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 以下は自由についての3年前の私の考えである。前のホームページに書いておいたものだ。

 体性感覚とか相互援助・相互伝達・自主的な活動等といっていると、基本的には自由にさせる考えでしょと思われがちである。しかし私は管理は徹底する考えである。そこには自由に対する考え方の違いがある。

         思う自由は無条件保証
 自由には思う自由と行動の自由があると広辞苑に書いてある。思う自由は無条件で保証されなければいけない。人を殺したいと思おうが、小泉首相反対と思おうが、中国共産党、朝鮮労働党にシンパシーを持とうが、反対にイヤだと思おうがそれは自由である。もしそういうことが悪いことだというなら,殺人事件を扱う推理小説は禁止されなければいけないし、名探偵コナンは小学生は見てはいけないだけでなく,著作することもいけないだろう。つまり思う自由は自由なのである。
 子どもが悪いことをすると「何を考えているのこの子は」などと叱る人がいるが思うのは自由なのだから、思うことは批判しないほうがよいと私は考える。

      行動の自由
 思う自由とは反対に行動の自由はコントロールすることでもあるといわれる。高速道路には人は歩いていない。車が逆走してくることはないというコントロールがあるから、100キロメートルのスピードを出すことが可能である。
 子どもの遊び場である児童館においても、同様である。むやみに物を投げる人がいない。ナイフを突然振り回す人はいない。遊戯室で硬いサッカーボールを思い切ってキックする人はいないという基本的なことが守られないければならない。ボランティアが安心して活動できるためにも、みんな1年300円の保険料を期限までに納入するというコントロールがあって実現できるのである。
       みんなのためのコントロールが民主主義
 みんなの自由を拡大するために上手くコントロール、管理するのが民主主義。特定のひとが儲かったり、特定のひとが他の人を支配するために統御・管理するのが専制政治ではなかろうかと考える。管理すること統御することと自由は対立概念ではないのである。
 義務教育における出席停止処分も同じことで、授業を妨害したり、他人を傷つける人に対し、出席停止処分は学校教育法を改正するまでもなく当然のことと私は考える。授業妨害・暴力を振るわれる子どもの自由が損なわれることが一番問題なのである。暴力を振るう子ども・授業妨害をする子どもの教育を受ける自由は別の次元の問題としてとらえなくてはならないのである。(暴力を振るわない・授業妨害をしなければ授業を受けることができるのだから) 
        自由と義務
 自由と対意概念のように義務があり、「充分に義務を果たせない人には自由が制限される」といったような言い方も問題である。自由と義務は無関係の概念である。義務というのは人としてやってはいけないこと、やらなければならないことと広辞苑ーー広辞苑が正しいわけではないがーーに記載されている。つまり金銭的に責任がとれようがとられまいが人としてやらなければならないことはしてはいけないし、人としてやらなくてはいけないことはやらなくてはならない。そこを飛ばして大人とか子どもとかで区別するのはフェアーでないように思う。
 先生でも大人でも間違いをする。義務を果たさないこともある。間違ったと思ったら相手が子どもでも素直に謝ろう。この間、自然科学館へ行ったときのことである。行くときと帰るときの人数が違って一人増えていた。バスの中で人数を数えるのを省略したから、途中紛れ込んだ子どもを数え忘れたのだ。遊戯室の点呼のあと、かってに入った子どもも少し悪い。しかしこどもってそんなものだから、もう一回バスの中で数を数える義務をはたさなかった私の責任である。子どもに聞いたら、最初からこの子いたよとのこと。ミスはあるものです。子ども,同僚,ボランティアも含め,相互援助でやりたいものです。そういえば小学生は数えたのに同行した中学生を忘れてきたときもありました。

