HOM子どもの遊び再考手法トップ

有明児童センター 児童厚生員 田中 純一

   始めに

 ミネルヴァ書房さんから「子どもの遊びの援助」についての原稿を依頼されました。発達109「子どもの遊びと発達」の特集に掲載されました。私以外の「遊びとは・・遊びは子どもの仕事やでえ!」「通学路での子どもの道くさ遊び」「遊びの発達的展開」などの他の方々のものも読ませていただき、再度子どもの遊びについて再考してみたいと思います。

 遊びとは何か遊びの多様性・遊びの発達段階と援助の手法・遊びの援助と自主性・遊びと身体の動きについてなどです。

 遊びとは何か遊びの多様性

 遊びはルールあるケンカ

 遊びには様々な定義が考えられるでしょう。遊びにはいくつかの側面があり、その側面からみれば側面ごとの定義が出てきて当然でしょう。私は遊びを一つの側面から見たときに「ルールあるケンカ」であると考えています。相撲は転ばしあい・サッカーは蹴りあいなどでルールを守ることでたんなるケンカから互いの仲間作りにつながる遊びへと変容していくと考えたものです。だから遊びにおいて「ケンカをしないで仲良くし遊びなさい」という声かけはあまり意味がないと思います。むしろトムとジェリーのように「仲良くケンカしな」(=ルールを守ってケンカや遊びををしなさい)との提案が必要であると思います。

 遊びの多様性

 少子時代になり、子ども同士の関係性が希薄化してきました。そこで遊びの教育的効果等が持ち出されるようになってきました。遊びの社会的な復権も提唱され始めています。財団法人児童健全育成財団の「児童館とは?」でも以下のように児童館の役割と遊びの意義について書かれています。

児童館は、子どもたちに遊びを保障します。遊びは、子どもの人格の発達を促す上で欠かすことのできない要素であり、遊びのもつ教育効果は他で補うことができません。子どもたちは遊びを通して考え、決断し、行動し、責任をもつという独自性・自主性・社会性を身につけます。換言すれば、今の教育に最も欠けている自立教育プログラムが、遊びの要素に含まれているのです。

 上記の基本的な考えはとても大切です。しかしながら遊びにもいろいろな遊びがあることを考えておかないと現場においてとにかく子どもを遊ばせればよいとの安易な方向性がでてくることがあります。そこで私は遊びを読書と類似化させて遊びの多様性について考えてみたいと思います。

 最近は活字離れが進み、遊び同様に読書の必要性が指摘され始めています。しかし読書といっても本はいろいろです。学術書・教科書・推理小説・マンガ・週刊誌・写真集などなどたくさんあります。またマンガ一つとっても「漫画日本の歴史」のように教育的価値も高くしかも好奇心を満たしてくれるものもありますが、低俗で刹那的なものもあり、子ども達には見せられないものもあります。週刊誌も一緒でスキャンダルを追いかけ、覗き見根性のみに答えているものでしかないものもあります。このように考えてみると読書が大切だからといってどのような本でも読書というわけにはいかないことがわかります。

 同様に遊びも多様であり、低俗で退廃的・刹那的な遊びや射幸心を煽るだけのものもたくさんあります。また独自性・自主性・社会性を培うとても大切な遊びもたくさんあることも事実です。この遊びの多様性とそれぞれの遊びの内容の検討し、うまくチョイスすることが大切と私は思います。

 カードゲームについて

 子ども達の間ではここ数年カードゲームがとても流行っています。家から児童センターにカードを持ってきて、自主的に生き生きと遊んでいます。昔のパッチ・メンコの類と一緒かなと私は思っていました。ところがこのカードゲームでは強いカードを持つと勝つことができます。少子時代で子どもはたくさんのお年玉を持っています。そこでお金にものを言わせて箱買いをします。箱買いをした何十枚のカードの中に強いカードがあるからです。弱いカードは破られたり、そのまま大量に捨てられていることが多くなりました。強いカードはカードショップ等では1枚数千円で取引きされているようです。子ども同士でもカードの売り買いが始まり、千円くらいのカードを五千円で小さい子どもに売りつけるようなことも親からの話も出てきました。カードゲームは子どもにとって楽しいし、やるなと言ってもやりたい遊びです。しかしながらこの遊びは子どもの成長にとって有意義な遊びと選択することは今のところ私にはできないと思います。基本的にカード遊びは私の職場では禁止としました。もちろんカードゲームの遊び方の工夫をすればできないこともないのでしょうが、マイナス面が大きすぎるのが現状です。

 箱買いだけではなくて、カードが欲しいためにお菓子やチョコレートなどの商品を大量に買い、お菓子やチョコレートを捨てるということも多く見受けられます。家庭においてもたとえおじいちゃんおばあちゃんからもらった「自分のお金」であってもこのようなお金の使い方はやはり注意する必要があるのではないかと私は思います。射幸心のみを煽る「大人文化」を子どもの中に入れないことも必要ではないかと私は思います。「大人だって」という子どももいるかもしれません。でも少なくとも子どもはまだ自分で働いているわけではないのですから、お菓子やチョコレートをすてるような消費の仕方は許可されるべきではないのではないかと私は思います。

 できることならば自分の手作りのカードで遊ぶようなことが良いとは思うのですが、そんなに簡単なものではないのかもしれません。

 カードゲームの中にもトランプ・ウノなどもあります。賭博遊びになってはいけないでしょうが、余暇の過ごし方の一つとして大切と思います。トランプ占いなどの一人遊びも子どもにも大人にも必要です。カードゲームだけではなくて他のサッカーゲーム・オセロ・オニム・将棋・囲碁などのゲーム遊びも人間のコミュニケーションの一つの手法ではないかと私は思います。オセロをやりながら学校での出来事や家庭での出来事を話をしたほうが話は弾みます。遊びは話の媒介物としてとても貴重なものではないかと思います。面と向かって本音はなかなか言えませんが、「その一手ちょっと待って」「あなたはいつもそうなのだから」「ごめん」などという中にけっこう本音が出てくるものです。

 

 ファミコン・ゲームボーイ等について

 ゲームボーイ等で遊びについてはいろいろな考えがあると思います。カードゲーム同様に児童館や児童センターには持ち込ませるべきではないとの考えが主流のようです。ただ今の子ども達はクリスマスプレゼント等で買ってもらって持っている子どものほうが多いようです。

 小学館が平成1811月上旬に行ったwebリサーチサービス「おしえてネットくん調査隊」(小学16年生1006人(男子426人,女子580人)によれば

ゲームボーイを2台持つ小学生は4割以上?

