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■子どものスパイラル的発展 詳細トップ
    (2014年7月15日)

  

    子どものスパイラル的発展と最近接領域について

 スパイラルとは螺旋(らせん)的とのことである。最近接領域とは子どもや受講している人の現在の一歩未来を提供することによって発展が促進されるとの意味です。
  子どもたちの学習を考えてみるとスパイラル的に発展することを考慮しないで、子どもの興味だけに依存することはとても危険であると私は考えます。高いところに上るには一直線ではなくて螺旋階段を登っていくのが一般的です。安全に登れるからです。けれど螺旋階段は一回りした時に風景は同じようにしか見えないこともあります。そこで飽きさせてしまうとそれ以上、上に登ることの意味が解らなくなります。指導者は常に一歩上の高見を感じさせるために同じように見える繰り返しを意味あることであると感じさせるようにさせることが必要となります。
  くすだまユニットを作る場合で考えてみます。1枚1枚は保育園の年中組でも折れます。3枚ならダイアモンド・6枚なら立方体・12枚ならくすだま・30枚くすだま・90枚くすだまと発展していきます。今回、4枚組ダイアモンドから12枚正方形・24枚くすだまを新たに私は作りました。この時、高度なものを作るためには、1枚1枚のユニットを正確にきちんと折ることが必要となります。これをきちんと折れるようになることは最初にひし形系の1枚ユニットを折った時と超きちんと折れるようになることとは同じ繰り返しのように見えて異質となります。多くの学びは同じことのように見えて、実は質的な発展を遂げる必要性があります。これはスパイラル的な発展であり、これを実現するためには何度もの失敗を繰り返しながらやるしかないものです。スパイラル的発展とは弁証法的な発展でもあるようです。弁証法とは多くの物的な繰り返しはある時質的な転換を生むとの考えです。
  子どもたちの発展をスパイラル的な面があるととらえると、子どもたちの興味ややりたいことだけに依存していくのは上手くいかないことが理解できると思います。

 最近接領域とはロシアの教育学者ヴィゴツキーの考えです。子どもたちの発展のためには『今日の子どもの出来ることではなくて、明日子どもが出来ることを提供する。これを受けて子どもはだんだん自分で出来るようになっていく。そしたら次の明日を提案する』との考えです。児童館・児童クラブ職員で子どもを見守るだけでよいと考えている人たちがいます。しかし子どもは常に明日へと生きています。子どもを見守るとは実は子どもの明日を見つけてあげることでもあります。そうしないと子どもは欲求不満となり、暴力を振るったり、内に閉じこもったりするからです。ですから職員や保育士・教員は常に子どもや社会から学習して、最近接領域に関することを習得することが必要となります。最近接領域のことがわかれば、一見同じことの繰り返しのように見える子どものスパイラル的な発展を意図的に楽しいものとすることが出来ます。

 「」付き受容共感的態度ばかりを強調する人たちは、自己自身の学びを置いておいて、子どもを受容共感すれば良くなると誤解しています。実はそんなに問題は簡単ではないのです。すぐに暴れる子どもは我慢強く学習する態度などが不足しています。まずはある程度我慢して同じことを繰り返して学んでいると、きっと良いことがあると知らせることが必要です。そして実践の過程で事実上手くいく経験をさせてあげることです。

  4枚組ダイアモンドを子どもたちと作っていくプロセスは実はこうした活動の一環でした。我慢して頑張り、我慢して頑張り、やったあーとの成功体験こそが自信のない子ども・みんなとうまく適応できない子どもに必要なことです。
 写真は12枚くすだまを24枚ユニットに、6枚正方形ユニットを12枚ユニットにしたものです。子どもから学び、子どもを伝えていくことが大切と私は思います。

    

 

   我慢と諦めが大切と私は思う

 子どもたちの発達がスパイラス的であることは、何かをなすときにある程度つらくても面倒でも我慢することが必要だし、何回かのチャレンジで失敗しても諦めることも大切である。『我慢と諦めが大切』と私はよく言っている。我慢と諦めと言うとネガティブに考える人がいる。実は我慢も諦めもネガティブなことではなくてポジティブなことである。
 我慢は自己中心的な我を抑えて、忍耐強く活動することである。世の中はそんなに自分中心に動いていない。夜になれば暗くなるし、冬は寒い。夏は暑い。それを受け入れて対応することが大切だ。クーラーや暖房・夜でもいつも明るいことが本当に良いことかは難しい。たまに真っ暗闇の中で生活し、星の美しさに感激することも大切ではないか。星の瞬きを観察するためには暗いことも我慢しなくてはならない。
 諦めは実は諦観との考えで仏教的に大切なことである。あきらめの語源はあきらかになるとのことである。頑張ってもここまでしか出来ないという自分を明らかにし、認めることがなければ発展はない。
 我慢と諦めをポジティブに考えることこそが実は自尊心を高めることになる、自尊心が高くなれば、いろいろなことにチャレンジしていく気持ちが芽生えてくる。私はそんな風に思う。

   諦観のこと
 諦観とはデジタル大辞泉によれば『 本質をはっきりと見きわめること。諦視。「世の推移をする」 あきらめ、悟って超然とすること』とある。仏教の悟りの境地と共通することになる。受容共感を考えたカール・ロジャースにしろ、ユングにしろ、基本的にはキリスト教が背景に存在する。宗教は一つの観念論であるから、宗教的な観念論を抜きにして思想を考えることは無理があるであろう。
 キリスト教は基本的には絶対神の存在が前提にある。受容して共感すれば、神の意思が反映してくると考えられるであろう。しかしながらキリスト教でない人にとってみれば、前提が違うのであるから、無理な考えとなるのではなかろうか。
 日本人の民族性の中に全ての自然の中に神がいるとの考えもある。山も岩も海も空も鳥にもキツネにも神の神もいる。人間だけが絶対でないから、思い通りにいくことはないであろう。だとするならば、諦観の考えをもつことの方が自然と共生できるのではないかと私は考える。きちんと我慢と諦めを教えることの方が必要なのではないだろうか。世界的にもそうした考え方が見直されてきているのではないか。そんな時代に受容共感のみが正しいかのように主張しても困るのである。

  

 我慢が出来ないこと
 マシュマロ実験というのがあるそうです。4歳くらいの子どもにマシュマロを置いておき、『食べないで我慢していたら、二つマシュマロをやる』と話して部屋から出ていく。この時に我慢が出来るかどうかとの実験です。自制心が強く我慢が出来た子どもの方が追跡調査の結果、大学進学適性検査の点数が高かったとのことです。
 我慢強い子どもの方がすぐに目の前の誘惑に負ける子どもよりもベターであるとのことは私も経験から感じます。世の中には自分の思い通りになるわけではない。我慢すべきは我慢。ならぬものはならぬ。ダメなものはダメとのことをしっかりと子どもに教えることは大人の義務ではないかと私は思います。ところが最近、『ダメと言ってはダメ』などと平気に主張する人がいます。しかもそれがさも正しいことのように言うのです。私は『ダメと言ってはダメはダメ』と強く主張したいです。