2002年04月28日 22時08分35秒


 以上が3年前に記載したものである。
 自由についてもう一回考えてみたい。自由は英語でfreeとかlliveralとなる。freeは束縛や制限のないことの意味で言論の自由や居住・移動・職業・宗教の自由などに使われるであろう。私流に言えばどちらかと言えば思う自由の仲間である。これに対してliberalは自由主義経済や自由民主党などに使われるものである。liberalは気前が良い・豊富な・寛大である・進歩的な・偏見のない・厳格でない・専門的でないなどの意味である。
 自由主義経済はLiberal economyであるから、進歩的で豊富で寛大な経済と考えることもできるであろう。つまり自由主義経済というのは特定の人たちのみが特権を握り、不法な力で経済のうまいところを吸い取る経済ではなくて、みんなが理解できるきちんとした法的体制があり、その中で多くの人が自由に商売ができるとの意味ではないだろうか。織田信長の楽市楽座と通じるものがある。織田信長は楽市楽座で

 織田信長の場合は、本領であった尾張の清洲を最も早く楽市とした。やがて斎藤龍興を滅ぼして美濃一国を平定し、本拠を清洲から美濃の岐阜へ移すや、斎藤氏時代からの井ノ口(岐阜)城下の加納市場を楽市と定めた。この時の制札には、他国から移り住んだ商人の活動を認め、他国での銭や米などの借金を棒引にし、かつ地子や諸役を全て免除する、と見える。
 ただし、市場での押買・狼藉・喧嘩口論などは一切これを禁止し、理不尽な守護使を引き入れたり、これに宿を与えたりして非分を申しかけたりする事はまかりならぬ、と厳しい掟も設けていた。

 上記の政策を進めている。楽市楽座も自由主義経済も特権階級の排除と不法な商行為の取締りが一体となっている。つまり自由主義を押しすすめるということはきちんと不法行為を取り締まり、法的にみんなが理解できる法律を作ることを前提としている。特定団体を保護する規制は解除しなければいけないが、商取引におけるマナーは守らせることが必要でその法的な不備はすぐに修正することが必要である。規制緩和や自由主義経済の結果として今回のみづほ証券のような400億円の事件が起きたのではない。あくまでも法的不備の欠陥である。こうした法的不備の欠陥をついてぼろもうけすることはliberalではないと私は思う。

 児童館・児童クラブにおいても同様に考えられると私は思う。児童館・児童クラブにおいて思う自由は無条件で必要である。同時にliberalの自由も必要である。児童館・児童クラブで常連としての特権を振り回す子どもがいる。これは排除されなければならない。こうした特権が排除されると共に上級生による下級生への言葉や力による不法行為を取り締まる必要がある。これをきちんとやるのが児童館・児童クラブの職員の仕事である。つまり楽市楽座を実現するのである。そうすれば子どもたちは子どもたち自身の力で遊び始め、切磋琢磨をして成長していくのである。

 回りくどい言い方になるが、こうした楽市楽座的=自由経済主義的=Liberal economy的施策というのは誰の目にも分かるようにきちんとして制限をすることであり、その意味で自由とはとどのつまり制限であると私は思うのである。

 自由(casio広辞苑第五版より)
 @{後漢書(皇后妃下、安思閻皇后)}心のままであること。思い通り。自在(古くは、勝手気まま意にに用いた。靖紀「威福(いきおい)自由(ほしいまま)なり」)「ーな選択」「−にあやつる」
 A(freedom; liberty)一般的には、責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと。自由は一定の前提条件の上で成立しているから、無条件的な絶対自由は人間にはない。自由は障害となる条件の除去・緩和によって拡大するから、目的のために自然的・社会的条件を変革することは自由の増大である。この意味での自由は、自然・社会の法則の認識によって実現される。

 広辞苑第二版より
 @同上
 A(freedom; liberty)他からの拘束・支配を受けないこと。「物体の自由落下」というように自然現象にも適用されるが、人間の場合には、行動の自由、選択の自由、必然性の認識にもとづいて自身および自然を支配する積極的な自由・意思の自由・倫理的自由などのように、人間をとりまく諸条件を統御することをも意味する。

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