 ゲーム機では、所有率が最も高かったのがゲームボーイアドバンス(74.7%)、次いでゲームボーイカラー(65.2%)が2位となった。単純に足し算しても、アドバンスとカラー両方をもつ小学生が4割いることになり、ゲームボーイの強さが伺える。

 となっているから、ほとんどの子どもがゲームボーイを持っていることになります。児童館・児童センター等でゲームボーイ等の持込みを禁止してしまうと子ども達は児童館や児童センターに来ないで自宅でゲームボーイ遊び等に熱中してしまうことになります。子ども達は孤立化し、ゲームオタクみたいになる可能性が高くなると考えることができるでしょう。

 ゲームボーイはカードゲームと違ってお金があれば勝てるものではなくて、それなりの技術や裏技なども必要とされているようです。その意味ではゲームボーイは子ども同士の人間関係をつなぐ要素も持っています。ゲームボーイ等の遊びの持つ弱点と利点をうまく活用して遊びをうまく指導することが必要と思います。

 基本的にはゲームボーイ等の持ち込みは学校休業中の土曜日や夏休み等には自己責任・自己管理の原則でやることができるようにしています。(これを家庭に置き換えればゲームボーイ等を持って遊びに来て良いけれど自分で管理しなさいよとのことになるでしょう)

 土曜日にみんなで自然科学館へ出かけるときがあります。七十人くらいで出かけますが、自宅からゲームボーイ等を持参してくる子どもが二十人以上はいます。彼ら・彼女ら(彼らのほうが多い)はゲームボーイ持参を禁止すると家に閉じこもっていることになる可能性が高いのです。往復のバスの中ではゲームボーイは禁止ですが、自然科学館に着くとゲームボーイ族は四~五人の仲間を作り、ゲームボーイに熱中します。十時半に着いてすぐに昼食を食べ(昼食時間は自由にしている)十一時半くらいまでやっています。そこで私は「だいぶゲームボーイで遊んだようだ。そろそろ一時間は自然科学館の中を探検しておいで。ゲームボーイは盗られないように私が見ておいてやるよ」と声かけをします。子ども達は自然科学館内の探索に出かけます。

 ゲームボーイを禁止するよりはゲームボーイで仲間を集めて、ゲームボーイ以外の遊びへと誘導することが結果的に子どものためになるのではないかと思います。

 マンガについて

 マンガをどのように考えるかは難しい。マンガでも教育的にも健全育成的にも効果が高いマンガもあります。しかしながらあまり効果がなさそうなものも多い。ただ遊びの効果の一つとして時間つぶしになるという点もないわけではありません。くだらないマンガでも悪いことをする時間を減らすという利点もないわけではありません。その意味ではくだらない(何をもってくだらないと言うかは別として)マンガでも時間つぶしの効果があることは間違いないと思います。私自身もマンガが好きだし、たんに時間つぶしのマンガを見ていることも多い。少子時代の中で子ども達はたくさんのお金を持っています。しかしマンガをたくさん所有することは難しい。住宅事情でマンガをたくさんおく場所がないからです。そこでマンガをたくさん置けば子どもは集まってくると考えることができます。マンガは住宅事情で置き場のなくなった人から寄贈を受ければよいでしょう。マンガが数千冊あるところはあまりありません。だから子どもが集まります。ある程度マンガを読んだ頃に「朝からずっとマンガを読んでいるが、少しは身体を動かしてきなさい。ローラースケートを三十分しなければマンガはもう禁止だよ」と伝えます。マンガを読んでいた子どもはまだたくさんあるマンガを読みたいからローラースケートをやりにいく。その繰り返しの中でマンガを読みに来館するのではなくてローラースケートをやりたくて来館するようになったらしめたものです。

 子ども達は写し絵が好きである。プラ板や写し絵などの工作遊びなどでもマンガは使えます。また自らマンガを描こうとする子どももいます。マンガ教室なども良いのかもしれません。

 家庭においてもマンガやゲームボーイ・テレビゲームなどでうまく子どもを集めておいて、「さあみんなで今日は子どもカレーライス作りをしよう」とか「クッキー作りをしよう」「公園へ行ってキャッチボールをしよう」「サッカーをしよう」などという提案をすれば子ども達はけっこう楽しく有意義な時間を過ごすことができると思います。

 競い合うこと

 夕方二時半くらいになると小学校一年生の男子が一番にカウンターでサインをしたくて子犬のように駆けて帰ってきます。「今日は俺が一番だった」と大喜びです。一番になったからといった何か賞品が出るわけでもないし、誰かが褒めてくれるわけでもありません。でも一番になりたいのは人間の種としての本能なのかもしれません。競い合うことは遊びを面白くしてくれる大切な要素です。しかしながらこの競い合うことが少子時代では問題となります。子どもの数が少ないのですから小さいときから競い合うことが少なく、また周りの大人に王女様王子様のように扱われてきた子ども達は負けることに我慢ができない子どもが増えています。カウンターで一番にサインをしたいからといって前にいる子どもを押しのけたり、転ばしたりする子どももいます。相手が大人ならば子どものことと大目に見てくれていたのでしょうが、互いに王子様王女様ですから「ずるをした」「押したから殴った」などということになり、トラブルが続出します。競い合うことが争いあうことになってしまうことが多いのです。ある側面で遊びは基本的にルールのあるケンカだと私は思っています。競い合うことの基本的なルールをきちんと相互理解しておかないと競う合う遊びが争い遊びになってしまいます。

