でも無く自然に昼寝となる。3人とも子供か自然児か?
(不思議?に3人とも何故か偶然に無職、思い出したがポートオブスペインに入国審査でオキュペイションの欄に
「NONE・無し」と寺さんも私も書いた、私は60歳過ぎているからか何も聞かれなかったが、
寺さんは旅行費用はどうした?と係官に聞かれたらしい。「私の妻が出して呉れた」の答えには何故か笑えた)
19時前ここ暫らく機内食ばかりで碌な?物を食べていないんで、豪華デイナーで行こうで寺さんと意見が一致。
ホテル備え付けのダイニング&ナイトライフガイドブックから、良さそうな店をチェック「Melange」メレンジと言うフランス名の
レストラン(868−628−8687)に目黒氏を招待する事に決定。電話で予約を入れ、服装等聞いたらと言っている内にホテルに
頼んだタクシーが来てしまったので、まあ良いかあ〜で直接店へ行く、立派な店構えで店内を覗くと空席が有ったから
予約は無しでも偶然OKの感じだったが、案の定短パンにゾウリの服装に入店は駄目っ!流石目黒氏、旅行中にてこの服装です、
何とか入店させて呉れと粘る。店内奥へ店員が責任者に聞きにいったんでしょう、戻って来ると笑顔で入店OK。

店名がフランス語だけあってか、中々おしゃれな上品な店。私が知りうる唯一のケープホナー目黒氏の労をねぎらい、
今晩は贅沢にいこうと伊勢海老こそ売り切れ?で無かったが海老、エスカルゴ、牛肉等又ワイン、ビール、ラム酒で十分に堪能する。
これで約1500TTj(日本円30000円)は超激安、お勧めのレストランです。当然ここも禁煙です、何度と無く外へタバコを吸いに
出入り、その内に店員が入り口の外に灰皿を頼みもしないのに持って来て呉れた。日本人みたいな珍しい気配りに感激。
いつの間にか10時半の閉店時間が過ぎていたが、楽しそうな空気が感じとれるのか、帰れとは言わない。お陰?で嬉しくなって
チップは勘定書きに込みだったが、感じの良い店員2人に、酔っ払っている私は勘定書より余分に、チップを20米ドル渡してしまった。
勿論10日間近く滞在するつもりだから、この店には多分次回服を着替えて又来る事になるでしょう。

帰る時に、来店客名簿みたいなものを持ってきて、記帳して呉れと言われ記念に目黒氏が記帳、次いでナベ&寺さんと。
ホテルへ戻ると12時過ぎで5分と起きていません、即バタンQ!!

3月29日9時半に(日本時間30日22時半)寺さんが、ナベさん朝飯だよお〜!で起こされる。実は私は眠たくなったら夜、
自然に眼が覚めた時が朝と言う生活を18年続けています、朝起こされると機嫌が悪いんですが、旅行中は朝飯をきちんと
食べないと体調を崩す恐れが有るので、朝飯に一度だけ声をかけて呉れ
それで起きなかったら、放っておいて呉れと寺さんに
言って有るんです。
ホテルの朝飯はビュッフェスタイルで、種類も多くメチャ美味しい食事で非常に満足です。
勿論久しぶりの二日酔いで無く、胃もすっきりした状態でしたから。朝食が終わり、今迄の旅行記をパソコンに打ち込んでいます。
そして部屋からインターネットが通じますから
ボヘミアン広場へ今から投稿します。ホテルのビジネスセンターに有る使いたい放題の無料コンピュターではアルファベットしか駄目で日本語で送信出来ませんから、ラップトップを海外旅行に持ち歩くのは正解でしょう。

3月30日(金)
朝、9時半(日本時間3月31日22時半)寺さんに起こされ、いつものグランドフロアの「オリンピア」で朝食。
相変わらず、美味いので食べ過ぎる感じ、毎日飲んで喰って昼寝してでは太るだろおうなあ〜!
食べてから又、目黒氏からの電話待ちで昼寝。結局修理の手配等で忙しくホテルには来られなかったが。
昼飯も喰わずに眼が覚めたのが14時半、寺さんが体の調子が悪いとの事で、又昼寝の延長。
私は、ホテルのプールサイドにて読書、日光浴&昼寝、ダウンタウン散歩。
寺さんが起きてきたのは20時過ぎ、体調OKとの事だったが外国での事、大事を取ってホテル内「オリンピア」にて夕食。
我々にとって、初めてアルコール抜きのデイナー、誠に味気ない。

カラカス(ベネズエラ)

ポート・オブ・スペイン(トリニダード・トバゴ)