 私は遊びにおいて競い合うことは味付けの一つであり、遊びの主たる目的ではないと提案しています。遊びは基本的に仲間がいて成立するからです。ゴールキーパーのいないゴールにいくらシュートをたくさんしても楽しくないでしょう。独りで右手と左手でジャンケン遊びをして、右手が左手に十連勝しても右手は楽しいとは思わない。競い合うためには競い合う相手がいなければならないのである。そこに遊びの本質の側面があると思う。競い合う相手がいるということは相互の競い合いのルールをきちんと確認しておくことが必要である。遊びの中で遊びの援助者は遊びのルールが守られないときに「遊びをちょっとストップしてきちんとアドバイスし、っと再開する」しルール確認をしていくことが大切と思う。これを私は「ちょきんさ」の原則として普及させようとしている。引っ張り出し鬼などで最初に「尾に以外の子どもは丸の中に入って座る。鬼の子どもは片足だけ入れて中の子どもを引っ張り出す。出されて子どもは外に出て鬼になる」と説明して引っ張り出し鬼を始める。すると当然座っていないで立ち上がって結果的に小さな子どもを踏もうとする子どもが出てくる。ちょっとストップして「絶対に立ってはいけない」ときちんとアドバイスしてさっと再開する。次に引き出されまいと鬼に向かって足で蹴る子どもが出てくる。「蹴ってはいけない」とルールを伝え再開する。鬼が引き、中にいる人が引き出されまいと引くので小さな子どもは宙に浮いて危険となる、ズボンが脱げるなどの状況が起きるたびに「宙に浮くように引いてはいけない」「手首足首しか引いてはいけない。ズボンはひっぱるな」などのルールを教えていく。こうした繰り返しの中でルールが次第に確立していく。ルールを守って遊ぶことで遊びが成立していくことになる。また遊びにとって競い合うことは甘みを増すための塩加減みたいなもので、塩のみを入れても遊びの甘さは増さないでしょう。競い合うことが主となると勝ち負けだけが優先し、遊びは遊びではなくなって相手を屈服させるための一方的なものとなってしまうように思います。

 けん玉・縄跳び・竹馬・一輪車・水泳・柔道・剣道などの検定について

 級を設けて検定などを行うことは子ども達の励みになって良いとの考えが多い。この点について、私は疑問を感じている。たとえ一輪車の検定などがその例である。一輪車に乗ることは結構難しい。苦労して苦労をしてやっと一輪車に乗れるようになって喜んでいる子どもの他の子どもが「やっと乗れるようになったの。九級だね。僕はバックとアイドリングができるから二級だよ」などという言葉で乗れることになった感動は薄れてしまうものです。各段階で目安を設けることは良いとは思うのですが、級に固執することは遊びの中で競い合うことが遊びの本質的な仲間作りの要素よりも優先してしまうことと一緒になる可能性を考慮していくことが必要ではないかと思います。

  表現遊びと多値的な考え方

 遊びの中で表現遊びは大きな意味を持っていると思います。音楽表現遊び・身体表現遊び・造形表現遊びなどがあります。表現遊びについて玉川大学名誉教授岡田陽先生は以下のように述べられています。

表現遊びということ

 表現遊びとは、子どもが自己表現することを楽しめるようなあそびということです。ここではまず、表現ということを考えてみましょう。

 表現とは「オモテにアラワス」と書きます。表にあらわすためには、内なる何かがあるはずです。自分の内面にあるイメージの世界を具体的な形象として外にあらわすことが表現なのです。

 日本古典の「徒然草」にも「おぼしきことを言わぬは、げにぞ腹ふくるる心地しける」とありますが、自分の思っていることを外へ表現するということは、昔から変わらぬ人間の本質的な欲求であることが分かります。

 人間が成長発達し、社会のために役立つ人として働けるようになるためには、多くの知識や行動様式を知り、身につけていかなければなりません。特に情報化時代といわれる今日では過去の時代とはまるで比較にならぬほど多量の情報の獲得が必要となってきています。しかし、人間はたえず空気を吸ったり吐いたり呼吸して生きているように、他から知識を教えられ受け入れることと、自分の内なる思考や感情を外へ発揮することとが適度なバランスを保っていることが必要なのです。教えこまれ、やらされることばかりでは息が詰まって苦しくなるでしょうが、一方適度に自己を表現する場があり、外へ自分を発揮することができればストレスは解消され、心の安定が得られます。

 そのへんのことを充電(チャージ)と放電(ディスチャージ)にたとえる人もいますが、教えられたことを覚え、身につけていくことが子どもにとって必要なチャージであるならば、自由にあそんだり、思ったこと感じたことを外にむかって思いきり発散してみることは子どもにとって、生命の放電ともいうべき不可欠な活動なのです。

 ダンスでも踊りでも本の朗読でも絵を描くことでも本来的に放電(ディスチャージ)である必要が表現遊びにおいてはあるのですが、遊びの現場でも家庭においてもややもすると出来栄えを気にして職員や保護者の表現方法の技術の押し付けになることが多くあるものです。

 レクレーションダンスなどを研修会で学んで来て、早速子ども達に教えます。一生懸命教え終わった後に「先生終わった。遊びに行っていいですか」などと言われるようでは遊びの指導ではなくてダンスの押し付けをしていただけであったことになります。目安として五十人に三十分ダンスを教えた後に少なくとも何人かの子どもが「もう少し練習をして良いですか」と聞きにきたり、音楽をかけたら十人くらいの子どもが踊り続けるくらいのことは必要ではないかと私は思います。

 表現遊びはそれぞれの表現ですから評価がいろいろであることが大切でしょう。同じ曲で踊ってもいろいろな踊りがあってよいわけです。学校と違い家庭やじどうかんでは点数として評価をしなければならないわけではないから、「妹の踊りも楽しい。姉の踊りはきれいだ。弟の踊りは面白い」といった多くの価値を認めることが大切と思います。多様な価値を認めることを私は多値的といっていますが、いろいろなあり方、価値を認めることができれば、表現遊びは子どもにとって生命の放電ともいうべき不可欠な活動として充実するのではないかと思います。

 遊びが多値的になるためには遊び方の工夫をすることが必要です。

私は教育学部を卒業して最初に勤務した学校が養護学校小学部でした。小学部の合同音楽では五人の教員と三十人くらいの子どもが一緒に音楽の授業をしていました。車椅子の子ども・よくしゃべれない子ども・手をたたけない子ども・ニコニコしているだけの子どもなどいろいろな子どもがいました。音楽の授業で声を出して歌うだけだと声を出せない子どもは何もできません。楽器演奏だけだとまったく参加できない子どもが出てきます。そこで「げんこつ山のたぬきさん」などの授業で歌ったり、タンバリンをたたいたり、拍手をしたり、指揮をしたり、車椅子で回ったりなど声を出すだけではなくていろいろな方法で音楽を楽しんでいました。養護学校の生徒に学んだことは私にとってとても貴重でした。

 一つの遊びを常に運動遊び・造形遊び・リズム遊び・科学遊び・ゲーム遊び・一人遊び・集団遊びなどに意識的に変容させていく工夫をすることが必要であると私は思うのです。そうすればその遊び自身が多値的で多様な遊びになります。子ども達の遊びの楽しみ方は多様となり、自分なりに発散することができる機会が増えるのではないかと思います。このことをやっこさんユニット折り紙作りの例で考えてみます。

 やっこさんユニットおりがみは折り紙でやっこさんをたくさん作ります。そのやっこさんを組み合わせていろいろなユニット折り紙を作るというものです。基本形は六枚で作るやっこさんボールです。

   

        ①一枚のやっこさん               ②六枚組のやっこさんボール

 一年生~三年生の小学生六十人(女子三十人・男子三十人)くらいの子ども達でやっこさんユニット折り紙遊びを一時間くらいやります。男の子の多くはやっこさんボールを二十分くらいで作って、サッカーのリフテング遊びをしたり、野球のキャッチボール遊びをしたりします。小学校の低学年の子どもは上級生の仲間に入れてもらって集団でやっこさんボールを作ってもらったりします。三年生くらいでもくもくと一人でやっこさんボールを作る子どももいます。

 やっこさんユニット折り紙遊びはたんなる工作遊びから子どもにとって運動遊びへと発展します。また一人遊びでもあるし、集団遊びにもなります。子ども達の中には小さな折り紙では飽きる子どももでてきます。もらっておいた大き目の丈夫なチラシを提供すると大きなやっこさんボールを作り、みんなでバレーボールをして遊び出す子どもも出てきます。こうなると完全にゲーム運動遊びへと発展したことになります。

 一方、女の子どもの多くは一人もしくは集団でいろいろなものを作っていきます。

   
    ③専門学校の学生による作品一          ④学生による作品二


⑤学生による作品三                  ⑥学生による作品四

③~⑥は専門学校における授業で学生達が作ったものである。作品一・二ではオブジェや買い物籠を作っており、みんなで一時間以上がんばったものである。小学生もこれ以上の作品を作る。作品三はお面作りで、小学生の場合にこの後に戦いごっこなどのごっこ遊びへと遊びを変容させていく。また当然のこととして剣作り・盾作り・槍作りなどが行われ、劇遊びへと発展していくこともある。作品四は男子学生によるおもちゃ作りである。やっこさんを長くつないでヘビなどを作り、女の子どもを脅したりして楽しむことが多い。

 やっこさんユニット折り紙だけではなくて、くす玉ユニット折り紙・コマユニット・ウルトラマンユニット折り紙などのユニット折り紙遊びは工夫をすると造形遊びが運動遊び・表現遊び・ゲーム遊びなど多様で多値的な遊びへと変容させることが可能である。そして子ども達自身のそれぞれの創意工夫をうまく伸ばすことのできる遊びであると私は感じている。

 童歌遊びそしてごっこ遊び

 童歌遊びは日本の伝統的な遊びであり、言葉遊びと表現遊びと運動遊びとゲーム遊びがミックスしていて多様であり、多値的な遊びでぜひ普及をさせたい遊びである。

みそラーメンジャンケン
    せっせせーのみそラーメン
    おてらのおしょさんが かぼちゃのたねをまきました
    めがでて みがなって
    おてらのなかから ゆうれいさんがユーユー
    ゆうれいさんのあとから どろぼうさんがかねだせかねだせ
    どろぼうさんのあとから おまわりさんがバッキュンバッキュン
    おまわりさんのあとから コックさんがジュージュー
    コックさんのあとから おすもうさんがドスコイドスコイ
    おすもうさんのあとから 
    ももたろさんももたろさん
    おこしにつけたきびだんご
    ひとつわたしにくださいな

 上記はみそラーメンジャンケン遊びです。今はもう大学生になる子ども達が小学生時代に遊んでいたものを私が普及させようと取り組んでいます。夏も近づく八十八夜の要領でやります。芽が出たり、実がなったり、幽霊の手の様子、泥棒の仕草、おまわりさんのピストルを撃つ姿、フライパンをジュージューする様子、四股を踏む様子を楽しくやり、ももたろさんの後に一回ジャンケン、キビ団子の後に2回目のジャンケン、くださいなで最後の3回目のジャンケンで勝負をします。

 手足を動かしながらやるのでよく言葉がしゃべれない子どもも遊びに参加できます。口を動かし、身体も動かしながらやるので途中で余計な手が出たり、足が出たりしてのケンカにならないことが多いのも特徴です。言葉遊びであり、表現遊びであり、運動遊びであり、ゲーム遊びでもあります。

 最近のすぐにキレル子どもが増加しているようです。こうした子どもをundersatnd(=下側に立つ=膝を折ってしっかりと子どもを下から見る=理解する)ていると現実のトラブルの場面でキレルだけではなくて、ジャンケン遊びの中でも負けることが嫌ですぐにトラブルを起こすことが多くあります。だとするならば私は現実のトラブルの場面で我慢を教えるよりはジャンケン遊び等の場面で我慢を教えるほうがやりやすいと考えました。ミソラーメンなどのジャンケン遊びで最初に子どもが勝ち、私が負けるようにしておいて、私が子どもに深々と「参りました」などと頭を下げます。子どもは大人に頭を下げさせたので気持ちがよく、またやりたいといいます。そこで対等にミソラーメンジャンケン遊びをします。対等でやりますから、確率論的に二回に一回は子どもも負けます。すると私に頭を下げることになります。最初はチョコンとしか頭を下げません。「きちんと頭を下げなさい。」などといいながら遊んでいると遊びの魅力に誘われてちゃんと「参りました」と言って頭も深々と下げるようになります。ミソラーメンジャンケン遊びの中できちんと頭が下げることができるようになると現実のトラブルの場面でも頭を下げることができるようになり、ずいぶんと人間関係がよくなることが多いものです。でも、こうしたジャンケン遊びでもなかなか頭を下げることが出来ない子どももいます。こうした時はジャンケン遊びを一人ではなくて複数にします。一対一でのミソラーメンジャンケン遊びを二対二・三対三の遊びにして複数で負けたり勝ったりすることにします。人間は二人で負ければ悲しみは一人のときの半分になり、勝てば一人のときの倍になるようです。複数で負けることにより、悔しさが半減し、頭を下げることができるようになるようです。子どもの成長とは(人間の成長とは)上から教えられることよりも子ども同士の切磋琢磨で学習していくほうがはるかに多いと私は思います。

           

  みんなで負ければ怖くない。みんなで勝てばチョー楽しい

一つの遊びの中に多様性・多値性を持たせるということは「発達109」で「遊びの発達的展開」の中で加用文男さんが交差文化説の中で

交差文化とは、このように①起源を別にする異種類の遊び活動が、②発達のある時点で相互に混じり合って交差し、同居しあい、未分化性を示しつつ、豊かに展開し、③それがやがてはより高度な形での活動文化へと進んでいく、という考え方なのです。

との考えに類似しているのではないかと私は思っています。

遊びの発達段階と援助の手法

交差文化的な考えが遊びの内容的な展開だと私流に解釈して、それぞれの段階がそれぞれ大切であると理解することが必要であろうと思います。遊びの形態的な発展過程を考えると、一般的に集団でのゲーム遊び等が重要な遊びと捉えられていることが多いが、形態的にもそれぞれに大切であると思われます。
 子どもの遊びの発達過程には見ている・援助を受けて遊ぶ・一人遊び・並行遊び・連合遊び・ルールのある協力遊びとある。(遊びの発達理論に私が少しプラスをしたものである。)遊びをうまく誘導できないお母さんや児童厚生員・保育士などはすぐにみんなと遊ばせることに心を奪われすぎることが多いように思う。逆に子どもが一人遊びや友達と並行遊びを始めているのに大人が関わりすぎて遊びの発達を邪魔していることもあるように思う。遊びのそれぞれの発達段階の中でどのように子どもに関与していくのが良いかを考えてみたい。同時にそれぞれの遊びの発達段階が相互にどのような関係性を持っているかも考えてみたい。
 見ている段階
 言葉の発達を考えてみるとわかるのですが、生まれてすぐに話を始める子どもはいない。しかし周りの大人や仲間に常に声かけをしてもらわないと言葉は出てこない。静かで良い子どもと思っていたら実は難聴で耳が聞こえなかった。0歳から1歳までの大事な時期に聞くことができないと言葉は発達しない。
 遊びも一緒だと私は考えています。大人や他の子どもが楽しく仲良く遊ぶ様子をしっかり見ていなければ、遊ぼうとする意欲は出てきにくいのではと思います。
 他の子どもや大人が遊ぶ様子を見ていることはとても大切な段階と思います。こういうときはお母さんが遊ばせようと思わないで楽しく遊んでみせてやることが大切と思います。お母さんが楽しげに遊べば子どもは興味を示すものです。
 お母さんがドミノや積み木を高く積み上げ、倒して遊びます。子どもはお母さんが遊ぶ様子を興味深く見ています。一日で遊ばせようと思わないで2日でも3日でも一週間でもお母さんが遊んでみましょう。子どもも次の段階へと進んでいきます。

 援助遊びの段階
 一人遊びへ発展する前に援助遊びの段階があると私は子どもの現場から感じています。そこで援助遊びを一つの重要な遊びの発達段階と考えています。
 援助遊びとはお母さんや大人・友達の援助を受けて遊びを始めたり、持続したりする段階です。ドミノで考えてみましょう。お母さんがドミノを高く積み上げます。子どもはそれを崩して遊びます。積み上げる・崩す・積み上げる・崩すの繰り返しを子どもはとても楽しく遊ぶものです。十分に遊びの楽しさがわかってきたら、積み上げるのをやめましょう。子どもが自分で積み上げて崩す遊びへと発展させることが大切と思います。いつまでも援助ばかりをしていると、一人遊びへと発展しません。
 一人遊びの段階
 ドミノを一人で積み上げては崩し、また積み上げる。そんなことをしているうちに違った積み上げ方をしたり、ドミノ倒しにしたり、おうち作りをしたりと子どもは遊びを発展させていきます。もちろんドミノを投げたりもします。危険でない範囲でできるだけ自由に遊ばせることがこの時期は大切なように思います。お母さんがもっと早くもっとレベルの高い遊びをさせようとしないほうが良いと思います。一人遊びを十分に楽しむことが遊びの発達段階では大切です。
 並行遊びの段階
 一人遊びができるようになると、同じドミノ遊びを他の友達と一緒にやることができます。けれど協力して遊んでいるわけではなく、同時並行で違う遊びをしているといった段階です。この並行遊びの段階で他の子どものまねをしたり、トラぶったりします。砂遊びなどでは砂をかけたり、道具の取り合いをしたりします。危険のない範囲でお母さん達は見守ってあげることが必要と思います。あまり「順番に使いなさい」などの指示を多く出さないほうが良いと思います。

 連合遊びの段階
 並行遊びが続いていくと少しづつ一緒にドミノをつなげて一緒に遊びだすようになります。児童厚生員やお母さんなどがこの段階で「みんなで一緒に大きな背の高い塔を作ろう」とか「おうちをつなげてみよう」などの声かけをして、少しづつ集団の連合的な遊びの段階へと誘導することもあります。小学生くらいになると自分達で一緒に「長いドミノ倒しを作ろう」などと自主的に始めることができるようになります。
 保育園の年長児童位からは大人の声かけで連合して遊ぶことができるようです。
 ルールある協力遊び
 連合遊びから発展して、一定時間にどれだけのドミノをつなげ、何枚倒すことができるかをチームで作って協力して行う。一番たくさん倒せたチームが優勝となる。といったルールのある遊びへと発展していきます。また自分達でルールを作ることもできるようになります。

 遊びの発達段階とその関係
 遊びの発達段階を私は5段階に分けて考えてみました。大切なことはルールある協力遊びが一番大事だというわけではありません。他の人の遊びを見ている段階・援助遊びの段階・一人遊びの段階・並行遊びの段階・連合遊びの段階のそれぞれに価値があるということです。
 見ている段階ではしっかり他人の遊びを見て学習する力を養うことができます。援助遊びの段階ではお母さんや他の人との親和的関係を結ぶことができます。一人遊びの段階では自分自身で十分に楽しむことができます。並行遊びの段階では仲間のことを見ることができます。連合遊びの段階ではみんなで協力して遊ぶことの楽しさを学びます。ルールのある遊びの段階ではルールを守り、その範囲内でいろいろな工夫をすることができます。それぞれの段階がそれぞれ貴重な意味を持つと私は思います。

 ボール遊びでの発達段階の応用
 ボール遊びも五つの発達段階があると考えるとうまく子ども達を遊びへと誘導することができます。
 見る段階が大事ですから、ボールをついたり投げたりとったりして遊んでみせます。子どもは遊ぶ様子を見て遊びを学習します。次にボールを投げてやる子どもがとる。投げてやるととる等の援助をしながら遊び楽しませます。しっかりとれるようになったら、一人で壁にぶつけたり、ドリブルをしたりして遊びます。
 子どもはだんだん他の子どものボール遊びを見てまねを始めます。並行遊びの段階です。次にみんなで中あてなどの遊びへと発展させます。最後に方形ドッジボール遊びとなります。各段階での遊びを十分に楽しむことでボール遊びが仲良くできるようになります。また人数に応じてさまざまなルールを自分で作っていけるようになります。
 子どもの遊びの発達段階を考え、子どもの遊びの輪と和を膨らませませんか

     

ドミノの中までフランスのカプラという積み木で遊んでいる様子です。協力して高く積み上げて遊ぶ子どももいますし、一人で小さく積み重ねて遊ぶ子どももいます。参加しないで寝転がって見ている子どもも見ていない子どももいます。遊びもいろいろな遊び方があり、見てるだけ・援助してもらう段階・一人遊びの段階もそれぞれとても大切で独立した遊びの一つであると思います。

遊びの援助と自主性

「発達109」で「遊びと、自発性・自主性」の中で北條敏彰さんが

こうした、子どもたちの心身の諸能力の、発達・変化(良い意味でも悪い意味でも)には、これまで紹介した例でもそうだったように、とりわけ「遊び」が誰からも強制されない、子どもたちの自発的・自主的な活動である事が大きな意味を持っています。そして、その自発性・自主性が促されるのは「その遊びが好き」だから、言い換えれば「その遊びが楽しい」からに他なりません。また「遊び」が自発的・自主的である事は、「遊び」をより楽しくする事と同じ意味を持っていると言っても過言ではありません。

と提案されています。子ども達は自主的・自発的な遊びの中で子ども同士の切磋琢磨を通して成長していくので、北條さんの主張されるとおりであると私も思います。同時に児童館・児童クラブの現場に勤務していて、子どもたちの自主性・自発性だけに依拠していては子どもの遊びを発達させることができないとの現実もあります。そこで児童館・児童クラブ職員そして家庭においてお父さん・お母さんも子どもに対して遊びの援助が必要となってきています。

遊びの援助において私は「発達109」において「子どもの目線の下からのunderstand」「体性感覚の活用とスモールステップの手法」「気分一効果について」「遊びはルールあるケンカ」「男の子と女の子の扱い方」「子どもの発する言葉と子どもの本音」「ロールプレイを取り入れよう」「身近な自然とのふれあい」など大人の視点からの遊びの援助の手法を提案しました。また今回の提案の中でも遊びの中で危険な行為があったら「ちょっとストップきちんとアドバイスさっと再開」=「ちょきんさの原則」=遊びのルールを徐々に貯金して遊べるようにしていくなどの手法を提案しています。こうした手法は子どもの遊びの自主性・自発性とは相容れないものがあると思われます。子どもは遊んでいる途中に遊びを中断してルールを確認して再開するということは一般的にはないことが多いからです。(もちろんルールをめぐって言い争いがあり、遊びが中断して再開することがありますが、むしろ最近では中断ではなくて中止になることが多いのが現状です)

遊びの援助が必要なことと遊びの自主性・自発性との関係をきちんと整理しておくことも必要であると考えます。まず子どもの遊びは子ども同士の切磋琢磨であり、子ども同士の関係性であることを考えてみると、子ども達が危険のない範囲で遊びを継続していたら「眼を離さないで手を出さないで」見守ることが一番大切なことと思われます。ですから、ときに児童館・児童クラブの職員や親が遊びの先頭になって遊ぶふりをすることは必要でしょうが、小学生期の子ども達と同じように遊ぶということは基本的にはないと考えることが必要でしょう。

子ども同士が自主的・自発的に遊ぶためにはある程度のルールを獲得することが必要となります。そのためのルール作りをするために遊びの援助が必要となると考えることが必要と思います。ですから、子どもの遊びと子どもの遊び援助は厳密に区別され、しかもその関係性をきちんと論じられるべきではないかと私は思います。このように考えてみると子どもの遊びの援助とは子ども達が日常の中で自主的・自発的に遊べるようになるためのロールプレイやグループワークであると考えることができるでしょう。

小関康之著 児童グループワーク(ミネルヴァ書房発行)では以下のように述べられています。

一般にグループワークは、自然発生的集団や団体や施設が意図的に作った人為的集団を対象とするが、グループワークが、それぞれの団体や施設、あるいはサークル活動において努力しなければならないことは、対象となる集団が、人為的集団であれ自然発生的集団であれ、グループ活動の過程にあって、小集団=人格的協同集団的性格をもった集団へと変容することである。

 たとえば自然発生的集団である子どもたちの遊び集団に対して、グループワーク的アプローチを試みても、子どもの自然発生的集団=遊び集団のもつ排他的性格を、人格的協同集団としての性格に変えながら、より多くの子どもがグループワークの対象となるように、試みがなされなければ、グループワークは、自然発生的集団の内的凝集性を高めるだけの効果しかなくなり、結果的には、排他性を高めること以外に効果を持たないことになる。すなわちグループワークは、自然発生的集団をも対象として扱うが、それはあくまでも自然発生的集団を、小集団の核として活用することであり、自然発生的集団を民主的・人格的な開かれて小集団へと変容発展させていく過程を整える援助をすることに、大きな役割を見いだすべきでる。

 またグループワークが対象とする人格的集団についても、同様なことが言えるわけで、集団成員がプログラム活動=グループ経験を通じて、対面的相互交流をはかりながら、自然発生的集団の性格にみなれる「われわれ感情」を育てていく過程が、グループワークの仕事になるのである。

 子どもを対象とするグループワークが、小集団をすすめていく際に留意したいことは、子どもがグループワークに参加する心理的動機には「他の子どもと一緒になにかをしたい」という欲求があることを理解することである。すなわち、子どもの他の子どもとの相互活動への方向づけは、他者志向性(他の子どもに対する関心)と課題志向性(なにかをしたいという欲求)との相互の機能的関連によって成立っているのである。

 青井和夫の小集団の定義は次に示すような条件をみたすものであるが,彼の示した小集団の定義は、グループワークが念頭のおいている人格志向型の集団の性格を端的に示すものとして評価することができよう。彼は小集団の「小」(small)は。人数のことではなく、「集団の性格」をあらわすこと言葉としてとらえている。たとえ20名をこえても、小集団としての三つの条件をみたせば、それは「小集団」であり、また、たとえ数名の集団でも、小集団としての性格をになわなければ「小集団」ではないとしている。すなわち小集団を示す三つの条件とは

     対面的(face to face)な関係にあること

     成員の間に相互作用(interraction)が行われていること

     成員間の間に個人的な(as a individual person)印象や知覚を有すること

小集団とグループワークの関連について言えることは、グループワークの活動過程そのものが「小集団」の概念をつくりあげていく過程であり、グループワークが目指す集団過程が小集団の形成過程ということができるのである。

 グループワーク的手法を通しての遊びの援助の具体的なやり方について考えてみたい。

 「だるまさんが転んだ」の遊びは子ども達の間に最近はあまり見られなくなった遊びです。しかし、簡単にできて楽しむことができる遊びです。この遊びを子ども達に普及させるための遊び援助の実際のプロセスを記してみたいと思います。

     一年生~六年生の四十人くらいを五人くらいづつ八グループに分ける。(五人くらいというのは対面的関係の小グループとの考えからです)

     一つのグループである五人(四人・三人のグループでもよい)は一法人と同じであり、同一の仲間となります。

     最初に私一人が鬼になり、「だるまさんが転んだ」とやります。動いた子どもがいると「赤い服の子ども」というように指定します。赤い服を着た子どもとそのグループは全員捕まることになります。(このプロセスで、「なんで動くんだよー」とか言ってごねる子どもにちょきんさで注意をします。

     八グループの内の四グループが捕まると手をつないでいる人数は二十人となります。このくらいになると手を切る人が出てきます。

     鬼のストップで全員が止まります。もちろんずるをして止まらないで私に注意をされる子どもも出てきます。

     「大股三歩・小股十歩」などと歩く歩数が決められ、鬼は一人の人にタッチをします。

     タッチをされた人が鬼になります。鬼が抜けて四人になったグループはそのままグループで同じように「だるまさんが転んだ」の遊びを継続します。(鬼が交代したら鬼だった人は元のグループに戻ります)

     新しい鬼ができた時点で私は遊びの中から抜けて全体の指導をすることになります。

     遊びが継続されていく中で「始めの一歩」などのルールを追加していきます。また、適時ちょきんさを使ってルールを子ども達の中に定着させていきます。

     十五分くらいみんなで遊んだ後に、「だるまさんが転んだ」の遊びを学年別とか男女別などにして五人~十人の普通の「だるまさんが転んだ」の遊びを行います。

 このような形で遊びの援助を行うと子ども達は自由遊びの中で「だるまさんが転んだ」の遊びを行うようになります。このときは当然、子どもの人数は五~七人くらいで一人一人が独立してやっています。ルールも自分達なりに変容させていきます。このような場合には眼を離さないで手を出さないで見守っていくことが大切でしょう。

 子ども達の自主的・自発的な遊びと遊びの援助とは互いに密接な関係を持ちながら、別のものとしてきちんと区別をしておくことが大切と思います。同時に遊びの援助の過程の中でも子どもの自主性・自発性を尊重しておくことも必要です。子ども達は「だるまさんが転んだ」を「だるまさんが寝転んだ」「だるまさんが屁をこいた」「だるまさんが死んだ」「だるまさんが笑った」「だるまさんが泣いた」などとアレンジしていきます。他人を傷つけたりする言葉でない限り許容していくことも必要と思います。

 水月昭道さんの「通学路での子どもの道くさ遊び」の中で子ども達が街で「引っ張る」「拾う」「たたく」「さわる」「ブロックの上を歩く」「斜面を登る」などの道くさを楽しんでいる姿が紹介されていました。子ども達にとって道くさは自主的・自発的・無意識的な遊びで本能的に大切なことであると感じられました。しかしながら昨今の社会情勢の変容の中でこうした自主的・自発的な道くさ遊びのようなものをどのように取り入れていくかは今後の課題であると思われます。私は実験的に場所と時間と遊具を設定し、その中で自由にするとの提案を子ども達にしてみました。具体的には午後五時半から六時までの三十分間・体育遊戯室で六十人くらいの子どもがたくさんの風船とマットを使って自由に遊ぶというものです。(いつもであれば風船ビーチボールで遊ぼうなどの遊びの援助をやるのですが)

 風船を膨らまして飛ばす・マットをネット代わりにしてビーチボールをする・風船サッカー・風船リフテング・風船バスケット・走り回る・最後まで膨らますことができないなどいろいろな場面が見られました。そしてそれなりにみんな楽しんでいました。一定の条件とルールを設定し、その条件とルールの中で「何をしても良い」との提案をすると子ども同士けっこう考え情報交換をして楽しく遊ぶことができるものだと思いました。

 同様に野外遊びなどでも一定の時間と範囲をきちんと決めて後は自由というようなやり方をすれば子どもは道くさを楽しむように何かを見つけていくのではないかと思います。そのために安全で安心して遊べる花と緑いっぱいの遊び場環境を作っていくことが必要と思います。

遊びと身体の動き

私は元来不器用でした。小さいときは純一ではなくて鈍一と言われていたようです。中学時代に生徒会で千羽鶴を折ることがあったのですが、あまりの不恰好な私の鶴は千羽鶴に入れてもらえませんでした。人間は頭で思ったように身体を動かしているのではなくて、いろいろな感覚器官が相互作用をして身体を動かしていることのようです。二月三日ににいがたっ子ふゆまつりパート2という行事を四千人くらいで実施しました。職場から荷物を運ぶためにトラックを運転しました。私はオートマ車をいつもは運転していますが、このトラックはマニュアル車なのでギアチェンジが必要でした。しかしクラッチはないものでした。ギアチェンジをしようとすると自動的に左足が存在しないクラッチを踏もうとするのです。運転は頭でしているのではなくてオートマチックに身体が覚えてやっているものだと考えることができます。

同様に遊びにおける身体の動きも頭で考えて行われるわけではなくて、何回かの積み重ねの中でオートマチックな身体動作で行われるものと考えることができると思います。

ドッジボールなどのボール投げ遊びをするときの場合で考えてみたいと思います。最初からドッジボールのルールを教えてドッジボールの試合をしたとしても子ども達は投げる・捕るなどの身体の動きをうまくすることができません。そこでまず一人ひとりにボールを1ヶづつ持たせて、ボールをドリブルしたり、身体の周りをぐるぐる回したり、壁にボールをぶつけて捕ったりする練習をします。次に二人組で投げる捕る、ワンバンドをついて投げる捕るなどの練習をします。インスタントラーメンの出来上がりが三分に設定されているように子どもの一つのことへの集中時間は概ね三分間くらいです。これらのいろいろな練習を三分以内で次々と変化させてやると子どもは飽きないで続けます。続いて中当てをやり、最後にドッジボールへと発展させます。

遊びと遊びの援助の違いを考えてみますと、遊びが子ども達の自主性・自発性に依拠しているとすれば、遊びの援助では意図的に身体の動きをスムーズに動かすための訓練をうまく取り入れることが必要であると私は思います。ちょうどドライブでは自由に足と手が動いて自動車を運転しているのに対して、自動車学校では自由に手足が動くように訓練することが必要となるのと一緒ではないかと私は思います。

遊びの中で遊びを邪魔する余計な身体の動きもあります。ちょっと興奮するとキックをしたり、パンチをしてしまうことです。こうした場合「何を考えているの。危ないでしょ。危険なことをするな。」などとの指導がなされることがあります。しかしキックやパンチも小学校三年生くらいまではオートマチックな身体の動きとして行われることが多いものです。考えてやるわけではないのですから、ちょうどないクラッチを踏む足と同様に訓練の中で不必要となるように矯正していくことが必要だと私は思います。

ボール運動・ダンスなどの表現遊び・詩の朗読・造形表現遊び・身体表現遊びなどでも子どもの持っている既存の身体の動きだけではなくて、新しい身体の動き等を意図的・計画的に獲得させていくことが遊びを高次なものへと発展させていくことになると思います。そう考えてみると子どもから学びつつ、子どもの遊びを発展させていくことが子どもの遊びの援助において大切なのではないかと思います。

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